長谷川 憲治(はせがわ けんじ、1946年(昭和21年)8月… 長谷川 憲治(はせがわ けんじ、1946年(昭和21年)8月31日 - )は、日本の実業家。きらやか銀行相談役。公益財団法人山形美術館監事。社会福祉法人山形いのちの電話理事長。山形県米沢市出身。 長谷川吉内殖産相互銀行社長の養嗣子。 山形県立米沢興譲館高等学校、慶應義塾大学経済学部卒業後、松下電器産業(現:パナソニックホールディングス)に入社。その後、長谷川家の家業である電気関連企業「マルタニ」に転じ、社長に就任する。 1983年、殖産相互銀行(1989年普銀転換、殖産銀行に商号変更)社外監査役に就任する。以降、常務等を歴任。2000年、専務米沢支店長を務める折、荘内銀行との合併構想(ミライオン銀行)に距離を置いていたこと、創業家出身であることが勘案され、引責辞任した叶内紀雄頭取の後継としてトップに就任した。
湯野川 孝夫(ゆのかわ よしお、1939年4月3日 - 20… 湯野川 孝夫(ゆのかわ よしお、1939年4月3日 - 2003年11月26日)は、日本の自動車技術者、実業家。元豊田工機代表取締役社長。 山形県米沢市出身。山形県立米沢興譲館高等学校を経て、1962年東北大学工学部機械工学科卒業。トヨタ自動車で開発に携わり、トヨタ自動車工業労働組副執行委員長等を経て、1992年には石坂芳男、白水宏典らとともに取締役に昇格した。豊田工機常務取締役、豊田工機代表取締役副社長を経て、2000年からは豊田工機代表取締役社長を務めていたが、2003年に出張先の東京都内のホテルで死亡しているのが発見され、覚王山日泰寺で社葬が行われた。
石塚 庸三(いしづか ようぞう、1915年2月19日 - 1… 石塚 庸三(いしづか ようぞう、1915年2月19日 - 1982年4月24日)は、山形県米沢市出身の実業家。東京帝国大学法学部政治学科卒。パイオニア2代目社長としてレーザーディスク事業を推進した。父は山形県立米沢興譲館高等学校教頭の石塚澄[要出典]。 1937年に東芝入社。東芝から1955年に日本電子機械工業会へ業務部長として出向。輸出問題で手腕を発揮。その後、ミツミ電機を経てスカウトされパイオニアに入社。常務、専務などを経て昭和46年社長に就任。パイオニアでは技術開発力の向上や無借金経営など財務体質の強化を図る傍ら、人材拡充にも注力。当時一介の中小企業であったパイオニアをオーディオのトップメーカーとして一流企業にまで発展させた。
北澤 敬二郎(きたざわけいじろう、1889年(明治22年)5… 北澤 敬二郎(きたざわけいじろう、1889年(明治22年)5月28日 - 1970年(昭和45年)10月25日)昭和期の実業家。住友本社常務理事、大丸社長を務めた。位階は従三位。 山形県米沢市元籠町に於いて、旧米沢藩士で海軍省経理局などの官吏を務めた北沢虎蔵の次男として生まれる。米沢尋常中学興譲館(現・山形県立米沢興譲館高等学校)、一高を経て、1914年に東京帝国大学法科大学を卒業後、住友総本店に入社。アメリカ・プリンストン大学への留学を経て、住友電線支配人、住友倉庫専務、住友生命保険専務を歴任。1931年に住友本社常務理事となる。しかし、敗戦後の1946年に財閥解体で理事を辞任。翌1947年には公職追放の憂き目に遭った。
