井口 在屋(いのくち ありや、安政3年10月30日(1856… 井口 在屋(いのくち ありや、安政3年10月30日(1856年11月27日) - 大正12年(1923年)3月25日)は、石川県金沢市出身の機械工学者。東京帝国大学教授。荏原製作所の創業者の一人。 1856年(安政3年)加賀(現在の金沢市)に生まれる。1882年(明治15年)に工部大学校機械科第4期を首席で卒業し、工部大学校助教授、その後は海軍機関学校、海軍大学校の教官を歴任した。1894年(明治27年)にヨーロッパ留学し、1896年(明治29年)に帝国大学教授となる。1897年(明治30年)に日本機械学会を設立、1899年(明治32年)に工学博士となる。1905年(明治38年)に「渦巻ポンプの研究」を発表、1909年(明治42年)には帝国学士院会員となる。
桐山 篤三郎(きりやま とくさぶろう、1856年11月23日… 桐山 篤三郎(きりやま とくさぶろう、1856年11月23日(安政3年10月26日) - 1928年(昭和3年)5月20日)は、教育者。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。
佐々木 政吉(ささき まさきち、安政2年11月11日(185… 佐々木 政吉(ささき まさきち、安政2年11月11日(1855年12月19日) - 昭和14年(1939年7月11日))は、日本の医学者。 1855年(安政2年)、江戸・本所で生まれた。1865年(慶応元年)、蘭方医・佐々木東洋の養嗣子となった。 1871年、大学東校予備門に入学。1879年に大学東校(現・東京大学医科)を卒業。1880年、内科学研鑽のために自費でドイツに留学。 1884年に帰国し、大学東校講師に就いた。1885年、33歳で帝国大学医科教授に就任。これは日本人として初めての大学東校教授であった。1888年、医学博士号を取得。これは日本人として第2号であった。1891年4月、コッホのツベルクリン療法調査研究のためドイツに出張。
鈴木 仙太郎(すずき せんたろう、1855年12月18日(安… 鈴木 仙太郎(すずき せんたろう、1855年12月18日(安政2年11月10日) - 1936年(昭和11年)10月28日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(立憲改進党→憲政本党→立憲国民党)、愛知県会議員などを務めた。 尾張国海東郡佐屋村(現在の愛知県愛西市)出身。1883年(明治16年)、代言人となる。1894年(明治27年)、第4回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。1903年(明治36年)、愛知県会議員に選ばれ、議長を務めた。その後、1908年(明治41年)の第10回衆議院議員総選挙で再選された。
桐原 捨三(きりはら すてぞう、1855年12月17日(安政… 桐原 捨三(きりはら すてぞう、1855年12月17日(安政2年11月9日) - 1926年(大正15年)8月25日)は、明治期の教育者、ジャーナリスト。大阪商業講習所所長。旧姓・河野(こうの)。桐原式と呼ばれる新聞販売法で業績を残した。 武蔵国足立郡糠田村(現・埼玉県鴻巣市)に河野家の四男として生まれ、桐原家に養子に入る。浦和中学に学び、1874年(明治7年)慶應義塾に入り、1878年(明治11年)の卒業後に駅逓局に入る。 1880年(明治13年)三菱商業学校を卒業し、福澤諭吉の紹介で大阪商業会議所の五代友厚に聘せられ大阪商業講習所所長となる。府立になると共に大阪高等商業学校に改編。次いで大阪新報に入り、神戸新報、改進新聞を経る。
平田 箴(ひらた ただし、1855年12月17日(安政2年1… 平田 箴(ひらた ただし、1855年12月17日(安政2年11月9日)- 1925年(大正14年)8月15日)は、明治から大正期の弁護士、政治家。衆議院議員、岩手県会議長。 陸奥国磐井郡、のちの岩手県西磐井郡一関町(現一関市)で、一関藩士の家に生まれた。藩校教成館で文武の課程を修めた。 警察官を志願し、盛岡警察署(現盛岡東警察署)詰巡査となる。その後退職して自由党に加わり、代言人(弁護士)の業務に従事。その清潔公平な働きで信頼を得て、村会議員、一関町会議員に選出された。その後、岩手県会議員となり、同副議長、同議長を務めた。その他、所得税調査委員、郡徴兵参事員、破産管財人なども務めた。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(岩手県第5区、自由党)で初当選し、第4回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
