大湊 徳枩(おおみなと とくまつ、1876年1月3日 - 1… 大湊 徳枩(おおみなと とくまつ、1876年1月3日 - 1937年1月9日)は、現在の和歌山県御坊市出身で小野川部屋(大坂相撲)、出羽海部屋に所属した元力士。本名は芝松次朗(旧姓阪本)。170cm、90kg。最高位は西前頭3枚目。 大坂相撲に属したが常陸山谷右エ門に憧れ東上し、1905年1月幕内格付出で初土俵入幕。1907年5月場所2日目には横綱・大砲万右エ門と引き分けた。1911年6月に廃業後は、電気器具の貸し出し業を営んだ。
小島 善作(おじま ぜんさく、1876年(明治9年)1月2日… 小島 善作(おじま ぜんさく、1876年(明治9年)1月2日 - 1937年(昭和12年)1月20日)は、日本の篤農家、政治家。衆議院議員、埼玉県北足立郡大砂土村長。 埼玉県足立郡土呂村(のち北足立郡大砂土村大字土呂、現:さいたま市北区)で、大地主・小島宅十郎の息子として生まれる。1902年(明治35年)大日本実業会農学科を卒業。 明治法律学校で学んだが、郷里の茶業の衰退を憂いて退学し、帰郷して製茶職人の修業を行う。さらに特産地の宇治、静岡に遊歴して技術を磨き、帰郷して私立製茶伝習所を設立して茶業の振興を図った。その他、養鶏改良、米麦改良、甘藷栽培改良などにも尽力して、その普及を図り、埼玉県農会・群馬県農会・栃木県河内郡農会の嘱託講師、地方森林会議員、埼玉県茶業組合連合会議長などを務めた。
村上 国吉(村上 國吉、むらかみ くにきち、1876年(明治… 村上 国吉(村上 國吉、むらかみ くにきち、1876年(明治9年)1月1日 - 1957年(昭和32年)12月13日)は、日本の農業技術者、政治家。衆議院議員。旧姓・大道。 京都府何鹿郡吉美村(現綾部市)で大道嘉右衛門の二男として生まれる。1898年、大阪府立農学校を卒業。1899年、村上三郎兵衛の長女のへ の入夫となり村上に改姓した。 農事試験場技手、農事巡回教師兼農事試験場長、県立熊本農業学校教諭を経て、村上農園を設立しその経営を行った。その他、何鹿郡農会長、京都府農会副会長、帝国農会評議員、農地開発営団評議員、何鹿郡畜産同業組合長、同郡米穀同業組合長、同郡養蚕業組合長、京都府養蚕業組合連合会議員を務めた。
小林 嘉平治(こばやし かへいじ、1876年(明治9年)1月… 小林 嘉平治(こばやし かへいじ、1876年(明治9年)1月1日 - 1940年(昭和15年)12月28日)は、明治時代末期から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(2期)。旧姓は山川、旧名・真純。 三重県安濃郡津城下(現津市)で、山川真源の二男として生まれる。1902年(明治35年)8月、一志郡雲出村(現:津市)の先代・小林嘉平治の養子となり、1908年(明治41年)1月、家督を相続し嘉平治を襲名した。 1901年(明治34年)東京帝国大学文科大学哲学科を卒業する。真宗勧学院教授を経て、1911年(明治44年)三重県会議員に当選する。ほか、三重県農会特別議員、同評議員、津商業会議所顧問、県農会長などを歴任した。
石井 秀八(いしい ひではち、1876年(明治9年)1月 -… 石井 秀八(いしい ひではち、1876年(明治9年)1月 - 没年不明)は、日本および台湾の実業家、技術者、電気工業家。 佐賀県杵島郡住吉村(のち山内村→山内町、現・武雄市)で、石川政右衛門の長男として生まれる。家は代々鍋島氏の藩臣だった。幼時に郷校で学を修め、1889年(明治22年)に上京して欧文成功学館に入って語学を学ぶ。その後、工手学校に入り、芝中学校に転校して卒業した後、高等工業学校に入学して電気科を卒業。東京の三吉電気工場に入って、技師となる。 その後、京都電燈付属工場の主任技師に転じ、さらに横浜電話交換局技師、不二製紐会社電気部技師、横浜ヒーリング商社の主任技師などを経て、明治35年に横浜で電気商社を起こして独力で経営に従事するが不成功に終わり、大阪に出て関西電気商社を設立・経営するがこれもうまくいかなかった。
