藤原 和人(ふじわら かずひと 1938年(昭和13年)1月… 藤原 和人(ふじわら かずひと 1938年(昭和13年)1月8日 - 2009年(平成21年)10月12日 )は、日本の大蔵官僚、銀行家。十八銀行頭取、国土事務次官(旧・国土庁)。
1938年(昭和13年)生まれ:1,070人
藤原 和人(ふじわら かずひと 1938年(昭和13年)1月… 藤原 和人(ふじわら かずひと 1938年(昭和13年)1月8日 - 2009年(平成21年)10月12日 )は、日本の大蔵官僚、銀行家。十八銀行頭取、国土事務次官(旧・国土庁)。
木南 隆彦(きなみ たかひこ、1938年1月8日 - 202… 木南 隆彦(きなみ たかひこ、1938年1月8日 - 2021年1月3日)は、日本の経営者。安田信託銀行社長を務めた。兵庫県出身。 1961年に東京大学法学部を卒業し、同年に安田信託銀行に入行。1988年6月に取締役に就任し、1991年5月に常務、1994年5月に専務、1995年5月に副社長を経て、1998年4月には社長に就任。2000年4月に会長に就任し、同年10月に取締役相談役を経て、2001年6月から相談役を務めた。 1月3日誤嚥性肺炎のために死去。82歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
中西 宏幸(なかにし ひろゆき、1938年1月8日 - 20… 中西 宏幸(なかにし ひろゆき、1938年1月8日 - 2021年7月5日)は、日本の技術者、実業家、工学博士。三井化学代表取締役会長兼社長や、日本化学会会長などを務めた。 山口県出身。1957年静岡県立静岡高等学校卒業。1961年東北大学工学部卒業。1966年東北大学大学院工学研究科博士課程修了、工学博士。同年 三井石油化学工業(現三井化学)入社。本店経営計画室企画調整部長を経て、1991年取締役岩国大竹工場長に昇格。1993年常務取締役本店経営計画室長。1996年専務取締役本店経営計画室長。1997年代表取締役副社長。 1999年から三井化学代表取締役社長を務め、住友化学との経営統合交渉にあたるなどした。
山田 辰雄(やまだ たつお、1938年1月7日 - )は、日… 山田 辰雄(やまだ たつお、1938年1月7日 - )は、日本の政治学者。慶應義塾大学名誉教授。専攻は中国近代政治史。 中華民国政治史研究、日中関係史研究の第一人者として知られる。石川忠雄の門下生で、学部2年時に法律学科から政治学科に転科、3年時に石川ゼミに入った。石川門下の大半が中国共産党を研究する中、孫文や中国国民党に興味を持ち、国民党史の研究を始めた。中国共産党を中心とした中国現代史観に異論を唱え、政治勢力の相互関係を見ていく、それぞれの政策や路線を相対化して見ていくとする「中華民国史観」(民国史観)を提起した。この観点から国民党左派を研究し、『中国国民党左派の研究』(慶應通信、1980年)を刊行した。
松久 直史(まつひさ なおし、1938年1月7日 - 202… 松久 直史(まつひさ なおし、1938年1月7日 - 2021年4月4日)は、日本の実業家。日本甜菜製糖株式会社元代表取締役会長・元代表取締役社長。 1938年1月7日生まれ。1960年3月、立教大学卒業。同年4月、日本甜菜製糖株式会社入社。 1993年6月に総務部長に着任し、1994年6月、取締役に就任。人事部長・秘書室長を兼務。 1998年6月、常務取締役に就任し、総務・人事・秘書を管掌する。2000年6月、経理を兼掌。 2001年6月、代表取締役社長就任。2006年6月には、代表取締役会長に就任。 社長在任時の2004年3月には、千葉市美浜区に物流センターを竣工し、同年8月、本社を中央区京橋から港区三田へ移転。
松本 好雄(まつもと よしお、1938年(昭和13年)1月6… 松本 好雄(まつもと よしお、1938年(昭和13年)1月6日 - 2025年(令和7年)8月29日)は、日本の実業家、馬主。 兵庫県明石市に本社を置く船舶用部品メーカー・株式会社きしろの代表取締役会長を務めたほか、「メイショウ」の冠名を用いる馬主として多くの競走馬を所有したことでも知られていた。 1938年(昭和13年)1月6日、兵庫県明石市出身。きしろ発動機株式会社(当時)の社長であった松本金次の長男として生まれる。父の経営する工場に出入りするなどして理系を志し、千葉工業大学工業経営学科に進学。6年かけて同大学を卒業、卒業研究のテーマは「自動車部品プレス加工工程の短縮」であった。1962年(昭和37年)にきしろ発動機入社、その後取締役専務を経て、1972年(昭和47年)、父の急逝に伴い社長に就任した。
