山縣 雄杜三(山県 雄杜三、やまがた おとぞう、1871年 … 山縣 雄杜三(山県 雄杜三、やまがた おとぞう、1871年 - 1941年)は、日本の教育者、神学者、歴史学者、聖職者。立教大学教授、聖公会神学院教授、日本聖公会の聖職者。教会史の権威で、東京聖三一教会、府中聖マルコ教会で司牧。 立教大学校(現・立教大学)に入学。1883年(明治16年)に築地で創設された米国式カレッジの立教大学校には日本の野球の先駆けとなる野球チーム(現・立教大学野球部)があり、試合は新橋停車場内の広場で行われていたが、山縣は優勝チームの選手の一員として活躍した。 留学し、神学士(Bachelor of Theology(英語版))の学位を取得。 その後、立教大学でチャプレンを務め、立教大学文学部の教授としても基督教史を教えた。
岸 吉松(きし きちまつ、1871年(明治4年) - 195… 岸 吉松(きし きちまつ、1871年(明治4年) - 1956年(昭和31年))は、新潟県出身の実業家。岸宇吉の子。アメリカ合衆国テキサス州南東部に移住して当地に稲作を広め、また当地での石油採掘で財を成した。現地では「バロン・キシ」と呼ばれた。 岸吉松は新潟県長岡市の名家に8人兄弟の1人として生まれた。東京高等商業学校(現一橋大学)に進学したものの、1904年に日露戦争が勃発すると徴兵され、翌1905年の終戦まで満州にとどまった。その後、岸は満州に残ることを望んだが、地価と治安の問題により帰国した。 岸が渡米する数年前、1902年に、駐米総領事内田定槌はアメリカ合衆国南部を視察し、当地の稲作は未発達で、大きな利益が望めるとの報告を持ち帰った。
高井 利五郎(たかい としごろう、1871年 - 1929年… 高井 利五郎(たかい としごろう、1871年 - 1929年)は、日本の教育者。 徳島県板野郡三俣村にて、長尾惣五郎の次男として誕生。東京高等工業学校建築科卒。 旧徳島藩士・高井幸雄の娘・シウ子と結婚し、同家の婿養子となる。明治37年に徳島県立工業学校教諭となったのを皮切りに、明治39年に香川県立工芸学校長、大正3年に広島県立職工学校長、大正13年に台北州立台北工業学校長(第4代)に就任した。昭和4年現職のまま死去(59歳)。 台北工業学校時代の綽名は「トマト」であった。
楢崎 平太郎(ならさき へいたろう、1871年 - 1931… 楢崎 平太郎(ならさき へいたろう、1871年 - 1931年)は広島県出身の実業家。北海道の室蘭を拠点に事業を起こし、北海道鉱業鉄道や後のナラサキ産業を創業した。 広島県平民、楢崎九郎と妻リンの長男として1871年(明治4年5月5日)に同県芦品郡駅家村大字中島で生まれる。生家は庄屋を務める傍ら農業を営んでおり、1880年(明治13年)に区町村会法が制定されると父は村長に推選された。平太郎はその後上京し、菊池武夫の事務所で働きながら日本法律学校で学ぶ。1894年(明治27年)7月に同校を卒業。一時期は郷里で教職に就いていたが、1898年(明治31年)に北海道へ渡ると北海道炭礦鉄道に入社して室蘭売炭所で働いた。
櫛部 荒熊(くしべ あらくま、1871年 - 1950年)は… 櫛部 荒熊(くしべ あらくま、1871年 - 1950年)は山口県出身の弁護士。納税額の多寡によらない普通選挙の実現を目指し、全国普選連合会の幹部を務め、後に衆議院議員(静岡県第2区、当選1回)に選出された。 長門国萩(後の山口県萩市)で1871年2月23日(明治4年1月5日)出生。山口県士族・櫛部善人の長男。川島小学校より萩中学校及び山口中学校を経て司法省文部省認定。1886年(明治19年)に家督を相続。1903年(明治36年)、明治法律学校(後の明治大学)を卒業し、翌年弁護士試験に合格した。 東京弁護士会評議員、台湾台中弁護士会長、日本弁護士協会理事などを務める。 荒熊は全国普選連合会の幹部を務めるなど普選運動に深く関わった論客の一人であり、連合会員の先頭に立って原敬首相邸へ辞職勧告デモも行った。