飯田 吉英(いいだ よしふさ、1876年(明治9年) - 1… 飯田 吉英(いいだ よしふさ、1876年(明治9年) - 1975年(昭和50年))は、日本の畜産学者。養豚と食肉加工の分野で、大きな業績を残した。 1876年(明治9年)12月、茨城県新治郡戸崎村(現在のかすみがうら市戸崎)に、庄屋を務めた豪農・飯田松三郎の長男として生まれた。子供の頃から成績優秀で、特に英語の成績が良かった吉英は、茨城第一中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を卒業後の1896年(明治29年)、 一年志願兵として野戦砲兵第一連隊に入営。1年の勤務を終えると研究を志し、東京帝国大学農科大学に入学、農学を専門的に学んだ。同帝国大学農学実科を卒業後、神奈川県農会を経て、農商務省(現在の農林水産省)技師。
白仁 秋津(しらに あきつ、1876年 - 1948年)は、… 白仁 秋津(しらに あきつ、1876年 - 1948年)は、日本の歌人。本名、勝衛。 三池郡岩本村(現大牟田市岩本)に士族の長男として生まれる。 熊本県立済々黌高等学校を卒業。1902年(明治35年)、北原白秋、田中紫江、杉森秋華ら6人と同人誌 『常盤木』を刊行する。『常盤木』には短歌だけでなく、社会矛盾との戦いの重圧といった苦しみを表した文章も掲載されている。 翌1903年(明治36年)に与謝野鉄幹が主宰する東京新詩社に参加。与謝野鉄幹、与謝野晶子夫妻に師事し、北原白秋、吉井勇、石川啄木、高村光太郎らと共に明星派に名を連ねる。 1904年(明治37年)3月に北原白秋が白秋の父に無断で県立伝習館中学(現・福岡県立伝習館高等学校)を退学して上京する際に、秋津とは密かに別れの挨拶を行っているが、その際に秋津から白秋に蒲原有明の詩集『独絃哀歌』を贈っている。
雨森 俊彦(あめのもり としひこ、1876年〈明治3年〉 -… 雨森 俊彦(あめのもり としひこ、1876年〈明治3年〉 - 1927年〈昭和2年〉)は、陸軍軍医で保定軍官学校教官・医長。尾張藩士の成瀬光太郎の次男。京都の医家、雨森良意の養子。妻は淡路の藤江氏。号は良意。 成瀬光太郎の次男として生まれ、10歳の時に京都無二膏・雨森良意の養子となる。1896年(明治29年)京都医専を卒業し、1902年(明治35年)に保定軍官学校(軍官学校)の教官として大陸に渡る。この頃、藤江氏を妻とし、良意の名跡を継ぎ雨森良意となる。 俊彦が着任した頃の軍官学校校長は馮国璋であった。俊彦は段祺瑞が全省陸軍学堂に統一するまでの間、同校の教官、医長を務める。その間、清国戦時衛生に関する諸規定の制定を行った。
山内 正瞭(やまのうち まさあき、1876年 - 1949年… 山内 正瞭(やまのうち まさあき、1876年 - 1949年)は、日本の政治学者。第4代長崎高等商業学校校長。 愛媛県出身。旧制松山中学(現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1902年東京帝国大学法科大学政治科卒業、同大学院進学。1913年から長崎高等商業学校校長を務め、退任後、東京商科大学教授を務めた。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
大牟礼 南島(おおむれ なんとう、1876年 - 1935年… 大牟礼 南島(おおむれ なんとう、1876年 - 1935年)は、日本の洋画家。大牟礼 南塘とも表記される。本名・時艾(ときはる)。鹿児島洋画壇の祖といわれている。 種子島の現西之表市出身。中学造士館卒業後、大阪を経て上京し、東京美術学校西洋画科に入学。黒田清輝に師事し、1900年に卒業して鹿児島県に戻る。鹿児島市の西本願寺前にアトリエを開設。アトリエで公開制作をしたり、春田屋呉服店のショーウインドウに大きなロマン主義美人画を飾ったりと衆目を集め、また確認しうる鹿児島最古の洋画団体「青蛙会」を結成した。 1911年から1930年の約20年間にわたり鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)で美術教員を務め、多くの後進を育成した。
龍田 精三(たつた せいぞう、1876年 - 没年不詳)は明… 龍田 精三(たつた せいぞう、1876年 - 没年不詳)は明治時代の浮世絵師。 小林清親及び田口米作の門人。東京生まれ。精三と号し、「龍田氏」の印を使用した。牛歩とも号す。明治20年から明治30年代に主に戦争絵を描いて活躍したが、詳細は不明。明治34年(1901年)、東京美術学校西洋画科選科修了。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