馬淵 かの子(まぶち かのこ、旧名:津谷 鹿乃子〈つたに か… 馬淵 かの子(まぶち かのこ、旧名:津谷 鹿乃子〈つたに かのこ〉、1938年〈昭和13年〉1月6日 - 2025年〈令和7年〉1月4日)は、日本の元飛込競技選手。現役時代は倉敷レーヨンに所属した。 松蔭女学校入学と同時に飛込競技を始め、1954年、16歳で日本代表としてアジア大会に初出場。1954年から1974年までのアジア大会にて3m飛板飛込と10m高飛込で計5個のメダルを獲得した。夫である馬淵良とともに1956年メルボルン、1960年ローマ、1964年東京オリンピックで7位から16位に入る。産後、一度は引退するも現役復帰を果たしている。娘の馬淵よしのもオリンピックに出場した飛込競技選手。 二度目の現役引退後は夫・良と共にJSS宝塚スイミングスクール(日本国内初の飛込競技専用屋内プール)を立ち上げ、実娘の馬淵よしの、寺内健、玉井陸斗など数多くの選手を指導、80歳を超えるまで現役指導者であった。
村上 隆太(むらかみ りゅうた、1938年1月6日 - 20… 村上 隆太(むらかみ りゅうた、1938年1月6日 - 2026年3月2日)は、中世英語方言学・社会言語学・英語教育を専門とする学者。西南学院大学教授、前学長。福岡県福岡市に生まれる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
見谷 昌禧(みたに まさよし、1938年1月5日 - )は、… 見谷 昌禧(みたに まさよし、1938年1月5日 - )は、日本の元アルペンスキー選手、スキー指導者、スキージャーナリスト、スキー技術研究家。 見谷スキースクール会長。国際スキージャーナリスト協会(AIJS)会員。 戦後北海道小樽市に移る。小樽潮陵高時代、全国高等学校スキー大会の大回転で優勝する。 卒業後、早稲田大学に進み、1959年の第37回全日本スキー選手権大会アルペンスキー競技では、回転で猪谷千春に次いで2位となり、翌1960年のスコーバレーオリンピッの代表に選出される。同オリンピックでは、アルペンスキーの滑降で53位、大回転で33位となったが、回転では失格した。 1962年には、フランス・シャモニーで開催された世界選手権と、スイス・ヴィラールで開催されたユニバーシアードに出場し、世界選手権では回転で21位、大回転で28位、ユニバーシアードでは回転で3位に入賞した。
大田 朱美(おおた あけみ、1938年1月5日 - )は、日… 大田 朱美(おおた あけみ、1938年1月5日 - )は、日本の元アニメーター。本名は宮﨑 朱美(みやざき あけみ)。公益財団法人トトロのふるさと基金評議員。結婚後に出版された書籍などでは宮崎 朱美(みやざき あけみ)名義を用いることもある。 財団法人トトロのふるさと財団の理事などを歴任した。 夫はアニメ映画監督の宮崎駿、長男に同じくアニメ映画監督になった宮﨑吾朗、次男に版画家の宮﨑敬介がいる。 父は版画家の大田耕士で、師匠の恩地孝四郎や平塚運一と共に「日本教育版画協会」を創立している。また、姉の園叡(園サトル、大田サトル)は女性アニメーターの草分けとして、持永只仁の人形映画製作所やスタジオ・ノーヴァなどで人形アニメーション作品を手がけた。
本林 徹(もとばやし とおる、1938年1月5日 - )は、… 本林 徹(もとばやし とおる、1938年1月5日 - )は、日本の弁護士。日本弁護士連合会元会長。現在、松田綜合法律事務所の顧問である。森綜合法律事務所(森・濱田松本法律事務所の前身事務所)の創設メンバー。 森綜合法律事務所時代の特徴の1つとして、「弁護士一人ひとりの個性や自由を大切にし、楽しく仕事をすることをモットーにしました」という点を挙げている。「雰囲気が楽しいと、仕事がきつくても精神的ストレスが意外とありません。例えば、裁判に勝ったとか、大きな案件が落着したときは、担当弁護士が事務所の全員にケーキをおごることが慣例でした」 得意分野は、企業法務全般、国内・国際商取引および各種紛争解決。本林弁護士が、米国ハーバード・ロースクールに留学して得たことは、アメリカでは市民が裁判を起こしやすいこと、事件に関連のある証拠を、裁判所が強制的に命令して出させる制度があることであった。
都築 章一郎(つづき しょういちろう、1938年 1月5日 … 都築 章一郎(つづき しょういちろう、1938年 1月5日 - )は、日本の男性フィギュアスケート選手。現在はフィギュアスケートコーチ。愛知県名古屋市出身。日本大学卒業。娘は元アイスダンス選手の都築奈加子。 1958-1959年シーズンの全日本ジュニア選手権で初の表彰台となる3位、翌1959-1960年シーズンの全日本ジュニア選手権で優勝を果たした。1963年の大学を卒業とともに引退し、のちに指導者の道へ進んだ。 指導者に転進後は、1964年に稲田悦子や片山敏一らとともに日本フィギュアスケーティングインストラクター協会を設立した。日本オリンピック委員会指定コーチやプリンスホテルの専任コーチとなり、大学の後輩でもある佐野稔や五十嵐文男、渡辺しのぶ、岡部由紀子、娘の都築奈加子、在日朝鮮人である金妙実、川崎由紀子&アレクセイ・ティホノフペアらを指導した。
