伊藤 悌治(いとう ていじ、1858年8月4日(安政5年6月… 伊藤 悌治(いとう ていじ、1858年8月4日(安政5年6月25日) - 1919年(大正8年)12月18日)は、明治から大正時代の司法官。大審院判事。位階および勲等は従三位・勲二等。 士族・大矢益彦の二男として越後新発田藩領蒲原郡中高井村(新潟県中蒲原郡中高井村、根岸村、白根町、白根市を経て現新潟市南区)に生まれ、12歳の時北蒲原郡水原町(現在の阿賀野市)の伊藤退蔵の養子となる。。1883年(明治16年)7月、東京大学法学部を卒業し、判事となり、。東京始審裁判所刑事公判および会議局に職を得た。翌年仙台始審裁判所詰めとなる。1886年、東京控訴院評定官を経て、1892年(明治25年)東京控訴院部長なった。
成瀬 仁蔵(なるせ じんぞう、安政5年6月23日〈1858年… 成瀬 仁蔵(なるせ じんぞう、安政5年6月23日〈1858年8月2日〉 - 大正8年〈1919年〉3月4日)は、日本の牧師・教育者。日本における女子高等教育の開拓者の1人である。族籍は山口県士族。 周防国吉敷郡吉敷村(現在の山口県山口市吉敷赤田大形)に生まれる。成瀬小右衛門の長男。成瀬家はもとは河崎姓で、仁蔵の父の代に成瀬姓を名乗る。父は長州藩毛利家の一門・吉敷毛利家に仕える下級武士。仁蔵の母・歌子は隣村の大歳村出身で、藩士である秦家の娘。 仁蔵は幼少時は郷校の憲章館に学び、維新後の1874年(明治7年)には調剤師として医家に住み込む。この年には父が死去し、山口の教員養成所(山口師範学校)の2期生となる。
山田 東次(やまだ とうじ、安政5年6月21日(1858年7… 山田 東次(やまだ とうじ、安政5年6月21日(1858年7月31日) - 明治32年(1899年)12月18日)は明治期の政治家、法学者、教育者。衆議院議員、法典調査会委員、和仏法律学校(現法政大学)理事。 東京法学校卒業後、同校主幹の薩埵正邦の助手として法学教育に携わり、高崎法律学校(1886年(明治19年)開校)に薩埵と毎週交代で出講している。 また、中央法学会において法律雑誌を出版し、法学の啓蒙・教育活動に努めている。 その後、自由党系衆議院議員として活躍し、法典調査会委員に私立法律学校出身者として唯一人就任している。 民法典論争では断行派に立ち、宮城浩蔵・小笠原貞信らとともに「民法中一部延期ニ関スル法律案」を提出し、延期派に対して最後の抵抗を示している。
安井 小太郎(やすい こたろう、1858年7月29日〈安政5… 安井 小太郎(やすい こたろう、1858年7月29日〈安政5年6月19日〉 - 1938年〈昭和13年〉4月2日)は、日本の漢学者。名は朝康、号は朴堂(安井朴堂)。安井息軒の外孫。著作に『日本儒学史』など。 1858年、江戸出身。母親は安井息軒の長女の須磨子。父親は息軒の門人で攘夷志士の中村貞太郎(北有馬太郎)。 1862年、小太郎が幼少の頃、貞太郎が清河八郎をかくまった罪で逮捕され獄死する。貞太郎は逮捕前に家族に罪が及ぶのを避けて離婚したため、小太郎は息軒に引き取られて育つ。とくに9歳から14歳の間、息軒の故郷の日向国宮崎郡(現在の宮崎県)で暮らす。 1871年、宮崎から東京に出て息軒の三計塾に入る。
小山 健三(こやま けんぞう、1858年7月23日(安政5年… 小山 健三(こやま けんぞう、1858年7月23日(安政5年6月13日) - 1923年(大正12年)12月19日)は明治時代から大正時代にかけての日本の官僚、教育者、実業家。 前半生は教育者、近代日本教育の建設者として、とりわけ専門教育の礎を築くことに大きな功績を残し、高等商業学校(1902年に東京高等商業学校に改称、現・一橋大学)校長などを歴任。後半生は、三十四銀行(後の三和銀行、現三菱UFJ銀行)第2代頭取に就任して、事業を大きく発展させるとともに、日本の金融界の発展に尽くす。福澤諭吉の養子であり「日本の電力王」と呼ばれた福澤桃介に、「東に渋沢栄一、西に小山健三あり」と言わしめた。貴族院議員。
武石 敬治(たけいし けいじ、1858年7月23日〈安政5年… 武石 敬治(たけいし けいじ、1858年7月23日〈安政5年6月13日〉 - 1904年〈明治37年〉10月13日)は、衆議院議員(自由党→立憲革新党→進歩党→憲政本党→立憲政友会)。 出羽国雄勝郡山田村(現在の秋田県湯沢市)生まれ。里正を務め、1881年(明治14年)には秋田改進党を結成し、自由民権運動を推進した。1883年(明治16年)に秋田県会議員に雄勝郡の補欠として当選した。その後、1885年(明治18年)10月、1889年(明治22年)にも再選した。同年11月28日から1890年(明治23年)7月まで第10代同副議長を務めた。1889年(明治22年)に大同団結運動がおきると、たびたび東京・大阪を往来して実現に尽力した。
