スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
神川 彦松(かみかわ ひこまつ、1889年12月23日 - … 神川 彦松(かみかわ ひこまつ、1889年12月23日 - 1988年4月5日)は、日本の国際政治学者。 三重県生まれ。第一高等学校卒業後、東京帝国大学法学部で国際政治学を専攻する。同じ東京帝大法学部の同期に南原繁がいる。 1923年から東京帝国大学法学部教授。1940年、皇紀2600年の記念に大正製薬創業者・初代社長の石井絹治郎らと共に皇道文化研究所を設立した。1929年、東京大学より法学博士を授与(論文タイトルは『国際聯盟政策論』)。 1947年、公職不適格と認定され、東京大学を去った。1950年に公職不適格認定が解除され、東京大学名誉教授となると同時に明治大学教授に就任。1953年に日本学士院会員となり、日本国際政治学会・日本国際問題研究所の設立にも関わりそれぞれ初代理事長・初代所長を務めた。
河相 達夫(かわい たつお、1889年(明治22年)7月26… 河相 達夫(かわい たつお、1889年(明治22年)7月26日 - 1966年(昭和41年)10月31日)は、大正から昭和期の外交官、外務次官。終戦連絡中央事務局次長やオーストラリア公使等を務めた。旧姓・永井。 広島県賀茂郡竹原村(現竹原市)出身。永井潜の実弟で、河相保四郎の養子となる。旧制第一高等学校を経て1915年に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、北海道炭礦汽船入社。翌年退職し1918年、外交官及領事官試験に合格、外務省入省。 バンクーバー総領事代理、青島在勤外務書記官、情報一課長、関東庁官房外事課長、米国大使館一等書記官、中国公使館一等書記官、広東、上海各総領事を歴任。1937年外務省情報部長となり、同年10月の米ルーズベルト大統領のシカゴ演説(隔離演説)に反駁談話を発表、「持てる国」中国に対し「持たざる国」日本が不公平是正の戦いを挑むことの正当性を主張し注目された。
生駒 高常(いこま たかつね、1889年(明治22年)7月1… 生駒 高常(いこま たかつね、1889年(明治22年)7月19日 - 1955年(昭和30年)10月16日)は、日本の内務・台湾総督府官僚。台中州知事、官選石川県知事。 兵庫県出身。生駒八十弥の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1913年、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。大蔵省に入省し専売局書記兼大蔵属となる。その後、内務省に転じた。 以後、警視庁警視、岡山県理事官、台湾総督府事務官兼同参事官、同内務局学務課長、同府秘書官、同総督官房文書課長兼調査課長、台中州知事などを歴任。1929年7月、拓務省管理局長に就任した。 1935年1月、石川県知事(「石川県知事一覧」参照)に就任。
大溝 勇(おおみぞ いさむ、1889年(明治22年)7月4日… 大溝 勇(おおみぞ いさむ、1889年(明治22年)7月4日 - 1928年(昭和3年)6月17日)は、日本の造園家。明治神宮内苑の造営にかかわり、関東大震災復興小公園の設計にも関与した。 静岡県君沢郡中郷村(現・三島市)に生まれる。1899年に中郷尋常小学校を卒業して上京し、富士見尋常高等小学校に入学した[要出典]。1907年に旧制第一高等学校理農科に進学。1911年7月に卒業(卒業時点では「農科」)、同年9月に東京帝国大学農科大学林学科に入学した(入学宣誓式は10月14日に挙行)。大学では本多静六に学ぶ。 1914年7月に大学を卒業すると、翌年4月30日に内務大臣所管の明治神宮造営局(内苑造営工事専門の国による部局)林苑課に就職した。
中村 安次郎(なかむら やすじろう、1889年〈明治22年〉… 中村 安次郎(なかむら やすじろう、1889年〈明治22年〉5月23日 - 1939年〈昭和14年〉8月27日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 東京府東京市小石川区竹早町(現・東京都文京区小石川)出身。中村清一の三男として生まれた。第一高等学校を卒業。1915年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1916年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。三井銀行を経て内務省に入省し京都府属となる。 以後、京都府警視、同理事官、内務省警保局事務官、石川県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長、秋田県書記官・内務部長、高知県書記官・内務部長、茨城県書記官・内務部長、京都府書記官・総務部長などを歴任。
野口 敏治(のぐち としはる、1889年(明治22年)5月2… 野口 敏治(のぐち としはる、1889年(明治22年)5月21日 - 1944年(昭和19年)1月14日)は、台湾総督府官僚。 神奈川県横浜市出身。第一高等学校を経て、1915年(大正4年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。同年に高等文官試験に合格し、台湾総督府属、新竹州属、台湾総督府視学官、台中州警務部長、文教局学務課長・附属博物館長、同社会課長を歴任した。1931年(昭和6年)、新竹州知事となり、高雄州知事を経て、1933年(昭和8年)には台北州知事に就任した。 1936年(昭和11年)に退官した後は、台湾電力株式会社理事・経理部長となり、1940年(昭和15年)に退任した。他に福大公司監査役を務めた。