西郷 吉義(さいごう よしみち、1855年12月15日(安政… 西郷 吉義(さいごう よしみち、1855年12月15日(安政2年11月7日) - 1927年(昭和2年)9月3日)は、明治期から大正期の医師、医学博士、陸軍軍医学校長、宮内省侍医・宮中顧問官を歴任する。正三位勲一等功四級。 信濃国松本城下に松本藩士・西郷眞諒の次男として生まれ幼名を早苗と称し、後に叔父の西郷元善の養子となる。祖先は松平康長に仕えた三河西郷氏。1882年(明治15年)東京大学医学部を卒業し、同期には青山胤通・猪子止戈之助・田代正等がいる。 卒業後、医学部准助教授(内科学)となった後、日本陸軍軍医となり陸軍一等軍医に任官し軍医学校教官(内科学担当)となった。1896年(明治29年)12月16日『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』編纂委員に任命され、また陸軍衛生会議議員に選ばれた。
住田 善平(安政2年11月7日(1855年12月15日) -… 住田 善平(安政2年11月7日(1855年12月15日) - 明治39年(1906年)9月8日)は、日本の実業家、政治家。住田呉服店の主人。旧姓・瀬尾。元米子銀行監査役。初代米子町名誉助役。第四代米子町長。 元米子町会議員住田寅次郎の父。娘は境町(現境港市)の回船問屋武良(むら)家に嫁いだ。漫画家水木しげる(本名:武良茂)は善平の曾孫にあたる。 鳥取県西伯郡成実村大字美吉・瀬尾家に生まれた。與喜蔵の二男。幼名を光太郎と称す。米子東倉吉町住田善吉の養嗣となり家督を継承し四代の主となる。住田氏は近世期中ごろから東倉吉町に居住し、“住田屋”を号した。衣料、雑貨を営業し、近代に入って呉服類を中心に営業を継続拡張した。
佐々田 懋(ささだ すすむ / すすみ、安政2年11月6日(… 佐々田 懋(ささだ すすむ / すすみ、安政2年11月6日(1855年12月14日) - 昭和15年(1940年)3月27日)は、日本の実業家、政治家。島根県多額納税者。佐々田合名会社社長。衆議院議員、貴族院議員。 孫・百合子は元中国電力会長櫻内乾雄の妻。 石見国那賀郡木田村(現・島根県浜田市)の豪農である佐々田家に生まれる。佐々田家は尼子義久の子佐々田宗久が、尼子氏の先祖である佐々木氏と妻の実家の名である田中氏の名を取って創始した。和漢学を修めた。 浜田県会議員、浜田県十五等出仕、那賀郡会議員、島根県会議員、島根県会議長を務めた。1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙に島根県第5区から出馬し衆議院議員に初当選。
沢山 精八郎(澤山、さわやま せいはちろう、1855年12月… 沢山 精八郎(澤山、さわやま せいはちろう、1855年12月11日(安政2年11月3日) - 1934年(昭和9年)3月21日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 肥前大村藩士・沢山熊右衛門の長男として生まれる。長崎広運館にて英学を修める。1899年(明治32年)家督を相続した。島原水電、沢山汽船、沢山兄弟商会、遠洋漁業、九州汽船各社長、長崎銀行頭取、長崎製鉄所取締役などを歴任した。ほか、長崎市名誉参事会員、同市会議員、長崎商業会議所副会頭などを務めた。 1925年(大正14年)長崎県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1932年(昭和7年)9月28日まで在任した。
中村 弥六(なかむら やろく、安政元年12月8日〔1855年… 中村 弥六(なかむら やろく、安政元年12月8日〔1855年1月25日〕 - 昭和4年〔1929年〕7月7日)は日本の林学者・農商務官僚・政治家(代議士)。号は「背水」または「背山」で、通称「背水将軍」。 日本初の林学博士の一人で、原敬首相暗殺犯中岡艮一の大叔父(中岡の父・精の叔父)にあたる。歴史学者の中山久四郎元東京文理科大学教授は養子で、その長女二三子は、南洋拓殖社長を務めた下田文一の妻。 信濃国伊那郡高遠城下(現在の長野県伊那市)に儒学者・中村元起(黒水と号す)の二男として生まれる。中村家は代々高遠藩の藩儒の家柄。明治2年(1869年)上京し安井息軒に学んだのち、翌年貢進生として開成学校に入学する。
有友 正親(ありとも まさちか、旧姓・檜田、1855年11月… 有友 正親(ありとも まさちか、旧姓・檜田、1855年11月30日(安政2年10月21日)‐ 1913年(大正2年)2月15日) は、明治期の篤農家、名望家、実業家、政治家。衆議院議員。族籍は愛媛県平民。 伊予国喜多郡若宮村(現愛媛県大洲市) の檜田家に生まれ、9歳で同郡菅田村(現大洲市)の有友平右衛門(正盛)の養子となる。藩校で学んだが、ほとんどは独学で学問を習得した。農業を営む。 明治維新後、喜多郡租税掛、愛媛県地租改正顧問、戸長、学務委員、県勧業委員などを務めた。1882年(明治15年)に結成された立憲改進党に入党。1884年(明治17年)5月、愛媛県会議員に選出された。松方デフレで困窮した農民たちを代弁して、県の四国新道開削計画に反対した。