坂崎 一彦(さかざき かずひこ、1938年1月5日 - 20… 坂崎 一彦(さかざき かずひこ、1938年1月5日 - 2014年1月28日)は、大阪府豊中市出身のプロ野球選手(外野手)。 1953年浪華商業高校(現・大阪体育大学浪商高等学校)に入学。投手から野手に転向し、2年生の1954年に右翼手として春の選抜に出場する。2回戦でこの大会に優勝した飯田長姫高のエース光沢毅に抑えられ敗退。翌1955年の春の選抜では「4番打者・中堅手」として出場。チームは順調に勝ち上がり、決勝戦で桐生高校と対戦。桐生高校監督の稲川東一郎は坂崎に対して勝負を避ける選択を取る。坂崎は2打席敬遠されたが、第3打席に桐生高エースの今泉喜一郎は勝負し、その打席で2点本塁打を放つ。結局、浪華商は延長11回にサヨナラ勝ちして、18年ぶり2回目の優勝を飾った。
福永 耕二(ふくなが こうじ、1938年1月4日 - 198… 福永 耕二(ふくなが こうじ、1938年1月4日 - 1980年12月4日)は、日本の俳人。鹿児島県出身。 川辺町生まれ。ラ・サール高等学校在学中より「馬酔木」に投句。1956年、鹿児島大学入学、俳誌「ざぼん」に参加、編集を手がける。1960年、同大学文理学部国文科を卒業、純心女子高等学校に教師として奉職。1965年、能村登四郎の推薦により上京、登四郎の勤める千葉県の私立市川高等学校に勤務する。1969年、「馬酔木」同人。1970年、登四郎の「沖」創刊に参加。同年「馬酔木」編集長。1972年、馬酔木賞、沖賞受賞。代表句に「新宿ははるかなる墓碑鳥渡る」などがあり、青春性、叙情性を湛えた句風であった。
西城 慶子(さいじょう けいこ、1938年1月3日 - )は… 西城 慶子(さいじょう けいこ、1938年1月3日 - )は、日本の歌手。茨城県下妻市生まれ筑西市育ち。東京声専音楽学校を卒業し、歌手となる。ジャンルはジャズ・歌謡曲。8トラックやEP、LPレコードを多数発売している。 1938年(昭和13年)1月3日茨城県下妻市に生まれる。下館第二高等学校時代は徒手選手で「大学にはいって体操の選手になるつもり」だったが、家族の希望で文化服装学院に入学。たまたま当時流行のロカビリーを聴いて、舞台に立ちたくなり、東京声専音楽学院に移った。 1958年(昭和32年) 20歳の時、在学中より歌手活動スタートする。 1961年(昭和36年) 赤坂にあったクラブ「ニュー・ラテン・クォーター」専属歌手となる。
飯島 伸子(いいじま のぶこ、1938年1月3日 - 200… 飯島 伸子(いいじま のぶこ、1938年1月3日 - 2001年11月3日)は、日本の社会学者。環境社会学の研究で有名。環境社会学会初代会長。旧姓、工藤。東京大学医学部保健学科保健社会学講座助手、桃山学院大学教授、東京都立大学教授、富士常葉大学教授を歴任。日本の環境社会学のパイオニアであり、水俣病の研究でも有名である。 従兄弟に経済思想史研究者の後藤文利、哲学者・社会学者で思想の科学研究会会長代行を務めた後藤宏行がいる。 1938年1月3日、城津市にて出生。1956年3月、大分県立竹田高校卒業。1960年3月、九州大学文学部哲学科卒業。同年4月、日本パーカライジング株式会社入社。 1966年4月、東京大学大学院社会学研究科修士課程入学。
野田 知佑(のだ ともすけ、1938年1月2日 - 2022… 野田 知佑(のだ ともすけ、1938年1月2日 - 2022年3月27日)は、日本のカヌーイスト、作家。カヌーイストの第一人者として知られる。 熊本県玉名郡江田村(※のちの菊水町→現在の和水町)出身。福岡県立八幡高等学校,早稲田大学第一文学部英文学科卒業。日本のリバーカヤックツーリングの先駆者で、日本を始めヨーロッパ、北アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドなど世界各地の川をカヌーで旅する。雑誌の記者を経て作家となり、川・カヌー・環境問題に関する著書を多数発表。長良川や吉野川河口堰反対運動にも参加している。1982年に『日本の川を旅する』で第9回日本ノンフィクション賞・新人賞を受賞、1998年に毎日スポーツ人賞文化賞を受賞。
保坂 武孝(ほさか たけのり、1938年1月2日 - )は、… 保坂 武孝(ほさか たけのり、1938年1月2日 - )は、日本の経営者。福岡放送社長を務めた。 山梨県出身。1961年に東京大学法学部を卒業し、日本テレビ放送網に入社。1996年6月には福岡放送常務に就任。1997年9月には社長に昇格。1999年6月に取締役相談役に就任。
