スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
土屋 舞琴(つちや まこと、2003年7月25日 - )は、… 土屋 舞琴(つちや まこと、2003年7月25日 - )は、日本の陸上競技選手。専門は長距離走。岡山県笠岡市出身。興譲館高等学校、立命館大学卒業。ダイハツ工業女子陸上競技部所属。 笠岡市矢掛町中学校組合立小北中学校、興譲館高等学校、立命館大学卒業。 立命館大で同期入学の柳井綾音とは互いに「相棒の間柄で、互いの活躍に刺激を受けている」と語っている。 全日本大学女子駅伝には3、4年次の2回、富士山女子駅伝には1、3、4年次の3回出走している。3年次の全日本大学女子駅伝では6区区間賞の走りで総合優勝に貢献。4年次は前を走っていた名城大の橋本和叶に追いつくが、最終6区で名城大に離され5位に終わる。 1年次の富士山女子駅伝では柳井が1区で区間最下位と出遅れたが、1人抜いたものの自身も区間16位に終わった。
小原 怜(おはら れい、1990年8月10日 - )は、日本… 小原 怜(おはら れい、1990年8月10日 - )は、日本女子の陸上競技選手。専門種目は中距離走・長距離走・マラソン。主な実績に、2015年世界陸上北京大会女子長距離走(10000m)日本代表(22位)、2016年名古屋ウィメンズマラソン3位、2019年大阪国際女子マラソン2位、同年マラソングランドチャンピオンシップ3位など。 1990年8月10日、岡山県倉敷市出身。倉敷市立西中学校卒業後、高校は全国高等学校駅伝競走大会女子の部常連出場・強豪校の興譲館高等学校(岡山県井原市)に入学。高校在学時は森政芳寿監督の指導を受け、頭角を現し始める。尚、全国高校駅伝・女子の部には3年連続で出場した。 高校1年生時の第18回全国高校駅伝(2006年)は、3区・3Kmを出走し区間3位(総合2位)。
高島 由香(たかしま ゆか、1988年5月12日 - )は、… 高島 由香(たかしま ゆか、1988年5月12日 - )は、長距離走を専門とする日本の陸上競技選手。山口県防府市出身。ピッチ走法が特徴で、小柄ながら後半もペースを落とさず、自分の走りができる。 防府市立国府中学校で陸上競技を始め、当初から中・長距離を専門としてきた。この頃にはすでにオリンピック出場を夢見ていた。興譲館高等学校では森政芳寿から指導を受け、2005年の全国高等学校駅伝競走大会(全国高校駅伝)ではアンカーを務め、区間賞を獲得する快走を見せ同校の初優勝に貢献した。2006年には同校のエースとなり、全国高校駅伝で1区を任され区間2位でたすきをつないだ。高校時代は1学年上の新谷仁美から多くの刺激を受けたという。
新谷 仁美(にいや ひとみ、1988年2月26日 - )は、… 新谷 仁美(にいや ひとみ、1988年2月26日 - )は、日本の女子陸上競技選手(長距離走)。10000メートル競走とハーフマラソンの日本記録保持者。愛称は「にいやん」。 2014年に一度競技生活を引退したが、2018年に現役復帰。スポーツ選手としては大きなブランクがありながら、現役復帰後も国内外の大会で上位入賞や東京オリンピックに日本代表として出場するなど、2023年現在においても日本トップクラスの陸上競技選手としてプレーを続けている。 岡山県総社市出身。総社市立総社東中学校を経て興譲館高等学校へ進学。 興譲館高等学校では同期に重友梨佐(天満屋・ロンドンオリンピック女子マラソン日本代表)、1級下に高島由香(資生堂・リオデジャネイロオリンピック女子10000m日本代表)がおり、在学中は共に全国高校駅伝に出場し、2005年には全国優勝を果たした。
重友 梨佐(しげとも りさ、1987年8月29日 - )は、… 重友 梨佐(しげとも りさ、1987年8月29日 - )は、日本女子の陸上競技・元選手。専門種目は長距離走・マラソン。2012年ロンドンオリンピック、2015年世界陸上北京大会、2017年世界陸上ロンドン大会各女子マラソン日本代表。大阪国際女子マラソン2回優勝(2012年・2017年)など。 1987年8月29日、岡山県備前市出身。小学校3年生時に陸上競技を始める。備前市立備前中学校卒業後、全国高等学校駅伝競走大会では例年強豪チームの興譲館高等学校に入学。 高校時代は森政芳寿の指導を受ける。2年生時に第16回全国高校駅伝(2004年)に初出場し、2区を走って区間7位。新谷仁美(1区)から先頭でタスキを受けた重友は首位を守ったものの、チームはアンカーで逆転されて2位に終わる。
内田 修(うちだ おさむ、1977年 - )は、フランス・ボ… 内田 修(うちだ おさむ、1977年 - )は、フランス・ボルドー在住のワイン醸造家。広島県福山市出身。興譲館高等学校、ボルドー第2大学醸造学部卒業。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