松井 直吉(まつい なおきち、1857年8月14日(安政4年… 松井 直吉(まつい なおきち、1857年8月14日(安政4年6月25日) - 1911年(明治44年)2月1日)は明治時代の日本の化学者。理学博士。 第三高等中学校(京都大学の前身の一つ)教頭、文部省専門学務局長、東京化学会(日本化学会の前身の一つ)会長、東京帝国大学(東京大学の前身)農科大学長・総長を歴任した。 以上のことから文展審査員となっている。 弟は国文学者の和田万吉。 また、松井は8男8女の計16子をもうけているが、8男で山上家の養子となった山上八郎は、日本の甲冑についての研究で知られている。
木下 甚三郎(きのした じんざぶろう、1857年8月10日(… 木下 甚三郎(きのした じんざぶろう、1857年8月10日(安政4年6月27日)- 1930年(昭和5年)9月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 播磨国明石郡、のちの兵庫県明石郡大久保村(大久保町を経て現明石市)出身。農業を営む。明石郡松蔭村(現・明石市)戸長、大久保村会議員、明石郡会議員、兵庫県会議員、同県農会議員となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において兵庫7区から立憲政友会公認で立候補して当選する。1924年の第15回衆議院議員総選挙では兵庫5区から政友本党公認で立候補したが落選した。1930年に死去した。
赤木 周行(あかぎ ちかゆき、1857年8月8日(安政4年6… 赤木 周行(あかぎ ちかゆき、1857年8月8日(安政4年6月19日) - 1896年(明治29年)3月8日)は、岡山県士族の理学士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。
芦田 鹿之助(あしだ しかのすけ、1857年8月7日(安政4… 芦田 鹿之助(あしだ しかのすけ、1857年8月7日(安政4年6月18日)- 1928年(昭和3年)4月30日)は、明治期の地主・銀行家・政治家。衆議院議員、京都府天田郡初代中六人部村長。号・光月。元首相の芦田均の父。 丹波国天田郡宮村(京都府天田郡中六人部村字宮を経て現福知山市)で、大地主、大庄屋・芦田治左衛門の長男として生まれる。綾部藩の近藤寡斎、沢井広重などに師事し、綾部藩郷学校・広畔堂で修学。その後、京阪に遊学した。 1875年(明治8年)3月、豊岡県の天田郡宮村用掛に就任し、さらに同県第十七大区四小区副戸長を務めた。1876年(明治9年)天田郡が京都府に編入され、同年10月、天田郡第一区副区長兼学区取締となる。
加瀬 代助(かせ だいすけ、1857年8月5日(安政4年6月… 加瀬 代助(かせ だいすけ、1857年8月5日(安政4年6月16日) - 1907年(明治40年)9月23日)は、東京生まれの教育者であり、東京物理学講習所(後の東京物理学校、現東京理科大学)の創立者の一人である。 1857年(安政4年)6月16日、江戸(現・東京)に生まれた。東京帝国大学を卒業した。1881年(明治14年)、東京物理学講習所の創立者の一人となる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
土屋 夏五郎 (つちや なつごろう、安政5年6月15日(18… 土屋 夏五郎 (つちや なつごろう、安政5年6月15日(1857年8月4日) - 昭和11年(1936年)12月7日)は、山梨県出身の郷土史家。号は夏堂。 甲斐国八代郡白井河原村(後の東八代郡中道町、現在の甲府市白井町)に生まれ、徽典館で修学。その後教職に就き明治12年(1879年)に西八代郡富里村の市瀬学校校長心得となった後、同郡内、車田村の車田学校、三沢村の三沢学校、久那土村の久那土尋常小学校(現在の身延町立久那土小学校)、高田村の高田尋常小学校の各校長を務めている。明治31年(1898年)6月には宮城県の徴任に応じ、登米郡米山村(現在の登米市)の米岡小学校及び同郡南方村(現在の登米市)の南方小学校の校長となった、明治41年(1908年)12月に山梨県に帰郷後、明治42年(1909年)4月に西八代郡大塚村(現在の市川三郷町)の大塚尋常小学校(現在の市川三郷町立大塚小学校)校長を務め、大正2年(1913年)11月に退職するまでの36年間、西八代郡教育会長、宮城県登米地域の教育講習会長など教育関係の役職を務め教育界に貢献している。
岡本 清三(おかもと せいぞう、1857年8月4日(安政4年… 岡本 清三(おかもと せいぞう、1857年8月4日(安政4年6月15日) - 1932年(昭和7年)5月30日)は、日本の政治家、鉄道実業家である。 尾張国海東郡津島村(現在の愛知県津島市)で生まれる。1865年に中島郡の忍順寺に入って、服部諦信と改名し、約7年間修業した。1879年に愛知県師範学校を卒業した後に宮口学校、飛島学校などで教鞭を取った。1882年に岡本家の養子となり、岡本清三と名乗る。1886年に津島村会議員に就任し、1890年から1903年6月までに愛知県会議員を務めた。1890年の第3回内国勧業博覧会で電車を見たのを機に愛知県での電気鉄道敷設に奔走し、1894年に愛知馬車鉄道の取締役に就任し、名古屋電気鉄道取締役と尾西鉄道取締役も務めた。