池田 成彬(いけだ しげあき、慶応3年7月16日〈1867年… 池田 成彬(いけだ しげあき、慶応3年7月16日〈1867年8月15日〉 - 昭和25年〈1950年〉10月9日)は、日本の実業家・政治家。 三井合名会社筆頭常務理事(事実上の三井財閥総帥)、第14代日本銀行総裁、大蔵大臣兼商工大臣、内閣参議(第一次近衛内閣・平沼内閣・第2次近衛内閣)、枢密顧問官(東條内閣)、を歴任。1930年代後半には親英米の穏健派として度々首相候補に擬せられたが、軍部の反対などもあって実現しなかった。 『成彬』は音読みで「せいひん」とも、晩年の質素な生活から「清貧」とも呼ばれた。 出羽国(現在の山形県米沢市)に米沢藩士・池田成章の長男として生まれる。江戸留守居役であった父の影響により、米沢藩の米沢中学(現・米沢興譲館高校)で漢学を学んだ後、1880年頃、すぐに東京に出て有馬学校を振り出しに、小永井小舟の濂西塾に入り儒学と漢学を学ぶ。
丸山 孝一郎(まるやま こういちろう、1850年2月7日(嘉… 丸山 孝一郎(まるやま こういちろう、1850年2月7日(嘉永2年12月26日)- 1912年(明治45年)5月12日)は、明治期の海軍軍人、実業家、政治家。衆議院議員、米沢市会議長。 出羽国置賜郡米沢(山形県南置賜郡米沢を経て現米沢市)で、米沢藩士・丸山英造の長男として生まれた。1871年(明治4年)米沢に洋学舎が設立され諸勤学生(副舎長)に就任し、イギリス人チャールズ・ヘンリー・ダラスから学んだ。 五十嵐力助らと県会の開設を建議した。1879年(明治12年)海軍裁判所に出仕し、1884年(明治17年)海軍少尉に任官。東京軍法会議判士を務めた。また興亜会の中国語学校・興亜学校の初代校長に就任した。
大滝 龍蔵(大瀧 龍藏、おおたき りゅうぞう、1846年2月… 大滝 龍蔵(大瀧 龍藏、おおたき りゅうぞう、1846年2月5日(弘化3年1月10日)- 1914年(大正3年)1月8日)は、明治期の公吏、実業家、政治家。衆議院議員、初代山形県米沢市長。 出羽国置賜郡米沢屋代町下ノ町(山形県南置賜郡米沢屋代町下ノ町を経て現米沢市)で生まれた。 1873年(明治6年)置賜県学区取締・十三等出仕となる。権少属、小属、権中属を歴任し、1882年(明治15年)置賜県廃止となり失職した。その後、沖縄県三等属に発令され、租税課権勧業課長を務めた。1883(明治16年)に退官。 その後実業界に転じ、米沢元商社副社長、同社長、米沢製糸場社長などを務めた。1889年(明治22年)7月、初代米沢市長に就任し、1899年(明治32年)7月まで2期在任。
千坂 高雅(ちさか たかまさ、天保12年閏1月19日(184… 千坂 高雅(ちさか たかまさ、天保12年閏1月19日(1841年3月11日)- 大正元年(1912年)12月3日)は、日本の官僚・政治家・実業家。陸軍中佐、錦鶏間祗候。幼名は與市、戊辰戦争中は太郎左衛門、喜遯斉。 出羽国米沢藩家老の家に生まれ、英国留学後内務省に勤務。西南戦争に陸軍中佐として出征した後、石川県令、内務大書記官、岡山県令および県知事を歴任し、明治27年に依願免本官後には貴族院の勅撰議員に就任した。 天保12年(1841年)、米沢藩家老千坂高明の長男として米沢城下の桂町(現松が岬3丁目)に生まれた。千坂家は上級家臣の侍組に属しており、代々国家老や江戸家老などの藩の重職を務めた名門だった。
池田 成章(いけだ なりあき、天保11年5月26日〈1840… 池田 成章(いけだ なりあき、天保11年5月26日〈1840年6月25日〉 - 大正元年〈1912年〉10月11日)は、日本の武士(米沢藩士)、官僚、実業家。 三井財閥筆頭常務理事、大蔵大臣などを務めた池田成彬は長男。 出羽米沢藩士五十騎組香坂昌邦の三男として生まれ、1864年(元治元年)に同じく藩士の五十騎組池田峰蔵の養子となった。 初め、貞吉、丈八と改め、のちに新次郎、さらに成章と改めた。 藩校興譲館で書・文学を学び、上杉茂憲の小姓となる。町奉行[要出典]、江戸留守居役を歴任。茂憲の側役として麻布邸に起居し、甘糟継成と行動を共にし、ここで慶應義塾の福澤諭吉や小幡篤次郎、シーボルトを初めとする人物らと知己を得た。