君島 清吉(きみじま せいきち、1889年(明治22年)4月… 君島 清吉(きみじま せいきち、1889年(明治22年)4月16日 - 1966年(昭和41年)1月11日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 栃木県下都賀郡栃木町(現栃木市)出身。君島寅吉の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1917年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し奈良県工場監督官補となる。1919年10月、高等試験行政科試験に合格。 以後、奈良県警視、国勢院書記官、内務省社会局事務官、同書記官、同労働部労務課長、兼同部労政課長などを歴任。 1931年12月、茨城県知事に就任。1932年6月、香川県知事に転任。県下の治安と県民の生活安定に尽力。1933年6月、宮崎県知事に転任。
三谷 隆正(みたに たかまさ、1889年2月6日 - 194… 三谷 隆正(みたに たかまさ、1889年2月6日 - 1944年2月17日)は、日本の法学者。 京都府与謝郡弓木村(現・与謝郡与謝野町)出身で、横浜で生糸商をしていた三谷宗兵衛の長男として生まれる。 明治学院在学中、異母姉三谷民子(のち女子学院院長)の影響でクリスチャンとなった。父の事業破産によって、第一高等学校在学中から住み込みの家庭教師として自活。 東京帝国大学在学中より、内村鑑三に師事。1915年に大学を卒業すると、法制とドイツ語の教授として第六高等学校に赴任。1924年に病で長女と妻を相次いで失う。1926年に六高を辞して上京、千駄ヶ谷教会に長老として参加。1927年から第一高等学校教授となり、法制とドイツ語を担当。
征矢野 晃雄(そやの てるお、1889年1月22日 - 19… 征矢野 晃雄(そやの てるお、1889年1月22日 - 1929年4月26日)は、日本の神学者、哲学者である。 長野県塩尻市出身。1910年(明治43年)日本基督教会富士見町教会で植村正久に洗礼を受ける。富士見町教会有志青年の寄宿舎山上寮に材料する第一高等学校、東京帝国大学を卒業する。卒業後は、福岡高等学校教授に就任した。 1926年(大正15年)に植村正久の死後、東京に戻り東京神学社、東京女子大学で哲学を教える。東京神学社の同僚に高倉徳太郎がいる。 戸山教会(信濃町教会)に転会し、高倉の協力者になった。カント、ヤーコプ・ベーメ、トマス・アクィナス、アウグスティヌスなどの研究を進めた。 1929年(昭和4年)に神奈川県茅ヶ崎町の自宅で病死した。
後藤 隆之助(ごとう りゅうのすけ、1888年12月20日 … 後藤 隆之助(ごとう りゅうのすけ、1888年12月20日 - 1984年8月21日)は、日本の政治活動家。近衛文麿のブレーンとして彼を支え、大政翼賛会の組織局長を務めた。 茨城県出身。千葉県佐原出身ともされる。第一高等学校入学。在籍中、野球害毒論に関連し、新渡戸稲造校長を押川春浪が批判した際、単身押川の自宅を訪れ、謝罪文を書かせたとされる。一高には、6年通い、新渡戸稲造校長の「これ以上留年させても仕方がない。卒業させた方が社会のためになるだろう」との言により卒業したというエピソードがある。豪傑肌の反面、求道的なところがあり、いきなり徳富蘆花を訪れ「人生とはなんだ、教えてくれ」と迫って蘆花を困らせたり、人生の意義が判るまで帰らないと言って、関東一円をぐるぐると彷徨したりした。
杉 宜陳(すぎ よしのぶ、1888年(明治21年)11月6日… 杉 宜陳(すぎ よしのぶ、1888年(明治21年)11月6日 - 1949年(昭和24年)4月2日)は、日本の衆議院議員(中正倶楽部→立憲政友会)、弁護士。 愛媛県周桑郡三芳村(現在西条市)出身。第一高等学校を経て、1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。高等文官試験に合格して逓信書記官補となり、1916年(大正5年)には朝鮮銀行書記・勝田主計総裁秘書となった。寺内内閣が成立して、勝田が大蔵大臣に就任すると、引き続き秘書官となり、大蔵参事官も兼ねた。1924年(大正13年)に清浦内閣が成立して再び勝田が大蔵大臣となると、杉もまた秘書官となった。 同年、第15回衆議院議員総選挙に出馬し当選を果たした。
福島 繁三(ふくしま しげぞう、1888年(明治21年)10… 福島 繁三(ふくしま しげぞう、1888年(明治21年)10月18日 - 1939年(昭和14年)8月29日)は、日本の内務・警察官僚。官選埼玉県知事。旧姓・阿久津。 栃木県大田原町(現大田原市)出身。阿久津脩斎の二男として生まれ、福島ソノと結婚して改姓。第一高等学校を卒業。1913年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1914年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1915年、内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、宮城県加美郡長、鹿児島県学務部長、長野県学務部長、京都府書記官・学務部長、滋賀県書記官・警察部長、香川県書記官・警察部長、青森県内務部長、秋田県書記官・内務部長などを歴任。
