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迫間 真治郎(はざま しんじろう、1911年4月16日 - … 迫間 真治郎(はざま しんじろう、1911年4月16日 - 1965年12月23日)は、日本の経済学者。日本大学経済学部教授。 和歌山県出身。旧制第一高等学校時代に社会主義運動に参加し、同校を中退。その後、法政大学経済学部に入り、1936年卒業。1938年以降法政大学講師、助教授、教授。1953年日本大学経済学部教授。國學院大學政経学部兼任教授。1960年「社会主義経済の理論」で経済学博士(日本大学)。 1965年12月23日、心臓麻痺のため日本大学駿河台病院で急逝、54歳。全日本労働総同盟(同盟)の機関誌『同盟』に1965年9月号(第85号)から「マルクス経済学批判」を連載中だった。
北川 省一(きたがわ せいいち、1911年4月7日 - 19… 北川 省一(きたがわ せいいち、1911年4月7日 - 1993年1月5日)は、日本の詩人、良寛研究家。 新潟県刈羽郡柏崎町(現在の柏崎市)生まれ。塗師の父が出奔して母と兄との家庭に育つ。第一高等学校在学時代には絵画、詩を創作。東京帝国大学仏文科に入学するが左翼活動のため1年で中退。郷里で私塾経営などをしたのち再度上京、兵役で千島で特攻訓練をするうち敗戦を迎えた。戦後は郷里で貸本屋をし、たびたび日本共産党から衆議院に立候補するが、田中角栄に敗れ続ける。66歳以後良寛研究家として多くの著書を著す。椎名麟三とは鉄工場の同僚だった。1993年1月5日、胃癌のため死去。 息子は北川フラム。娘の原若菜は原広司夫人であり、その名付け親は中野重治である。
久保 昌二(くぼ まさじ、1911年〈明治44年〉2月21日… 久保 昌二(くぼ まさじ、1911年〈明治44年〉2月21日 - 1994年〈平成6年〉12月4日)は、日本の化学者。京城帝国大学、第一高等学校、名古屋大学教授。専門は物理化学。 1932年(昭和7年)、東京帝国大学卒業。1938年、理学博士。 台北帝国大学講師、東京帝国大学講師、京城帝国大学教授、第一高等学校教授を歴任。 1948年(昭和23年)、名古屋大学教授。
宮木 高明(みやき たかあき、1911年1月30日-1974… 宮木 高明(みやき たかあき、1911年1月30日-1974年1月9日)は、日本の薬学者。 東京浅草の商家に生まれる。京華中学校、第一高等学校、1935年東京帝国大学医学部薬学科卒、副手、38年助手、42年「Napthyridin誘導体の合成研究」で薬学博士、千葉医科大学附属薬学専門部教授。1947年千葉医科大学教授。49年千葉大学薬学部長、教授。 1974年1月9日、脳出血のため東邦大学医学部大森病院にて死去。62歳。
摩寿意 善郎(ますい よしろう、1911年1月23日 - 1… 摩寿意 善郎(ますい よしろう、1911年1月23日 - 1977年4月25日)は、日本の美術史家、東京芸術大学名誉教授。 1911年1月23日、父・善太郎、母・ツヤの長男として東京府麻布区に生まれる。1924年3月、区立南山小学校を卒業。麻布中学校に進み、1928年に卒業した。1929年、第一高等学校文科甲類に入学。一高時代に三谷隆正教授のブルクハルト「イタリア・ルネッサンスの文化」の講義をうけたのが、ルネッサンス美術史研究の端緒となった。1932年京都帝国大学文学部に入学したが、翌年東京帝国大学に転じ、1936年3月、同大学文学部美学美術史学科を卒業。論文は「美術史の哲学的基礎」。大学卒業と同時に都新聞(現:東京新聞)に入社し、文化部美術担当記者となる。
阿部 秋生(あべ あきお、1910年 <明治43年> 10月… 阿部 秋生(あべ あきお、1910年 <明治43年> 10月24日 - 1999年 <平成11年> 5月24日)は、日本の国文学者。中古文学専攻。文学博士(論文博士・1959年)(学位論文『源氏物語研究序説』)。東京大学名誉教授。1983年勲二等瑞宝章受章。位階は正四位。妻は国文学者の阿部俊子。 秋田県秋田市生まれ。旧姓青柳。樺太で育つ。第一高等学校、東京帝国大学国文科卒、同大学院を1937年に退学、国民精神文化研究所助手を務める。 1943年、一高教授、1950年、東京大学教養学部助教授、1959年、東京大学教養学部教授。『源氏物語研究序説』で同年、文学博士の学位を取得。1966年、東京大学教養学部長。
吉田 四郎(よしだ しろう、1910年9月 - 1997年1… 吉田 四郎(よしだ しろう、1910年9月 - 1997年12月18日)は、日本の実業家・技術者。旭硝子株式会社(現・AGC株式会社)で常務取締役を務め、戦後のブラウン管テレビ用ガラスの国産化および量産体制の確立に貢献。日本の高度経済成長を支えた素材産業の技術系経営者の一人である。 鳥取県八頭郡安井宿(現八頭町)に生まれ、鳥取県立鳥取中学校(旧制)、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学工学部応用化学科を卒業。 卒業後、旭硝子株式会社(現・AGC)に入社し、技術者としてガラス製造現場に携わる。1950年代、白黒テレビの急速な普及を背景に、テレビ用ブラウン管ガラス(バルブ)の国産化プロジェクトに参画。