佐々木 正蔵(ささき しょうぞう、安政2年10月21日(18… 佐々木 正蔵(ささき しょうぞう、安政2年10月21日(1855年11月30日) - 昭和11年(1936年)2月7日)は、明治・大正期に活動した治水家・政治家(衆議院議員)。 筑後国御井郡光行村(現・福岡県小郡市)の佐藤家に生まれる。のちに佐々木家の養子となり、上東鯵坂村の庄屋となる。 下西鯵坂村の庄屋であった田中政義・新吾親子とともに、たびたび氾濫を起こしていた筑後川の治水のための調査を進める。明治14年(1881年)、田中政義・新吾親子とともに福岡県会議員に当選、県会で筑後川改修の必要を説いた。また、上京して政府との交渉もおこなっている。 明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙では、福岡県第四区(御井郡・竹野郡など)から立候補して衆議院議員に当選、大成会に属した。
末延 道成(すえのぶ みちなり、1855年11月28日(安政… 末延 道成(すえのぶ みちなり、1855年11月28日(安政2年10月19日) - 1932年(昭和7年)5月24日)は、日本の実業家・政治家。東京海上火災保険取締役会長、貴族院議員。 土佐国(高知県)香美郡夜須村出身。医師の末延立誠(1827-1896)の長男として生まれる。15歳で藩校・到道館に入り、1872年(明治5年)に大阪に出て英語を学んだ後、上京して立教学校(立教大学の前身の一つ)で学ぶ。その後、開成学校を経て1879年(明治12年)に東京大学法学部を卒業。翌年磯野計とともに岩崎弥太郎の給費留学生に選ばれて英国留学後、三菱入社。三菱汽船支配人や取締役ほか、日本郵船の重役を務め、1887年(明治20年)には明治生命、東京海上の取締役を務めた。
遠藤 秀景(えんどう ひでかげ、1854年12月20日(安政… 遠藤 秀景(えんどう ひでかげ、1854年12月20日(安政元年11月1日)- 1911年(明治44年)5月16日)は、明治時代の政治家、漁業家。自由民権運動家。衆議院議員(1期)。幼名は岩太郎。 加賀藩士で素封家の父、遠藤柳の長男として加賀国河北郡浅野村(石川県河北郡中口村、小坂村を経て現金沢市小橋町および昌永町)に生まれる。幼くして関兵次郎、矢野三内、太田清蔵、秦秀植、南部虎之助などに付き剣術や槍術を学んだ。ついで島田定静の門に入り文学を修め、同門の塾長となった。18歳の時、仏学校に入るが退学し、県立中学に転じた。 1877年(明治10年)西南戦争が勃発すると島田一郎らが西郷隆盛を援けることを主張したが、これに反対した。
浜野 昇(はまの のぼる、1854年12月17日(安政元年1… 浜野 昇(はまの のぼる、1854年12月17日(安政元年10月28日) - 1920年(大正9年)2月11日)は、日本の医師、政治家。
小野木 源次郎(おのぎ げんじろう、安政元年10月28日〈1… 小野木 源次郎(おのぎ げんじろう、安政元年10月28日〈1854年12月17日〉 - 1925年〈大正14年〉9月11日)は、幕末・戊辰戦争期の武士、明治から大正にかけての警察官・実業家・政治家である。 会津藩藩士として生まれ、戊辰戦争に従軍。その後は警察官に転じ、各地の警察署長や県警察部長などを歴任した。1907年(明治40年)より実業界に転じて長野県の電力会社信濃電気の社長に就任し、1912年(大正元年)には郷里の福島県若松市(現・会津若松市)に戻って若松市長(第5代)を務めた。 小野木源次郎は、安政元年10月28日(新暦:1854年12月17日)、会津若松城下(現・福島県会津若松市)に生まれた。
重野 謙次郎(しげの けんじろう、1854年12月16日〈安… 重野 謙次郎(しげの けんじろう、1854年12月16日〈安政元年10月27日〉 - 1930年〈昭和5年〉11月5日)は、衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会→無所属)。 出羽国天童に天童藩士重野謙次郎の子として生まれる。戊辰戦争では藩主に従い奔走した。1869年(明治2年)、藩命により東京に遊学。一度は郷里に戻るも再び上京し、講学法社で法学を学んだ。1880年(明治13年)に山形で「法律学社」を創設し、自由民権運動を推進した。また集会条例改正を建白したことで衆望を集め、翌1881年(明治14年)7月、山形県会議員に選出された。1886年(明治19年)2月26日から1887年(明治20年)12月7日まで同副議長を務めた。
松村 脩平(まつむら しゅうへい、1854年12月7日(安政… 松村 脩平(まつむら しゅうへい、1854年12月7日(安政元年10月18日) - 1927年(昭和2年)10月7日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。茨城県結城郡宗道村長。 下総国、のちの茨城県結城郡宗道村(千代川村を経て現下妻市)出身。小川八郎の弟として生まれ、1874年(明治7年)松村新造の養子となり家督を相続したのち、更に養子直四郎に譲り、1912年(大正元年)11月分家する。 1889年(明治22年)以降、宗道村会議員、同村長、茨城県会議員、結城郡会議員などのほか、石下銀行取締役を歴任した。 1897年(明治30年)9月には茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1898年(明治31年)7月5日まで務めた。