角田 竹冷(つのだ/すみだ ちくれい、1857年8月4日(安… 角田 竹冷(つのだ/すみだ ちくれい、1857年8月4日(安政4年6月15日) - 1919年(大正8年)3月20日)は、明治・大正期の俳人・政治家。本名は真平(しんぺい)。駿河国加島(現静岡県富士市)生れ。東京に出て代言人(弁護士)となり、東京府会議員、東京市会議員、衆議院議員を歴任した。位階及び勲等は正六位、勲四等。 農業・角田彦右衛門の二男として生まれる。1874年(明治7年)に上京し法律学を修めた。1880年(明治13年)、代言人試験に合格した。東京府会議員、同副議長、神田区会議員、同議長、牛込区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京市臨時市区改正局長兼水道局長などを歴任。 その他、跡見女学校理事、秀英舎取締役、中央窯業取締役、帝国劇場取締役、東京株式取引所理事などを務めた。
富永 隼太(とみなが はやた、1857年7月23日(安政4年… 富永 隼太(とみなが はやた、1857年7月23日(安政4年6月3日)- 1926年(大正15年)10月25日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(5期)。 肥前大村藩領彼杵郡大村(長崎県東彼杵郡大村、大村町を経て現大村市)に生まれる。生家は農業を営んだ。幼くして漢学と英学を修めた。1882年(明治15年)から8年間に渡り長崎県会議員を務め、その間、常置委員、徴兵参事員、所得税調査委員、学務委員などを歴任した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では長崎県第1区から出馬し当選。第3回、第4回、第5回、第6回総選挙でも当選し衆議院議員を通算5期務めた。
横田 孝史(よこた こうし、安政3年7月21日(1856年8… 横田 孝史(よこた こうし、安政3年7月21日(1856年8月21日) - 昭和9年(1934年)12月6日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→憲政会)。薬剤師。 播磨国加西郡賀茂村(現在の兵庫県加西市)出身。兵庫県姫路師範学校を卒業後、小学校教員となるが、大阪に出て緒方義塾で薬学を学んだ。1885年(明治18年)より神戸市に薬局を開業し、後に兵庫県薬剤師会会頭、神戸薬業組合長を務めた。また神戸市会議員、同議長、兵庫県会議員、同参事会員に選出された。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第13回まで3回連続当選を果たした。 その他、神戸商業会議所理事となり、神戸瓦斯株式会社・神戸電気株式会社(後の神戸市電)・兵庫電気軌道株式会社(現在の山陽電気鉄道)の設立にも関わった。
川井 考策(かわい こうさく、1856年8月18日(安政3年… 川井 考策(かわい こうさく、1856年8月18日(安政3年7月18日) - 1920年(大正9年)3月24日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 相模国高座郡下土棚村(神奈川県高座郡六会村を経て現藤沢市)出身。漢学、数学を修める。小学校教員、村会議員、神奈川県会議員を歴任した。ほか、生糸製造業に従事し県製糸同業組合長、相州大成、相模肥料各社長、藤沢町外六ケ村産業組合長を務め、模範共同揚返所を創立した。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙では神奈川県郡部から立憲同志会所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
城 泉太郎(じょう せんたろう、1856年8月17日(安政3… 城 泉太郎(じょう せんたろう、1856年8月17日(安政3年7月17日) - 1936年(昭和11年)1月8日)は、日本の武士(越後長岡藩士)、教育者、共和主義思想家、自由民権運動家。 旧暦安政3年7月(1856年8月)、越後長岡藩士・河井資信とちよの長男として長岡に生まれる。河井家は譜代の家臣で幕末の禄高が90石、河井継之助は親戚筋にあたる。 藩校崇徳館で学び、三島郡入軽井村(現・長岡市)の遠藤軍平塾を経て、戊辰戦争における同藩の敗北を経験した後、明治3年6月(1870年)、慶應義塾に入塾。明治5年(1872年)に義塾の教員となり(1890年に特選塾員)、新暦1876年(明治9年)からは徳島慶應義塾の二代目校長となる。
根岸 錬次郎(ねぎし れんじろう、1856年8月17日(安政… 根岸 錬次郎(ねぎし れんじろう、1856年8月17日(安政3年7月17日) - 没年不詳)は、明治時代の事業家。 1856年、東京府士族根岸勝平の次男として生誕。1880年に家督を相続。東京帝国大学予備門卒業。 千代田鋳工、東京缶詰、東神火災保険、日仏シトロエン自動車で社長、日本商船基隆支店助役、日本郵船ロンドン支店助役などを経て、日本郵船、揖斐川電気の重役。 1918年(大正7年)に東京動産火災保険の発起人・社長となる(翌年には反町茂作が社長に就任)。