堀 一郎(ほり いちろう、1910年(明治43年)3月19日… 堀 一郎(ほり いちろう、1910年(明治43年)3月19日 - 1974年(昭和49年)8月10日)は、日本の宗教学者。東京大学名誉教授。 三重県生まれ。1929年に第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部印度哲学科入学。同期に五来重らがいる。1932年に卒業。1935年に大学院を退学した後、1939年から二松学舎専門学校教授、同年文部省国民精神文化研究所助手などとなり、戦後は東北大学教授を経て、1965年東京大学宗教学科教授。1971年定年退官、成城大学教授。また、1950年から國學院大學兼任教授。1953年に「我が国民間信仰史の研究」により、東京大学から文学博士の学位を授与される。
上田 英雄(うえだ ひでお、1910年3月12日 - 199… 上田 英雄(うえだ ひでお、1910年3月12日 - 1993年10月19日)は、日本の内科医、医学博士、東京大学病院長。5代目横綱審議委員会委員長。 1910年東京市浅草区に生まれる。旧制第一高等学校を経て、1934年東京帝国大学医学部卒。1950年東京慈恵医大教授。1958年東京大学教授。1967年同大学病院長。1970年東京女子医大教授。1972年から1984年まで中央鉄道病院院長を務めた。ほかに日本心臓財団名誉会長なども歴任した。1964年ベルツ賞佳作賞受賞。 また、横綱双葉山の主治医でもあり、それが縁で1966年に横綱審議委員となり、1990年から1993年まで委員長を務めた。1993年5月に体調不良を理由に同委員長辞任を申し出て、受理され、10月19日に腎不全のため死去した。
加藤 静一(かとう せいいち、1910年1月29日 - 19… 加藤 静一(かとう せいいち、1910年1月29日 - 1989年12月5日)は、日本の医学者(眼科学)。 岐阜県岐阜市出身。旧制第一高等学校を経て、1935年東京帝国大学医学部卒業。1943年旧制樺太医学専門学校眼科教授。1946年旧制松本医学専門学校教授、1948年旧制松本医科大学教授、1958年信州大学医学部附属病院長。1966年医学部長。1973年学長を歴任。1981年退官、同年江戸川女子短期大学学長に就任。1981年勲二等旭日重光章受章。エスペラント語の眼科教科書を出版した。
石田 正(いしだ ただし、1910年1月7日 - 1979年… 石田 正(いしだ ただし、1910年1月7日 - 1979年3月4日)は、日本の大蔵官僚。大蔵事務次官、日本輸出入銀行総裁。 旧制開成中学、旧制第一高等学校を経て、1933年に東京帝国大学法学部を卒業。同年に大蔵省に入省(大臣官房文書課に配属)。1945年4月13日に広瀬大蔵大臣秘書官(事務担当)。1947年11月19日に理財局為替第一課長。1948年7月5日に理財局外資部長。1949年3月15日に理財局外資部長兼理財局国庫課長。同年6月1日に大臣官房調査部長。その後、主税局税関部長、理財局長、官房長、為替局長を経て、1957年11月15日に銀行局長となり、1959年6月23日に大蔵事務次官に就任。
大野 達之助(おおの たつのすけ、1910年 - 1984年… 大野 達之助(おおの たつのすけ、1910年 - 1984年5月10日)は、日本の日本史学者。駒澤大学教授。 東京生まれ。第一高等学校卒、1935年東京帝国大学文学部国史学科卒業。1958年より駒澤大学文学部歴史学科教授。1971年「聖徳太子の仏教と政治に関する研究」で博士(文学、駒澤大学)。日本仏教史を専門とした。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
平沢 和重(ひらさわ かずしげ、1909年9月14日 - 1… 平沢 和重(ひらさわ かずしげ、1909年9月14日 - 1977年3月7日)は、日本の外交官。NHK解説委員。 香川県丸亀市生まれ。平沢家は岩手県和賀郡西和賀町沢内の旧家で、父の代に転居した。1930(昭和5)年3月に第一高等学校(一高)を卒業し、1934(昭和9)年に文官高等試験外交科試験に合格。1935(昭和10)年3月に東京帝国大学法学部政治学科卒業。翌月、外務省に入省し、書記生となる。1936(昭和11)年7月にベイツ大学を卒業し、1938(昭和13)年4月まで外交官補として在米大使館に勤務。斎藤博アメリカ合衆国駐箚日本国特命全権大使在任中に大使秘書官を務める。 1938年4月、バンクーバーから一時帰国のために横浜港に向かう氷川丸に乗船した際、偶然にもIOC委員で、エジプト・カイロでのIOC総会から帰国の途にあった嘉納治五郎と出会い、交友を深めた。
