スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
北村 直人(きたむら なおと、1947年〈昭和22年〉7月7… 北村 直人(きたむら なおと、1947年〈昭和22年〉7月7日 - )は、日本の政治家、獣医師。日本獣医師会顧問、日本獣医師政治連盟委員長、農場管理獣医師協会会長、日本獣医生命科学大学客員教授、酪農学園大学特別講師。 農林水産副大臣(第1次小泉第1次改造内閣)、内閣官房副長官(羽田内閣)、北海道開発政務次官(宮澤改造内閣)、衆議院農林水産委員長、衆議院議員(6期)等を歴任。 元衆議院議員の北村義和は父。 北海道鶴居村生まれ。鶴居村立鶴居小学校、鶴居村立鶴居中学校、釧路第一高等学校(1978年廃校)、酪農学園大学獣医学部獣医学科卒業。獣医師免許を取得している。 1980年から父・北村義和及び小沢辰男(いずれも衆議院議員)の秘書を務める。
石川 誠(いしかわ まこと、1925年12月6日 - 199… 石川 誠(いしかわ まこと、1925年12月6日 - 1992年2月24日)は、日本の内科医。専門は消化器病学、特に消化吸収。医学博士。 東京出身。第一高等学校 (旧制)から、東北大学医学部卒業。1950年、同大医学部内科教室(教授 黒川利雄)に入局。1953-1958年、フルブライト留学生として米国留学。1970年、東北大学医学部助教授。1974年、山形大学医学部教授(内科学第二講座初代教授)。1980年、同大大学病院院長。退官後、寒河江市立病院院長を務めた。1992年2月24日、腹部大動脈瘤破裂のため死去。66歳没。 日本消化器病学会会長、日本胃集団検診学会会長、日本内科学会・日本消化器内視鏡学会・日本消化器集団検診学会・日本臨床栄養学会などの評議員、厚生省特定疾患「消化吸収障害調査研究班」班長などを歴任。
上田 英雄(うえだ ひでお、1910年3月12日 - 199… 上田 英雄(うえだ ひでお、1910年3月12日 - 1993年10月19日)は、日本の内科医、医学博士、東京大学病院長。5代目横綱審議委員会委員長。 1910年東京市浅草区に生まれる。旧制第一高等学校を経て、1934年東京帝国大学医学部卒。1950年東京慈恵医大教授。1958年東京大学教授。1967年同大学病院長。1970年東京女子医大教授。1972年から1984年まで中央鉄道病院院長を務めた。ほかに日本心臓財団名誉会長なども歴任した。1964年ベルツ賞佳作賞受賞。 また、横綱双葉山の主治医でもあり、それが縁で1966年に横綱審議委員となり、1990年から1993年まで委員長を務めた。1993年5月に体調不良を理由に同委員長辞任を申し出て、受理され、10月19日に腎不全のため死去した。
山田 匡蔵(やまだ きょうぞう、あるいは山田耕雲、- こうう… 山田 匡蔵(やまだ きょうぞう、あるいは山田耕雲、- こううん、1907年3月18日 - 1989年9月13日)は、日本の実業家(日本油脂常務、東京顕微鏡院理事長)、禅指導者(三宝教団2代管長・正師家、耕雲軒山田円光禅心)。 1907年3月18日、山田脩(二本松町長・二本松製糸会社副社長)の次男として福島県二本松市に生まれる。 第一高等学校 (旧制)から東京帝国大学法学部に進む。在学中に高等文官行政科試験に合格。1930年に卒業。 千代田生命に入社するも長兄が亡くなり、家業を助けるため、妹の友人で小児科医の山田和江(旧姓:阿部)と結婚後、満州に渡り満州鉱山で人事課長となる。引き揚げ後鎌倉に居住。
早田 晧(はやた ひろし、1903年12月 - 1985年8… 早田 晧(はやた ひろし、1903年12月 - 1985年8月19日)は、ハンセン病患者を治療した日本の医師。医学博士。 1903年12月東京港区に生まれる。私立ハンセン病施設身延深敬園を設立した縁戚にあたる僧侶綱脇龍妙に説得され、ハンセン病医学に進むことを決意した。第一高等学校(現東京大学教養部)を経て、金沢医科大学(旧制)(現金沢大学医学部)卒業。1930年から、福岡の生(いき)の松原にある身延深敬病院分院に勤務しハンセン病の患者の診療にあたる。九州大学で研究し1935年医学博士の学位を得た。論文名は「癩血清化学反応(MHH反応) 」。この反応は指導教授皆見省吾らの研究によるもので、癩、非癩の区別ができるが、操作が極めて煩雑で外に行う人はいなかった。
