木村 百木(きむら ひゃくぼく、 Hyakuboku Kim… 木村 百木(きむら ひゃくぼく、 Hyakuboku Kimura、明治17年(1884年) - 昭和52年(1977年))は、日本の名古屋市に生まれ、制作活動をした画家、芸術家。本名は、木村春三。 京都帝国大学時代、学生の時に禅の講演を聴いて、学校を辞め、修行の道に入る。大正7年より東京(瀧野川)に移転。 昭和元年に故郷の名古屋で初の個展を開く。昭和9年、小金井で坐禅と画の道場を開き、同地にて居を構え、終生小金井で暮らした。作品傾向として水墨画、版画で木を題材とする作品がよく見られる。その他に山を題材にする作品もみられる。人物画の作品にみられる題材は仙人、仏様、達磨大師などを生涯に制作している。
高橋 甚也(たかはし じんや、1884年 - 1975年)は… 高橋 甚也(たかはし じんや、1884年 - 1975年)は、台湾総督府や東京市上下水道、戦後の仙台市復興などで活躍した都市計画家、土木技術者。 1912年に京都帝国大学工学部を卒業後すぐに台湾総督府に就職するが、1913年に帝都復興事業を担うため東京市役所に移籍。1939年まで在籍しその間に下水道課長や土木局技師長、水道局長や下水道局長を歴任。東京オリンピック開催のための給水対策などに参画。1946年以降は岡崎栄松に招かれ仙台市助役として市の戦災復興事業や上下水道網整備に関わる。当初の復興計画にあった5千坪ほどの公園内を国道が貫通する計画を曲げさせて変則的な交差をつくったり、復興事業での街路計画変更で電力や電話局との関係者移転補償協議で、電柱を無くさせて30から50メートルの広幅員道路がケヤキ並木の大樹林帯となって建設大臣表彰をもたらした。
椎原 兵市(しいはら ひょういち 1884年 - 1966年… 椎原 兵市(しいはら ひょういち 1884年 - 1966年)は、日本の造園家。作庭家。宮内の宮廷庭園技師、また関一市長率いる大阪市の緑化事業、公園設計で活躍した。 1884年(明治17年)大分市に生まれる。1907年(明治40年)に京都高等工芸学校(後の京都工芸繊維大学)図案科を卒業、1909年(明治42年)から宮内省内苑寮園芸課に奉職、上司市川之雄の薫陶を受ける。1920年(大正9年)まで、この時期主な担当作品は東宮御所(明治42年)、武庫離宮(大正3年)などがあり、宮廷庭園の設計や施工に従事したほか、国会議事堂本建築設計競技(大正7,8年)参加や京都御所、伊勢神宮、出雲大社等の外苑設計に携わった。
尾畑 義純(おばた よしのり、1884年〈明治17年〉 - … 尾畑 義純(おばた よしのり、1884年〈明治17年〉 - 1957年〈昭和32年〉)は、日本の海軍法務官。最終階級は海軍法務中将。 東京府出身。東京帝国大学法科大学法律学科卒業。 海軍主理試補、海軍中主計、海軍主理、海軍主計中尉、海軍司法事務官兼海軍法務官を経て、海軍省法務局長。墓所は多磨霊園。
名原 広三郎(なはら ひろさぶろう、1884年 - 1968… 名原 広三郎(なはら ひろさぶろう、1884年 - 1968年)は、日本の英文学者。 島根県生まれ。東京帝国大学英文科卒。法政大学教授を務め、森田草平のもとで岩波文庫『ユリシーズ』の翻訳を行った。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
和田 光石 (わだ こうせき、1884年 – ?)は、日本の… 和田 光石 (わだ こうせき、1884年 – ?)は、日本の彫刻家。 兄、和田信二郎(文部省図書監修官)。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