中島征帆(なかじまゆきほ、1909年6月13日 - 1979… 中島征帆(なかじまゆきほ、1909年6月13日 - 1979年4月1日)は日本の通産官僚。 佐賀県佐賀郡新北村寺井津(現在の佐賀市諸富町寺井津)生まれ。佐賀県立佐賀中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学に進学。 1932年、東京帝国大学経済学部卒業後、商工省工務局に入省。化学局合成課、軍需省整備局整備課長、燃料局石油課長、経済安定本部動力局次長、福岡商工局商工部長、石炭庁開発局長、資源庁石炭管理局長、大阪通商産業局長などを務めた。
久曾神 昇(きゅうそじん ひたく、1909年5月31日 - … 久曾神 昇(きゅうそじん ひたく、1909年5月31日 - 2012年9月23日)は、日本の国文学者。学位は文学博士(東北大学・1962年)(学位論文「古今和歌集成立論」)。愛知大学第9代学長。勲二等瑞宝章。 愛知県渥美郡牟呂吉田村高州(現・愛知県豊橋市高洲町)生まれ。第一高等学校を経て、1934年に東京帝国大学文学部国文学科を卒業。1938年に同大学院を退学。福岡女子専門学校教授。応召先のシンガポールで捕虜となる。 1946年に復員し、愛知大学予科教授、1949年に愛知大学教授、1970年に文学部長、愛知大学理事、1972年に学長および理事長を歴任。1984年に退任、名誉教授、勲二等瑞宝章、1985年に中華人民共和国南開大学名誉教授。
相原 茂(あいはら しげる、1909年4月25日 - 199… 相原 茂(あいはら しげる、1909年4月25日 - 1993年12月8日)は、日本の経済学者。 静岡県出身。旧制一高を経て東京帝国大学経済学部卒。第一高等学校教授、1949年東京大学教養学部助教授、教授、1963-1966年教養学部長、1969年定年退官、名誉教授、信州大学教授、1975年定年。
梶山 力(かじやま つとむ、1909年 - 1941年4月)… 梶山 力(かじやま つとむ、1909年 - 1941年4月)は、昭和前期の経済社会学者。ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の翻訳で知られる。旧姓・田中。 岡山県出身(福山市生れ、まもなく岡山市に移転)。第一高等学校を経て、1929年に東京帝国大学経済学部に入学。一高以来の恩師本位田祥男のもと、ドイツ宗教改革史、ドイツ農民戦争史の研究を進める。1933年4月、大学卒業。 1934年4月に丸の内の経済問題研究所研究員、この年、山崎朝子と結婚。1935年4月、松山高等商業学校講師となり経済史を講じるが、病気のため12月に辞任。 療養のため辻堂に移転。妻とキリスト教伝道誌「葡萄園」を刊行。
長谷川 鉱平(長谷川鑛平、はせがわ こうへい、1908年12… 長谷川 鉱平(長谷川鑛平、はせがわ こうへい、1908年12月20日 - 1995年7月16日)は、日本の編集者、文筆家。 岐阜県出身、名古屋市生まれ。1924年、私立目白中学校3年編入学、埴谷雄高が同期。1926年、目白中学校4年修了で第一高等学校 (旧制)に入ったが1928年に病気のため退学。1929年、法政大学予科第二部入学。法政大学文学部哲学科卒。岩波書店、1946年中央公論社勤務、『思想の科学』などの編集に当たる。63年中央公論社を定年退職。本州大学教授、改称で長野大学教授、1984年退職。文学、哲学などについて執筆した。
内野 壮児(うちの そうじ、1908年11月22日 - 19… 内野 壮児(うちの そうじ、1908年11月22日 - 1980年12月26日)は、昭和時代の社会運動家。労働運動研究所代表理事。日本共産党中央委員候補。 長崎県下県郡鶏知町(現対馬市)に生まれる。1928年旧制第一高等学校を卒業、東京帝国大学文学部に入学。入学と同時に新人会に加入、柳島のセツルメント労働学校を運営。同年9月検挙され、東大を中退。1929年日本労働組合全国協議会(全協)関東金属労働組合大崎支部書記を経て同本部常任委員となり、以降オルグ活動に従事。1930年6月全協本部を批判して全協刷新同盟(刷同)の結成に参加、同年10月プロフィンテルンの決議により刷同を解散。1933年全協日本金属労働組合に復帰。
下田 弘(しもだ ひろし、1908年9月2日 - 生没不明)… 下田 弘(しもだ ひろし、1908年9月2日 - 生没不明)は、日本の哲学者、武蔵工業大学名誉教授。 1908年、女子教育者の先導者であった下田次郎の四男として東京に生まれる。1932年、東京帝国大学哲学科を卒業。 1939年より第一高等学校教授となるが、1944年に病気のため退職。戦後1950年より清泉女子大学教授、1956年より武蔵工業大学教授となり、1959年から1967年まで図書館長も務めた。1979年に退職し、名誉教授となった。 1981年勲三等瑞宝章。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