比護 与三吉(ひご よさきち、1871年〈明治4年〉 - 1… 比護 与三吉(ひご よさきち、1871年〈明治4年〉 - 1937年〈昭和12年〉5月20日)は、日本の料理人、駅弁販売者。明治後期に北海道札幌駅で駅弁の販売を開始し、北海道の食材にこだわった駅弁を考案したり、大正期には飯とおかずを別々の容器に詰める弁当箱「二重折り箱」を発案したりするなどの工夫により、日本全国の駅弁の歴史に大きな影響を与えた。 比護与三吉は1871年(明治4年)に、新潟県の糸魚川で誕生した。長男でなく、家を継ぐ立場になかったため、手に職をつけて1人立ちしようと、料理人の道を目指した。 修行の末に料理人として十分な技量を身につけた後、知人から「札幌は人が集まり、活気があるので、新たな商売の地に良い」と勧められて、1897年(明治30年)、妻子を連れて北海道へ移り、札幌駅近くに日本料理の店を開店した。
原浅(はら あさ、1871年〈明治4年4月〉- 1923年〈… 原浅(はら あさ、1871年〈明治4年4月〉- 1923年〈大正12年〉3月2日)は、日本の第19代内閣総理大臣である原敬の妻(内閣総理大臣夫人)。岩手県江刺郡岩谷堂町出身。 1871年(明治4年)、岩手県江刺郡岩谷堂町(現在の奥州市)で生まれ育つ。父は菅野弥太郎。実家が貧しかったため、東京・烏森にある「紅葉館」の芸者として働く。 1896年(明治29年)に後の夫である原敬の母・リツと会わされ、原家に出入りするようになり、1908年(明治41年)に入籍。敬には貞子という前妻がいたが、1905年(明治38年)に離婚している。原敬の暗殺の際には遺言状を忠実に実行し、盛岡市で葬儀を執り行っている。 1923年(大正12年)3月2日、感冒で療養中に肺炎を併発して死去。
大星 鶴松(おおほし つるまつ、1871年 - 1936年1… 大星 鶴松(おおほし つるまつ、1871年 - 1936年10月11日)は、日本の実業家・大工職人。福井県丹生郡国見村(現・福井市)出身。号は「皖是」(きよゆき)。 福井の大工職人の大星重次郎の長子として生まれ、1890年北海道に弟と共に移住。札幌区で山本卯三郎の下で下請け大工となる。1897年に大型木造建築業者として独立。木工場も経営し、札幌で当代一流の木造建築業者として名を馳せる。官公庁との繋がりが深く、北海道庁立釧路中学校新築工事(1912年竣工)や旧札幌鉄道病院庁舎新築工事(1922年竣工)、札幌市第二高等小學校新築工事(1931年竣工)など官公庁関係の木造施設建築を多く受注した。1922年北海道土木建築請負業者聯合会の設立に参画し同会幹事。
徳永 仁臣(とくなが ひとおみ、1871年 - 1936年)… 徳永 仁臣(とくなが ひとおみ、1871年 - 1936年)は、明治-大正期にかけて活躍した岡山県出身の画家。画号は柳洲(りゅうしゅう)のほか、青々居という別号も使用した。 1871年(明治4年)6月8日、備前国和気郡藤野村(現在の岡山県和気郡和気町)の農家であった徳長吉太郎とむめの次男として生まれる。幼名が武四郎、のちに仁太、仁臣。(遠祖が徳永と称していたため、仁臣は徳長から徳永へ姓を変えた) 岡山市で初めて洋画を見て感激し、洋画家になることを決心する。母校の小学校で助教員をしながら、松原三五郎の天彩学舎に通い洋画の基礎を学んだ後、1889年(明治22年)に18歳で上京し、二代目五姓田芳柳に師事した。