旭丘 光志(あさおか こうじ、1938年1月2日 - )は、… 旭丘 光志(あさおか こうじ、1938年1月2日 - )は、樺太豊原市出身の作家、ジャーナリスト。学校を卒業後、広告デザイナーとしてスタートし1959年に漫画家デビュー。社会派劇画の先駆けとなる作品群を残した。その後シナリオライターを経て1977年より小説、評論、ノンフィクションを執筆。2010年代まで医療・健康に関するルポルタージュ本を書き続けた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。 この項目は、漫画家・漫画原作者に関連した書きかけの項目です。
楠部 三吉郎(くすべ さんきちろう、1938年1月1日 - … 楠部 三吉郎(くすべ さんきちろう、1938年1月1日 - 2020年3月20日)は、日本のアニメーションプロデューサー。シンエイ動画株式会社名誉会長・元代表取締役社長。旧・満洲国生まれ、群馬県沼田市出身。楠部大吉郎(Aプロダクション・シンエイ動画創業者、前代表取締役会長)は実兄、ライターの楠部工は甥、イラストレーターの楠部文は姪に当たる。 俳人だった父(楠部南崖)を関東軍将校が「取り巻き」の一人として旧満洲国に連れて行ったことから、自身も満洲で生まれ育つ。終戦とともに引き上げ、群馬県沼田市に居住した。群馬県立沼田高等学校から明治学院大学経済学部卒。楠部自身の記述では高校卒業後、酒問屋で1年半勤めてから受験して明治学院大に進んだものの、授業には全く出席せず、保持していた運転免許を生かしたアルバイトに明け暮れていたという。
井上 秀一(いのうえ ひでかず、1938年1月1日 - 20… 井上 秀一(いのうえ ひでかず、1938年1月1日 - 2021年12月27日)は、日本の実業家。 東京都出身。東京都立戸山高等学校を経て、1961年に東京大学法学部を卒業し、日本電信電話公社に入社。日本電信電話でグループ事業推進本部副本部長や東海支社長などを歴任し、1991年6月に取締役に就任し、1995年6月に常務、1996年6月に副社長を経て、1999年7月に統合再編により発足した東日本電信電話の社長を2002年6月までに務めた。 2003年4月に日本郵政公社非常勤監事に就任し、2007年10月に郵便局社外取締役に就任した。 2015年旭日重光章受章。 2021年12月27日、急性骨髄性白血病のために死去。
黒田 恭一(くろだ きょういち、1938年1月1日 - 20… 黒田 恭一(くろだ きょういち、1938年1月1日 - 2009年5月29日)は、日本の音楽評論家。 1938年、東京市神田区(現在の東京都千代田区)生まれ。東京都立西高等学校、早稲田大学教育学部卒業。 在学中からクラシック音楽評を雑誌などに書き、以後、音楽評論一筋を歩んだ。新聞、雑誌への執筆が多くあり、特にコンサートやオペラ、レコードなどの評論で活躍した。 かつては隔月刊誌「暮しの手帖」の花森安治に依頼され、同誌の『レコード・ショップ』というコーナーを担当していた時期もあった。 1984年にステレオサウンド社から創刊された『音楽通信』では編集長を務めたが、半年で休刊に追い込まれた。 1999年には東京の東急Bunkamuraオーチャードホールのプロデューサーに就任。
今泉 幸雄(いまいずみ ゆきお、1938年1月1日 - 20… 今泉 幸雄(いまいずみ ゆきお、1938年1月1日 - 2009年1月26日)は、昭和期の日本のプロ野球選手。ポジションは捕手、内野手。背番号44。日本大学鶴ヶ丘高等学校、日本大学卒業。 埼玉県入間郡鶴ヶ島町(現在の同県鶴ヶ島市)出身日本大学鶴ヶ丘高等学校→高橋ユニオンズ・トンボユニオンズ・高橋ユニオンズ→日本大学 高校在学中に高橋ユニオンズの入団テストを受け合格。高校に通学しながらプロ野球選手として活躍する異色の経歴を持つ。現役時代は日本初の300勝投手・スタルヒン投手ともバッテリーを組むが、高校卒業と同時に高橋ユニオンズの球団合併に伴い引退し、日本大学に進学。プロ経験者のため大学リーグではプレーできなかったが、高木時夫(中日)、宮田征典(巨人)らとともに野球部で大学生活を送った。
加藤 千麿(かとう かずまろ、1938年(昭和13年)1月1… 加藤 千麿(かとう かずまろ、1938年(昭和13年)1月1日- 2023年(令和5年) 2月25日)は、日本の実業家。元名古屋銀行取締役会長。関東州大連市生まれの引揚者。長女はフリーアナウンサーの加藤千佳。名古屋銀行頭取の藤原一朗は娘婿(次女の夫)。 関東州大連市で加藤廣治の子として出生して同地で9歳まで過ごし、1945年の敗戦で引揚者として日本に入国した。 愛知県立旭丘高等学校を経て、1963年に慶應義塾大学法学部卒業後、東海銀行入行。1968年に父が創業した名古屋相互銀行入行。1974年に取締役となり、1975年に代表取締役常務就任、以後43年間にわたり代表取締役を務めた。 1982年に名古屋相互銀行社長就任、1989年に名古屋相互銀行の普通銀行への転換により、名古屋銀行頭取就任。