重松 鷹泰(しげまつ たかやす、1908年〈明治41年〉8月… 重松 鷹泰(しげまつ たかやす、1908年〈明治41年〉8月7日 - 1995年〈平成7年〉8月7日)は、日本の教育学者。名古屋大学名誉教授。専攻は教育方法論。授業分析を行った。 東京生まれ。旧制第一高等学校理科卒後、1928年徳島県大津東小学校の代用教員となる。1932年東京文理科大学教育学科教育学専攻卒、東京府豊島師範学校講師。1937年教育科学研究会生活教育研究部会に参加し、教育指導部幹事に就任した。1941年東京府学務部勤務。1944年応召、中支に出征。1946年文部省教科書局小学校社会科担当となり、小学校社会科創設及び学習指導要領に関与する。1947年奈良女子高等師範学校附属小学校主事、1952年名古屋大学教育学部教授、1972年定年退官、のちに名誉教授。
服部 四郎(はっとり しろう、1908年〈明治41年〉5月2… 服部 四郎(はっとり しろう、1908年〈明治41年〉5月29日 - 1995年〈平成7年〉1月29日)は、日本の言語学者。東京大学名誉教授。 1908年、三重県鈴鹿郡亀山町(現・亀山市)生まれ。津中学校卒業。第一高等学校時代に読んだ安藤正次の『言語学概論』で、日本語の起源が不明であることを知り、言語学を志すようになった。 1931年、東京帝国大学文学部言語学科卒業。言語学、国語学、アイヌ語、朝鮮語、モンゴル語、満洲語、トルコ語、中国語などを、藤岡勝二、橋本進吉、金田一京助、小倉進平らに教わる。大学での同期には有坂秀世がいた。また、学部時代に、琉球(沖縄)出身の仲宗根政善をインフォーマントとして言語調査を行っている。
菊池 一雄(きくち かずお、1908年(明治41年)5月3日… 菊池 一雄(きくち かずお、1908年(明治41年)5月3日 - 1985年(昭和60年)4月30日)は、日本の彫刻家。第1回毎日芸術賞を受賞。 菊池契月の長男として、京都市に生まれる。1926年(大正15年)に上京し、第一高等学校で藤川勇造から彫刻を学んだ。卒業後、1929年(昭和4年)に創設されたばかりの二科会の彫刻科に早川巍一郎らと共に所属し、塑像を制作する。後の1932年(昭和7年)に東京帝国大学文学部に入学し、在学中に自身の作品が初めて入選された。 卒業後の、1936年(昭和11年)留学のためフランスに渡り、シャルル・デスピオに師事する。1939年(昭和14年)に帰国し、2年後の1941年(昭和16年)に新制作派協会員の一員となった。
石川 準吉(いしかわ じゅんきち、1908年(明治41年)3… 石川 準吉(いしかわ じゅんきち、1908年(明治41年)3月14日 - 1989年(平成元年)4月14日)は、日本の官僚、歴史学者。行政管理庁行政管理局長、法学博士。 兵庫県朝来郡生野町(現:朝来市生野町)で、石川伊兵衛の四男として生まれる。第一高等学校を卒業。1932年、東京帝国大学文学部哲学科を卒業。1935年10月、高等試験行政科試験に合格。1936年、内閣に入り内閣調査局属となる。 以後、企画庁属、企画院事務官・内政部勤務、地方事務官・富山県勤務、埼玉県地方課長、同商工課長、奈良県地方課長兼振興課長、静岡県官房主事、企画院調査官、軍需省軍需官などを歴任。 戦後、東北地方行政事務局第一兼第二部長、宮城県経済部長、大阪管区経済調査庁査察部物資課長、東京管区監察局第二部第二課長、岡山地方監察局長、名古屋管区行政監察局第二部長、行政管理庁行政監察局監察審議官などを歴任し、1963年12月、行政管理庁行政管理局長に就任。
川崎 庸之(かわさき つねゆき、1908年1月16日 - 1… 川崎 庸之(かわさき つねゆき、1908年1月16日 - 1996年11月3日)は、日本の歴史学者、東京大学名誉教授、和光大学名誉教授。 1908年東京生まれ。第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部国史学科に進んで、辻善之助に師事した。1930年に卒業。 1936年に東京帝国大学史料編纂所に入り、1954年に教授昇進。1968年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は和光大学教授として教鞭をとった。 仏教を中心とした古代史、日本思想史、日本文化史の研究を続けた。
岡田 鯱彦(おかだ しゃちひこ、1907年12月28日 - … 岡田 鯱彦(おかだ しゃちひこ、1907年12月28日 - 1993年8月4日)は、日本の国文学者、推理作家、小説家。本名は、岡田藤吉。 東京生まれ。東京物理学校(現 東京理科大学)を卒業した後、1935年第一高等学校卒、東京帝国大学文学部国文科に入学し、1938年卒業。1940-45年名古屋陸軍幼年学校の教官を務めた。第二次大戦後、東京青年師範学校教授[要出典]、1949年から東京学芸大学教授、1971年定年、聖徳学園短期大学教授、淑徳短期大学教授。 作家としての活動もあり、『源氏物語』や『雨月物語』といった古典に取材した作品がある。1949年、ユーモア小説「天の邪鬼」が懸賞に当選。同年に『宝石』誌の第3回懸賞募集に応募した「妖鬼の呪言」が短篇懸賞の選外佳作となり、また「噴火口上の殺人」が『ロック』誌の第2回懸賞募集に1席入選し、同誌に掲載された。