塙 泉嶺(はなわ せんれい、1876年(明治9年) - 没年… 塙 泉嶺(はなわ せんれい、1876年(明治9年) - 没年不詳)は、茨城県の民間出身の郷土史編纂主任、新聞社(宗教新聞社・政教新聞社)の主幹・社長。1922年(大正11年)から1928年(昭和3年)にかけて、宗教新聞社・政教新聞社発行による塙 泉嶺の郷土史は、東茨城郡・西茨城郡・那珂郡・久慈郡・多賀郡・真壁郡・新治郡・稲敷郡・筑波郡・行方郡・鹿島郡の11郡に及んでいる。 塙 泉嶺は、茨城県東茨城郡渡里村(現在の水戸市渡里町)の旧跡、一盛長者(一守長者)の里に住んでいた。塙氏は地方の名族であった。宗教学を志し、東京に苦学すること数年、神田三崎町の大成中学校、早稲田大学文学科を卒業後、転向し仏大学に入学し、真俗二諦の教理を修め海外に雄飛すること数年を経て帰国した。
片野 実之助(かたの じつのすけ、1876年 - 1945年… 片野 実之助(かたの じつのすけ、1876年 - 1945年)は、日本の保険学者。元大阪高等商業学校(現大阪公立大学)校長。 東京出身。1893年東京府尋常中学校(現東京都立日比谷高等学校)卒業。1898年高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。三重県立四日市商業学校教諭を経て、1905年から2年間休職し、文部省外国留学生としてドイツ、イギリス、アメリカ合衆国に留学した。帰国後、山口高等商業学校教授を経て、1915年から市立大阪高等商業学校校長を務め、母校東京高等商業学校との連絡を強化するなどした。太平洋海上火災保険監査役なども務めた。1945年死去。 義理の娘(息子・実雄の配偶者)は松竹楽劇部の初代トップスターだった飛鳥明子(本名:片野〈旧姓・松田〉貞子)。
園田 真次郎(そのだ しんじろう、1876年 - 1961年… 園田 真次郎(そのだ しんじろう、1876年 - 1961年)は、日本の占い師、作家。日本の気学の祖と言われた。易者名は荻野地角(おぎの ちかく)。 明治9年(1876年)、現在の群馬県桐生市に生まれる。大正13年(1924年)に、日本で流行っていた九星方鑑学(江戸時代の松浦琴鶴の系統の九星を用いる方鑑学の流派)をベースに九星術を気学(九星気学)として簡略化してまとめ、これ以降日本で気学は一般に広まっていった。昭和36年(1961年)死去。
鈴木 千代松(すずき ちよまつ、明治9年(1876年) - … 鈴木 千代松(すずき ちよまつ、明治9年(1876年) - 昭和10年(1935年))は日本の教育者。県下初等教育界の第一人者。 鳥取市に生まれる。鈴木惟孝の長男。 明治21年(1888年)、鳥取県尋常師範学校卒業(第1回生の首席)。米子角盤高等小学校訓導に破格の高給で採用されて話題となった。 明治27年(1894年)、西伯郡淀江町(現在の米子市)の善良高等小学校校長に転じ、明治33年(1900年)、再び角盤校に第2代校長として迎えられた。 角盤校では軍事訓練と質実剛健の校風で名を挙げた。 元鳥取県米子市長野坂寛治によると「先生は、久しく角盤高等小学校長として令名高かったが、後に懇請によって市立高等淑徳女学校長に転ぜられてその校風を樹立せられた。
海老原 半三郎(えびはら はんざぶろう、1876年 - 19… 海老原 半三郎(えびはら はんざぶろう、1876年 - 1953年)は、明治期の大日本帝国陸軍軍人。茨城県龍ケ崎市出身。最終階級は歩兵特務曹長。日露戦争にて金鵄勲章を受章した。 明治期・皇室警護の近衛兵として、全国将兵の中から選抜(五代前まで調査があり、県知事・連隊長・郡市役所幹部・駐在の警察官の責任で推薦された)され、「近衛連隊」に入隊。当時、歴代の皇太子が在籍した近衛歩兵第一連隊は、帝国陸軍の最高峰だった。 日露戦争に出征し、奉天進軍。明治38年(1905年)3月10日、奉天付近では既に屍が累々としており、海老原半三郎の所属する近衛歩兵第一連隊においてもロシア軍の総反撃により、将兵はことごとく第一戦に展開し、肉弾相打つ激戦となる。
加福豊次(かふくとよじ、1876年-1921年10月23日)… 加福豊次(かふくとよじ、1876年-1921年10月23日)は日本統治下の台湾における官僚。台北庁長、台中庁長、台中州知事などを務めた。 原籍は長崎県。東京府北豊島郡滝野川村に生まれ、1891年(明治24年)第一高等学校 (旧制)に入学、1896年(明治29年)陸軍士官学校に入学。1899年東京帝国大学法科大学仏法科卒業後、日露戦争勃発により招集されて主計少尉となり、第1軍付きの国際法顧問として出征。 1905年に台湾地方院検査官となり、1909年より台湾総督府警務課長、保安課長などをへて1914年に台北庁長就任。1917年、総督府事務官に転任、1918年、台北局林務課長に任命され、1919年に台中庁長、翌年地方制度改革に伴い台中州知事に就任したが、 1921年(大正10年)2月、台中疑獄事件により解任され、台湾証券公取の設立準備を進める中、脳出血に腎臓病を合併し46歳で死去した。