大塚 成吉(おおつか なりよし、1856年8月13日(安政3… 大塚 成吉(おおつか なりよし、1856年8月13日(安政3年7月13日) - 1905年(明治38年)3月31日)は、明治時代の政治家。弁護士。衆議院議員(1期)。 江戸、のちの東京市小石川区小日向台町(現東京都文京区小日向)に生まれる。1870年(明治3年)横須賀製鉄所技術伝習生を経て、1872年(明治5年)大学南校に入り、1875年(明治8年)司法省法学校正則第1期補充生となった。1876年(明治9年)司法省御用掛となるが翌年1月に廃官となる。1880年(明治13年)代言人免許を取得し、横浜代言人組合に加入。1882年(明治15年)同会長に就任した。1886年(明治19年)5月、尾上町に横浜法律学校を創立し校主を務めた。
千早 正次郎(ちはや しょうじろう、1856年8月12日(安… 千早 正次郎(ちはや しょうじろう、1856年8月12日(安政3年7月12日) - 1938年(昭和13年)10月18日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。大日本帝国海軍軍人。衆議院議員。 苗木藩留守居役・千早正理の次男として、美濃国恵那郡日比野村(岐阜県恵那郡苗木村、苗木町、中津川町を経て現中津川市)に生まれる。1878年(明治11年)海軍主計学校を卒業する。同年、兄の千早正路が割腹自殺する。 海軍省に出仕し、1886年(明治19年)供給課長を経て累進し海軍大主計(大尉相当官、後の主計大尉)に進んだ。このころ、同じ海軍主計学舎第一期卒業生の飯村知、加唐為重とともに軍を辞め、生命保険会社設立を企画するも断念(加唐はその後帝国生命保険を設立)。
樋口 喜輔(ひぐち きすけ、1856年8月11日(安政3年7… 樋口 喜輔(ひぐち きすけ、1856年8月11日(安政3年7月11日) - 1933年(昭和8年)11月10日)は、青森県出身の政治家、実業家。 安政3年(1856年)、南津軽郡浪岡村(浪岡町を経て現青森市)に山内伝三郎の三男として生まれた。 一代で財を築き、当時の市財界の指導的立場に立つとともに、町政・市政にも関与。 明治25年に町会議員に当選して以来、20年にわたって町会・市会議員を務め、明治43年には市会議長に就任。明治45年には衆議院に当選(政友会)。 この間、青森港第2期拡張工事、水道事業の開始などに尽力。 大正10年青森貯蓄銀行(のち,みちのく銀行)を設立,頭取となる。他に、第五十九銀行監査役,青森電灯取締役などもつとめた。
穂積 陳重(ほづみ のぶしげ、入江陳重、いりえ のぶしげ、1… 穂積 陳重(ほづみ のぶしげ、入江陳重、いりえ のぶしげ、1856年8月11日〈安政3年7月11日〉 - 1926年〈大正15年〉4月7日)は、明治から大正期の日本の法学者。日本初の法学博士の一人。東京帝国大学法学部学部長。英吉利法律学校(中央大学の前身)の創立者の一人。貴族院議員(勅選)。男爵。枢密院議長。勲一等旭日桐花大綬章。現在の愛媛県宇和島市出身。獨逸学協会会員。弟子に牧野英一など。 1856年8月11日(安政3年7月11日)、伊予国宇和島藩領で国学者の鈴木(穗積)重樹の次男・邑次郎として生まれた。明治に入り鈴木家は穂積に改姓している。13歳で婿養子として入江家と養子縁組(婚約)をし、宇和島藩の貢進生として大学南校入学時は入江邑次郎、開成学校では入江陳重と名乗っている。
一坂 俊太郎(いちさか しゅんたろう、1856年8月6日(安… 一坂 俊太郎(いちさか しゅんたろう、1856年8月6日(安政3年7月6日) - 1922年(大正11年)2月4日)は、日本の政治家(衆議院議員)。徳島市長。 阿波国名東郡徳島(現徳島県徳島市)で、徳島藩士・一坂周作の長男として生まれた。新居水竹の塾で漢学を学ぶ。 1874年(明治7年)初代徳島市長である井上高格らと共に自由民権運動を訴える「自助社」を結成。しかし自助社が出版した「通諭書」は過激な言葉で日本政府を批判していた為、俊太郎らは政府に捕らわれてしまう。 この事件を裁いた玉乃世履は、公判廷での俊太郎の熱弁に魅了され、俊太郎を自分の養子にする話を持ち出したが、養子にはならなかった。 その後、京都府、内務省、逓信省で書記官などを務めた後、1907年に徳島市長に就任。
二代目 澁澤 金蔵(にだいめ しぶさわ きんぞう、安政3年7… 二代目 澁澤 金蔵(にだいめ しぶさわ きんぞう、安政3年7月4日〈1856年8月4日〉 - 1930年〈昭和5年〉4月12日)は、日本の政治家、銀行家、名望家、群馬県多額納税者、地主。群馬県新田郡太田町長(初代)。族籍は群馬県平民。 上野国新田郡太田町(現・群馬県太田市)出身。質店を営んだ初代澁澤金蔵の長男で、1887年に父から家政を譲られた。前名を直次郎と呼び1889年、家督を相続して二代目金蔵を襲名した。 商業、金銭貸付業を営んだ。上毛実業銀行顧問、上野銀行、新田銀行各取締役、群馬商業銀行監査役などをつとめた。 町村制実施と同時に太田町初代町長となり、太田消防組第一回の組頭として以来町政に貢献し、また町議として活動した。