田辺 振太郎(たなべ しんたろう、1907年10月1日 - … 田辺 振太郎(たなべ しんたろう、1907年10月1日 - 1987年3月9日)は、日本の科学思想家。 京都出身。東京市本郷区西片町(現・東京都文京区)生まれ。雅号・素楽。1927年静岡県田方郡下大見村・私立大井上理農学研究所に技師として入所、1929年第一高等学校化学教室副手。1932年唯物論研究会の創立に参加。1933年岩波書店編集部勤務、1935-45年理化学研究所助手。磯部甫研究室(元・浅原源七研究室)所属。1945-47年武蔵高等学校(旧制)専任講師(化学)、1953年東京物理学校(現・東京理科大学)卒。戦前には、教育科学研究会の科学教育研究部会数学教育分会に参加。のち在野の哲学者として独自の技術論や認識論を展開した。
松尾 聰(まつお さとし、1907年〈明治40年〉9月28日… 松尾 聰(まつお さとし、1907年〈明治40年〉9月28日 - 1997年〈平成9年〉2月5日)は、日本の日本文学者。専攻は平安時代文学。学位は、文学博士(東京大学)。学習院大学名誉教授。 東京帝国大学で池田亀鑑に師事。旧制学習院高等科の教員での教え子に三島由紀夫がいた。松尾光は、5男、日本古代史研究者で、博士(史学)の学位取得者。 東京市赤坂区(現・東京都港区)青山生まれ。第一高等学校文科甲類、1931年(昭和6年)東京帝国大学文学部国文学科卒、同大学院(旧制)修了。卒業論文は『浜松中納言物語』の研究で、全5巻のうち欠落していた末巻を発見し、その翻刻校訂の成果を『尾上本浜松中納言物語』にまとめた。
飯塚 朗(いいづか あきら、1907年9月2日 - 1989… 飯塚 朗(いいづか あきら、1907年9月2日 - 1989年2月23日)は、日本の中国文学者、作家。北海道大学名誉教授。 1907年、神奈川県横浜生まれ。第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部支那哲学文学科に進んだ。在学中、同人誌『東大派』を刊行し、中国文学研究会で竹内好、武田泰淳、松枝茂夫らを知る。1937年、高見順、武田麟太郎らの『日暦』同人となる。1936年、東京帝国大学を卒業。 1938年北京に渡り、中華民国新民会調査部に勤務。1943年からは華北映画公司に勤務。しかし、憲兵隊に逮捕され勾留されることとなり、帰国した。1944年に応召、中国戦線に出た。1945年の太平洋戦争敗戦後、蘇州で捕虜生活を送った。
山田 肇(やまだ はじめ、1907年8月23日 - 1993… 山田 肇(やまだ はじめ、1907年8月23日 - 1993年8月17日)は、日本の演劇学者、舞台演出家。明治大学名誉教授。 スタニスラフスキーの翻訳で知られ、岸田国士戯曲賞選考委員を発足時から務めた。 東京府東京市牛込区(現:東京都新宿区)に医師の長男として生まれる。1929年に第一高等学校を卒業して、東京帝国大学に進み、1932年に東京帝国大学文学部美学科を卒業した。 大学在学中から心座に関わり、新興劇団協議会書記局員、鏑木清方の長女と結婚、杉山誠と親交を結んだ。1938年から明治大学で西洋演劇を教え、1945年に文芸科兼任教授に就任する。 1946年に新演劇人協会事務局長となる。1947年に木下順二らの「ぶどうの会」に参加。
松井 勇(まつい いさむ、1907年8月18日 - 1996… 松井 勇(まつい いさむ、1907年8月18日 - 1996年8月10日)は、日本の地理学者である。 1907年(明治40年)8月18日、本郷区駒込浅嘉町(現在の文京区本駒込)で誕生。旗本の家系であったという。東京府立第五中学校から第一高等学校を経て東京帝国大学理学部地理学科に進学、1931年(昭和6年)に卒業。理学部大学院に進み、辻村太郎に師事する。1946年(昭和21年)に「地理学に於ける分布論」で理学博士となる。 1947年(昭和22年)より東京女子高等師範学校の講師を務め、1949年(昭和24年)に常勤となる。同年、国立学校設置法に基づき、東京女子高等師範学校はお茶の水女子大学に改組される。
小川 清四郎(おがわ せいしろう、1907年8月3日 - 1… 小川 清四郎(おがわ せいしろう、1907年8月3日 - 1981年8月3日)は、日本の外交官。公正取引委員会事務局長、法務省入国管理局長、駐ビルマ特命全権大使などを歴任した。 広島県尾道市出身。第一高等学校文科丙類を経て、1931年東京帝国大学法学部政治学科卒業。1932年外務省入省。外務省条約局事務官、情報局総裁秘書官、戦争調査会事務局事務官、横須賀捕獲審検所評定官等を経て、1952年調達庁総務部調停官。1953年公正取引委員会事務局長。1957年在ヴィエトナム日本国大使館参事官。 1959年外務大臣官房審議官。1960年駐ハンガリー特命全権公使。1962年法務省入国管理局長。1964年駐ヴァチカン特命全権大使。