佐久間 鼎(さくま かなえ、1888年9月7日 - 1970… 佐久間 鼎(さくま かなえ、1888年9月7日 - 1970年1月9日)は、日本の心理学者、言語学者、国語学者。 1888年、千葉県で生まれた。第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学哲学科に入学。心理学専修で学び、1913年に卒業、同大学大学院に進んで日本語のアクセントについて研究した。 1923年に欧州留学を命じられ、ドイツ留学中にベルリン大学のヴォルフガング・ケーラーのもとでゲシュタルト心理学を学んだ。1925年に帰国し、九州帝国大学の初代心理学講座担任教授に就いた。九州大学には、戦後1949年の退官まで奉職。1966年には日本学士院会員に選出された。 1952年、東洋大学教授に迎えられ、心理学、国語学を担当。
明石 和衛(あかし かずえ、1888年(明治21年)8月30… 明石 和衛(あかし かずえ、1888年(明治21年)8月30日 - 1956年(昭和31年)5月6日)は、日本の機械工学者(精密工学)、実業家。東京帝国大学卒業後、明石製作所を創業。工学博士となり、精密工学会会長を務めた。 日本の陸上競技黎明期に短距離走・中距離走・走幅跳の選手として活躍したほか、昭和初期にはゴルフに傾倒してゴルフコースの設計を行うなど、スポーツの世界にも足跡を残した。 東京生まれ。第一高等学校から東京帝国大学に進む。1913年(大正2年)東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。「恩賜の銀時計」を受け、大学院特選給費学生として母校に残った。 学生時代には陸上競技選手として活躍。一高在学時、英米の陸上競技書を多数読んで練習に活かしたという。
松崎 謙二郎(まつざき けんじろう、1888年〈明治21年〉… 松崎 謙二郎(まつざき けんじろう、1888年〈明治21年〉8月 - 没年不明)は、日本の官僚。愛知県経済部長。族籍は長野県士族。立教大学名誉教授松崎仁の父。 長野県上伊那郡高遠町(現伊那市)に生まれる。長野士族・松崎雅人の長男。第一高等学校を経て、1916年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。1917年10月、文官高等試験に合格。1918年、北海道庁属となり、山梨県、警視庁、福島県各警視を経て鹿児島県理事官に任じられ、以来宮崎県視学官、静岡県書記官、鹿児島県書記官、愛媛県書記官・警察部長、島根、和歌山、三重各県書記官・内務部長を経て、1935年、愛知県書記官に任じ経済部長に補せられ、1937年、退官する。
小坂 狷二(おさか けんじ、1888年6月28日 - 196… 小坂 狷二(おさか けんじ、1888年6月28日 - 1969年8月1日)は、日本の鉄道車両工学の専門家、エスペランティスト。日本のエスペラント運動の父とも称される。エスペラント著作ではKenĵi OSSAKAと自署した。 東京市生まれ。1901年に陸軍幼年学校に入学、士官するものの除隊し、第一高等学校を経て1916年に東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業し、鉄道院(後の鉄道省)に就職。客車、貨車の技術者となった。 1906年、二葉亭四迷の『世界語』によりエスペラントを知り、日本エスペラント協会に入会。1907年に横須賀エスペラント会を再建。1911~1916年に謄写版刷りの"Orienta Stelo"を独力で刊行。
斎藤 樹(さいとう いつき、1888年〈明治21年〉6月26… 斎藤 樹(さいとう いつき、1888年〈明治21年〉6月26日 - 1951年〈昭和26年〉6月2日)は、日本の内務官僚。警視総監、台湾総督府総務長官等歴任。貴族院議員。 斎藤宗吉の長男として長崎県に生まれ、斎藤倉吉の養子となる。本籍は千葉県。 旧制千葉中学を経て、1912年(明治45年)7月、第一高等学校を卒業。同年8月、千葉県大多喜中学教諭に就任するが、1914年(大正3年)8月に休職。同年9月、東京帝国大学法科大学に入学し、在学中の1916年(大正5年)10月に文官高等試験に合格。 1917年(大正6年)7月、東京帝大法科大学法律学科(英法)を優等で卒業し銀時計を授与された。任書記官兼警察講習所教授。
恩田 経介(おんだ きょうすけ、1888年4月10日 - 1… 恩田 経介(おんだ きょうすけ、1888年4月10日 - 1972年4月18日)は、日本の植物学者。旧姓は小山。 長野県北佐久郡大井村(現・小諸市)に生まれる。小諸義塾に通い、島崎藤村から国語を学ぶ。1906年(明治39年)、恩田重信の養子となる。第一高等学校を経て1916年東京帝国大学理学部植物学科卒業、同大学院中途退学。在学中は三好学の指導を受けた。水産講習所(現・東京海洋大学)非常勤講師を経て、1923年(大正12年)明治薬学専門学校教授となり、第一高等学校講師を経て明治薬科大学の初代学長となる。牧野富太郎に師事し、木本植物を研究した。