山田 寒山(やまだ かんざん、男性、安政3年7月3日(185… 山田 寒山(やまだ かんざん、男性、安政3年7月3日(1856年8月3日) - 大正7年(1918年)12月26日)は、明治期の日本の篆刻家である。曹洞宗の僧侶であり詩書画にも堪能であった。 名は潤子、号が寒山。 尾張国愛知郡長久手村(現・愛知県長久手市)出身。曹洞宗の僧であったが、18歳の頃、小曽根乾堂に訪ねて篆刻について問い、24歳のときに福井端隠に入門し高芙蓉の流れを汲む古体派の篆刻を学ぶ。明治16年(1883年)に最明寺(熊野市二木島町)住持を任されるが、明治19年(1886年)には辞して大坂に出る。明治28年(1895年)に東京に移り住み芝瓢箪池畔に芝仙堂と名付けた庵を結ぶ。明治30年(1897年)に清国に渡り、呉昌碩と親しく交わりその門下となっている。
島村 干雄(しまむら たてお、1856年8月2日(安政3年7… 島村 干雄(しまむら たてお、1856年8月2日(安政3年7月2日) - 1910年(明治43年)11月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1856年(安政3年)、土佐国土佐郡久万村(現在の高知県高知市)に島村重吉の次男として生まれる。1873年(明治6年)上京し陸軍幼年学校に入学するが、放縦の故退学になる。1874年(明治7年)3月、熊本に行き谷干城の兵士になる。佐賀の乱や台湾征伐で武功をあげ、1877年(明治10年)6月、歩兵少尉に任官。1879年(明治12年)から1882年(明治15年)までと、1884年(明治17年)から翌年、渡清し諜報任務に従う。 1896年(明治29年)9月、歩兵第33連隊長に就任。
亀井 忠一(かめい ただかず、安政3年6月30日(1856年… 亀井 忠一(かめい ただかず、安政3年6月30日(1856年7月31日) - 昭和11年(1936年)1月30日)は、三省堂書店、三省堂の創業者で三省堂編修所の代表者でもあった。明治時代の代表的出版人でもあり、日本における近代的辞書の礎を築いた人物のひとり。 江戸小石川で旗本・中川家の五男として生まれ、大政奉還後に家族で沼津に移り住み、困窮する父を助けて、落ち葉集めや卵・糠の行商で糊口をしのぐ。16歳で同じ元旗本・亀井家の婿養子となり、明治6年(1873年)に東京に戻る。はじめ麹町13丁目で下駄商を営むが明治14年(1881年)、四谷の大火により店が焼けた後、兄が営む神田の古本屋「石川桃林堂」に倣って神保町に三省堂を創業した。
浅野 長道(あさの ながみち、安政3年6月27日(1856年… 浅野 長道(あさの ながみち、安政3年6月27日(1856年7月28日) - 1912年(大正元年)8月4日)は、大正から昭和時代前期の政治家。愛媛県松山市長。幼名は房五郎。 松山城下八坂町にて浅野長英の長男として生まれる。1877年(明治10年)愛媛県師範学校(愛媛大学教育学部の前身のひとつ)を卒業後、派駐訓導を務める。 のち官界に入り、1878年(明治11年)下浮穴郡書記、伊予郡書記として学務係に任じ、1881年(明治14年)下浮穴・伊予郡書記、1886年(明治19年)三野・豊岡郡書記、1887年(明治20年)神奈川県属を経て、1899年(明治32年)温泉郡長に就任した。1902年(明治35年)2月7日、市会で推され、松山市長に就任。
菊亭香水(きくてい こうすい、安政2年7月10日(1855年… 菊亭香水(きくてい こうすい、安政2年7月10日(1855年8月22日) - 昭和17年(1942年)2月12日)は、明治期、大正期の小説家、新聞記者。本名は佐藤蔵太郎。鶴谷外史の号もある。 豊後国国東郡佐伯(現・大分県佐伯市)にて出生。 1875年(明治8年)、大分県師範学校を卒業し、鶴谷女学校の教員をとなる。 1881年(明治14年)、上京して報知新聞社に入社。翌年『月氷寄縁 艶才春話』を刊行。 1884年(明治17年)、大阪毎朝新聞社に転じ、ついで神戸新報社に入る。 1900年(明治33年)、新聞記者を辞し、郷土史家として著述業に専念した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
片山 国嘉(かたやま くによし、安政2年7月7日(1855年… 片山 国嘉(かたやま くによし、安政2年7月7日(1855年8月19日) - 1931年(昭和6年)11月3日)は、日本の法医学者。 遠江国周智郡犬居村(現在の静岡県浜松市天竜区)の医師の二男として生まれる。大学東校を経て、1879年(明治12年)に東京大学医学部を卒業。東京大学助教授となり内務省衛生局にも勤務した。1884年(明治17年)から1888年(明治21年)まで法医学研究のためドイツ・オーストリア=ハンガリーに留学し、ベルリン大学とウィーン大学で学んだ。帰国後、東京帝国大学医科大学教授に就任し、法医学講座を担当した。また1891年(明治24年)に医学博士の学位を得た。法学部で法医学の授業を担当したほか、東京慈恵医院医学専門学校(現在の東京慈恵会医科大学)講師も務めた。
