富野 幹雄(とみの みきお、1940年11月12日 - )は… 富野 幹雄(とみの みきお、1940年11月12日 - )は、日本のポルトガル語学者。南山大学名誉教授。 愛知県半田市生まれ。1963年同志社大学経済学部卒業。1966年東京外国語大学ポルトガル・ブラジル語学科卒業。1968年同大学院修士課程修了。1968 - 1970年サンパウロ州立大学で給費奨学生として学ぶ。1972年南山大学外国語学部専任講師、助教授、教授、2010年定年退職、名誉教授。
草間 三郎(くさま さぶろう、1939年10月12日 - )… 草間 三郎(くさま さぶろう、1939年10月12日 - )は、セイコーエプソンの元代表取締役社長、会長。愛知県半田市生まれ。 愛知県立半田高等学校を経て、1963年に静岡大学工学部電子工学科卒業後、諏訪精工舎(現セイコーエプソン)入社。 半導体事業本部長、常務取締役、専務取締役、代表取締役副社長を経て、2001年に代表取締役社長、2005年に代表取締役会長就任。2016年11月、旭日中綬章を受章。
新海 英行(しんかい ひでゆき、1938年11月2日 - 2… 新海 英行(しんかい ひでゆき、1938年11月2日 - 2024年3月6日)は、日本の教育学者。教育学博士。名古屋大学名誉教授。 愛知県半田市生まれ。阿久比町出身。1962年名古屋大学教育学部卒、中部鋼鈑に勤務、1967年大学院に入り、1972年同博士課程満期退学。2001年「現代ドイツ民衆教育史研究 ヴァイマル期民衆大学の成立と展開」で、教育学博士の学位を取得。 香川大学教育学部講師、1976年名古屋大学教育学部助教授、教授、2002年定年退官、名誉教授、2002年愛知学院大学総合政策学部教授、2008年名古屋柳城短期大学学長となる。2016年退任。 2024年3月6日に腎不全のため死去。85歳没。
磯貝 治良(いそがい じろう、1937年 - )は、日本の朝… 磯貝 治良(いそがい じろう、1937年 - )は、日本の朝鮮韓国に関わる作家、評論家、活動家。「在日朝鮮人作家を読む会」の主宰。金城学院大学非常勤講師。NPO法人「三千里鐵道」副理事長。 1937年、愛知県半田市生まれ。愛知大学法経学部経済学科卒業。1977年から名古屋で「在日朝鮮人作家を読む会」を主宰し、会の文芸誌『架橋』を発行。 大学講師、警備員などの仕事をしながら、新日本文学会、マダン劇グループ、外国人登録法反対運動、在日韓国人に対する参政権付与運動、NPO法人「三千里鐵道」など、主に朝鮮韓国に関わる様々な活動に参加している。 2006年には、全18巻に及ぶ『〈在日〉文学全集』(勉誠出版)を黒古一夫とともに編集した。
野崎 眞一(のざき しんいち、1931年1月28日 - 20… 野崎 眞一(のざき しんいち、1931年1月28日 - 2014年1月27日)は、日本の作曲家である。永年の作家名は野崎 真一であった。 1931年(昭和6年)1月28日、現在の愛知県半田市に生まれる。 1957年(昭和32年)、26歳のときに、日本マーキュリーレコードより発売された藤島桓夫歌唱の「俺らは東京へ来たけれど」で作曲家デビュー。この時の名前の表記は「野崎眞一」だった。 1958年にテイチクレコードの専属作曲家となる。 「星屑のブルース」(1965年)をはじめ数多くの石原裕次郎、八代亜紀の楽曲を作曲した。とくに野崎が40代半ばのころに八代に提供した「もう一度逢いたい」 (1976年)、「愛の終着駅」 (1977年)では、当時20代半ばの八代を日本レコード大賞最優秀歌唱賞受賞に2年連続で導いた。
長谷川 良平(はせがわ りょうへい、1930年3月25日 -… 長谷川 良平(はせがわ りょうへい、1930年3月25日 - 2006年7月29日)は、愛知県半田市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 黎明期の広島カープを代表する投手であり、身長167cmという野球選手としては当時としても小柄な体格から、小さな大投手の異名を取り、通算197勝を記録した。 愛知県半田商工学校卒業後、安田商店(福井県)・安田繊維・新田建設・第一繊維など4つのノンプロチームを渡り歩く。1949年末に設立された広島カープの石本秀一監督が選手集めをしていたところへ、広島への入団が決まっていた内藤幸三が新田建設時代の監督・横沢七郎経由で聞いた長谷川の噂を石本へ伝えたところ、1950年1月に長谷川は広島の入団テストを受けることになる。
