片岡 奨人(かたおか しょうと、1997年11月16日 - … 片岡 奨人(かたおか しょうと、1997年11月16日 - )は、北海道二海郡八雲町出身の元プロ野球選手(外野手)。右投左打。 札幌日本大学高等学校時代は2年秋の全道大会にベスト4に進出したのが最高成績で、甲子園出場経験はない。 高校卒業後は東日本国際大学に進学し、3年の秋季リーグから主将を務め、同大学を初の明治神宮野球大会出場に導いた。3年時と4年時には全日本大学野球選手権大会に出場しており、14打数6安打を記録。4年の春季リーグではMVPを受賞した。 2019年10月17日に行われたプロ野球ドラフト会議では、北海道日本ハムファイターズから7位指名を受け、11月14日に契約金2000万円、年俸700万円(推定)で仮契約を結んだ。
シヒラ 竜也(シヒラ たつや、1984年12月14日[要出典… シヒラ 竜也(シヒラ たつや、1984年12月14日[要出典] - )は、日本の漫画家。北海道八雲町出身。代表作は『ROBOTICS;NOTES REVIVAL LEGACY』、『Q』など。 10代の頃からゲーム誌を中心にハガキ職人をしており、「画竜点睛!」及び「画竜」というペンネームで『ドリームキャストマガジン』、及び後身の『ドリマガ』にイラスト投稿をしていた。 対戦型格闘ゲーム『GUILTY GEARシリーズ』、及び『To Heartシリーズ』の大ファンであり、これら作品のイラストや同人誌を多く手がけている。当時のペンネームは、『GUILTY GEAR』に登場する梅喧の一撃必殺技「画竜点睛」に由来する。
阿部 佑宇(あべ ゆう、1984年9月17日 - )は、日本… 阿部 佑宇(あべ ゆう、1984年9月17日 - )は、日本の男子バスケットボール選手である。北海道二海郡八雲町出身。ポジションはガード。身長178cm、体重78kg。竹内世代のひとり。 東海大四高校から東海大学に進み、竹内譲次らとともにインカレ2連覇に貢献。 卒業後の2007年、松下電器に入社しバスケットボール部に所属。ルーキーシーズンより主力となり、オールスターゲームにも選出される。 2013年、休部となったパナソニックの後継として創設される和歌山トライアンズに移籍。
小西 ゆかり(こにし ゆかり、1979年1月11日 - )は… 小西 ゆかり(こにし ゆかり、1979年1月11日 - )は、北海道八雲町出身の女子ピストル射撃選手。2004年アテネ五輪・2012年ロンドン五輪日本代表。アジア大会には2002年から5大会連続出場し、銀メダルを通算3個獲得。北海道八雲高等学校卒業。自衛隊体育学校に所属していた元自衛官。
余湖 裕輝(よご ゆうき、1970年7月22日 - )は、日… 余湖 裕輝(よご ゆうき、1970年7月22日 - )は、日本の漫画家。男性。北海道二海郡八雲町(旧爾志郡熊石町)出身。田畑由秋と長く組んで作品を発表している。代表作は『コミックマスターJ』、『アクメツ』、『ニンジャスレイヤー』など。 八神ひろきのアシスタントを務める。その後、1992年に余湖ゆうき名義で『マガジンGREAT』(講談社)に「転生」を掲載し、デビューを果たす。同作の原作は平井和正が務め、余湖は作画を担当。 1996年、『ヤングキングアワーズ』(少年画報社)19号より、田畑由秋が脚本を担当する『コミックマスターJ』の連載を開始。同作は注目作となった。 2002年、『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)43号より、田畑脚本による『アクメツ』の連載を開始。
山田 雅博(やまだ まさひろ、1966年 - )は、日本の数… 山田 雅博(やまだ まさひろ、1966年 - )は、日本の数学者(関数解析・関数空間論、算数教育・数学教育)、岐阜大学教育学部教授。 北海道山越郡八雲町生まれ(現二海郡八雲町)。1984年北海道立八雲高等学校卒業、1990年北海道教育大学札幌分校卒業、1994年北海道大学大学院理学研究科博士課程退学、広島大学理学部助手、1998年岐阜大学教育学部助教授、2014年教授。 2011年から日本数学教育学会の賛助団体である岐阜県数学教育協議会の会長(数学教育協議会とは無関係)。2018年から岐阜大学教育学部副学部長、2022年教育学部長。1996年「Riesz’s functions and Carleson inequalities in Bergman spaces」で北海道大学博士(理学)。
たなか てつお (1948年12月18日 - )は、日本の漫… たなか てつお (1948年12月18日 - )は、日本の漫画家。北海道山越郡八雲町(現:二海郡八雲町)出身。本名:田仲哲雄、別名:田仲てつお。 元自衛隊員。自衛隊退職後に航空会社にパイロットとして就職し、調布飛行場にある出版社の編集者と知り合ったことから図鑑用の飛行機のイラストを描くようになり、その縁で漫画家となる。デビュー作『飛んでけ!エアロ』を執筆していた当時はまだ、パイロットを務めていたという。 この項目は、漫画家・漫画原作者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:漫画/PJ漫画家)。