山下 寿郎(やました としろう、1888年4月2日 - 19… 山下 寿郎(やました としろう、1888年4月2日 - 1983年2月2日)は、日本の建築家。昭和時代にかけて活躍。山形県米沢市出身。昭和の初めに事務所を設立して以米、幾多の建物設計のなかで霞ヶ関ビルやNHK放送センター等が代表的な作品である。その一方で建築施工に関する研究も続け、28年にわたり東京大学の講師として後進の指導にあたった。 幼少期は教育者であった父、新力から、米沢士族の子弟として、誇高く厳格な家庭教育を受けて成人した。叔父に当る山下源太郎海軍大将に深く私淑し、一生人生の師範として敬った[要出典]。上京の後、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学工学部建築学科に学び、1912年に卒業。
半井 清(なからい きよし、1888年(明治21年)3月31… 半井 清(なからい きよし、1888年(明治21年)3月31日 - 1982年(昭和57年)9月3日)は、日本の内務官僚、政治家。官選府県知事、北海道庁長官、横浜市長。岡山県真庭市出身。位階は従三位。 岡山県真庭郡落合町(現:真庭市)出身。1888年(明治21年)衆議院議員・福井三郎の長男として生まれるが半井家を継いだ。第一高等学校を経て、1913年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、大阪府属となり内務部地方課に配属。その後、大阪府理事官、大阪府視学官、石川県理事官などを歴任。 1919年10月、朝鮮総督府に転じ学務局宗教課長に就任。
藤井 啓之助(ふじい けいのすけ、明治21年〈1888年〉3… 藤井 啓之助(ふじい けいのすけ、明治21年〈1888年〉3月 - 昭和34年〈1959年〉3月15日)は、日本の外交官。 群馬県群馬郡国府村(現・高崎市)に、藤井直次郎の次男として生まれる。在ホノルル日本総領事などをつとめた伯父・藤井三郎の跡を継ぐ。貴族院議員をつとめた都筑馨六は叔父にあたる。東京府立第一中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。 1913年(大正2年)10月外交官試験に合格。翌1914年(大正3年)から領事官補として長春、ホノルル、サンフランシスコに勤務。1918年(大正7年)からのワシントン勤務を経て、1920年(大正9年)廈門領事に任命される。1924年(大正13年)に電信・文書・翻訳課長、1926年(大正15年)に人事課長も兼ね、1930年(昭和5年)に在英日本大使館へ勤務することになりイギリスへ移った。
平野 龍起(ひらの たつき、1888年(明治21年)2月16… 平野 龍起(ひらの たつき、1888年(明治21年)2月16日 - 1945年(昭和20年)8月10日)は、日本の政治家、弁護士。熊本市長。 熊本県鹿本郡来民町(現在の山鹿市)出身。第一高等学校を経て、1915年(大正4年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。東京で弁護士を開業したが、1918年(大正7年)に熊本市に移り、後には熊本弁護士会長に選出された。1921年(大正10年)より熊本市会議員に選ばれ、副議長、議長を務めた。また熊本県会議員にも選ばれた。その他に肥後米券社理事、鹿本鉄道株式会社監査役、熊本脳病院監事などを務めた。 1942年(昭和17年)、熊本市長に就任。終戦直前の1945年8月10日に病のため死去した。
藤井 武(ふじい たけし、1888年1月15日 - 1930… 藤井 武(ふじい たけし、1888年1月15日 - 1930年7月14日)は、無教会の伝道者。 陸軍軍人浅村安直の次男として石川県金沢に生まれる。1901年に藤井鉄太郎の養子になる。1904年に第一高等学校に入学、1907年に第一高等学校を卒業し、東京帝国大学法科大学に入学する。1909年内村鑑三の聖書研究の会員になり柏会に所属した。1911年に東京帝国大学を卒業すると、京都府に官僚として赴任する。 1913年に山形県警察部の警視になり、1914年山形県の理事官になる。内村鑑三らが日本に紹介したデンマークのニコライ・グルントウィーの国民教育フォルケホイスコーレを規範として那須皓らとともに山形県自治講習所を設立する(校長に加藤完治)。
下元 連(しももと むらじ、1888年 - 1984年10月… 下元 連(しももと むらじ、1888年 - 1984年10月2日)は、日本の大蔵官僚、建築家、工学者(建築学)。 日本建築学会副会長、戦災復興院技監、戦災復興院営繕部部長、工学院大学工学部教授などを歴任した。 大蔵省(のちの財務省)に所属する技師として、総理大臣官邸(のちに総理大臣公邸に転用)をはじめとする多数の官公庁を設計した。退官後は、下元設計事務所の代表として活動すると同時に、工学院大学工学部の教授として後進を育成した。 1888年、福岡県小倉市(のちの福岡県北九州市)にて生まれた。大志を抱いて上京し、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学に入学し建築学を学んだ。1914年、東京帝国大学工科大学の建築学科(のちの東京大学工学部建築学科)を卒業し、学士号を得た。