河石 九二夫(かわいし くにお、1895年(明治28年)1月… 河石 九二夫(かわいし くにお、1895年(明治28年)1月17日 - 1973年(昭和48年)1月28日)は、日本の医師、医学者。 水泳選手で、1932年ロサンゼルスオリンピック銀メダリストの河石達吾は親戚に当たる。 1895年(明治28年)1月17日、現在の広島県江田島市大柿町大原に生まれる。 第一高等学校を経て東京帝国大学医学部に進み、1921年(大正10年)に大学を卒業。その後、愛知医科大学・名古屋医科大学斉藤外科の講師・助教授となる。1938年(昭和13年)には、台北帝国大学教授となり、河石外科教室を創設。1944年から1945年にかけて、医学部付属病院の第4代院長を務めた。 1949年(昭和24年)に日本に帰国し、広島医科大学教授、後に学長となる。
渡辺 甲一(わたなべ こういち、1894年3月2日 - 19… 渡辺 甲一(わたなべ こういち、1894年3月2日 - 1968年11月11日)は、日本の陸軍軍人、医師。最終階級は、陸軍軍医中将。 埼玉県比企郡松山町(現東松山市)出身。旧制埼玉県立熊谷中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学医科大学卒業。1930年、医学博士(東京帝国大学)。 1921年、東京陸軍兵器支援診療所主治医となる。1923年、陸軍三等軍医正。1926年、陸軍一等軍医。1945年、陸軍軍医学校長、陸軍省医務局長となる。第二次世界大戦後、復員局医務部長となり戦後処理にあたる。 復員局を退職後、東京都中野区で開業し地域医療に尽くした。
戸塚 文卿(とづか ぶんけい、1892年〈明治25年〉2月1… 戸塚 文卿(とづか ぶんけい、1892年〈明治25年〉2月11日 - 1939年〈昭和14年〉8月17日)は、日本のカトリック教会 司祭、医師、桜町病院創立者。 東京公教神学校教授。洗礼名はヴィンセンシオ・ア・パウロ。 彼は海軍軍医総監・戸塚環海(とづか かんかい)の長男として神奈川県横須賀に生まれ、佐世保の高等小学校に入学していたが暁星中学校に編入、1909年、第一高等学校在学時にカトリック教会の洗礼を受ける。代父は暁星時代の先輩でのちにカトリック司祭になった岩下壮一。 1912年、東京帝国大学医学大学(現・東京大学医学部)に入学、医学を学び、卒業後、佐藤外科に入局。1921年、北海道帝国大学助教授に任命され、文部省(現・文部科学省)からヨーロッパ留学の命を受ける。
杉田 直樹(すぎた なおき、1887年9月3日 - 1949… 杉田 直樹(すぎた なおき、1887年9月3日 - 1949年8月29日)は、日本の医学者、精神科医。 1887年、東京府生まれ。第一高等学校に入学し、高校在学時代の友人に谷崎潤一郎がいた。その後東京帝国大学に進学し卒業する。欧米に留学。帰国後に東京帝国大学助教授となり、松沢病院副院長。1931年名古屋医科大学教授、戦後名古屋大学教授となるがほどなく死去した。 妹の息子に小田切秀雄、小田切進がいる。
正木 不如丘(まさき ふじょきゅう、1887年2月26日 -… 正木 不如丘(まさき ふじょきゅう、1887年2月26日 - 1962年7月30日)は、日本の作家・医師。本名・俊二(不如丘は俳号または筆名)。医学博士。結核専門の高原サナトリウム富士見高原療養所初代院長として知られる。 長野県上水内郡長野村(現長野市)に旧上田藩士・正木直太郎の次男として生まれる。父は長野県師範学校、埼玉県師範学校 香川県師範学校の各校長を歴任。母は旧岩村田藩士の娘。小学校時代に派遣教員の島木赤彦より俳句の影響を受け、その後文筆にも親しむ。 埼玉県師範学校附属小学校、旧制獨逸学協会中学、第一高等学校を経て、1913年東京帝国大学医学部卒、恩賜の銀時計を賜る。福島市の福島共立病院副院長を経て、1920年パリのパスツール研究所に学ぶ。
