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古谷 俊夫(ふるや としお、1926年(大正15年)5月27… 古谷 俊夫(ふるや としお、1926年(大正15年)5月27日 - )は、日本の教育者、実業家。一般社団法人高知県食品衛生協会会長、高知県旅館ホテル生活衛生同業組合理事長、高知県能楽協会第3代会長、特定非営利活動法人板垣会初代会長、海軍高知県海洋会会長、「京大土佐吉田会」会長。勲三等瑞宝章。 自宅が旧土佐藩士・乾和正(内蔵進)邸を改築した旅館兼料亭の朝日軒であり、南隣が旧板垣退助邸であったことから、板垣邸跡に建つ高野寺の庭は、幼少期からの遊び場であった。 高知市立第三尋常小学校(のちの高知市立追手前小学校)在学中の1937年(昭和12年)4月6日、高野寺の谷信讃の発意により板垣を顕彰する「板垣会館」が同寺内に建立された際は、成績優秀(首席)であったため、小学生代表として、来賓・頭山満、板垣退助長女・片岡兵子、退助孫・宮地茂秋ら臨席のもと、祝辞を奉読している。
乾 一郎(いぬい いちろう、1908年(明治41年)1月13… 乾 一郎(いぬい いちろう、1908年(明治41年)1月13日 - 2000年(平成12年)9月19日)は、日本の教育者(英語・ドイツ語科)、牧師、軍人。旧土佐藩士族 乾市郎兵衛家・第9代当主。板垣退助の孫。日本福音ルーテル芦屋教会初代牧師。 1908年(明治41年)1月13日、高知県貫属士族・乾正士の長男として、高知県土佐郡潮江村412番屋敷に生まれる。母は、長野県上水内郡柳里村8番地(現・長野県上水内郡飯綱町柳里中宿164番地)高野直作の長女・八重野。父乾正士は板垣退助の次男にあたる。乾姓を称したのは、退助が戊辰戦争の際、乾姓から板垣に復姓したが、旧来の乾姓が無くなるのを惜しみ正士を後嗣の無い分家の土佐藩士・乾正厚の家督を相続させる形で残そうとしたため。
有光 次郎(ありみつ じろう、1903年12月15日 - 1… 有光 次郎(ありみつ じろう、1903年12月15日 - 1995年2月22日)は、日本の官僚(文部事務次官)・教育者。1974年勲一等瑞宝章受章。1989年名誉都民受賞。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問。 高知県生まれ。旧制高知県立第一中学校、旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業した。1927年、文部省に入省した。1932年に宗教局保存課長、1934年に専門学務局学務課長、1941年に大臣官房文書課長、1942年に大臣官房秘書課長兼大臣秘書官、1945年6月に科学局長、1945年9月に体育局長、1945年10月に教科書局長を経て1947年に文部事務次官に就任した。 教育基本法の制定、小学校6年、中学校3年の六・三制の実施などの戦後の教育改革に携わる。
山本 忠興(やまもと ただおき、1881年(明治14年)6月… 山本 忠興(やまもと ただおき、1881年(明治14年)6月25日 - 1951年(昭和26年)4月21日)は、日本の電気工学者、発明家、教育者。 高知県香美郡岩村(現南国市金地)出身。政治家山本忠秀の長男として生まれるが、母親の山本さがは入籍前に死去したため、忠秀の養子として育てられる。 1893年(明治26年)高知県尋常中学校進学、野球やボートなどスポーツに取り組み、英語や体操は得意だったが、数学や図画は不得意だった。1898年(明治31年)同校を首席で卒業し上京、1899年(明治32年)9月第一高等学校入学、剣道や野球、ボートの選手として活躍する。1902年(明治35年)9月東京帝国大学工科大学電気工学科入学、在学中に植村正久の指導でキリスト教に入信。1905年(明治38年)同大学を卒業、芝浦製作所(現東芝)に入所。
岡上 梁(おかのうえ りょう、1880年(明治13年)1月3… 岡上 梁(おかのうえ りょう、1880年(明治13年)1月3日 - 1954年(昭和29年)12月14日)は、日本の教育者。 岡上市次・竹の次男として高知県長岡郡大篠村(現・南国市)に生まれる。高知県尋常中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)、第五高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。 私立有恒学舎教授、金沢第一中学校教諭、佐沼中学校校長、第七高等学校造士館教授、第五高等学校教授、東亜同文書院副院長、徳島中学校校長、新潟高等学校校長、広島高等学校校長を歴任した。1936年(昭和11年)、浦和高等学校校長に就任し、1939年(昭和14年)に第四高等学校校長に転じた。
川田 正澂(かわだ まさずみ、文久3年12月27日(1864… 川田 正澂(かわだ まさずみ、文久3年12月27日(1864年2月4日) - 1935年12月9日)は、日本の教育者。 土佐国(現・高知県)生まれの士族出身。高知中学校(現・高知追手前高校)から選抜されて、東京日本橋箱崎町の旧土佐藩侯邸内・海南学校(現・高知小津高校)に上京し進学。のち廃校となり、明治義塾(のち廃校、その跡地に英吉利法律学校、日本中学創立)に移り外国人から英語を学ぶ。1888年(明治21年)、文部省中学教育検定試験に首席合格。同年9月に、第三高等中学校(のちの旧制三高)教員となる。1898年(明治31年)に静岡県立静岡中学校(現・静岡高校)校長に着任。1904年(明治37年)8月~1909年(明治42年)4月にかけて宮城県立仙台第一中学校(現・仙台第一高校)校長を務め、1909年(明治42年)から東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)校長に任ぜられる。