滝沢菊太郎/瀧澤菊太郞(たきざわ きくたろう、1854年12… 滝沢菊太郎/瀧澤菊太郞(たきざわ きくたろう、1854年12月4日(嘉永7年10月15日) - 1933年(昭和8年)1月12日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者。府県師範学校長。 信濃国埴科郡福井村(現・長野県千曲市)生まれ。14歳で寺子屋に学び私塾で漢学を修める。1874年に上京、日本橋の私塾日章堂、次いで慶應義塾に入塾し英学を学ぶ。1876年東京師範学校に入学。師範教育取調を目的とする米国留学から帰国した伊沢修二・高嶺秀夫が、ペスタロッチ主義教育(開発教授)の本格的導入を開始した時期であったため、卒業取消を願って3年の履修課程を6年かけ、1882年2月に同校中学師範学科を卒業した。
田村 怡与造(たむら いよぞう、1854年11月30日(嘉永… 田村 怡与造(たむら いよぞう、1854年11月30日(嘉永7年10月11日) - 1903年(明治36年)10月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将、位階・勲等・功級は従四位・勲二等・功三級。 甲斐国東山梨郡相興村中尾(現山梨県笛吹市一宮町)に田村義事の長男として生まれる。田村家は中尾神社宮司の家系で、祖は武蔵七党の西党に属していたという。弘綱の代で田村姓を名乗り、室町時代に武蔵国から甲斐へ移る。一宮の私塾で学び、塾頭となる。1872年(明治5年)に学制が敷かれると中尾学校(のちの一宮北小学校)の校長となる。早川七良の娘・伝子を妻に迎えて養子となり早川姓を名乗る。 1875年(明治8年)2月に上京し、東京府市谷の陸軍士官学校の旧2期生として入学。
図師 民嘉(ずし たみよし、安政元年10月4日〈1854年1… 図師 民嘉(ずし たみよし、安政元年10月4日〈1854年11月23日〉 - 1922年〈大正11年〉7月1日)は、明治期日本の鉄道官僚。鉄道院計理部長などを歴任し、鉄道経理の確立を行った。 鹿児島市潮見町で生まれ、商法講習所(現一橋大学)で学んだ。1873年外務省入省。1876年から1878年までアメリカ合衆国で経理を学び、帰国後第五国立銀行入行。 1879年に工部省権少書記官任官以来、会計事務に従事し、日本における鉄道経理の確立を行った。 1884年鉄道局少書記官。1885年逓信省鉄道事務官。1890年鉄道局会計課長。1893年鉄道庁第三部長心得。同年逓信省計理課長。 1897年鉄道作業局計理部長。
野田 卯太郎(のだ うたろう、嘉永6年旧暦11月21日(18… 野田 卯太郎(のだ うたろう、嘉永6年旧暦11月21日(1853年12月21日) - 昭和2年(1927年)2月23日)は日本の政治家、実業家。号は大塊。衆議院議員、逓信大臣、商工大臣などを務めた。福岡県平民。一平民から大臣にまで昇った立身出世を体現するような人物である。
告森 良(こつもり りょう / こつもり はじめ / つげも… 告森 良(こつもり りょう / こつもり はじめ / つげもり りょう、1853年12月21日(嘉永6年11月21日) - 1919年(大正8年)11月27日)は、明治から大正期の内務官僚。官選県知事。 伊予国宇和島城下御殿町(現愛媛県宇和島市)出身。宇和島藩士・告森桑圃の長男として生まれる。1873年、神山県に出仕。以後、兵庫県、広島県、長崎県、愛媛県、京都府で勤務。 1887年5月、愛媛県東宇和郡長に就任。以後、兼西宇和郡長、京都府参事官、岐阜県参事官、埼玉県書記官、岡山県書記官、徳島県書記官などを歴任。 1908年3月、鳥取県知事に就任。倉吉中学校・県立商業学校の新設、農事試験場拡張、耕地整理事業、因伯牛の改良などを推進。
上村 精之助(かみむら せいのすけ、1853年12月1日(嘉… 上村 精之助(かみむら せいのすけ、1853年12月1日(嘉永6年11月1日)- 1929年(昭和4年)2月1日)は、明治から大正期の農業経営者・政治家。衆議院議員、鹿児島県肝属郡花岡村長。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下(現鹿児島県鹿児島市)で生まれた。漢学を修めた。海軍兵学校、大阪英語学校で学んだ。 1881年(明治14年)犬童英輔らと博愛社を結成し、県下各地で演説会を催した。三州社が結成され博愛社はこれに合同した。九州改進党に加わらなかったが、鹿児島同志会が結成されると加入して委員となる。 その後、肝属郡花岡村(現鹿屋市花岡)に移り農業を営み、1887年(明治20年)8月、鹿児島県会議員に選出された。