中村 晃毅(なかむら こうき、1938年(昭和13年)1月1… 中村 晃毅(なかむら こうき、1938年(昭和13年)1月1日 - 2012年(平成24年)4月7日)は、日本の政治家。愛知県西尾市長(1期)、愛知県議会議員(3期)、西尾市議会議員(2期)などを歴任した。2009年(平成21年)に受託収賄容疑で逮捕され、市議会の不信任決議により失職した。 愛知県幡豆郡平坂町(現・西尾市)に生まれる。平坂町立平坂中学校(現・西尾市立平坂中学校)卒業。愛知県立西尾高等学校卒業後、父親から農業と瓦製造業を引き継ぐ。その傍ら青年団活動に没頭。西尾市青年団協議会長にもなった。 1975年(昭和50年)1月、父親の後継者として西尾市議会議員選挙に出馬し初当選。1979年(昭和54年)4月、愛知県議会議員選挙に西尾市選挙区(定数1)から無所属で出馬し初当選した。
白井 博文(しらい ひろふみ、1938年1月1日 - )は、… 白井 博文(しらい ひろふみ、1938年1月1日 - )は、日本の政治家、裁判官、弁護士。元山口県山陽小野田市長(3期)。 山口県山陽小野田市出身。九州大学法学部卒業。 1968年から2002年12月まで裁判官を務めた。2003年1月、法律事務所を開設。2005年3月まで旧小野田市顧問弁護士を務めた。
石原 典子(いしはら のりこ、1938年〈昭和13年〉1月1… 石原 典子(いしはら のりこ、1938年〈昭和13年〉1月1日 - 2022年〈令和4年〉3月8日)は、日本のエッセイスト。夫は小説家で東京都知事、運輸大臣、環境庁長官、衆議院議員などを務めた石原慎太郎。旧名は石田 由美子。結婚後も戸籍上の本名は由美子のままであり、典子は通称である。 1938年、落下傘の紐などを製造する紡績会社・東洋麻糸紡績に勤めていた父・石田光治が同社の彦根工場に赴任し、召集令状を受け中国戦線に出征した後、母方の実家のある広島県広島市己斐町(現在の同市西区己斐)で生まれた。父親は典子と会うことなく33歳で戦死した。 その後神奈川県に転居し、鎌倉、金沢八景、逗子で育つ。 関東学院六浦高校の3年生だった1955年12月、小学生の時からの知り合いだった[要出典]小説家の石原慎太郎と17歳のときに結婚する。
國井 利泰(くにい としやす、1938年1月1日 - 20… 國井 利泰(くにい としやす、1938年1月1日 - 2020年11月3日)は、日本の情報科学者、理学博士。東京大学名誉教授。会津大学名誉教授。 東京都出身。1962年、東京大学理学部化学科を卒業した。1967年、東京大学より理学博士号を取得。1978年、東京大学情報科学科教授に就任する。1993年、会津大学の初代学長となる。 1991年、ビジュアルコンピューティングへの功績により米国電気電子学会(IEEE)よりフェローに叙される。1998年、同じくIEEEよりコンピュータ教育への貢献を評価されTaylor L. Booth Education賞を受賞。 2013年、瑞宝中綬章を受章。 功績としてReeb graph(英語版) の提唱、および、コンピュータグラフィックスへの応用がある。
蕭 泰然(シャオ・タイラン/しょう たいぜん、Hsiao T… 蕭 泰然(シャオ・タイラン/しょう たいぜん、Hsiao Tyzen, 1938年1月1日 - 2015年2月24日)は、台湾の作曲家。 高雄県鳳山市出身。祖父は長老派教会の宣教師で、父は日本で学んだ歯科医師で長老。母は日本でピアノを学んだ経験があったので、彼は幼いころから西洋音楽に親しんだ。父は歯科医師の道を進むことを望んだが、彼の才能を惜しんだ中学校長の説得で音楽の道を進むことになった。 1959年、台湾省立師範大学(現在の国立台湾師範大学)に入学し、ピアノを専攻するとともに、許常恵から作曲を学んだ。1963年に卒業後、高雄中学の音楽教師となった。 1965年、武蔵野音楽大学に留学し、中根伸也にピアノを学ぶとともに、藤本秀夫から個人的に作曲を学んだ。
