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藤岡 郊二(ふじおか ひろじ、1884年(明治17年)2月8… 藤岡 郊二(ふじおか ひろじ、1884年(明治17年)2月8日 - 不明 )は、日本の実業家である。倉敷紡績・倉敷絹織(現クラレ)の取締役。岡山県総社市出身。 1884年(明治17年)2月、岡山県吉備郡日美村(現在の総社市)で代々医者の家系である藤岡信道の次男として生まれる。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1903年(明治36年)、第六高等学校 (旧制)へ入学し、同級生に建築家の薬師寺主計がいた。1906年(明治39年)、同校を卒業、東京帝国大学工学部電気科へ進学した。1909年(明治42年)7月に同大学を優良で卒業。兵庫県に当時あった龍野電気株式会社へ主任技師として就職した。 2年間、龍野電気に務めた後、1911年(明治44年)7月より、倉敷紡績へ転職する。
田邊 隆二(たなべ りゅうじ、1884年(明治17年)1月2… 田邊 隆二(たなべ りゅうじ、1884年(明治17年)1月23日 - 1945年(昭和20年)2月14日 )は日本の逓信官僚であり実業家でもある。東大を学業優秀で卒業し、国から恩賜の銀時計を授与されたいわゆる「銀時計組」であり、卒業後、逓信省入省を経て、事務次官候補となり、京都電燈社長を経て、初代関西配電(現:関西電力)社長となった。日本電信電話工事の社長も務めた。岡山県倉敷市出身。 1884年(明治17年)岡山県児島郡粒江村(現:倉敷市)の生まれ。生家である田邊家は、素封家で代々庄屋をつとめており、この家系の父・田邊彦太郎と母・歌の次男として出生。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1902年(明治35年)に同校を卒業、東京にある第一高等学校の文科イギリス法学科へ進学した。
木口 重彦(きぐち しげひこ、出生名:九一、読み:きゅういち… 木口 重彦(きぐち しげひこ、出生名:九一、読み:きゅういち、1883年(明治16年)8月22日 - 不明 )は、日本の実業家である。軍需工場でもあった日本加工織布の取締役。岡山県総社市出身。 1883年(明治16年)8月、岡山県吉備郡久代村(現:総社市)で父・木口豊三郎、母・仲の長男として出生。1901年に旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)卒業を経て、早稲田大学政治経済学科へ入学し、1904年(明治37年)、20歳で卒業した。1928年(昭和3年)父の死去と共に、45歳で木口家の家督を相続し、名前を九一から重彦へ改名している。 大学卒業後、実業界に実を投じ、貿易会社であった第一洋行の取締役となり、その後、1918年(大正7年)35歳のときに太陽製帽の支配人を務めている。
清水 比庵(しみず ひあん、1883年(明治16年)2月8日… 清水 比庵(しみず ひあん、1883年(明治16年)2月8日 - 1975年(昭和50年)10月24日)は、日本の歌人、書家、画家、政治家。本名は清水秀(しみず ひで)。号は他に匕舟、比舟、比安。質素な生活ぶり、岡山にゆかりがあること、歌人・書家という活動分野から、晩年は「今良寛」と呼ばれた。 岡山県上房郡高梁町(現・高梁市弓之町)に清水質(ただし)と妻・すへの長男として生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)、第六高等学校(現・岡山大学)を経て、1908年(明治41年)京都帝国大学(現・京都大学)法学部を卒業。中学から大学まで同級生だった友人に神社柳吉がいる。司法官として神戸地方裁判所へ勤務。
中島 権吉(なかじま ごんきち、1882年(明治15年)12… 中島 権吉(なかじま ごんきち、1882年(明治15年)12月20日 - 1946年(昭和21年)12月22日)は、大日本帝国の軍人である。海軍入隊後、海軍少将まで出世し、その後、海軍大学校の教頭を務めた。岡山県高梁市出身。 1882年(明治15年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市川端町)で中島岩松・嘉代の次男として生まれる。旧制高梁中学校(現:岡山県立高梁高校)を経て、1902年(明治35年)海軍兵学校を優等で卒業し、エリートコースを歩むことになる。日露戦争では、東郷艦隊付けとなり、佐世保海兵団附で津島海峡警備に当たった。 1908年(昭和41年)海軍砲術学校特修科を修了し、1917年(大正6年)に3ヶ月渡米出張した後、大正7年から10年まで(1918~21年)英国に駐在した。