三吉 正一(みよし しょういち、1853年11月28日(嘉永… 三吉 正一(みよし しょういち、1853年11月28日(嘉永6年10月28日) - 1906年(明治39年)3月24日)は、明治中期の日本の技術者。日本初の電気機器製造会社である三吉電機工場を経営し、電気機器の国産化を図った。 三吉正一は周防国岩国に生まれた。家は岩国領主吉川氏に仕え、祖父は佐久間象山や勝海舟とも親交があったという。1871年(明治4年)に大阪の開城学校に入学、翌年には上京して同郷先輩宅に寄宿していたが1875年(明治8年)上州富岡製糸場の伝習生となりその技術を学ぶことになった。やがて工部省が学校を創立し、学生を募集することを知り上京して勝海舟と面会して入学の希望を伝えた。そして東京電信修技校に入学することとなり通信術を学んだ。
井上 彦左衛門(いのうえ ひこざえもん、1853年11月25… 井上 彦左衛門(いのうえ ひこざえもん、1853年11月25日(嘉永6年10月25日) - 1929年(昭和4年)5月2日)は、明治から大正時代の政治家、銀行家。新聞経営者。大地主。衆議院議員(5期)。幼名は幾次郎。 先代の豪農・井上彦左衛門の長子として、駿河国有渡郡八幡村(安倍郡豊田村を経て現静岡市)に生まれ、1883年(明治16年)3月、家督を相続する。下総の遠藤良規に学ぶが水戸城焼失事件で疑われ投獄される。1873年(明治6年)釈放され帰郷し、1882年(明治15年)野崎銀行創立に参画し取締役兼支配人に就任する。1884年(明治17年)静岡県会議員に当選し1890年(明治23年)まで務めた。
大森 治豊(おおもり はるとよ、嘉永5年11月10日(185… 大森 治豊(おおもり はるとよ、嘉永5年11月10日(1852年12月20日) - 1912年2月19日)は日本の外科医、医学博士。日本の腹部外科の開拓者。 1852年(嘉永5年)、上山藩御典医、大森快春の長男として江戸に生まれる。以後、出羽国上山藩に移り、藩校の明新館に入学。 1879年東京大学医学部卒業後、福岡医学校に赴任し、1885年同校校長となる。1885年日本で初めて帝王切開手術に成功し、以来次々に腹部手術を行う。 1903年、福岡医科大学が創設された際に、初代学長兼付属医院長となり、外科学講座をもつ。1909年病気により退官、1911年九州帝国大学名誉教授。 1910年、九州大学医学部に大森の銅像が建てられた。
岸本辰雄(きしもと たつお/ たつゆう、1852年12月18… 岸本辰雄(きしもと たつお/ たつゆう、1852年12月18日(嘉永5年11月8日) - 1912年(明治45年)4月4日)は、日本の法学者。明治大学の創設者。 因幡国南本寺町(現在の鳥取市)に鳥取藩士岸本平次郎の三男として生まれる。幼名、辰三郎。当初藩校尚徳館で蘭式兵法を修める。 戊辰戦争に従軍後、1869年(明治2年)、箕作麟祥の共学塾に入門。翌年、貢進生として鳥取藩の推薦を受け、大学南校(後の東京大学)に入学。1872年(明治5年)、新設の司法省明法寮(後に司法省法学校)に第一期生として入学。ジョルジュ・ブスケ、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードらにフランス法を学び1876年(明治9年)卒業。
八巻 九万(八卷 九萬、やまき くまん、1852年12月14… 八巻 九万(八卷 九萬、やまき くまん、1852年12月14日(嘉永5年11月4日)- 1929年(昭和4年)4月1日)は、明治から昭和初期の大地主、政治家。衆議院議員、山梨県会議長。号・水竹漁史。幼名は熊太郎。 甲斐国巨摩郡箕輪村(山梨県北巨摩郡安都那村箕輪、高根村、高根町を経て現北杜市高根町箕輪)で、大地主の家に生まれる。父は勘弥、母はちゑ子。徽典館で学び、その後も学業を続けたいとの希望がかなえられず出奔し、上京して慶應義塾で学んだ。父の病の知らせにより帰郷して看病に手を尽くしたが死去し、家督を相続して東京に戻り、学業を終えて帰郷した。 戸長、区長総代理、学区総取締などを歴任。1879年(明治12年)山梨県会議員に選出され、同議長も務めた。
広住 久道(ひろずみ きゅうどう、1852年12月7日(嘉永… 広住 久道(ひろずみ きゅうどう、1852年12月7日(嘉永5年10月26日) - 1910年(明治43年)2月5日)は、明治時代の政治家。自由民権運動家。衆議院議員(5期)。 遠江掛川藩領志太郡阿知ヶ谷村(静岡県志太郡六合村を経て現島田市)に生まれる。斎藤拝石に漢学を学び、15歳にして阿知ヶ谷村の名主になる。1871年(明治4年)同村に栄昌舎を創立し、後進の教育に尽くした。国会開設請願運動にも関わり、郷里の有志惣代として奔走した。1882年(明治15年)静岡県会議員に当選し、同年立憲改進党が組織されると静岡県改進党に入党した。 1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙では静岡県第3区から出馬し当選。
瀧川 辨三(たきがわ べんぞう、嘉永4年11月21日(185… 瀧川 辨三(たきがわ べんぞう、嘉永4年11月21日(1851年12月13日) - 大正14年(1925年)1月12日)は、日本の実業家、政治家。 1884年、神戸で興したマッチ製造会社(精燧社)が成功、精燧社は数々の会社を吸収して東洋燐寸株式会社と改名し、辨三は「日本のマッチ王」と呼ばれるようになる。神戸のガス・水道・電気・築港などの公共事業にも参画した。神戸商工会議所会頭、貴族院多額納税者議員(1915年1月21日 - 1918年9月28日)などを歴任し1925年没。享年75。 嘉永4年(1851年)11月21日長府藩士瀧川清の二男として生まれた(戸籍では兵庫県平民)。幼名は百十郎、通称は武熊。