椋尾 篁(むくお たかむら、1938年1月1日 - 1992… 椋尾 篁(むくお たかむら、1938年1月1日 - 1992年6月9日)は、長崎県佐世保市出身のアニメーション美術監督。武蔵野美術学校洋画科卒。元ムクオスタジオ主宰。“光と影と質感の詩人”の異名を持つ。 生家は代々平戸藩お抱えの焼物店だったが、本人曰く、自身が生まれた1938年頃に閉店したとのこと。高校卒業後は大阪に出て凸版印刷に就職するが、だんだん仕事に違和感を感じてきたということで2年ほどで退職。思い返せば子供の頃から絵を描くことが好きだったことから、やはり将来は絵をやっていこうと思い立って武蔵野美術学校に進学。しかし美術学校を出てもすぐに仕事は見つからず、同じ武蔵野美術学校の1年先輩でもある半藤克美に相談したところ「自分の所で仕事しないか」と誘われて虫プロダクションで仕事を始める。
上田 正治(うえだ しょうじ、1938年〈昭和13年〉1月1… 上田 正治(うえだ しょうじ、1938年〈昭和13年〉1月1日 - 2025年〈令和7年〉1月16日)は、日本映画の撮影監督。千葉県船橋市出身。 1956年に東宝撮影所の撮影助手として入社。1985年に黒澤明監督の映画、乱で撮影を担当。アカデミー撮影賞にノミネートされる。 2025年1月16日、急性心筋梗塞のため横浜市の病院で死去。87歳没。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
福井 仁士(ふくい まさし、1938年1月 - 2007年1… 福井 仁士(ふくい まさし、1938年1月 - 2007年12月7日)は、日本の脳神経外科学者。九州大学名誉教授。
中村 曻(なかむら のぼる、1938年-2023年 )は、北… 中村 曻(なかむら のぼる、1938年-2023年 )は、北海道出身の家具デザイナーである。 1938年、北海道恵庭市に生まれる。北海道札幌工業高等学校卒業。1956年、旭川市の上川木工商品開発デザイン課に入社する。1969年に渡欧し、スウェーデンのカール・マルムステン木工技術学校に入学。さらに翌年、Konstfackskolanスウェーデン王立美術工芸大学の家具インテリア科のスペシャルスチューデントとなる。1973年、Gip & Quvist設計事務所に勤務後、イケア社の開発部デザイン課に入社。日本人で初めてイケア社の専属デザイナーとなった。1978年に帰国してFurniture Design Nackaを設立。
松岡 義和(まつおか よしかず、1938年 – )は、日本の… 松岡 義和(まつおか よしかず、1938年 – )は、日本の劇作家。画家。教育者。市立名寄短期大学元学長。北海道常呂郡訓子府町出身。 1956年北海道北見柏陽高等学校卒業。1960年日本大学芸術学部卒業。同年、小清水町立中学校美術教諭。その後、紋別市立潮見中学校美術教諭、北見市立富里中学校美術教諭などを経て、1994年市立名寄短期大学生活科学科教授。1996年市立名寄短期大学学生部長。2002年市立名寄短期大学学長に就任。2006年市立名寄短期大学退官。同名誉教授。現在、大空町図書館長。芸術教育の会会長。北海道手作り絵本の会会長。
大森 英樹(おおもり ひでき、1938年 - )は、日本の数… 大森 英樹(おおもり ひでき、1938年 - )は、日本の数学者、東京理科大学名誉教授。
斎藤 公男(さいとう まさお、1938年 - )は、日本の構… 斎藤 公男(さいとう まさお、1938年 - )は、日本の構造エンジニア(構造家)。日本大学名誉教授、日本建築学会元会長。現在、A-Forum代表、日本建築文化保存協会理事。 群馬県立前橋高等学校卒業。日本大学在学時に坪井善勝の元で学び、バックミンスター・フラーに魅了される。空間構造や構造デザインに対する強い関心を育み、その後の大学における「教育・研究・設計」の融合を図ることへのテーマとつなげる。卒業後は、日本大学理工学部建築学科で教鞭をとりながら、空間構造デザイナーとして数多くの作品を生み出してきた構造設計者の一人である。特に、張弦梁構造の設計の第一人者として知られる。 全日本弓道連盟会長であった父の斎藤友治が日本弓をひく姿から「美と強」の調和的世界に感銘を受け、張弦梁構造の設計・デザインにつながったと語る。
野中 成夫(のなか しげお、1938年(昭和13年) - )… 野中 成夫(のなか しげお、1938年(昭和13年) - )は、日本の独文学者。信州大学名誉教授。専門は近代ドイツ文学。 1956年、群馬県立沼田高等学校卒業。 1966年、早稲田大学大学院博士課程を修了。のち、信州大学教授を務めた。 2016年、秋の叙勲で瑞宝中綬章を受章した。
根本 實(ねもと みのる、1938年 - ) は、日本の材料… 根本 實(ねもと みのる、1938年 - ) は、日本の材料工学者。工学博士(東北大学・1966年)。九州大学名誉教授。元佐世保工業高等専門学校校長。元久留米工業大学学長。元日本金属学会副会長。元日本鉄鋼協会副会長。瑞宝中綬章受章。 東京生まれ。千葉県立佐原高等学校を経て、1960年東北大学工学部金属工学科卒業。1965年東北大学大学院工学研究科金属工学専攻博士課程単位取得退学。1966年東北大学より工学博士の学位を取得。1969年東北大学工学部助教授。1982年九州大学工学部教授。1992年日本金属学会副会長、軽金属学会理事。1994年日本鉄鋼協会副会長。1999年佐世保工業高等専門学校校長。