周徳鴻(しゅう とくほう/チャオ・デーホン、1884年 - … 周徳鴻(しゅう とくほう/チャオ・デーホン、1884年 - ?)は、清末民初の技術者、官僚。字は伯彬。四川省巴県(現重慶市巴南区)出身。東京高等工業学校機械科卒業。 航空技師として北洋政府軍に加わり、奉天派に属する。国民政府でも空軍軍属として参加。 成都より官費生として日本に留学。1911年(宣統三年)9月、学部(中国語版)(文部省に相当)の試験を受け最優等となり、工科進士の賞給を受ける。 辛亥革命後の1913年(民國二年)の間、四川公立工業專門学校(現四川大学)教員として機械工学や製図を教えていた。1921年(民國十年)5月、北洋政府に加わり、郭世綰、盛紹章、黄耀栄らとともに北京航空署(署長:丁錦)附技師。
方 宗鰲(ほう そうごう、1884年 – 1951年)は、清… 方 宗鰲(ほう そうごう、1884年 – 1951年)は、清末民初の教育者・経済学者・官僚・政治家。別号は少峯または少峰。主に経済学者として活動する一方で、中華民国臨時政府と南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会で各職を歴任した。 清末の1903年(光緒29年)に日本へ留学し、東京同文書院を卒業した。帰国後は故郷の普寧県で師範速成学校を創立している。1908年(光緒34年)に官費留学生として日本へ再び留学し、山口高等商業学校を卒業。1914年(民国3年・大正3年)に明治大学商科を卒業した。なお、来日中には進歩党東京支部政務部長をつとめており、雑誌『国家及国家学』に寄稿している。 帰国後は北京の各大学で教鞭をとり、北京中国大学教務長兼商学系主任、朝陽大学教授、北京大学法学院教授を歴任し、経済学の論文を各雑誌に都度都度寄稿している。
村上 静人(むらかみ せいじん、1884年-1960年)は、… 村上 静人(むらかみ せいじん、1884年-1960年)は、日本の作家・翻訳家。 静岡県の代々医師の家に生まれ、上京して医師となろうとするが、長田秀雄、木下杢太郎らと知り合い文学の道を進み、明治大学文学部で学ぶ。赤城正蔵の「アカギ叢書」の創刊に手を貸し、西洋文学の再話、人情本の注釈などの仕事をし、のちには釣りの本を書いた。
蔡 培(さい ばい、1884年〈光緒10年〉 - 1960年… 蔡 培(さい ばい、1884年〈光緒10年〉 - 1960年)は、中華民国の政治家・外交官。字は子平。南京国民政府(汪兆銘政権)で南京市長、駐日大使などを務めた。 清末に日本に留学する。1912年(民国元年・明治45年)に早稲田大学専門部法律科を卒業し、併せて法学士の称号を取得した。帰国後は、柳亜子らが組織した南社に所属し、衆議院議員にもなった。1928年(民国17年)1月、国民政府交通部秘書となる。6月、参事となった。1930年(民国19年)1月、交通部航政司司長となる。1935年(民国24年)8月、内政部民政司司長に異動した。 1940年(民国29年)3月、汪兆銘が南京国民政府を組織すると、蔡培は工商部政務次長に任命された。
原 輝美(はら てるみ、1884年- 1966年)は長野県諏… 原 輝美(はら てるみ、1884年- 1966年)は長野県諏訪市出身の画家。 諏訪市湖南の製糸業を営む家に生まれる。 長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、1902年に医学を学ぶため単身渡米。親の希望で医学を学ぶも、美術に志向していく。 1905年 画家になる事を決め美術学校に入学。 1907年 美術学校で優秀な成績を修めイギリスに留学。ロンドンのPolytechnic School of Artに入学。高村光太郎と交流をもつ。 1908年 アメリカに戻る。10月よりニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグ、翌年より帰国までナショナル・アカデミー・オブ・デザインにて学ぶ。