尾形 兵太郎(おがた ひょうたろう、嘉永4年11月14日(1… 尾形 兵太郎(おがた ひょうたろう、嘉永4年11月14日(1851年12月6日)- 昭和9年(1934年)1月4日)は、衆議院議員(憲政本党)、弁護士。 岡山藩士尾形徳蔵の長男として岡山城下上内田町(現在の岡山市北区)に生まれる。岡山藩藩学で漢学を学んだ後、1865年(元治2年)に岡山兵学館に入り、洋式兵学を学んだ。1870年(明治3年)、兵学三等教授に就任するが、翌年の廃藩置県で藩兵が廃止されるとともに、兵学館も閉鎖となった。1876年(明治9年)、代言人制度の発足とともに代言人の免許を取得し、岡山で開業した。翌年、神戸に移り、さらに1881年(明治14年)に大阪に移った。 憲政本党に入党し、機関紙『関西週報』の発行にあたった。
能川 登(のがわ のぼる、1851年12月5日(嘉永4年11… 能川 登(のがわ のぼる、1851年12月5日(嘉永4年11月13日)- 1910年(明治43年)4月7日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・辰太郎。号・西京農夫。 加賀国石川郡本吉町(金沢県石川郡美川町、石川県石川郡美川町を経て現白山市美川本吉町)で、船主・能川太平治の長男として生まれる。金沢の叔父・畑春斎宅に寄寓し漢学を修めた。13歳で帰郷し、郷校開道館・素読教師、加賀藩銃卒取締、駅逓取締を務めた。1879年(明治12年)家督を相続。 1874年(明治7年)大阪に出て法学を研究し、1877年(明治8年)京都に移り、草場船山に師事し漢学を修めた。1878年(明治9年)9月、京都米商会所の創立委員として上京し、政府に出願をしたが許可を得られなかったため、内務卿大久保利通に面会して允許の内諭を得て帰京した。
奥宮 正治(おくみや まさはる、嘉永4年11月12日(185… 奥宮 正治(おくみや まさはる、嘉永4年11月12日(1851年12月4日) - 1927年(昭和2年)7月20日)は、明治時代の司法官僚。大審院検事。宮城控訴院検事長。幼名は猪左馬。 奥宮慥斎の長男として土佐高知藩領土佐郡布師田村(現高知市布師田)に生まれる。1873年(明治6年)司法省に出仕する。1881年(明治14年)検事に進み、1890年(明治23年)広島地方裁判所検事正となり、神戸地方裁判所検事正、横浜地方裁判所検事正を歴任し、1896年(明治29年)司法書記官に任じた。1899年(明治32年)大審院検事となり、のち宮城控訴院検事長に就任した。
栗野 慎一郎(くりの しんいちろう、嘉永4年11月7日(18… 栗野 慎一郎(くりの しんいちろう、嘉永4年11月7日(1851年11月29日) - 昭和12年(1937年)11月15日)は、明治・大正期の日本の外交官。初代駐フランス特命全権大使。
高取 伊好(たかとり これよし、1850年12月15日(嘉永… 高取 伊好(たかとり これよし、1850年12月15日(嘉永3年11月12日) - 1927年(昭和2年)1月7日)は、明治時代に活躍した佐賀藩出身の実業家、炭鉱技術者である。漢詩も嗜み西渓と号した。正六位。 法律家で元老院議員を務めた鶴田皓は実兄。Z旗のTakaこと高取ヒデアキとNobuこと高取伸和は曾孫。佐藤栞里の遠い親戚でもある。 1850年、佐賀藩多久領の武士、鶴田斌の三男として生まれる。その後、9歳の時には姉の嫁ぎ先である高取家の養子となりその家督を継いだ。 また、多久家の世継ぎである多久乾一郎の御学友に選ばれており、多久藩の郷校東原庠舎や佐賀藩校弘道館などで共に漢学と国学を学んでいる。
大須賀 庸之助(おおすが ようのすけ、嘉永3年11月4日(1… 大須賀 庸之助(おおすが ようのすけ、嘉永3年11月4日(1850年12月7日)-明治39年(1906年)4月17日)は、明治期の政治家。下総国香取郡磯山(現在の千葉県香取市(旧佐原市))出身。 豪農の出身で26歳の時に地元・磯山の戸長を務めて地租改正の実施に尽くした。その後千葉県の県会議員を務め、明治14年(1881年)に香取郡の郡長に就任して利根川の治水対策や佐原出身の伊能忠敬の贈位実現に尽力した。その頃、庸之助をはじめとする香取郡の人々は利根川の洪水防止策を求めていたが、利根川の恩恵を受けられずに水不足に苦しむ房総半島の人々はこれに強く反発して、地域間の対立を生じていた。そこで明治17年(1884年)、千葉県側の治水対策に不満を抱く茨城県と房総半島選出の県議達が連携して利根川以北の千葉県域を茨城県に譲る替わりに利根川の治水工事に茨城県が費用を負担するとした県境変更運動を開始したのである。