藤井 勝志(ふじい かつし、1915年4月13日 - 199… 藤井 勝志(ふじい かつし、1915年4月13日 - 1996年1月25日)は、日本の政治家。叙正三位勲一等旭日大綬章。 井原市名誉市民。労働大臣、大蔵政務次官などを務めた。 岡山県井原市出身。興譲館中学、第一高等学校を経て、東京帝国大学(現在の東京大学)法学部卒業。東大法学部では、矢部貞治に師事。帝国石油に就職したが短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。第101燃料廠に配属されバリックパダンに赴任。同廠スラバヤ出張所主任を経て、1943年11月、海軍主計大尉に昇進し同廠会計部員に就任。1944年9月、海軍省軍務局御用掛兼軍需省軍需官となり終戦を迎えた。
藤浦 洸(ふじうら こう、1898年9月1日 - 1979年… 藤浦 洸(ふじうら こう、1898年9月1日 - 1979年3月13日)は、昭和時代の作詞家、詩人。長崎県北松浦郡平戸町(現在の平戸市)出身。 長崎県北松浦郡平戸町(現在の平戸市)に生れる。長崎県立中学猶興館(現長崎県立猶興館高等学校)、私立岡山県興譲館中学卒業(現岡山県興譲館高等学校)。同志社大学神学部に入学してほどなく中退、3年の放浪を経て慶應義塾大学文学部に入る。在学中は児童小説を書いたり、尾崎士郎らと共に雑誌「令女界」や「若草」に少女小説、音楽物語などを執筆していた。その他、ピアノ演奏のアルバイトをするなどしていたという。 大学卒業後は、音楽評論家伊庭孝に師事し、浅草オペラの俳優等を経て、1930年から、コロムビアレコード文芸部のエドワードの私設秘書となり、ジャズソングの訳詞などを手掛けていた。
蔵内 数太(くらうち かずた、1896年8月1日 - 198… 蔵内 数太(くらうち かずた、1896年8月1日 - 1988年7月6日)は、日本の社会学者。 岡山県後月郡西江原村(現井原市西江原町)出身。興譲館中学校、第六高等学校を経て、1920年東京帝国大学文科大学哲学科社会学専修卒。文部省嘱託を経て、1935年九州帝国大学教授、1947年「分科社会学」で東京大学文学博士。1948年大阪大学教授、1960年定年退官、名誉教授、関西学院大学教授、1967年追手門学院大学教授。教育社会学から出発して、後に社会学理論の研究に進み、日本思想や東洋思想をふまえた独自の理論体系を構築した。
大山 秀雄(おおやま ひでお、1896年(明治29年)3月1… 大山 秀雄(おおやま ひでお、1896年(明治29年)3月19日 - 1990年(平成2年)8月20日)は、日本の実業家。京成電鉄第4代社長。 岡山県出身。旧制興譲館中学(現:興譲館高等学校)、旧制第六高等学校を経て、1920年に東京帝国大学法学部を卒業後、鉄道省に入省。1955年11月から1958年11月まで京成電鉄代表取締役社長を務めた。退任後、京成電鉄会長、日本交通協会会長を務めた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
山成 喬六(やまなり きょうろく、1872年2月27日(明治… 山成 喬六(やまなり きょうろく、1872年2月27日(明治5年1月19日)- 1960年(昭和35年)8月31日)は、日本の銀行家。大蔵省主計局長~台湾銀行理事東京支店支配人、満州中央銀行副総裁等を歴任した。 岡山県後月郡芳井村大字簗瀬(現井原市芳井町)生まれ。芳井小学校を経て、興譲館中学校卒業後、従兄阪谷芳郎の書生となる<name=ito />。十代で脳溢血を経験。1890年に東京高等商業学校(現一橋大学)主計科を卒業後、大蔵省入省。 三十四銀行台湾支店長、台湾銀行神戸支店長、台湾銀行大阪支店長、台湾銀行総務部助役を経て、1913年から台湾銀行理事兼東京支店総支配人を務め、投資信託の開発に尽力し、その後投資信託創設のため法制審議会委員として台湾銀行法の改正にあたるなどした。
美澤 進(みさわ すすむ、1849年12月24日(嘉永2年1… 美澤 進(みさわ すすむ、1849年12月24日(嘉永2年11月10日) - 1923年(大正12年)9月16日)は日本の教育者。Y校の愛称で知られる横浜商法学校の初代校長であり、死没するその日まで同職を40年以上勤め続けた。字は業卿。 備中国三沢村(後の岡山県高梁市川上町三沢)の生まれ。遠祖は宇多源氏とされる。父・三村繁八郎、母・於美津の6人兄弟の長男で幼名を徳太郎という。実家は代々庄屋を務めて酒造りを行い、成羽藩藩外の豪士として名字帯刀を許された家柄であったが、家業の酒造りの失敗や父と叔父による鉱山投資の失敗で貧困に喘いでいた。美澤は学問での立身を志し、満12歳の1862年(文久2年)に興譲館へ入学。