横山 有策(よこやま ゆうさく、1882年(明治15年)12… 横山 有策(よこやま ゆうさく、1882年(明治15年)12月18日 - 1929年(昭和4年)4月2日)は、日本の英文学者。 1882年(明治15年)岡山県川上郡玉川村(現・高梁市)に生まれる。その後、1895年に旧制高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)の一期生として進学した。1900年に同学校を卒業し、早稲田大学高等予科へ進学。1902年9月に早稲田大学へ入学した。1904年9月には、ラフカディオ・ハーン(日本名:小泉八雲)葬儀で早稲田学生総代として弔辞朗読する。1905年に早稲田大学文学部英文科卒業。1907年渡米しハーバード大学に学び、1910年5月に卒業する。 1911年帰国、早稲田中学校の英語教師となる。
梅野 猶太朗(うめの なおたろう、旧姓:高松、1881年(明… 梅野 猶太朗(うめの なおたろう、旧姓:高松、1881年(明治14年)12月20日 - 1940年(昭和15年)4月10日)は、日本の実業家である。岡山県高梁市出身。 1881年(明治14年)に岡山県上房郡松山村(現:高梁市)の備中松山藩士である高松元貞の五男として生れる。父の元貞は、父の母親の実家である高松家を相続し高松姓となっていた。猶太郎は祖父方の梅野家を相続し、再び名字を梅野へ戻した。梅野はその後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学。 同期には、早稲田大学教授になる横山有策、大日本帝国海軍中将の杉政人、海軍大学校教頭を務めた中島権吉、衆議院議員になる則井万寿雄がいた。
横田 誠一郎(よこた せいいちろう、1881年(明治14年)… 横田 誠一郎(よこた せいいちろう、1881年(明治14年)9月 - 1920年(大正9年)4月3日)は、日本の外務官僚。岡山県新見市出身。 1881年(明治14年)岡山県哲多郡矢神村(現:新見市)に生まれる。地元に近い旧制・高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)を経て、1901年(明治34年)第六高等学校に進学、その後、1904年(明治37年)7月に同校卒業、同年に東京帝国大学法科大学政治学科へ進学した。1908年(明治41年)7月、26歳で同大学を卒業した。 大学を卒業した翌年の1909年(明治42年)文官高等試験外交科(外交官及領事館試験)に合格した。外務省の同期には、徳川宗家17代当主の徳川家正、後に文部大臣になる岡部長景がいた。
西村 禎一郎(にしむら さだいちろう、1881年(明治14年… 西村 禎一郎(にしむら さだいちろう、1881年(明治14年)8月 - 不明 )は日本の銀行家であり弁護士である。岡山県新見市出身。 1881年(明治14年)岡山県阿哲郡上市村井村(現:新見市上市)の西村幸三の6男として生まれる。20歳の時、1902年(明治35年)旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を卒業し、旧制第六高等学校文科へ入学。ドイツ語を専攻する。1905年(明治38年)7月に同校を卒業し、京都帝国大学法科大学へ入学した。その後、仮面浪人を経て、1907年(明治40年)東京帝国大学法科大学へ入学し、1912年(大正元年)10月に同大学独法学科を31歳で卒業した。 卒業後は村井銀行へ就職。
神社 柳吉(かんじゃ りゅうきち、1881年(明治14年)1… 神社 柳吉(かんじゃ りゅうきち、1881年(明治14年)1月6日 - 1966年(昭和41年)3月24日)は事業家。倉敷紡績(クラボウ)の代表取締役を務めた。岡山県総社市出身。 岡山県都窪郡清音村(現在の総社市)に神社與平の二男として生まれる。珍しい名字でもある神社(読み:かんじゃ)姓は総社市清音上中島や古地に多い。1895年(明治28年)閑谷黌へ入学し、ここで同級生の大原孫三郎と知り合う。これが後に倉敷紡績へ転職するきっかけとなった。 その後、1898年に旧制岡山県立高梁中学(現在の岡山県立高梁高等学校)へ進学した。同校には、清水比庵が同級生として在籍しており、親交があった。その後、第六高等学校へ入学、1905年(明治38年)7月、同高校を卒業し、京都帝国大学法律学科へ入学した。
杉 政人(すぎ まさと、明治13年(1880年)8月13日 … 杉 政人(すぎ まさと、明治13年(1880年)8月13日 - 昭和26年(1951年)11月19日)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍中将。岡山県高梁市出身。渋谷隆太郎、上田宗重らと同様に機関科出身者として最初の海軍大将候補であった。退官後は、日本製鋼所の社長を務めた。 明治13年(1880年)に岡山県上房郡高梁町の備中松山藩士杉忠三郎と、その妻で由との間に次男として生まれる。地元の高梁男子校高等科を卒業し、創立第一回の県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)の二年生の編入試験に合格。中学時代に母の由が死去する不運に見舞われる。しかし、母の葬式では、一切涙を見せることはなかった。 卒業後、単身で当時、神奈川県横須賀にあったいわゆる「海軍三校」の一つ海軍機関学校へ入学(他二つは、海軍兵学校および海軍経理学校)。