葦原 金次郎(あしわら きんじろう、嘉永3年11月3日(18… 葦原 金次郎(あしわら きんじろう、嘉永3年11月3日(1850年12月6日) - 1937年(昭和12年)2月2日)は、明治後半から昭和にかけての日本の皇位僭称者。葦原将軍、葦原天皇、葦原帝とも呼ばれる。また「葦」の字を「蘆(芦)」として蘆原金次郎、蘆原将軍とされる場合もある。訓みは旧仮名遣いでは「あしはら」と表記されるが、発音は「あしわら」である。 生まれは越中国高岡(現在の富山県高岡市)とする文献と、加賀国金沢(現在の石川県金沢市)とする文献がある。 埼玉県深谷で櫛職人として働いていたが、20歳の時に東京に出て発病したと言われる。24歳の時に結婚したが、懲役に処せられたことから妻に逃げられ離婚。
堅田 少輔(かただ しょうすけ、嘉永3年10月26日(185… 堅田 少輔(かただ しょうすけ、嘉永3年10月26日(1850年11月29日)- 大正8年(1919年)11月29日)は、幕末の長州藩士、明治から大正初期の教育者、政治家。長州藩家老、衆議院議員、山口県都濃郡湯野村長。旧姓・高洲。諱・信義、親正。通称・健助、大和、少輔。 長門国阿武郡萩平安古(山口県阿武郡萩町を経て現萩市平安古)で、長州藩寄組士・高洲平七元忠の五男として生まれた。嘉永4年(1851年)同藩寄組士筆頭・堅田安房謹恪の婿養子となり家督を相続した。 慶応元年(1865年)5月、八幡隊総管に就任。慶応2年(1866年)6月)、第二次長州征討で芸州口から豊前小倉に転戦した。慶応3年(1867年)、鋭武隊総管となる。
湯浅 治郎(ゆあさ じろう、嘉永3年10月21日〈1850年… 湯浅 治郎(ゆあさ じろう、嘉永3年10月21日〈1850年11月24日〉 - 1932年〈昭和7年〉6月7日)は、日本の明治から昭和戦前期にかけての政治家(衆議院議員、群馬県会議員)・実業家・社会運動家。雅号は雲外。同郷の新島襄から洗礼を受け、中村栄助、大澤善助とともに経営面で初期同志社を支えた。 弟は詩人の湯浅吉郎(半月)、妻は徳富蘇峰・蘆花の姉・初子、子に画家の湯浅一郎や同志社総長・国際基督教大学学長の湯浅八郎など。海老名弾正、山室軍平、深井英五らと親交があった。 嘉永3年10月21日(1850年11月24日)、上野国碓氷郡安中宿(現在の群馬県安中市)にて味噌醤油醸造業者・有田屋を経営する湯浅治郎吉・茂世の長男として生まれる。
織田 惣三郎(おだ そうざぶろう、1849年12月17日(嘉… 織田 惣三郎(おだ そうざぶろう、1849年12月17日(嘉永2年11月3日) - 1957年(昭和32年)3月28日)は、かつて男性長寿日本一であった福井県の男性。 1849年石川県(加賀国)能美郡白峰村に生まれ、88歳までそこで暮らすが、1934年の大水害により福井県勝山市平泉寺町に移住する。 100歳ぐらいまでは草刈りなどをし、106歳時点でも酒を3合程度飲んでいた。父は92歳、母は84歳、兄弟も80~90歳代まで生きた長寿の家系であった。 1956年9月時点では国内最高齢男性とされ、子は5人のうち2人が存命でひ孫まで合わせて19人であった。 1957年3月28日、老衰のため107歳で死去。
桂 弥一(かつら やいち、嘉永2年(1849年)12月10日… 桂 弥一(かつら やいち、嘉永2年(1849年)12月10日 – 昭和14年(1939年)6月19日)は、幕末から明治・昭和初期にかけての長府藩士、維新志士、牧畜事業家。諱は孝俊。初め季澄と名乗る。維新後は牧畜・開墾事業を通じて公共に尽力し、没後に従六位を追贈された。 嘉永2年(1849年)12月10日、長府藩士桂助左衛門久澄の子として長府に生まれる。父は12代桂土左衛門(大江久澄)、母は原田則朗(金弥)の娘で、末子であった。幼少期は8歳で三吉幸之助・土生静馬に書画・読書を学び、11歳より山田易之助・井上源三郎に師事して小笠原流を修めた。12歳のとき、のちの大将乃木希典(当時は乃木無人)とともに菅文達に学び、漢籍の素養を身につけた。
塩田 奥造(鹽田、しおだ おくぞう、1849年11月29日(… 塩田 奥造(鹽田、しおだ おくぞう、1849年11月29日(嘉永2年10月15日) - 1927年(昭和2年)2月6日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 下野国都賀郡、のちの栃木県下都賀郡吹上村(現栃木市吹上町)で、郷士、大庄屋・塩田嘉門の長男として生まれる。吹上藩の明倫学校で学んだ。 1871年(明治4年)廃藩置県に際して事務取扱となる。以後、吹上外三十二カ村区長、下都賀郡学区取締などを務めた。1880年(明治13年)11月、横堀三子と共に芳賀郡外の総代として国会開設請願書を提出し、同年12月、栃木県会議員に選出され、1882年(明治15年)7月、常置委員に就任。1884年(明治17年)加波山事件では犯人逃亡幇助の罪で検挙され六箇月入獄した。