周郷 博(すごう ひろし、1907年6月14日 - 1980… 周郷 博(すごう ひろし、1907年6月14日 - 1980年2月28日)は、日本の教育学者。お茶の水女子大学名誉教授。 千葉県八千代市生まれ。第一高等学校を経て、1933年東京帝国大学文学部教育学科卒。東京大学助手の後、いくつかの大学の非常勤講師を経て、1947年東京女子高等師範学校講師。その後、新制のお茶の水女子大学教育学部教授。晩年は、付属幼稚園園長も兼務。 教育の詩人と呼ばれ、青年期から詩作をし、『母と子の詩集』などもある。テイヤール・ド・シャルダンの著作を座右の書とした。戦後、日本の教育界に影響のあったハーバート・リードの『平和のための教育』、レスター・スミスの『教育入門』を岩波書店から翻訳刊行している。
佐藤 朝生(さとう ともお、1907年〈明治40年〉5月14… 佐藤 朝生(さとう ともお、1907年〈明治40年〉5月14日 - 1999年〈平成11年〉 12月4日)は、日本の内務官僚。人事院事務総長(初代)、総理府総務副長官。位階は正三位。 大正13年(1924年)旧制府立一中4年修了、昭和2年(1927年)旧制第一高等学校、昭和5年(1930年)東京帝国大学法学部政治学科卒業後、内務省へ入省。昭和11年(1936年)内閣書記官、昭和13年(1938年)内閣官房会計課長、昭和20年(1945年)内閣官房総務課長に就任する。 鈴木貫太郎内閣では迫水久常内閣書記官長の下で終戦事務に関わる。ポツダム宣言後の8月1日に、内閣情報局総裁の下村宏が、久富達夫次長から「終戦するには、陛下に自らマイクの前に立って放送していただく。
河内 清(かわち きよし、1907年4月20日 - 1991… 河内 清(かわち きよし、1907年4月20日 - 1991年2月11日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。静岡大学名誉教授。 愛知県知多郡内海町(現・南知多町)出身。第一高等学校を経て、1930年東京帝国大学仏文科卒業。徳川義忠(尾張徳川家・分家)の家庭教師を務め、31年草村北星の龍吟社に入る。32年藤山工業図書館勤務、38年財団法人東亜研究所(近衛文麿総裁)に入り調査員となる。戦後の47年広島文理科大学および広島高等師範学校講師、48年静岡高等学校教授、49年静岡大学文理学部教授、54年図書館長、62年文理学部長、65年改組により初代人文学部長、67年東京教育大学教授、71年定年退官、静大名誉教授、72年白百合女子大学教授、78年定年退職。
中川 宋淵(なかがわ そうえん、1907年3月19日 - 1… 中川 宋淵(なかがわ そうえん、1907年3月19日 - 1984年3月11日)は、昭和の臨済宗の禅僧。俳人としても知られた。道号は玄珠、法諱は宋淵。本名は中川基(なかがわ もとし)。号は密多窟。 山口県玖珂郡岩国町(現・岩国市)出身。大正12年(1923年)、旧制第一高等学校入学。昭和2年(1927年)東京帝国大学文学部入学。 東京帝国大学在学中の昭和6年(1931年)3月19日、山梨県の向嶽寺勝部敬学につき得度。得度後は大菩薩山中にて木食修行に励む。昭和5年(1930年)東京の白山道場で山本玄峰に師事し、昭和10年(1935年)に静岡県三島市の龍沢寺へ転錫。昭和26年(1951年)4月、山本の跡を継いで龍沢寺第10世住職並びに僧堂師家となる。
山田 匡蔵(やまだ きょうぞう、あるいは山田耕雲、- こうう… 山田 匡蔵(やまだ きょうぞう、あるいは山田耕雲、- こううん、1907年3月18日 - 1989年9月13日)は、日本の実業家(日本油脂常務、東京顕微鏡院理事長)、禅指導者(三宝教団2代管長・正師家、耕雲軒山田円光禅心)。 1907年3月18日、山田脩(二本松町長・二本松製糸会社副社長)の次男として福島県二本松市に生まれる。 第一高等学校 (旧制)から東京帝国大学法学部に進む。在学中に高等文官行政科試験に合格。1930年に卒業。 千代田生命に入社するも長兄が亡くなり、家業を助けるため、妹の友人で小児科医の山田和江(旧姓:阿部)と結婚後、満州に渡り満州鉱山で人事課長となる。引き揚げ後鎌倉に居住。
高木 卓(たかぎ たく、1907年〈明治40年〉1月18日 … 高木 卓(たかぎ たく、1907年〈明治40年〉1月18日 - 1974年〈昭和49年〉12月28日)は、日本の小説家、ドイツ文学者、音楽評論家。本名は安藤 煕(あんどう ひろし)。 ヴァイオリニストで、女性初の文化功労者に選ばれた安藤幸と、英文学者・安藤勝一郎の子として東京市本郷区西片町に生まれる。東京帝国大学独文科卒。 水戸高等学校や第一高等学校教授などをつとめながら、同人雑誌『作家精神』に小説を書いた。1936年「遣唐船」で芥川賞候補、1940年(昭和15年)、大伴家持を描いた歴史短篇「歌と門の盾」で芥川賞を授与されるが辞退する。菊池寛は「恥を掻かされた」と言って怒っている。高木は、自分が辞退すれば『作家精神』の桜田常久がくりあげ受賞すると誤認したという説もある(桜田は次回受賞)。