寺井久信(てらい ひさのぶ、1887年〈明治20年〉11月1… 寺井久信(てらい ひさのぶ、1887年〈明治20年〉11月15日 - 1958年〈昭和33年〉11月30日)は、昭和期の実業家。和歌山県日高郡志賀村(現・日高町)出身。 1909年(明治42年)第一高等学校英法科卒業。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学経済科を卒業して日本郵船に入社。ロンドン支店副長、カルカッタ支店長、上海支店長、貨物課長などを務める。1935年(昭和10年)依願退職し、南洋海運の専務取締役に就任。1938年(昭和13年)日本郵船副社長に就任、1942年(昭和17年)社長に就任、1946年(昭和21年)まで務めた。 戦後、公職追放となり、1951年追放解除、同年日本郵船相談役。
児島 喜久雄(こじま きくお、兒島 喜久雄、1887年〈明治… 児島 喜久雄(こじま きくお、兒島 喜久雄、1887年〈明治20年〉10月10日 - 1950年〈昭和25年〉7月5日)は、白樺派の画家、美学・美術史の研究者。特にレオナルド・ダ・ヴィンチの研究により知られている。東北帝国大学助教授を経て、東京帝国大学・東京大学教授。 1887年(明治20年)、東京府四谷区舟町(現在の東京都新宿区舟町)で児島益謙の五男として出生。学習院初等科在学中より里見弴と親しく、1903年、16歳の時に画家の三宅克己に入門。1908年、里見らの回覧雑誌『麦』に参加。第一高等学校在学時には、岩元禎の指導も受けた。 1909年、東京帝国大学文科大学文学科に入学。哲学科で美学を専攻した。
戸田 保忠(とだ やすただ、1887年(明治20年)9月10… 戸田 保忠(とだ やすただ、1887年(明治20年)9月10日 – 1938年(昭和13年)12月18日)は、農商務官僚、農林官僚。 茨城県出身。第一高等学校を経て、1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。島根県属試補、島根県理事官、農務局事務官・臨時米穀管理局事務官、農商務書記官・参事官、同副業課長、農務課長、大臣官房会計課長、畜産局長、水産局長、農務局長を歴任した。1937年(昭和12年)、農林次官に就任した。 退官後は日本勧業銀行参与理事、漁業組合連合会会長を務めた。
杉田 直樹(すぎた なおき、1887年9月3日 - 1949… 杉田 直樹(すぎた なおき、1887年9月3日 - 1949年8月29日)は、日本の医学者、精神科医。 1887年、東京府生まれ。第一高等学校に入学し、高校在学時代の友人に谷崎潤一郎がいた。その後東京帝国大学に進学し卒業する。欧米に留学。帰国後に東京帝国大学助教授となり、松沢病院副院長。1931年名古屋医科大学教授、戦後名古屋大学教授となるがほどなく死去した。 妹の息子に小田切秀雄、小田切進がいる。
三村 起一(みむら きいち、1887年8月15日 - 197… 三村 起一(みむら きいち、1887年8月15日 - 1972年1月28日)は、日本の実業家。住友鉱業(現住友金属鉱山)初代社長、石油開発公団初代総裁などを歴任。 東京・銀座尾張町出身。実父の山口慎、養父の三村直ともに旧信濃上田藩士。第一高等学校を経て、1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、同年に大阪の住友総本店に入社する。住友伸銅所勤務を経て、1919年(大正8年)~1921年(大正10年)欧米出張。1931年(昭和6年)住友伸銅鋼管取締役、1932年(昭和7年)住友別子鉱山常務、専務を経て、1941年(昭和16年)住友鉱業(現住友金属鉱山)初代社長兼住友本社理事。この間、住友機械製作(現住友重機械工業)、大日本産業報国会理事などの役員を兼務。
山口 政二(やまぐち まさじ、1887年(明治20年)8月6… 山口 政二(やまぐち まさじ、1887年(明治20年)8月6日 - 1927年(昭和2年)2月23日)は、衆議院議員、弁護士。 埼玉県比企郡小見野村(現在の川島町)に山口喜一郎の二男として生まれる。1910年7月に第一高等学校大学予科を、1914年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。高等文官試験に合格し、同年、朝鮮総督府試補に任ぜられ、翌1915年朝鮮総督府道事務官。その後、陸軍省御用掛、青島守備軍民政部事務官を歴任した後、1921年10月に弁護士登録し、開業した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に埼玉県第3区から立候補し、当選した。無所属であったが、1924年5月30日に中正倶楽部設立に参加し、同年10月23日に立憲政友会に移るも、1925年6月1日には新正倶楽部設立に参加した。
石井 茂吉(いしい もきち、1887年(明治20年)7月21… 石井 茂吉(いしい もきち、1887年(明治20年)7月21日 - 1963年(昭和38年)4月5日)は、写真植字機の共同発明者。写研の設立者で、石井翁とも呼ばれた。東京都北区堀船町出身。 1887年、東京府北豊島郡王子村(現在の東京都北区王子)に生まれる。京北中学で井上円了の薫陶を受ける。第一高等学校を経て東京帝国大学工科大学へ入学し、1912年(明治45年)機械工学科卒業。同年神戸製鋼所に入社し技師として働いていたが、1923年(大正12年)秋、星製薬に高級技師として転職。そこで印刷部主任をしていた森澤信夫(のちにモリサワを創業)と出会い、ともに写真植字機の実現を目指すことを誓う。1924年7月に2人で装置の特許を出願。