菅野 光民(かんの こうみん/みつたみ、1876年 - 19… 菅野 光民(かんの こうみん/みつたみ、1876年 - 1918年6月9日)は、日本の実業家、政治家。十勝日日新聞社長、北海道会議員。 岡山県吉備新本(現・総社市)出身、早稲田大学政治経済学部を卒業後、東京通信社勤務の後、明治末期に北海道帯広へ移住。先輩から依頼され、小樽新聞(現・北海道新聞)帯広支局長を務めるも1912年に小樽新聞を退職し独立して十勝日日新聞を創刊。1913年の北海道会議員選挙で河西支庁(現・十勝総合振興局)選挙区に出馬し初当選、以降議会活動に注力、1916年に再選し憲政会に所属。 外出時には黒紋付羽織袴姿で手にステッキを持ち町中を闊歩していた。三井徳宝等と「義士会」を結成して毎年演芸会を開き、会の収益を用いて赤穂浪士関係の書籍を収集、没後1921年の解散時には帯広町立大典記念帯広図書館(現・帯広市図書館)に寄贈されている。
小平 総治(こだいら そうじ、1876年 - 1935年10… 小平 総治(こだいら そうじ、1876年 - 1935年10月18日)は、日本の外交官。通訳官。号は綏芳。 長野県安曇郡東穂高村(現安曇野市)生まれ。地元で漢学を修めた後、上京して二松學舎に入学し、三島中洲の教えを受け、善隣書院にも学んだ。1899年中国に留学、義和団の乱に陸軍省通訳官として従軍し、川島浪速の推挙によって北京警務学堂監督となり、1910年には武昌高等巡警学堂教習、1911年には漢国領事館勤務を務め、中国初の近代的警察官養成に従事した。 1914年、粛親王愛新覚羅善耆の邸宅に入り、王府内外の事務、子女の訓育にあたった。その間、政治外交の重要事項に関してしばしば日本政府に進言した。1915年、粛親王を擁立し、満蒙独立を画策したが、孫文らの革命勢力の抵抗、袁世凱の急死によって失敗した。
榎本 儀兵衛(えのもと ぎへえ、1876年(明治9年)- 1… 榎本 儀兵衛(えのもと ぎへえ、1876年(明治9年)- 1935年(昭和10年)10月31日) は、日本の政治家。元稲城村長である。 坂浜に生まれる。20代の若さで助役に就任した。1924年(大正13年)に森円蔵の後を継いで村長に就任する。11年の間村長を務め、元号は大正から昭和に変わった。1935年(昭和10年)10月31日、現役村長のまま死去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
小澤 一蛙(おざわ いちあ、1876年 - 1960年)は、… 小澤 一蛙(おざわ いちあ、1876年 - 1960年)は、日本の収集家。 本名は小澤幸太郎。一蛙と号した。愛称は蛙の大将。1876年に東京市日本橋に生まれる。東京の吉祥寺に在住した。1908年11月4日に芝高輪の三田平凡寺宅において行われた平凡寺建立落成式及び開山式に参加する。内閣印刷局証券一室に勤務し、印刻を業としていた。1915年、自ら蛙に関する資料を板に刻んで『蛙寶』という雑誌を発刊している。1919年6月6日に開催された我楽他宗第一回宗会にも参加、第三十三番 天禄山蛙宝寺と称して主に蛙に関するものを収集しており、宗における重鎮として、また、末寺筆頭として常に平凡寺の片腕的な存在として活躍していたが、1926年5月末には脱宗している。
内馬場 歳之助(うちばば としのすけ、1876年(明治9年)… 内馬場 歳之助(うちばば としのすけ、1876年(明治9年) - 1956年(昭和31年)12月8日)は、日本の政治家。宮城県富谷村長(1期)。第十六代内馬場家当主であり、諱は信親。 宮城県黒川郡富谷村(のち富谷町、現・富谷市)出身。富谷村会議員、小作調停委員となる。1941年(昭和16年)富谷村長に就任。終戦直後の1945年(昭和20年)9月まで村長を務めた。その後公職追放となった。 1956年(昭和31年)に死去した。 この項目は、宮城県に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:日本の都道府県/宮城県)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。