山口 菅三(やまぐち すがぞう、1884年 - 1971年)… 山口 菅三(やまぐち すがぞう、1884年 - 1971年)は、日本の実業家。滋賀県東浅井郡小谷村大字河毛の造り酒屋、山口嘉左衛門の次男として生まれた。 「元イマン居留民会長 服部富造君」西川太治郎編纂(昭和13年)、「世界史の中の一億人の昭和史 ロシア革命・大正デモクラシー」毎日新聞社刊によれば、1900年服部富造は親戚の山口家次男・山口菅三を預かり服部商店内で、菅三を含めた5人の日本の若者への「海外版 松下村塾」とも言える教育が始まった。この時菅三は16歳であった。日中は「服部商店」で仕事を通じて貿易と商売を学び、夜は夕食後8時から深夜12時まで連日主人服部富造が直々に菅三等5人の若者にロシア語とロシア情勢について教育を行った。
宮原 民平(みやはら みんぺい、1884年 - 1944年)… 宮原 民平(みやはら みんぺい、1884年 - 1944年)は、中国学者、拓殖大学教授、学監。佐賀県現多久市出身。拓殖大学校歌の作詞者である。長男は北海道大学教授の宮原将平。
小倉 伸吉(おぐら しんきち、1884年 - 1936年11… 小倉 伸吉(おぐら しんきち、1884年 - 1936年11月1日)は、日本の海洋学者、潮汐学者。
郁 華(いく か、チェコ語: YU Hua(ユ フア)、18… 郁 華(いく か、チェコ語: YU Hua(ユ フア)、1884年 - 1939年11月23日)は、中華民国の司法官、法学者。江蘇高等法院第二分院刑事庭庭長、東呉大学教授。郁風(zh:郁風)の父、郁達夫の兄でもある。字は曼陀。 1884年、清国浙江省富陽県生まれ。1904年に日本に官費留学し、早稲田大学清国留学生部師範科、法政大学専門部法律科を卒業。1910年に帰国し、挙人となり七品小京官に任じられた。清国滅亡後、1912年に法官資格を取得し京師高等審判庁推事、北京政府大理院推事に就任する。 1913年に日本の司法制度を視察するため日本に派遣される。この視察に弟の郁達夫も同行し日本に留学している。
饒 漢祥(ぎょう かんしょう、繁体字: 饒漢祥; 簡体字: … 饒 漢祥(ぎょう かんしょう、繁体字: 饒漢祥; 簡体字: 饶汉祥; 拼音: Ráo Hànxiáng; ウェード式: Jao Han-hsiang、1884年 - 1927年6月17日)は、清末民初の政治家。字は宓僧。別の署名に珀玕。 1903年(光緒29年)、癸卯科挙人となる。後に日本に留学して法政大学を卒業した。武昌起義(辛亥革命)が勃発すると武昌に向かい、武昌都督府で書記となる。後に黎元洪から抜擢され、秘書や秘書長に昇進した。 中華民国成立後、1912年(民国元年)11月に夏寿康の後任として湖北省内務司司長に任ぜられる。翌年、湖北省民政長署理となった。1914年(民国3年)、副総統黎元洪の秘書長となり、政治会議委員も務めた。
陳 曽栻(ちん そうしょく、1884年〈光緒10年2月〉 –… 陳 曽栻(ちん そうしょく、1884年〈光緒10年2月〉 – 没年不明)は、清末民初の官僚・政治家。別号は矩亭。冀東防共自治政府・中華民国臨時政府・南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会で各職を歴任し、特に河北省公署(河北省政府)で長い官歴を持つ。最後は河北省省長代理や華北政務委員会農務総署督弁にまで昇進した。 清末に日本へ留学し、1909年(宣統元年/明治42年)に明治大学政治科を卒業した。1910年(宣統2年)3月、湖北省清丈局専弁となる。中華民国成立後は、呉興県知事、中東鉄路路警処秘書主任、灤県県長などを歴任している。 1935年(民国24年)12月に冀東防共自治政府が成立すると、陳曽栻は自治政府秘書処処長に任命された。