依田 仙右衛門(よだ せんえもん、安政2年6月27日〈185… 依田 仙右衛門(よだ せんえもん、安政2年6月27日〈1855年8月9日〉 - 1923年〈大正12年〉)は、明治から大正時代の政治家、貴族院多額納税者議員。長野県北佐久郡南御牧村長。幼名は亀太郎直温。 中山道八幡宿の大地主・依田七郎兵衛の長男として生まれ、1874年(明治7年)1月、家督を相続する。御牧原の開発を進め、1889年(明治22年)町村制の施行に伴い、八幡村・蓬田村・桑山村・矢島村が合併し南御牧村が成立すると初代村長に就任し、1893年(明治26年)3月まで務めた。 1911年(明治44年)長野県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1918年(大正7年)9月28日まで1期在任した。
一戸 兵衛(いちのへ ひょうえ、1855年8月2日〈安政2年… 一戸 兵衛(いちのへ ひょうえ、1855年8月2日〈安政2年6月20日〉- 1931年〈昭和6年〉9月2日)は、日本陸軍の軍人。官位は陸軍大将正二位勲一等功二級。 教育総監、軍事参議官、第1・第4・第17師団長を歴任し、軍を退いてからは学習院院長・明治神宮宮司・帝国在郷軍人会長等の公職に就く。 弘前藩士一戸範貞の長男として生まれ、東奥義塾を経て1874年(明治7年)10月には陸軍士官生徒として陸軍兵学寮に入り、1876年(明治9年)3月には陸軍少尉試補・歩兵第2連隊付を命ぜられる。1877年(明治10年)の西南戦争に出征し、負傷する。同年5月、少尉に進級する。1878年(明治11年)2月、歩兵第1連隊付に移り、1880年(明治13年)5月には中尉に進級し陸軍教導団小隊長を命ぜられる。
末岡 精一(すえおか せいいち、旧字体:末岡 精一、1855… 末岡 精一(すえおか せいいち、旧字体:末岡 精一、1855年8月2日(安政2年6月20日) - 1894年(明治27年)1月22日)は明治時代の日本の法学者。法学博士。 帝国大学法科大学教授、東京図書館(現・国立国会図書館)館長。日本法律学校(現・日本大学)の創立者の一人。東京大学にて、日本人として初めて国法学の講義を担当した。
小島 憲之(こじま のりゆき、1855年8月2日〈安政2年6… 小島 憲之(こじま のりゆき、1855年8月2日〈安政2年6月20日〉- 1918年〈大正7年〉8月15日)は栃木県出身の建築家であり教育者。アメリカのコーネル大学建築学部を卒業、日本人で初めて建築の学士号を取得したとされる。旧制第一高等学校などで図学や英語を教え、多くの後進を育てた。東京芸術大学構内に残る赤レンガの建物(旧東京図書館書籍庫)は小島の作品である。 下野国河内郡雀宮(後の栃木県宇都宮市)で幕臣・小島信民の家に生まれる。旧名は作次郎、兄は信之。 明治維新後、横浜で外国人に英語を学び、1870年(明治3年)、大学南校に入学、アメリカ人教師ハリスに認められる。1873年(明治6年)学校を中退、ハリス、箕作佳吉とともにアメリカに渡り、ハートフォード中学に入学。
松沢 求策(まつざわ きゅうさく、安政2年6月15日(185… 松沢 求策(まつざわ きゅうさく、安政2年6月15日(1855年7月28日) - 明治20年(1887年)6月25日)は、現在の長野県安曇野市出身の自由民権家。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
石黒 五十二(いしぐろ いそじ、1855年7月23日(安政2… 石黒 五十二(いしぐろ いそじ、1855年7月23日(安政2年6月10日) - 1922年(大正11年)1月14日)は、明治時代の官僚、土木技術者、政治家。 加賀藩士・石黒千尋の二男として加賀国石川郡金沢に生まれる。明治維新前は、藩校で修めた西洋砲術を教授していたという。 維新後は、加賀藩主の命を受けて大学南校(開成学校を経て、後に東京大学)に進み、1878年(明治11年)、土木工学科を卒業。同年、神奈川県土木課に出仕したが、翌1879年(明治12年)、文部省の選抜によりイギリスに留学した。留学中は、アレキサンドリア港の水道工事をはじめ多数の工事に携わったほか、ジョン・フレミングとともにインシュライトの発明を行うなどもした。
菊池 武夫(きくち たけお、1854年8月21日(嘉永7年7… 菊池 武夫(きくち たけお、1854年8月21日(嘉永7年7月28日) - 1912年(明治45年)7月6日)は、日本の法学者。法学博士。陸奥国岩手郡外加賀野村(南岩手郡を経て岩手県盛岡市加賀野)出身。司法省民事局長、東京弁護士会会長、中央大学初代学長、貴族院勅選議員等を務めた。 1854年(嘉永7年)7月28日、岩手郡外加賀野村(後の盛岡市加賀野)にて、盛岡藩士の菊池長閑と茂の長男として生まれた。武夫の名は元服の際に作人館の教授であった江幡五郎(後の那珂通高)によって名付けられた。 1875年(明治8年)大学南校(後の東京大学)を卒業し、明治政府の留学制度である「文部省貸費留学生規則」の第一回貸費留学生として、アメリカボストン大学法学校へ留学した。