高杉 新一郎(たかすぎ しんいちろう、明治13年(1880年… 高杉 新一郎(たかすぎ しんいちろう、明治13年(1880年)1月21日 - 昭和33年(1958年)4月25日)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍医学校の要職を務めた後、医学校校長となる。その後、軍医最高職である高等官一等・軍医中将となり、海軍医務局長、日本医療団副総裁になる。岡山県真庭市出身。 明治13年(1880年)岡山県阿賀郡呰部村(現:真庭市)の庄屋である高杉良太郎の五男として生まれる。実家は代々油製造業を営んでいた。明治28年(1895年)地元の創立第一回の旧制高梁尋常中学校(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学する。同期には、同じく海軍中将(海軍大将候補)になる杉政人、海軍少将の中島権吉、衆議院議員になる則井万寿雄、早稲田大学教授になる横山有策がいた。
則井 万寿雄(のりい ますお、1879年(明治12年)10月… 則井 万寿雄(のりい ますお、1879年(明治12年)10月24日 - 1936年(昭和11年)10月26日)は、衆議院議員(立憲政友会)であり、弁護士でもある。 1879年(明治12年)岡山県上房郡川面村(現:高梁市)出身で農業・土木請負業の則井兼十郎の次男に生まれる。川面小学校、旧制高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)を卒業後上京し、昼間郵便局でアルバイトをしながら明治大学夜間部、明治大学高等研究科で法学の研究を続け1904年(明治37年)7月修了した。 1904年(明治37年)に判事検事登用試験に合格し、高松地方裁判所に勤務したが、1年で辞した。その後、東京で弁護士を開業したが、岡山に戻って高梁で開業した。
留岡 菊子(とめおか きくこ、旧姓:寺尾(てらお)、1874… 留岡 菊子(とめおか きくこ、旧姓:寺尾(てらお)、1874年(明治7年)10月4日 - 1933年(昭和8年)4月19日)は留岡幸助の妻。社会福祉活動家。愛媛県喜多郡内子町出身[信頼性要検証]。 愛媛県喜多郡天神村(現在の内子町)に寺尾家の長女として誕生した。その後、設立したばかりの岡山県上房郡高梁町(現在の高梁市)にあった順正女学校(現在の岡山県立高梁高等学校)に学び、東京に出て巣鴨家庭学校の保母となる。1901年(明治34年)6月1日に留岡幸助と結婚した。菊子が26歳のときだった。 結婚した年の10月に菊子は慈善事業師範学校を開設して従事者の養成をはかるなど事業を拡大し、1906年7月には財団法人なった。
留岡 夏子(とめおか なつこ、旧姓:森峰(もりみね)、186… 留岡 夏子(とめおか なつこ、旧姓:森峰(もりみね)、1866年(慶応2年) - 1900年(明治33年)4月30日)は留岡幸助の前妻。社会福祉活動家。現在の岡山県出身。 1866年(慶應2年)、備中国川上郡下切村(のち、倉敷県川上郡下切村→深津県川上郡下切村→小田県川上郡下切村→岡山県川上郡玉川村、現・高梁市玉川町下切大成)の森峰定五郎と妻・むめの11番目の末っ子として誕生した。1879年(明治12年)養子・留岡幸助の嫁になるため、夏子が13歳のとき留岡金助の養女として引き取られた。同年、幸助が座敷牢に入れられているのを助け出し、幸助は四国の今治へ逃れた。その後、留岡家を出て夏子の実家に帰るが、再び高梁の須藤英江医師のもとへ奉公に出た。
石井 品子(いしい しなこ、旧姓:内埜(うちの)、1865年… 石井 品子(いしい しなこ、旧姓:内埜(うちの)、1865年(慶應元年) - 1895年(明治28年)9月12日)は、石井十次の最初の妻であり、社会事業家である。岡山県出身。 岡山県生まれ。1881年に同い年の石井十次(16歳)と品子(15歳)は結婚した。十次は品子と結婚した頃には教職や巡査の職に就いており、結婚後、十次の出身地である宮崎から品子の実家のある岡山へ活動拠点を移す。 その後、十次は医師を志すようになる。その間、品子は京都に機織の勉強に行き、岡山に帰ってからは、1885年(明治18年)高梁の順正高等女学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学している。品子がキリスト教の洗礼を受けるのは、この高梁の地である。
沼本 雅文(ぬまもと まさふみ)は、日本の実業家である。住商… 沼本 雅文(ぬまもと まさふみ)は、日本の実業家である。住商リース(現:三井住友ファイナンス&リース)取締役となり、その後、エムジーリース(現:みずほ丸紅リース)第3代代表取締役となる。岡山県出身。 岡山県で出生する。高校は、岡山県立高梁高等学校へ進学し、同期には、建築家の樋口修がいた。1968年(昭和43年)に同校を卒業を経て、大学へ進学。大学卒業後、当時設立されて間もない住商リースへ就職する。 この後、2004年(平成16年)沼本が54歳のときに、住商リースの取締役執行役員理事となる。2006年(平成18年)には、前任であるエムジーリース(現:みずほ丸紅リース)社長の長速水昭の退任に伴い、住商リース・コーポレート部門分掌付で子会社のエムジーリース第3代社長に就任する。