吉村 哲三(よしむら てつぞう、1887年(明治20年)3月… 吉村 哲三(よしむら てつぞう、1887年(明治20年)3月10日 - 1967年(昭和42年)3月1日)は、日本の内務官僚、実業家。政友会系官選県知事、鳥取市長、鳥取銀行頭取。 現在の鳥取市立川町出身。第一高等学校を卒業。1911年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。日本銀行に入るが三カ月で退職。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年、内務省に入省し東京府属となる。 以後、鳥取県八頭郡長、宮城県理事官、内務事務官・大臣官房都市計画課勤務、同都市計課長兼鉄道書記官、兼土木局河川課長などを歴任し、1924年、大阪府書記官・内務部長に就任。 1927年11月、青森県知事に就任。
正木 不如丘(まさき ふじょきゅう、1887年2月26日 -… 正木 不如丘(まさき ふじょきゅう、1887年2月26日 - 1962年7月30日)は、日本の作家・医師。本名・俊二(不如丘は俳号または筆名)。医学博士。結核専門の高原サナトリウム富士見高原療養所初代院長として知られる。 長野県上水内郡長野村(現長野市)に旧上田藩士・正木直太郎の次男として生まれる。父は長野県師範学校、埼玉県師範学校 香川県師範学校の各校長を歴任。母は旧岩村田藩士の娘。小学校時代に派遣教員の島木赤彦より俳句の影響を受け、その後文筆にも親しむ。 埼玉県師範学校附属小学校、旧制獨逸学協会中学、第一高等学校を経て、1913年東京帝国大学医学部卒、恩賜の銀時計を賜る。福島市の福島共立病院副院長を経て、1920年パリのパスツール研究所に学ぶ。
長井 亜歴山(ながい あれきさん、1887年〈明治20年〉1… 長井 亜歴山(ながい あれきさん、1887年〈明治20年〉1月19日 - 1966年〈昭和41年〉6月12日)は、日本の外交官、弁護士、弁理士。東京帝国大学法学部卒業。 父はエフェドリンの発見者で日本薬学の父として知られる長井長義。祖父は徳島藩医の長井琳章。 1887年(明治20年)、近代薬学の開祖である長井長義とドイツ人女性のテレーゼ・シューマッハの長男として生まれる。第一高等学校仏法科を経て、東京帝国大学法学部を卒業後、逓信省勤務、久原本店勤務を経て、外交官となり、6ヶ国語に精通した。また勝海舟の孫で、目賀田種太郎の次女・多計代(たけよ)と結婚した。 駐ドイツ日本国大使館付商務官となり、第二次世界大戦のベルリン陥落後はアメリカ軍によりワシントンD.C.に連行された。
豊島 長吉(とよしま ちょうきち、1887年(明治20年)1… 豊島 長吉(とよしま ちょうきち、1887年(明治20年)1月2日 - 1949年(昭和24年))は、日本の内務官僚。官選栃木県知事。 愛媛県大内郡黒羽村(香川県大川郡相生村大字黒羽、引田町を経て現東かがわ市黒羽)で、豊島九平、清の二男として生まれる。第一高等学校を卒業。1913年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し京都府属となる。 以後、長崎県理事官、地方視学官、福井県警察部長、愛媛県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長、神奈川県書記官・警察部長などを歴任。 1931年12月、栃木県知事に就任。阿久津村小作争議事件の解決に尽力。
渋沢 武之助(しぶさわ たけのすけ、1886年〈明治19年〉… 渋沢 武之助(しぶさわ たけのすけ、1886年〈明治19年〉12月26日 - 1946年〈昭和21年〉6月4日)は、日本の実業家。子爵・渋沢栄一の二男。族籍は東京府平民。 渋沢栄一の二男で、渋沢正雄、渋沢秀雄の兄、渋沢篤二の弟、渋沢敬三、渋沢信雄、渋沢智雄の叔父。第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学に学んだが、病を得て半途退学し実業界に入った。 石川島飛行機製作所社長、国産電機相談役、国際産業、十勝開墾、仏国通商、浅野セメント各取締役、日本醋酸製造、大島製鋼、渋沢同族、浅野セメント、東京石川島造船所各監査役、帝国飛行協会理事などをつとめた。 1914年、分家した。趣味は運動。住所は東京市滝野川区西ヶ原町。
金田 鬼一(かねだ きいち、1886年12月10日 - 19… 金田 鬼一(かねだ きいち、1886年12月10日 - 1963年11月1日)は日本のドイツ文学者、翻訳家。 日本にグリム童話を紹介し、NHKラジオドイツ語講座の講師をも担当した。旧姓は山本。 1886年、東京府に生まれる。親は帝室博物館の職員。 京華中学校から第一高等学校を経て、1909年東京帝国大学文学部独文科卒業。 その後ドイツ帝国に留学中、第一次世界大戦勃発のため留学期間を短縮して、1914年10月20日に帰国。 第四高等学校教授の後、学習院高等科教授となり、成蹊高等学校(1939年 - 1942年)などでも講師を務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