野中 ユリ(のなか ゆり、1938年 - )は日本の美術家。… 野中 ユリ(のなか ゆり、1938年 - )は日本の美術家。銅版画、平版、印刷版画、デカルコマニー、コラージュ、パステル、油彩、タブロー・コラージュ、オブジェ、装丁、挿画の分野で活動。 画家の野中曜子の娘として東京府に生まれる。東京都立駒場高等学校卒業。1953年頃から銅版画を始め、関野凖一郎や駒井哲郎や瀧口修造に師事。それ以来、正規の美術学校には入らず、独学で研鑽を積む。1957年、瀧口の推薦で瀧口企画のグループ展「銅版画展」(タケミヤ画廊)に出品。同年「第1回東京国際版画ビエンナーレ展」(東京国立近代美術館)にも出品。1959年の第1回個展で澁澤龍彦の知遇を得る。
川上 隆朗(かわかみ たかお、1938年 - )は日本の外交… 川上 隆朗(かわかみ たかお、1938年 - )は日本の外交官。 神奈川県生まれ。1961年に東京大学法学部卒業後、外務省に入省する。フランス、イタリア、英国、ザイール(現コンゴ民主共和国)、国連代表部、OECD代表部などでの海外勤務を経て、経済協力局政策課長、審議官を務める。その後、1988年にソ連特命全権公使となる。そして、1990年に経済協力局長を務めた。1994年に駐パキスタン大使となる。1997年には駐インドネシア大使として赴任する。2001年に国際協力事業団総裁(~2003年)、後に外務省参与、国際協力機構顧問、2007年に国際開発高等教育機構理事長を歴任した。2013年、秋の叙勲で瑞宝重光章を受章した。
佐藤 健一(さとう けんいち、1938年 - )は、日本の数… 佐藤 健一(さとう けんいち、1938年 - )は、日本の数学史研究者。数学教師をしながら近世寺子屋の数学教育を研究。明治大学付属中野八王子高等学校教頭。東京理科大学非常勤講師、日本数学史学会会長、和算研究所理事長、NPO法人和算を普及する会代表。 1938年、満洲国新京市(現・中華人民共和国長春市)に生まれる。1944年秋に朝鮮の釜山から引き揚げ、東京都立川市に移住。1945年、東京都立曙国民学校(現・立川市立第二小学校)に入学するが空襲警報が鳴り止まないため入学式の翌日から一日も学校へ行くことが出来ず、5月から父の実家がある山形県東置賜郡高畠町に疎開。高畠町立屋代小学校に入学。戦後、父は軍人であったことから公職追放され宮城県刈田郡七ヶ宿村で開墾団を結成して働く。
渡辺 圭(わたなべ けい、女性、1938年〈昭和13年〉 -… 渡辺 圭(わたなべ けい、女性、1938年〈昭和13年〉 - )は、日本のジャーナリスト。神奈川県生まれ。1956年慶應義塾女子高等学校卒業。1960年慶應義塾大学法学部政治学科卒業、日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)入社。報道ディレクターとして文化大革命下の中国やベトナム戦争を取材。1970年フリーとなる。1981年米国ウィスコンシン州ミルウォーキーに移り住む。
小玉 武(こだま たけし、1938年 - )は、日本の編集者… 小玉 武(こだま たけし、1938年 - )は、日本の編集者、文筆家。 東京生まれ。神戸、横浜で育つ。神奈川県立横浜緑ケ丘高等学校を経て、1962年に早稲田大学教育学部を卒業後、サントリーに入社する。宣伝部に配属され、広告制作、『洋酒天国』の編集に携った後、広報部長、文化事業部長など。1979年には『サントリークォータリー』を創刊し、編集長を務めた。のち取締役出版局長としてTBSブリタニカに出向する。2000年早大参与に就任。教育学部などで講座を担当する。戸板女子短期大学講師も2009年まで務めた。石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞前事務局長、公益財団法人練馬区文化振興協会理事、日本アルバン・ベルク協会常任理事、森澄雄主宰俳句結社『杉』同人。
赤尾 健一(あかお けんいち、1938年 - )は、元・日本… 赤尾 健一(あかお けんいち、1938年 - )は、元・日本テレビ放送網のプロデューサー、演出家。日企代表取締役会長。 千葉県出身。父親が新聞記者だったこともあって、早くからマスコミ業界を志望していた。 慶應義塾高等学校では安部譲二と同級生だった。 1962年3月に慶應義塾大学文学部仏文科を卒業し、同年4月に日本テレビ放送網株式会社に入社。芸能局音楽部に配属された。 1974年に日本テレビを独立して、番組制作会社・日企を設立する。