高山 真平(眞平、たかやま しんぺい、1854年8月18日(… 高山 真平(眞平、たかやま しんぺい、1854年8月18日(安政元年7月25日)- 1933年(昭和8年)9月3日)は、明治から昭和初期の農業指導者、政治家。衆議院議員。 日向国那珂郡板敷村(宮崎県南那珂郡飫肥村、飫肥町字板敷を経て現日南市板敷)で、飫肥藩士・高山伝蔵、のぶ の長男として生まれ、1881年(明治14年)2月に家督を相続した。藩校で学び、その後上京して岡松甕谷に師事した。 1883年(明治16年)7月、宮崎県御用掛となり庶務課に配属。以後、8等属、7等属・地理課勤務、町村制施行順序取調委員、判任官6等・学務課勤務などを歴任し、1892年(明治25年)4月、南那珂郡長に就任。1895年(明治28年)5月、高等官7等に進み、同年8月、病のため退官した。
赤土 亮(あかど りょう、1854年8月14日(安政元年7月… 赤土 亮(あかど りょう、1854年8月14日(安政元年7月21日) - 1906年(明治39年)6月11日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 加賀国石川郡宮腰町(金石本町、石川県石川郡上金石町、金石町を経て現金沢市)出身。金沢師範学校で学ぶ。小学校訓導、石川郡金石町戸長、同町助役、同町長、同町会議員、石川郡会議員、石川県会議員、加能合同汽船(株)支配人となる。 1898年3月(明治31年)第5回衆議院議員総選挙において石川1区から自由党公認で立候補して初当選する。8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党公認で立候補して再選する。1902年(明治35年)第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1906年に死去した。
右田 古文(みぎた こぶん、1854年8月12日(安政元年7… 右田 古文(みぎた こぶん、1854年8月12日(安政元年7月19日)- 1933年(昭和8年)12月12日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、島根県会議長。 石見国那賀郡田野原村(島根県那賀郡杵束村、弥栄村を経て現浜田市弥栄町田野原)で、豪農・右田常十郞の長男として生れ、右田古信の養子となった。津和野の福羽美静に師事し漢学を修めた。1892年(明治25年)6月、家督を相続した。 1874年(明治7年)木束部副戸長に就任。以後、田野原村会議員、町村浦連合会議員、杵束村会議員、町村組合会議員、田野原区会議員などを務めた。1885年(明治18年)島根県会議員に選出され、1894年(明治27年)同議長に就任。
中島 祐八(なかじま ゆうはち、3代祐八、諱教愛、幼名又輔、… 中島 祐八(なかじま ゆうはち、3代祐八、諱教愛、幼名又輔、嘉永7(安政元)年7月18日(1854年8月11日)- 大正2年(1913年)11月14日)は、日本の衆議院議員(自由党→立憲革新党→憲政本党→立憲国民党)。 上野国佐位郡赤堀村(現在の群馬県伊勢崎市)出身。豪農・先代中島祐八(2代祐八、諱周教、幼名逸作、利根郡奈良村石田家より養子)の長男として生まれ、1874年(明治7年)に副区長、1877年(明治10年)に学区取締、1881年(明治14年)に県会議員に就任した。1883年、「上野新聞」を発刊。1888年、上毛民会を組織するが、秘密集会の容疑で逮捕されてしまう。結局無罪となり、改めて群馬公議会を結成した。
加藤 政之助(かとう まさのすけ、嘉永7年7月18日(185… 加藤 政之助(かとう まさのすけ、嘉永7年7月18日(1854年8月11日) - 昭和16年(1941年)8月2日)は、明治期、大正期、昭和期の政治家、ジャーナリスト、実業家、衆議院議員、貴族院議員、大東文化学院総長(第7代)などを歴任した。 武蔵国足立郡滝馬室村(現・埼玉県鴻巣市)加藤唯右衛門の長男として生まれる。1869年、英漢私塾を開く。16歳で父を亡くす。。馬室村の村長に就任した。糠田学校の教員時代に白根多助埼玉県令に見出され、県の学務課に就職したが、友人の桐原捨三の誘いで、1875年(明治8年)11月、慶應義塾に入学。在学中より、東京日日新聞や東京曙新聞に寄稿していた。福沢諭吉の紹介で五代友厚が経営する大阪新報記者となり、同紙にて、福沢が提唱していた商業学校設立の啓蒙キャンペーンを行い、大阪での商業講習所設立に尽力する。
鈴木 孝之助(すずき こうのすけ、1854年8月5日(嘉永7… 鈴木 孝之助(すずき こうのすけ、1854年8月5日(嘉永7年7月12日)- 1945年(昭和20年)8月20日)は、明治時代から昭和時代の医師、軍医。 三河国田原藩士の鈴木方舊の三男として生まれる。1879年家督を継ぐ。東京医学校を卒業。1883年、愛知県立医学校(現在の名古屋大学医学部)の校長に就任。後に海軍に入り、軍医となって軍医学校長などを歴任。1900年、海軍軍医総監となる。横須賀鎮守府、呉鎮守府、佐世保鎮守府の医務部長を歴任した。海軍軍医中将となり、1902年に医学博士となる。1906年、予備役に編入となる。 1907年、東京市麻布区飯倉にて肺結核専門の鈴木医院を開業する。1911年には鎌倉七里ヶ浜に鈴木結核療養所を設立した。