宮崎 一(みやざき はじめ、1886年〈明治19年〉11月2… 宮崎 一(みやざき はじめ、1886年〈明治19年〉11月21日 – 1951年〈昭和26年〉10月10日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 埼玉県北足立郡浦和町(現在のさいたま市)に衆議院議員宮崎鏋三郎の長男として生まれる。浦和中学校、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学を卒業した。卒業後は浦和で弁護士事務所を開業した。1919年(大正8年)に埼玉県会議員に当選し、後には議長も務めた。また浦和弁護士会長にも選ばれた。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。4回連続当選を果たした。その間、米内内閣で陸軍参与官に、幣原内閣で陸軍政務次官・第一復員政務次官に就任した。
栖原 豊太郎(すはら とよたろう 1886年9月19日 - … 栖原 豊太郎(すはら とよたろう 1886年9月19日 - 1968年2月25日)日本の航空工学者。 1886年(明治19年)北海道函館市生まれ。東京市赤坂中学校、第一高等学校を経て1910年(明治43年)東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。大学院に進学する傍ら臨時軍用気球研究会に入り、横田成年、田中館愛橘の助手を務めた。1912年(大正元年)陸軍飛行機操縦将校の教官を嘱託、1916年(大正5年)東京帝国大学航空学調査委員、1917年(大正6年)海軍大学校教官、1918年(大正7年)欧州留学、1919年(大正8年)東京帝国大学教授を務める。この後、旅順工科大学教授、九州帝国大学教授。第二次世界大戦後は、1927年(昭和22年)に慶応義塾大学機械工学科教授を務めた。
落合 太郎(おちあい たろう、1886年8月13日 - 19… 落合 太郎(おちあい たろう、1886年8月13日 - 1969年9月24日)は、日本のフランス文学者。位階は正三位。奈良女子大学名誉教授。 1886年、東京神田駿河台で生まれた。1892年、泰明小学校に入学。御田小学校では吉井勇と同級であった。1989年、東京府立第一中学校に入学したが、翌年肺炎を患ったことにより退学。また、翌1899年には母も死去。2年間の療養を経て明治学院普通部に入学し、卒業。1903年に第一高等学校予科第一部に入学。1908年に卒業し、東京帝国大学法科大学に入学したが、休学。新渡戸稲造に勧められ、京都帝国大学法科大学に転学した。1912年、赤塚季と結婚、また家督を相続した。
斎藤 文蔵(さいとう ぶんぞう、1886年(明治19年)7月… 斎藤 文蔵(さいとう ぶんぞう、1886年(明治19年)7月23日 - 1930年(昭和5年)11月6日)は、日本の歴史学者・教育者。 静岡県沼津市出身。第一高等学校を経て、1910年(明治43年)、東京帝国大学文科大学を卒業。維新史料編纂事務局に勤務の後、島津公爵家史料編輯所に勤務した。1922年(大正11年)、山形高等学校教授に就任し、1927年(昭和2年)に東京女子高等師範学校教授・附属高等女学校主事となり、第六臨時教員養成所講師も兼ねた。
山崎 猛(やまざき たけし、1886年(明治19年)6月15… 山崎 猛(やまざき たけし、1886年(明治19年)6月15日 - 1957年(昭和32年)12月27日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議長(第38代)、運輸大臣、衆議院議員などを務めた。 茨城県水戸市出身。長倉松平家家老の家筋である山崎直の四男。11歳で家族と共に上京し、麻布中学、旧制第一高等学校を呼吸器の病気で中退した後、静岡県の代用教員から徳富蘇峰の招きで京城日報の記者に。さらに大連へ移って満洲日報社長を務める。東洋拓殖の副総裁であった、立憲政友会の政治家野田卯太郎の知遇を得、姪婿となるなど政治の基礎を作った。 原内閣で中橋徳五郎文部大臣の秘書官を務めた後、1920年(大正9年)の総選挙で立憲政友会公認で埼玉県第4区から総選挙に立候補し初当選、以後衆院議員を10期務め、廣田内閣では農林政務次官に就任。
山口 尚章(やまぐち なおあき、1886年(明治19年)5月… 山口 尚章(やまぐち なおあき、1886年(明治19年)5月6日 - 1952年(昭和27年)4月2日)は、内務官僚。長崎県大村市長。旧姓・冨永。 長崎県東彼杵郡千綿村瀬戸郷(現東彼杵町瀬戸郷)で、冨永新作の長男として生まれる。1895年(明治28年)3月1日、母の実家、彼杵村坂本郷俵坂の山口家の養子となる。長崎県立長崎中学校を経て、1905年(明治38年)第一高等学校に入学したが病のため退学。その後静養して、1911年(明治44年)早稲田大学政治科を卒業。1913年(大正2年)に高等文官試験に合格した。愛媛県属、西宇和郡長、愛媛県理事官、福島県理事官、佐賀県理事官、岩手県警察部長、鳥取県内務部長、滋賀県内務部長、鹿児島県警察部長、沖縄県内務部長、福井県内務部長、同総務部長を歴任し、1936年(昭和11年)に退官した。
長瀬 貞一(ながせ ていいち、1886年(明治19年)3月1… 長瀬 貞一(ながせ ていいち、1886年(明治19年)3月15日 – 1939年(昭和14年)11月14日)は、農商務官僚、農林官僚。 三重県桑名郡出身。第一高等学校を経て、1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。林務属、山林事務官、熊本大林区署詰、山林書記官、農商務省山林局林産課長、農林書記官、大臣官房文書課長を歴任。1927年(昭和2年)以降、水産局長、山林局長、米穀部長、農務局長を務めた。1936年(昭和11年)、農林次官に就任した。 退官後は飼料配給株式会社社長を務めた。