井上 真六(いのうえ しんろく、1907年 - 没年不詳)は… 井上 真六(いのうえ しんろく、1907年 - 没年不詳)は第二次大戦中の資材不足を補うため、純国産木製飛行機の製造を提唱し、キ107を開発した航空機技術者。父は李氏朝鮮顧問であり、ハングル普及に尽力したことでも知られる井上角五郎。 東京の麹町区一番町で1907年(明治40年)4月9日に生まれる。衆議院議員を長く務め、いくつもの企業設立に関わる実業家でもあった父の邸宅で育ち、兄弟一人ずつに女中が付く生活であった。東京府立第五中学校から第一高等学校へ進学。1931年(昭和6年)3月に東京大学工学部航空学科を卒業し、中島飛行機製作所へ入社した。同社では太田工場設計部技師となり、試作設計業務に従事する。
佐木 秋夫(さき あきお、1906年11月16日 - 198… 佐木 秋夫(さき あきお、1906年11月16日 - 1988年8月20日)は、日本の宗教学者。 左派の立場から宗教問題について研究した。 東京府東京市麹町区生まれ。1922年、旧制東京府立第四中学校を(1923年卒)4年修了。4年修了同期に末吉俊雄(元三井東圧化学社長)らがいる。旧制第一高等学校を経て、1930年に東京帝国大学文学部宗教学宗教史学科を卒業。 巣鴨学園、英語塾高田女塾で英語を教えながら日本戦闘的無神論者同盟、唯物論研究会に拠って著作をなす。 軍国主義の圧迫を受け、1938年青江舜二郎らと教育紙芝居協会を設立。 戦後の極東国際軍事裁判で検事側にたって軍部の「紙芝居統制」を証言した。
能代 清(のしろ きよし、1906年(明治39年)9月26日… 能代 清(のしろ きよし、1906年(明治39年)9月26日 - 1976年(昭和51年)10月18日)は、日本の数学者。理学博士。専門は複素解析。北海道帝国大学講師、旧制第一高等学校教授、名古屋帝国大学教授、ハーバード大学客員教授、名古屋大学名誉教授、東京理科大学教授を務める。1956年(昭和31年)、「函数論における集積値集合の研究」で第9回中日文化賞を受賞。
有泉 亨(ありいずみ とおる、1906年〈明治39年〉6月1… 有泉 亨(ありいずみ とおる、1906年〈明治39年〉6月10日 - 1999年〈平成11年〉12月20日)は、日本の法学者。専門は労働法。学位は法学博士(東京大学・論文博士・1962年)。東京大学名誉教授。弁護士。我妻栄門下。位階は正四位。 山梨県中巨摩郡白根町(現在・南アルプス市)出身。1928年、第一高等学校 (旧制)卒業。1932年、東京帝国大学法学部法律学科卒業。 1933年、同大学法学部助手。1940年、京城帝国大学法文学部助教授、1944年同法文学部教授、1946年本土に引揚げ後、法政大学法学部教授。1947年、東京大学社会科学研究所助教授。1948年、教授。1955年、所長。1962年、東京大学より法学博士の学位を受く。
金山 国治(かなやま くにはる、1906年(明治39年)2月… 金山 国治(かなやま くにはる、1906年(明治39年)2月18日 - 1981年(昭和56年)4月14日)は、日本の内務・警察官僚、陸上自衛官、弁護士。最後の官選佐賀県知事、陸将。 島根県出身。第一高等学校を卒業。1930年10月、高等試験行政科試験に合格。1931年に同司法科試験にも合格し、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。同年、内務省に入省し、地方局属となる。 以後、鹿児島県学務部学務課長、同総務部議事課長、内務省衛生局事務官、警視庁経済警察第一課長、岩手県書記官・警察部長、岩手県部長・警察部長、厚生省衛生局医務課長、群馬県部長・警察部長、防空総本部救護課長、新潟県部長・警察部長、福岡県経済部長、栃木県内務部長などを歴任。
渡辺 武(わたなべ たけし、渡邊 武、1906年(明治39年… 渡辺 武(わたなべ たけし、渡邊 武、1906年(明治39年)2月15日 - 2010年(平成22年)8月23日)は、日本の官僚。初代財務官。初代アジア開発銀行総裁。公共信託アジア・コミュニティ・トラスト運営委員会代表。渡辺千秋の孫、渡辺千冬の子。 東京府(現・東京都)生まれ。学習院初等科、府立第一中学校4年修了、第一高等学校を経て、1930年(昭和5年)東京帝国大学法学部政治学科卒。 同年 大蔵省入省後、対満事務局に出向し、革新官僚の一人として統制経済の策定にも関わった。同局では殖産課に属し、岩畔豪雄と机を並べて仕事をした。1937年(昭和12年)、大蔵省主計局事務官となり文部省・南洋庁・関東局を担当、隣には陸軍担当の福田赳夫がいた。