村井 修(むらい おさむ 1928年(昭和3年)9月27日 … 村井 修(むらい おさむ 1928年(昭和3年)9月27日 - 2016年(平成28年)10月23日)は日本の写真家。 愛知県半田市出身。愛知県立第七中学校(現・愛知県立半田高等学校)を経て、1950年東京写真工業専門学校(現・東京工芸大学)を卒業。 建築や彫刻を被写体とした写真家活動を始め、東京で独立。小田仁二郎、瀬戸内晴美(寂聴)らによる同人誌「Z」の表紙(写真)を担当する。新旧東京都庁舎ほか一連の丹下健三の建築、白井晟一の作品など数多くの建築物を撮影し、1980年代には数年間に及ぶ京都迎賓館の撮影を手掛けた。シドニー・オペラハウス、関西国際空港、中部国際空港、東京駅などの写真を撮影・発表している。
新美 南吉(にいみ なんきち、1913年〈大正2年〉7月30… 新美 南吉(にいみ なんきち、1913年〈大正2年〉7月30日 - 1943年〈昭和18年〉3月22日)は、日本の児童文学作家。本名は新美 正八(旧姓:渡邊)。愛知県半田市出身。雑誌『赤い鳥』出身の作家の一人であり、彼の代表作『ごん狐』(1932年)はこの雑誌に掲載されたのが初出。結核により29歳で亡くなったため、作品数こそ多くないがごん狐が小学校の国語教科書に継続的に採用されており、近年でもアニメーション制作が実施されたり学芸会の演目になることも多いので現在でも一定の国民からの知名度を持つ。童話の他に童謡、詩、短歌、俳句や戯曲も残した。彼の生前から発表の機会を多く提供していた友人の巽聖歌は、南吉の死後もその作品を広める努力をした。
小栗 常太郎(おぐり つねたろう、1886年9月28日 - … 小栗 常太郎(おぐり つねたろう、1886年9月28日 - 1962年7月5日)は愛知県出身の飛行家。東京で小栗飛行学校を開設し校長を務めた。医療ソーシャルワーカーの先駆者である浅賀ふさは妹。 愛知県知多郡半田の大資産家として知られた小栗家。常太郎は小栗富治郎の長男として1886年(明治19年)9月28日に出生。父は酒や醤油に時計の製造、銀行や紡績業など事業の多角化を進めていた。 常太郎は1900年(明治33年)に旧制県立岡崎中学へ入学したが一年の途中で退学。巣鴨の家庭学校を経て1903年(明治36年)7月、留岡幸助に従いアメリカ留学のため横浜港から土佐丸で太平洋を渡った。その後、ミリタリー・スクールを経て1905年(明治38年)9月にペンシルベニア大学へ入学。
山田 佐一(やまだ さいち、1886年(明治19年)7月2日… 山田 佐一(やまだ さいち、1886年(明治19年)7月2日 - 1960年(昭和35年)4月2日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 愛知県知多郡乙川村(亀崎町を経て現半田市)で、山田保造の三男として生まれる。高等小学校を卒業し、1913年(大正2年)に分家した。 木綿織布業を営み、知多商工会議所副会頭、知多白木綿同業組合長、愛知県織物同業組合連合会長、日本織物中央会副会頭、日本輸出綿織物同業組合連合会代表、日本白巾白生地工業組合連合会長、山田商店代表社員、山田紡織会長、山田織布取締役などを務めた。 政界では、亀崎町会議員、知多郡会議員、同参事会員、愛知県会議員、同参事会員、半田市会議員、同議長などを歴任した。
鈴木花蓑(すずき はなみの、1881年(明治14年)8月15… 鈴木花蓑(すずき はなみの、1881年(明治14年)8月15日または12月1日 - 1942年(昭和18年)11月6日)は、愛知県出身の俳人、大審院書記。本名は鈴木喜一郎(きいちろう)。 愛知県知多郡半田町(現半田市)生まれ。半田裁判所で書記見習いをしていた時に「ホトトギス」の存在を知り投句。1909年には名古屋裁判所に移り、1915年に上京、大審院書記となる。この年初めて「ホトトギス」で入選。また東大俳句会を指導し、後の水原秋桜子や高野素十らの4S時代を築く礎となった。晩年は「あをさ」「百舌鳥」などの俳誌を創刊するも、戦時中の紙不足に巻き込まれ廃刊を余儀なくされる。60歳を迎えて日本俳句作家協会常任理事となるも、間も無くして病に倒れた。
大碇 紋太郎(おおいかり もんたろう、1869年4月3日〈明… 大碇 紋太郎(おおいかり もんたろう、1869年4月3日〈明治2年2月22日〉 - 1930年〈昭和5年〉1月27日)は、大相撲の大関。身長170cm、体重105kg。最高位は横綱(五条家免許)。 出生地は尾張国知多郡(現在の愛知県半田市乙川殿町)出身。生年月日は1869年(明治2年)2月22日説と1871年(明治4年)3月20日説があり、苗字も「吉田」と「竹内」の2説あったが、大碇の生年月日は1869年(明治2年)2月22日で苗字は「竹内」であることが外国旅券下付表や除籍謄本などで確認された。その後、「吉田嘉平」に一旦、養子縁組し、1871年(明治4年)3月20日に愛知県知多郡南知多町内海の「日比長三郎」の養嗣子となり同家に入籍した。