鵜沢 憲(うざわ けん、1886年(明治19年)3月1日 -… 鵜沢 憲(うざわ けん、1886年(明治19年)3月1日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。官選県知事。 千葉県出身。鵜沢信一の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1912年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し兵庫県警部となる。 以後、兵庫県警視、神戸水上警察署長、兵庫県警察部保安課長、同警務課長、高知県理事官、法制局参事官、朝鮮総督府事務官兼同府参事官、警察講習所教授、拓殖局書記官兼内務事務官、滋賀県書記官・内務部長、京都府書記官・内務部長、兵庫県書記官・内務部長など歴任。 1929年7月5日、岐阜県知事に就任。道路改良工事などに尽力。
関口 鯉吉(せきぐち りきち、1886年1月29日 - 19… 関口 鯉吉(せきぐち りきち、1886年1月29日 - 1951年8月10日)は、日本の天文学者、気象学者、東京帝国大学名誉教授。関口隆吉の四男。新村出(言語学者)は実兄。朝永振一郎の義父。 静岡県出身。旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学理科大学星学科卒業。朝鮮総督府観測所、神戸海洋気象台、中央気象台技師などを経て、1936年東京帝大教授兼東京天文台長。1946年定年退官、1949年まで帝国女子理学専門学校(現在の東邦大学)校長。戦前の一時期、文部省専門学務局長として科学行政に携わり、科学研究費の導入に尽力した。
東 季彦(あずま すえひこ、1886年(明治19年)1月17… 東 季彦(あずま すえひこ、1886年(明治19年)1月17日 - 1979年(昭和54年)7月18日)は、日本の法学者。旧姓乾(いぬい)。商法の権威として知られた。佐佐木信綱門下の歌人でもある。 奈良県十津川村出身。親類東武(衆議院議員、出版事業家)の養子となり、東姓を名乗る。1889年(明治22年)8月、故郷が大水害に遭ったため、同年11月、一家で北海道新十津川村に移住。村の小学校を卒業した後、上京して旧制開成中学に入学。同校を卒業後、旧制第一高等学校から東京帝国大学法学部を卒業し、陸軍経理学校の教授に就任。 1922年(大正11年)、文部省留学生として渡欧し、英・独・仏で民法を研究。1924年(大正13年)に帰国し、九州帝国大学法文学部教授に就任。
藤田 俊三(ふじた としぞう、1886年〈明治19年〉- 没… 藤田 俊三(ふじた としぞう、1886年〈明治19年〉- 没年不詳)は東京帝国大学出身の技術者。釜石製鉄所の所長や岩手木炭製鉄の社長などを歴任した。津田塾大学学長を務めた藤田たきは異母妹。 1886年(明治19年)2月6日、判事補を務める藤田菊江の三男としてその赴任先で生まれる。父・菊江は翌年3月に判検事登用試験に合格し、一家は大阪、四日市、名古屋、那覇など赴任先が変わる度に転居した。俊三は1903年(明治36年)に東京の第一高等学校二部へ入学。同窓生には後に旧経済団体連合会の初代会長を務める石川一郎がいる。1906年7月に卒業すると、他の多くの一高生と同じく東京帝国大学に進学し、1909年(明治42年)に採鉱冶金科を卒業。
清水 収吉(しみず しゅうきち、1885年(明治18年)8月… 清水 収吉(しみず しゅうきち、1885年(明治18年)8月 - 1967年(昭和42年)8月5日)は、明治末期から昭和にかけて活動した日本の官僚、実業家。逓信官僚から実業界に転じて東邦電力副社長や四国配電社長を務めた。岐阜県出身。 清水収吉は、1885年(明治18年)8月、岐阜県の田中清兵衛の次男として生まれた。1906年(明治39年)7月東京の第一高等学校第一部英法科を卒業。次いで1910年(明治43年)7月東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。その後清水やすの養子となり、清水家を相続する。 大学卒業後はただちに逓信省へ入省した。同年の文官高等試験に合格し、翌1911年(明治44年)12月高等官に叙され逓信管理局事務官補に任ぜられる。
岡田(永代) 美知代(おかだ(ながよ) みちよ、1885年(… 岡田(永代) 美知代(おかだ(ながよ) みちよ、1885年(明治18年)4月15日 - 1968年(昭和43年)1月19日)は、明治期から昭和期の小説家、雑誌記者。田山花袋の小説『蒲団』のヒロイン、横山芳子のモデルとして知られる。 広島県甲奴郡上下町(現・府中市上下町)に、備後銀行頭取などを務めた地元の有力者であった岡田胖十郎の長女として生まれる。第一高等学校・明治大学で教鞭を取り、草創期の駿台高等豫備學校講師だった岡田實麿は兄。妹萬寿代は、北海道帝国大学教授や庄原市長を務めた八谷正義に嫁いだ。クリスチャンの家であった。 1898年(明治31年)9月神戸女学院に入学。佐々城信子が同時期に通っており、面識があった。