河井 重藏(かわい じゅうぞう、1854年8月5日(安政元年… 河井 重藏(かわい じゅうぞう、1854年8月5日(安政元年7月12日) - 1925年(大正14年)1月26日)は、日本の政治家。河井 重蔵(かわい じゅうぞう)と表記されることもある。 静岡県会議員(2期)、衆議院議員(3期)などを歴任した。 1854年、遠江国佐野郡上張村にて生まれた。父である河井重高は上張村の庄屋であった。 静岡県会議員選挙に立候補し当選を果たし、2期に渡って務めた。在任中は、静岡県磐田郡佐久間村(のちの浜松市)にて発生した久根鉱山の鉱毒事件の解決に取り組んだ。この頃、足尾銅山にて同じく鉱毒事件の解決に取り組んでいた、政治家の田中正造と知り合う。1897年に足尾銅山を視察に訪れた際には、田中が案内役を買って出ている。
岡山 兼吉(おかやま けんきち、1854年7月31日(嘉永7… 岡山 兼吉(おかやま けんきち、1854年7月31日(嘉永7年7月7日) - 1894年(明治27年)5月28日)は、明治時代の弁護士、衆議院議員(当選1回)。東京専門学校(早稲田大学の前身)および英吉利法律学校(中央大学の前身)の創設に参画したことでも知られる。号は梧堂。 遠江国城東郡横須賀(現在の静岡県掛川市)生まれ。初名重吉。父の定基は横須賀藩の元締役。1865年(慶応元年)に同藩の三好左衛の養子となり、このとき兼吉と改名。維新後いったん実家に戻り、横須賀藩は安房国の花房藩に転封となったため、1869年移住する。同藩士の赤岩亀六の養子となるが、勉学で身を立てるに伴い解消している。藩の家老であった永富謙八の助けで、新潟英語学校に入学し、東京開成学校を経て、1882年に東京大学を卒業。
岡 登喜太(おか ときた、安政元年7月5日〈1854年7月2… 岡 登喜太(おか ときた、安政元年7月5日〈1854年7月29日〉 - 1903年〈明治36年〉9月30日、ローマ字表記: Oka Tokita)は、日本の政治家。群馬県勢多郡荒砥村(現・前橋市二之宮町)出身で、同村の初代村長を務めた。群馬県会議員、勢多郡会議員としても活動したほか、地域の寺子屋教育に関与した記録が残る。 安政元年(1854年)、上野国勢多郡二之宮村に、父・岡孝十郎、母・かくの長男として生まれる。 明治維新により大区小区制が施行されると、戸長に就任した。 1889年(明治22年)3月4日、町村制施行により荒砥村が発足し、初代村長に就任した。1901年(明治34年)まで在職。 1890年(明治23年)、群馬県会議員に選出された。
小野 慶蔵(おの けいぞう、1854年7月24日〈嘉永7年6… 小野 慶蔵(おの けいぞう、1854年7月24日〈嘉永7年6月30日〉 - 1920年〈大正9年〉10月31日)は、日本の実業家、政治家。 陸奥国盛岡呉服町にて、豪商小野組の支流である芳野屋の子として生まれた。藩校作人舘に学び,1872年(明治5年)、18歳で京都に出て商業の修業をした。帰郷後に金銀・株売買業で産を成し、盛岡の経済界に頭角を現すようになる。盛岡に市制が施行された1889年(明治22年)に35歳で市会議員となり、1912年(明治45年)まで23年間務めた。 1890年(明治23年)第九十国立銀行取締役に就任以来、同行株式を集め、筆頭株主でありながら1907年(明治40年)に(旧)岩手銀行を設立し、これ以来、“盛岡経済界の風雲児”と呼ばれるようになる。
小坂 善之助(こさか ぜんのすけ、嘉永6年7月15日〈185… 小坂 善之助(こさか ぜんのすけ、嘉永6年7月15日〈1853年8月19日〉 - 大正2年〈1913年〉12月21日)は、日本の政治家、実業家。長野県会議員、衆議院議員を務めた。 明治23年(1890年)の帝国議会開設以来、4回衆議院議員に当選、中央政界に活躍するかたわら、信濃銀行(現みずほ銀行)を興し、山国長野県の豊富な水資源に着眼して長野電灯を創業、県下で最初の水力発電所をつくった。また信濃毎日新聞の基礎を固めた。 信濃国水内郡里村山村(1881年村山村に改称、現長野市)出身。父は3代目善之助(隠居名善三)。善之助の家は3代前に分家したもので、本家は代々名主を務めた豪家だった。 善之助は、少年時代から村の大将格で、村芝居ではつねに主役をつとめた。
河路 重平(かわじ じゅうへい、1853年8月18日(嘉永6… 河路 重平(かわじ じゅうへい、1853年8月18日(嘉永6年7月14日) - 1904年(明治37年)7月13日)は、明治時代の政治家。実業家。銀行家。貴族院多額納税者議員。滋賀県坂田郡長浜町長。 寺村喜右衛門の子として近江国坂田郡長浜町(現滋賀県長浜市)に生まれ、1872年(明治5年)醤油醸造業を営む河内重内の養子となり、1876年(明治9年)10月に家督を相続した。 1874年(明治7年)以降、坂田郡第十六区戸長、長浜町会議員、同町長のほか、第二十一、第六十四各国立銀行頭取、日本精米、日本汽船各取締役、近江製糸、長浜生糸米穀取引所各監査役などを歴任した。ほか、長浜銀行、長浜貯蓄銀行などの創立に関与した。