一柳 仲次郎(いちやなぎ なかじろう、1868年12月3日(… 一柳 仲次郎(いちやなぎ なかじろう、1868年12月3日(明治元年10月20日) - 1939年(昭和14年)4月14日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 尾張国知多郡成岩村(現愛知県半田市)で、名主・一柳浅右衛門の二男として生まれる。苦学して三井物産社員を経て、1897年に北海道に渡る。 ニシン漁で失敗し、1900年、札幌に移り、リンゴ、タマネギの販売を手掛け、海外への輸出なども行った。札幌区会議員、北海道会議員、同議長、日露貿易商組合長、札幌果実蔬菜輸出商同業組合長、札幌果実商組合長、札幌商業会議所副会頭、北海道拓殖倉庫取締役、北海道信託社長、一柳物産社長、合資会社一柳商会代表社員などを務めた。
二代 小栗 冨治郎(富治郎、おぐり とみじろう、1867年1… 二代 小栗 冨治郎(富治郎、おぐり とみじろう、1867年12月3日〈慶応3年11月8日〉 - 1933年〈昭和8年〉12月1日)は知多半島の中核地・半田の豪商。酒や醤油の醸造、銀行業や紡績業など多角経営を進め、貴族院多額納税者議員も務めた。 後の愛知県半田市にて、小栗富一(初代・富治郎)の長男として生まれる。祖父の喜七は船頭として江戸-蝦夷間の物流で稼ぎ、先代の借金を完済。主人・中埜半六の番頭を務めたのち独立するとまず味醂の製造、次いで1845年(弘化2年)に酒の醸造を始め財を成した。 1859年(安政6年)に横浜港が開港するやすぐさま唐糸を輸入して江戸や名古屋に販売、巨利を得る。1865年(慶應元年)初代・富治郎に家督を譲り引退。
天埜 伊左衛門(伊左衞門、あまの いざえもん、1854年1月… 天埜 伊左衛門(伊左衞門、あまの いざえもん、1854年1月27日(嘉永6年12月29日)- 1930年(昭和5年)8月28日)は、明治から大正期の酒造家、実業家、政治家。衆議院議員、愛知県知多郡亀崎町長。 尾張国知多郡乙川村(愛知県知多郡乙川村、亀崎町を経て現半田市亀崎町)で、先代・天埜伊左衛門の長男として生まれた。1869年(明治2年6月)家督を相続した。酒造業を営む。私塾を設け郷土の子弟の教育に尽くした。 乙川村戸長となる。1884年(明治17年)愛知県会議員に選出され1892年(明治25年)まで在任。1889年(明治22年)亀崎町長に就任。所得税調査委員、亀崎教育会長も務めた。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙(愛知県第7区)で初当選し、その後、第4回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
山本 梅荘(やまもと ばいそう、弘化3年8月13日(1846… 山本 梅荘(やまもと ばいそう、弘化3年8月13日(1846年10月3日) - 大正10年(1921年)2月24日)は、明治・大正期の南画家。「梅荘」は雅号で、名は倉蔵、字は子埜。また、最初の号は「半邨」だった。 碧海郡新川鶴ヶ崎村(現・碧南市新川町鶴ヶ崎地区)で出生。幼少の頃、書画骨董商山本滄洲堂(名は公平)の養嗣子となり、知多郡半田村(現・愛知県半田市)に移住する。 その後、京都に出て貫名菘翁、三谷雪崦に師事して南画を学んだ。 明治15年(1882年)の内国絵画共進会で褒状を授与されたほか、各種の博覧会共進会で受賞を重ね、明治45年(1912年)には文部省美術展覧会審査員に任命された。作品は山水画が多い。
毛谷村 六介(けやむら ろくすけ、生没年未詳)は、明治時代の… 毛谷村 六介(けやむら ろくすけ、生没年未詳)は、明治時代の大相撲力士。本名は清水忠太郎。年寄8代大嶽。 現在の愛知県半田市近郊の出身。大嶽に入門し、1885年5月 清竹忠太郎で序ノ口。1886年5月序二段、1887年5月三段目。1887年に大嶽が亡くなり、のち雷部屋に移る。1889年1月毛谷村六介に改名。 毛谷村六介は加藤清正の家来となった貴田孫兵衛の通称である。文禄の役で朝鮮に侵攻し敵の謀略により生涯を終えた人物で、歌舞伎の演目にもなっている。この名前を名乗るため、特色のあった力士と推測される。 1890年5月幕下に。1897年5月から大嶽二枚鑑札で土俵を務め、1898年1月より番付でも大嶽となる。