佐藤 博明(さとう ひろあき、1935年3月30日 - )は… 佐藤 博明(さとう ひろあき、1935年3月30日 - )は、日本の会計学者。静岡大学学長、静岡鉄道監査役、宇都宮大学監事、福島大学監事、静岡産業大学監事などを歴任した。 北海道二海郡八雲町生まれ。1958年に明治大学商学部卒業後、明治大学大学院商学研究科修士課程、同博士課程を経て、1963年静岡大学文理学部講師着任。静岡大学人文学部助教授を経て、1976年静岡大学人文学部教授。1988年明治大学商学博士。1990年から1992年まで静岡大学学生部長。1997年から2003年まで静岡大学長。2003年静岡大学名誉教授。2004年静岡鉄道監査役、宇都宮大学監事。2006年福島大学監事。2008年静岡産業大学監事。
菅原 峻(すがわら たかし、1926年9月14日 - 201… 菅原 峻(すがわら たかし、1926年9月14日 - 2011年6月24日)は、北海道二海郡八雲町出身の図書館コンサルタント。「日本初の図書館コンサルタント」であるとされることがある。25年間にわたって日本図書館協会に勤務して『中小レポート』などに関与した後、図書館計画施設研究所を創設して独立した。 1926年(昭和元年)に北海道渡島支庁の二海郡八雲町に生まれ、旧制北海道庁立八雲中学校を卒業後に八雲町役場に就職した。日中戦争時には少年兵として志願し、神奈川県高座郡相模原町淵野辺の陸軍兵器学校で特別幹部候補生となったが、1945年(昭和20年)8月の終戦後には復員して八雲町役場に復職した。 ここでの仕事の一つに進駐軍に様々なレクリエーション(テニス、スクエア・ダンス等)を習い、それを町民に教えるということがあった。
松浦 周太郎(まつうら しゅうたろう、1896年5月2日 -… 松浦 周太郎(まつうら しゅうたろう、1896年5月2日 - 1980年6月8日)は、日本の昭和期の政治家。位階は従三位。 労働大臣・運輸大臣。北海道美深町名誉町民(1964年)。妻は同町の児童養護施設・社会福祉法人美深育成園の創立者である松浦カツ。 北海道渡島支庁茅部郡落部村(現・二海郡八雲町)野田生の開拓農家の長男として生まれる。父・増太郎は愛知県の人で、濃尾地震(1891年)で耕地を失い、翌1892年、八雲徳川農場で小作人として働くために渡道してきていた。 1909年4月、現在の美深町紋穂内に移住、恩根内第一尋常小学校を卒業後は家業の農作業に従事し、また中学講義録を取り寄せ独学していた。一時期、胃を痛めて東京の長与胃腸病院に入院し、夏目漱石と病室を共にしたことがある。
三杦磯 善七(みすぎいそ ぜんしち、1892年11月26日 … 三杦磯 善七(みすぎいそ ぜんしち、1892年11月26日 - 1951年4月22日)は、北海道爾志郡熊石村(現:北海道二海郡八雲町)出身で伊勢ノ海部屋(入門時は尾車部屋)に所属した大相撲力士。本名は小西 善七(こにし ぜんしち)。最高位は東関脇。明治時代以降初の北海道出身関取。 1892年11月26日に北海道爾志郡熊石村(現:北海道二海郡八雲町)で松前藩家臣、小西弥蔵の7人目の男児であることから「善七」と名付けられた。1901年に瀬棚に住んでいた兄に引き取られて運搬業を手伝っていたことで力が付き、米2俵を軽々持ち上げるほどの怪力で周囲を驚かせていたところ、地元の小料理屋「高砂」を経営していた相撲通の主人に見出され、力士を勧められた。
椎久年蔵(しいく としぞう、明治17年(1884年)5月5日… 椎久年蔵(しいく としぞう、明治17年(1884年)5月5日 - 昭和33年(1958年)3月27日)は、八雲のアイヌ、アイヌ文化伝承者。アイヌ語八雲方言の最後の話者。 北海道山越郡八雲町字遊楽部に生まれ、終生そこに住む。椎久家は首長(コタンコㇿクㇽ)の家系であり、年蔵は次男であった。父母ともに遊楽部(ゆうらっぷ)の人。姓は、先祖に弓の名人がいたことからsíku「大きな弓」の当て字である。「シク」と読まれることもある。アイヌ名はTóytareki、トイタレキ、トイタレケ、トヨタリケ。名前はアイヌ語でtóyta「畑仕事」、 rek「叫ぶ」で、母が畑仕事の最中に産気付き、家に戻る途中に畑野中の道で産み落としたことに由来する。
辨開 凧次郎(べんかい たこじろう、1847年(弘化4年)6… 辨開 凧次郎(べんかい たこじろう、1847年(弘化4年)6月 - 1924年(大正13年)10月23日)は、アイヌの家畜商、のちに許可を受けて獣医を兼業した。アイヌ語によるアイヌ名は「エカシバ」。なお、「辨開」を「弁開」と表記することも多い。 のちに二海郡八雲町落部となる地域のコタンに生まれ、20歳で落部コタンのリーダーとなる。当時の獣医にあたる伯楽の活動で周囲から尊敬を受け、薬草の知識もあり、また造園家としても活躍した。 1900年(明治33年)5月、皇太子明宮嘉仁親王の結婚の儀に際し、ヒグマ2頭を献上した。この時のアイヌ正装姿の写真が小学校教科書にアイヌ風俗として掲載された。また、凧次郎は皇室より、紋章付の器具、菓子、巻煙草、酒、手箱、千本松の盆栽32本(「御所の松」)を拝領し、明治天皇・皇后引見の栄誉を受けた。