蜷川 真夫(にながわ まさお、1938年 - )はジェイ・キ… 蜷川 真夫(にながわ まさお、1938年 - )はジェイ・キャスト代表取締役。『AERA』元編集長。富山県出身。 富山県立富山中部高等学校、東京大学文学部社会学科を卒業後、朝日新聞社に入社した。社会部記者として遊軍を担当。1975年、田中角栄の選挙区にある、新潟支局六日町(現・南魚沼市六日町地域)駐在に志願して赴任した。これは立花隆の『田中角栄研究』に触発されたもので、異例の人事だったという。1976年のロッキード事件では新聞だけでなくテレビや雑誌とも協力し、視野を広げた。その後、ニューデリーに特派員として3年間赴任した。 『週刊朝日』に移動し、副編集長を務めた。ノンフィクションの連載企画に力を入れ、電子技術の未来の連載を執筆した。
笠原 靖(かさはら やすし、1938年 - )は、日本の絵本… 笠原 靖(かさはら やすし、1938年 - )は、日本の絵本作家、イラストレーター、小説家。男性。福井県ふるさと大使。 福井県小浜市出身。明治大学法学部卒業。福井放送アナウンサー、学習研究社を経て、イラストレーターとして独立。空手(日本空手協会所属 5段)。 1990年『夏の終り』で、第7回織田作之助賞受賞。雑誌に作品を多数発表。「中学生の時には犬の言語ノートを作っていましたね。」という程の動物好きで、犬を題材とした作品を多く執筆していた。元警視庁捜査第一課長とその愛犬・フーバーの名コンビが、様々な事件を解決していく動物推理小説『名犬フーバーの事件簿』は、2008年水曜ミステリー9にて、里見浩太朗主演でテレビドラマ化された。
山崎 哲夫(やまざき てつお、1938年(昭和13年) - … 山崎 哲夫(やまざき てつお、1938年(昭和13年) - )は、日本の官僚。法務省入管法改正担当参事官、東京入国管理局長などを歴任した。 長野県東筑摩郡上川手村(現安曇野市)生まれ。1956年(昭和31年)長野県松本県ヶ丘高等学校を卒業。1961年(昭和36年)早稲田大学政治経済学部を卒業。同年、法務省入省。 以降、法務省入管法改正担当参事官(現行改正入管法立法担当)、登録課長、入国在留課長、福岡入国管理局長、東京入国管理局長を歴任。この間、外務省にも出向し、在ニューヨーク日本国総領事館領事査証部長を務めている。1990年(平成2年)、出入国管理法の在留資格などの改正再編を担当した。 2002年(平成14年)10月、WEDOFY(国際企業人事サービス株式会社・新橋国際法務合同事務所)を創立した。
海野 泰男(うんの やすお、1938年(昭和13年) - )… 海野 泰男(うんの やすお、1938年(昭和13年) - )は、日本の国文学者。専門は中古文学、美術史(西洋絵画)。常葉学園大学第5代学長・名誉教授・名誉学長。文学修士。 1938年(昭和13年)、静岡県出身。1957年(昭和32年)、静岡県立静岡高等学校卒業。1963年(昭和38年)、東京大学文学部国語国文学科卒業。1967年(昭和42年)、同大学院人文科学研究科修士課程(国文学)修了。麻布高校教諭等を経て、1984年(昭和59年)、常葉学園大学教授。2002年(平成14年)、同大学長。常葉学園大学名誉教授、名誉学長。
木村 栄一(木村 榮一、きむら えいいち、1938年 - )… 木村 栄一(木村 榮一、きむら えいいち、1938年 - )は、日本の薬学者・化学者(専門は生物有機科学)。静岡大学理学部客員教授、広島大学医学部名誉教授、元日本薬学会会頭。 1957年(昭和32年)、静岡県立静岡高等学校卒業、東京大学薬学部卒業、同大学院修士修了後、フルブライト留学生としてNorth Carolina州立大大学院博士課程入学、化学系Ph.D(博士)取得。帰国後、広島大学医学部総合薬学科に着任、同活性構造化学講座教授。2002年(平成14年)、同大学定年退職、医学部名誉教授。2003年(平成15年)度日本薬学会会頭、2004年(平成16年)、紫綬褒章、2014年(平成26年)度春、瑞宝中綬章受章。
柴 順三郎(しば じゅんざぶろう、1938年 - )は、日本… 柴 順三郎(しば じゅんざぶろう、1938年 - )は、日本の地方公務員、教育者。元静岡県副知事、元気象審議会委員、元学校法人三島学園理事等を務めた。 静岡県出身。静岡県立韮山高等学校卒業。1959年(昭和34年)3月、日本大学短期大学部卒業後は静岡県に奉職。県の企画部長・出納長などの職務を経験した後、同県副知事に就任。副知事に就任して以来、静岡県広報協会会長、気象審議会委員、静岡県日中友好協議会理事長などの要職に就いた。 副知事の任期満了に伴い、後任として鈴木雅近氏が選任された。退任後は、学校法人三島学園(知徳高等学校)理事を務めた。 2008年(平成20年)4月、瑞宝中綬章を受賞。