田中 早苗(たなか さなえ、1884年(明治17年) - 1… 田中 早苗(たなか さなえ、1884年(明治17年) - 1945年(昭和20年)5月25日)は日本の翻訳家。男性。本名は田中 豊松(たなか とよまつ)で、この名義での著訳書もある。 英語とフランス語を解し、博文館の雑誌『新青年』などで、モーリス・ルヴェル(フランス語版、英語版)、ウィルキー・コリンズ、エミール・ガボリオ、ガストン・ルルーなどの作品の翻訳紹介につとめた。 1884年(明治17年)、秋田県秋田市に生まれる。 1907年(明治40年)、早稲田大学高等師範部英語科卒業。 雑誌『海外之日本』(海外之日本社)記者、雑誌『太陽』(博文館)嘱託記者を歴任した。 1937年(昭和12年)4月より東京市赤坂区史編纂事務嘱託として『赤坂区史』の編纂に従事する。
朝日枩 清治郎(あさひまつ せいじろう、1884年 - 19… 朝日枩 清治郎(あさひまつ せいじろう、1884年 - 1939年11月25日)は、現在の大阪府岸和田市出身で井筒部屋、猪名川部屋(大坂相撲)に所属した力士。本名は広瀬 伊之助(旧姓熊取谷)。身長167 cm、体重158 kg。 はじめ大阪の猪名川部屋に入門。しばらくして東京に出て井筒部屋から朝日枩の四股名で取り三段目まで進む。1905年1月大阪に戻り1910年1月に入幕。その場所初日に28連勝中の新横綱大木戸を破る殊勲を上げた。1912年5月関脇で8勝1敗で優勝相当成績を残したが脱走して東京に移った。 1913年1月前頭筆頭格番付外付出。翌5月場所の初日に控え力士として物言いを付けたところ、受け容れられずそのまま退場してしまった。
大崎 熊雄(おおさき くまお、1884年〈明治17年〉 - … 大崎 熊雄(おおさき くまお、1884年〈明治17年〉 - 1939年〈昭和14年〉4月25日)は、将棋棋士。贈九段。当初は関根金次郎十三世名人門下であったが、後に井上義雄八段門下に転じる。高知県高知市出身。本名は大崎熊吉。日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人。 若い頃には坂本龍馬を尊敬し、政治家を志したこともあるという。 日露戦争に従軍し旅順包囲軍に参加。奉天での戦いで負傷に依り右腕の自由を失う。この負傷で伍長となり金鵄勲章を受ける。 帰還した後に関根金次郎十三世名人門下として将棋界に入り、その後井上義雄八段門下に「師匠替え」する。のちに井上の名から「雄」の字を貰い「熊雄」と改名することになる。
山下 十治郎(やました じゅうじろう、1884年 - 194… 山下 十治郎(やました じゅうじろう、1884年 - 1945年4月16日)は、日本の料理人。北海道苫小牧市で第一洋食店を開業した。 「苫小牧に洋食文化の礎を築いた人物」とされる。 1884年(明治17年)に山梨県東山梨郡平等村(現・山梨市)に伊藤金治郎の子として生まれ、山梨県の山下家と養子縁組する。 横浜グランドホテルでフランス料理の修行を行う。横浜市在住中の1908年に長男・誠一を授かる。 年代は不明だが札幌市豊平館にて勤務の後、1910年には札幌市で長女・すみ子を授かると共に、王子製紙苫小牧工場の落成パーティーの料理担当として迎賓館として先行開館していた「王子倶楽部」(苫小牧)に派遣される。
河鍋 きく子(かわなべ きくこ、1884年(明治17年) -… 河鍋 きく子(かわなべ きくこ、1884年(明治17年) - 1918年(大正7年)4月12日)は明治時代から大正時代にかけての女性日本画家。 1884年に愛媛県八幡浜に生まれた。蘭香と号す。始めは京都にでて菊池芳文について四条派を学び、その後、上京して寺崎広業に師事、人物を描いて名声を得た。1891年の日本青年絵画協会臨時研究会に「女福禄寿」を出品して五等褒状を得、1894年の日本青年絵画協会第3回絵画共進会に「近古美人」を出品、三等褒状を受けている。1918年4月12日に没した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。