中島 琢之(なかじま たくし、1885年(明治18年)3月2… 中島 琢之(なかじま たくし、1885年(明治18年)3月29日 - 1956年(昭和31年)7月14日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、津山市長、医師。 岡山県苫田郡高野村(現在の津山市)出身。1906年(明治39年)、第一高等学校を卒業。1910年(明治43年)に東京帝国大学医科大学を卒業した。東京帝国大学医科大学内科に勤務した後、日本医学専門学校(現在の日本医科大学)教授・附属病院内科部長に就任した。1914年(大正3年)、津山に中島病院を開院。苫田郡医師会長、美作五郡連合医師会長を歴任した。 1929年(昭和4年)、津山市会議員に当選し、議長に選出された。翌年の第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
橋 健行(はし けんこう、1884年〈明治17年〉2月6日 … 橋 健行(はし けんこう、1884年〈明治17年〉2月6日 - 1936年〈昭和11年〉4月18日)は日本の精神科医。医学博士。正五位。作家・三島由紀夫の伯父で、橋倭文重の兄。 1884年(明治17年)2月6日、石川県金沢区(現・金沢市)で、父・橋健三(漢学者)と母・こう(漢学者・橋健堂の三女)の間の長男として誕生。その後、生母・こうの死亡により、1890年(明治23年)から、健三の後妻・トミ(こうの妹で橋健堂の五女)に育てられる。やがて、妹や弟たち(雪子、正男、健雄、行蔵、倭文重、重子)が生まれる。 1901年(明治34年)、開成中学校を卒業。同級生には斎藤茂吉がいた。同年、第一高等学校に進学。
佐藤 清一郎(さとう せいいちろう、1883年(明治16年)… 佐藤 清一郎(さとう せいいちろう、1883年(明治16年)1月10日 - 1965年(昭和40年)5月17日)は、日本の外科医。東京医学専門学校教授、順天堂医学専門学校教授を歴任し、日本外科学会会長。東京府日本橋区出身。 1883年(明治16年)1月、日本橋区の樋口家に生まれる。 1905年(明治38年)7月、第一高等学校を卒業し、京都帝国大学福岡医科大学に進学して、順天堂副医院長で順天堂医院第2代医院長佐藤進の養子である佐藤恒久の養子になる。1907年(明治40年)義父恒久が死去する。1909年(明治42年)12月、福岡医科大学を卒業し、卒業後は福岡医科大学外科(三宅速教授)に入局。1912年(大正元年)よりドイツ・イギリス・ベルギー・オランダに留学しゲッティンゲン大学やベルリン大学で病理学・肺外科の研究に従事し、第一次世界大戦勃発により1914年(大正3年)帰国した。
川村 麟也(かわむら りんや、1879年〈明治12年〉9月1… 川村 麟也(かわむら りんや、1879年〈明治12年〉9月11日 - 1947年〈昭和22年〉10月31日)は、日本の医師、病理学者。著名なツツガムシ病の研究の他、日本住血吸虫症の研究や脂肪染色法など一般病理学面での業績も残している 。 東京大学医科学研究所名誉教授の川村明義は三男。 1879年(明治12年)川村将徳の四男として山梨県北巨摩郡志田村(現・甲斐市)に生まれる。 中学校卒業後東京の独逸語学校にてドイツ語を学んだ後、第一高等学校を経て東京帝国大学医科大学に入り病理学教室の山極勝三郎に師事。1906年同大を卒業しすぐに病理学教室に入る。 1908年(明治41年)に奨学金を受けてイギリスとドイツに渡り、特にベルリンのヨハネス・オルト (Johannes Orth) とフライブルクのルードヴィッヒ・アショフ (Ludwig Aschoff) に師事した。
中條 資俊(ちゅうじょう すけとし、なかじょう すけとし、明… 中條 資俊(ちゅうじょう すけとし、なかじょう すけとし、明治5年11月7日(1872年12月7日) - 昭和22年(1947年)3月1日)は、日本の医師・ハンセン病研究者。医学博士。北部保養院(国立療養所松丘保養園)院長、園長。 1872年11月7日 山形県南置賜郡塩井村(現・米沢市)に生まれる。幼名竹田留吉。1897年 第一高等学校医学部に入学。数え年26歳。1900年 中條家に養子となり、長女ハルと結婚。1901年 千葉医学専門学校卒業。1902年 医術開業免状下付。県立千葉病院医員。1903年 慰廃園嘱託医。1904年 伝染病研究所助手。1909年4月1日 青森県より北部保養院医長同月25日に院長を命じられる。