越智 彦四郎(おち ひこしろう、嘉永2年10月12日(184… 越智 彦四郎(おち ひこしろう、嘉永2年10月12日(1849年11月26日) - 明治10年(1877年)5月1日)は、幕末の筑前福岡藩士、勤皇家、自由民権運動家。 福岡藩士・井土佐平太の次男として生まれる。藩校修猷館に学ぶ。維新後に分家し越智姓を名乗る。 戊辰戦争では皇軍の福岡藩軍に属し、大砲隊長・根本源五左衛門のもとで東北地方に転戦し功を挙げ、賞典禄を受ける。その後、高場乱の興志塾に学び、ここで同志となる武部小四郎や、後に玄洋社を設立する箱田六輔、進藤喜平太、奈良原至、宮川太一郎、頭山満らと出会う。 1874年2月、江藤新平が挙兵した佐賀の乱に際し、博多に来ていた内務卿大久保利通に面会して調停を申し出たが、かえって大久保と児玉源太郎に鎮撫行動を要請され、政府軍の鎮撫隊の小隊長として箱田、宮川ら450名余を率いて佐賀に入った。
家永 芳彦(いえなが よしひこ、1849年11月24日(嘉永… 家永 芳彦(いえなが よしひこ、1849年11月24日(嘉永2年10月10日) - 1913年(大正2年)8月5日)は、明治から大正時代の政治家、弁護士。自由民権運動家。新聞経営者。衆議院議員(3期)。 佐賀藩士。肥前国佐賀郡西田代町(現佐賀市)生まれ。安政3年(1856年)に藩校弘道館に入り漢学を修める。戊辰戦争に従軍し奥羽で戦傷を受けた。明治維新後、佐賀藩中学校(のち佐賀中学校、現・佐賀県立佐賀西高等学校)寮監を務めたのち明治5年(1872年)上京、江藤新平宅に寄寓し、漢学およびドイツ語を修めた。江藤と共に帰郷後、明治7年(1874年)の佐賀の乱で戦った。その後、兄の家永恭種が同志と共に興した政治結社「松風社」に参加し民権の発揚を訴え、明治8年(1875年)同社の長崎支社の支社長となり、1878年(明治11年)長崎上等裁判所より代言人の免許を得る。
原田 二郎(はらだ じろう、嘉永2年10月10日〈1849年… 原田 二郎(はらだ じろう、嘉永2年10月10日〈1849年11月24日〉 - 昭和5年〈1930年〉5月5日)は、日本の実業家・篤志家。伊勢国松阪(現・三重県松阪市)出身。公益財団法人原田積善会の創設者。歌人としての号は原田嘉朝、詩人としての号は原田均斎。 嘉永2年10月10日(1849年11月24日)、伊勢国松阪城下の同心町(現・三重県松阪市殿町)に生まれた。父は東谷小平次の四男である清一郎、母は田中彦左衛門の長女である時雨子であり、いずれも原田家に養子に入った人物である。幼名は徳松であり、上京する頃までこの名前を用いた。原田家は下級武士の家であるが、徳松は文武両道に秀でており、14歳だった文久2年(1862年)には松阪学問所から褒章を受けている。
浅井 洌(あさい れつ / きよし、嘉永2年10月10日(1… 浅井 洌(あさい れつ / きよし、嘉永2年10月10日(1849年11月24日) - 昭和13年(1938年)2月27日)は幕末期日本の武士(松本藩士)、明治から昭和初期にかけての教育者。若い時代には自由民権運動家としての活動があった。また、現在でも長野県で広く歌われている県歌「信濃の国」の作詞者として知られる。 旧制中学教員などをへて、1886年(明治19年)長野師範学校教諭となる。1899年(明治32年)『信濃教育会雑誌』に「信濃の国」を発表、北村季晴の作曲により県下で広く歌われるようになる。1918年(大正7年)に70歳で退職するまで長野師範教諭を務め、さらに嘱託として1926年(大正15年)6月まで40年間にわたって師範教育に尽くした。
左右田 金作(そうだ きんさく、1849年11月23日(嘉永… 左右田 金作(そうだ きんさく、1849年11月23日(嘉永2年10月9日) - 1915年(大正4年)3月26日)は、幕末から大正時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。開港した横浜で両替商を始めて成功し、銀行を興した。 越後の豪農を祖とする左右田金兵衛の二男として、上野国緑野郡鬼石村(群馬県緑野郡鬼石町、多野郡鬼石町を経て現藤岡市鬼石)に生まれる。左右田信二郎の義兄。1872年(明治5年)1月、分家する。 高崎の染絹問屋、鬼石の酒造業者などで奉公したのち、1863年(文久3年)13歳の時、横浜に移り、蚕糸商中里商店で働いたが製糸家を目指して帰郷するも種紙の製造に失敗し、再び横浜に出て、空びん回収や露天商で糊口をしのぐうち、衣類の質入れで作った金で1867年に両替商(ドル屋)「松野屋」を開く。
近藤 廉平(こんどう れんぺい、1848年12月20日(嘉永… 近藤 廉平(こんどう れんぺい、1848年12月20日(嘉永元年11月25日)- 1921年(大正10年)2月9日)は、幕末から大正期の武士(徳島藩士)、実業家、政治家、華族。男爵、日清汽船社長、日本郵船会社第3代社長、貴族院男爵議員。 阿波国麻植郡(のちの鴨島町西麻植江川、現・徳島県吉野川市)の医者の家に生まれる。 1862年(文久2年)に徳島藩中老である仁尾内膳の書生となる。同年、新居水竹の小心塾にて益田永武と共に学ぶ。その後、柴秋邨の思斉塾に転学。当時出会った阿部興人とは終生の親友となる。師であった水竹が庚午事変に関係して切腹を命じられた際は、徳島市の潮見寺に遺髪を葬った。 慶應義塾、大学南校に学び、1872年(明治5年)淡路出身の星合常恕に勧められ岩崎弥太郎が経営する三菱商会に入る。