坪内 為雄(つぼうち ためお、1906年 - 1999年) … 坪内 為雄(つぼうち ためお、1906年 - 1999年) は、日本の機械工学者。東北大学名誉教授。元日本機械学会副会長。元日本伝熱研究会会長。 静岡県三島市生まれ。第一高等学校在学中の1923年に日本メソジスト教会牛込教会で洗礼を受ける。1932年東北帝国大学工学部機械工学科卒業、東北帝国大学工学部助手。1936年東北帝国大学助教授。1945年東北帝国大学教授。1959年東北大学工学博士、日本機械学会賞受賞。1969年定年退官、東北大学名誉教授、東北学院大学教授、日本伝熱研究会会長、日本機械学会副会長。1971年日本機械学会名誉員。1976年勲二等瑞宝章受章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
大谷東平(おおたに とうへい、1905年12月29日-197… 大谷東平(おおたに とうへい、1905年12月29日-1977年5月5日)は、日本の気象学者。学位は、理学博士(論文博士・1947年)(学位論文「止風線および集風線の研究」)。 東京出身。旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学理学部卒業。1947年「止風線および集風線の研究」で理学博士の学位を取得。1928年中央気象台嘱託、1939年11月気象技師、1945年7月満州国中央観象台長、1946年大阪管区気象台長、1963年気象大学校長、1964年気象研究所長、1966年退職。天気予報の技術分野に大きな影響を与えた。
保柳 睦美(ほやなぎ むつみ、1905年11月3日 - 19… 保柳 睦美(ほやなぎ むつみ、1905年11月3日 - 1987年8月16日)は、日本の地理学者。理学博士(東京帝国大学)。防衛大学校教授、東京都立大学 (1949-2011)教授、立教大学教授などを歴任。 長野県更級郡稲荷山町(現千曲市)生まれ。旧制東京府立第一中学、旧制第一高等学校を経て、1930年東京帝国大学理学部地理学科卒業。1947年「亜細亜乾燥地域における最近の気候変化・土地の砂漠化問題」で、理学博士(東京帝国大学)。 京城帝国大学助教授、文部省視学官、防衛大学校教授を経て、1960年東京都立大学 (1949-2011)教授、1967年立教大学教授。
鈴木 敬信(すずき けいしん、1905年5月12日 - 19… 鈴木 敬信(すずき けいしん、1905年5月12日 - 1993年1月27日)は、日本の天文学者。専門分野は位置天文学、日食計算論。 東京学芸大学名誉教授。秋田県秋田市出身。一部の人名事典では出身地が東京都になっているものもある。なお、小惑星の(2393) Suzukiは、彼に因み命名された。 旧制第一高等学校を経て1929年、東京帝国大学理学部天文学科を卒業。広島第一中学校教諭、赤羽工兵隊幹部候補生、東京科学博物館嘱託を経て1939年、海軍水路部技師となる。水路部では編暦に従事し、『天体位置表』を創刊した。 1951年、運輸大臣賞(「天体位置表の創刊」により)。 1952年、東京学芸大学教授に就任し、1969年退官。
舟山 正吉(ふなやま しょうきち、1905年2月1日 - 1… 舟山 正吉(ふなやま しょうきち、1905年2月1日 - 1996年9月20日)は、日本の大蔵官僚。大蔵事務次官、日本開発銀行総裁。 三重県出身。旧制開成中学、旧制第一高等学校を経て、1928年(昭和3年)、東京帝国大学法学部政治学科卒業。大学在学中に高等試験行政科に合格。同年4月、大蔵省入省(預金部配属)。1932年(昭和7年)3月、高崎税務署長。1933年(昭和8年)6月、亀戸税務署長。1934年(昭和9年)11月、主税局(兼)高橋是清大蔵大臣秘書官事務取扱。その後は銀行局調査課長、銀行保険局普通銀行課長、銀行局長などを経て、1951年(昭和26年)より大蔵事務次官に就任した。大蔵事務次官時代の1952年(昭和27年)4月、衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された。
中島 賢蔵(なかじま けんぞう、1904年〈明治37年〉11… 中島 賢蔵(なかじま けんぞう、1904年〈明治37年〉11月5日 - 1968年〈昭和43年〉8月11日)は、日本の内務官僚、政治家。官選山梨県知事、初代天理市長。 東京府出身。中島浅次郎の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1927年(昭和2年)12月、高等試験行政科試験に合格。1928年(昭和3年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し埼玉県属となる。 以後、内務省大臣官房文書課勤務、秋田県事務官、内務省地方局事務官、内閣調査局調査官、企画院書記官、奈良県書記官・経済部長、厚生省住宅課長、内務省地方局行政課長、同大臣官房会計課長などを歴任。 1945年(昭和20年)4月、山梨県知事に就任。