横田 茂昭(よこた しげあき、1969年5月1日 - )は、… 横田 茂昭(よこた しげあき、1969年5月1日 - )は、囲碁の棋士。岡山県浅口郡金光町(現浅口市)出身、関西棋院所属、赤木一夫門下、九段。関西棋院第一位、碁聖戦挑戦者など。厚みを重視する棋風。趣味はクラシック音楽とバレーボール。 1980年、第1回少年少女囲碁大会に金光町立金光小学校5年で出場し、見事初代優勝者となる。翌年も連覇を掛け第2回少年少女囲碁大会に出場するが、のちに関西棋院の後輩となる新垣朱武に敗れ準優勝に終わる。 1983年入段、1995年に九段。 2005年、第49期関西棋院第一位決定戦で中野泰宏を2-0で降し、自身初のタイトルを手にした。 2007年、第32期碁聖戦トーナメントを勝ち上がり、38歳にして七大タイトル初挑戦を果たす。
春一番(はるいちばん、1966年8月13日 - 2014年7… 春一番(はるいちばん、1966年8月13日 - 2014年7月3日)は、日本のお笑いタレント。本名は春花 直樹(はるはな なおき)。神奈川県生まれ、岡山県浅口郡鴨方町(現:浅口市)出身。アネットに所属していた。 素行不良が元で、高校を最初の一学期のみで中退し、地元の悪い仲間から引き離したいと親が考えたことにより、埼玉県の親戚の元へ預けられ、その後大宮市(当時)内の甘栗太郎に入社した。 サラリーマン生活を経て、1985年に芸人を志し、片岡鶴太郎に弟子入りし、1988年に鶴太郎主演のテレビドラマ『翼をください』(NHK総合)で芸能界デビューした。 当時の所属事務所は鶴太郎が所属する太田プロダクションで、鶴太郎夫人の画数診断によると「本名では画数が悪い」とのことで芸名を付けようということになり、苗字が「春花」である事と、『芸人として一番を目指せ!』『春一番の風のように強い風を吹かせろ!』という思いを込めて、師匠の鶴太郎が『春一番』と命名したと鶴太郎自身が後年語っているが、春一番本人は「自分で考えた」と生前周囲へ述べていた。
赤木 明登(あかぎ あきと、1962年 - )は日本の漆芸家… 赤木 明登(あかぎ あきと、1962年 - )は日本の漆芸家、文筆家、美食家。2023年現在は輪島在住。 岡山県浅口市出身。中央大学文学部哲学科卒業、編集者を経て、1988年に輪島へ。輪島塗の下地職人・岡本進のもとで修行。 1994年に独立。現代の暮らしに息づく生活漆器=「ぬりもの」の世界を切り開く。 1997年にドイツ国立美術館「日本の現代塗り物十二人」展、 2000年に東京国立近代美術館「うつわをみる 暮らしに息づく工芸」展 2010年に岡山県立美術館「岡山 美の回廊」展 2012年にオーストリア国立応用美術博物館「もの 質実と簡素」展 2017年に樂翠亭美術館(富山市)「形の素」展、國學院大學博物館「モノの力ヒトの力」展 2019年に「興福寺中金堂楽慶法要献茶道具」を制作「興福寺宝物殿」に収蔵、古川美術館(名古屋市)「茶 祈りと楽しみ」展 2021年に石川県立輪島漆芸美術館「メイドインワジマ」展 2022年に古川美術館(名古屋市) 「形の素」展に出品。
西牧 世博(にしまき つぐひろ、1955年 - )は、日本の… 西牧 世博(にしまき つぐひろ、1955年 - )は、日本の実業家。四国旅客鉄道(JR四国)代表取締役会長・前社長。 岡山県浅口市出身。1981年に大阪大学大学院を修了した後に、同年に日本国有鉄道に入社した。JR四国で取締役、専務を歴任し、2020年6月に社長に就任した。 2024年6月21日に社長職を四之宮和幸専務に譲り、代表権のある会長に就任した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
仁科 時成(にしな ときなり、1951年6月2日 - )は、… 仁科 時成(にしな ときなり、1951年6月2日 - )は、岡山県浅口郡寄島町(現:浅口市)出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。
菅 伸子(かん のぶこ、1945年10月3日 - )は、日本… 菅 伸子(かん のぶこ、1945年10月3日 - )は、日本のエッセイスト、主婦。旧姓は姫井(ひめい)。第94代内閣総理大臣である菅直人の妻。 1945年、岡山県浅口郡金光町(のちの浅口市)にて生まれた。父は医師であり、母は政治家を務めるなど、姫井家は地域の名門であった。兄の成は15代目である。 母親の姫井千恵子は金光町議会議員を務め、町議会議長となるなど、地方政界で活躍した。また、祖父の菅實も医師であると同時に、久米郡会議員だった。そのため姫井家は「普段から政治談議に花を咲かせる家庭だった」という。 金光学園を経て、津田塾大学の英文科に進学した。 伸子と半世紀の付き合いだという親友によれば「当初、彼女は大学の寮に入っていたんですが、3年生から菅直人さんの三鷹市の家で下宿を始めました。
金光 鑑太郎(こんこう かがみたろう、明治42年(1909年… 金光 鑑太郎(こんこう かがみたろう、明治42年(1909年)4月26日 - 平成3年(1991年)1月10日)は、金光教の四代金光様。書家、歌人、文化人、教育者。雅号は碧水(へきすい)。金光図書館を創設し、初代図書館長。昭和26年から平成2年まで、日本図書館協会顧問。昭和48年から平成2年までボーイスカウト日本連盟顧問。 明治42年4月26日、今の岡山県浅口市金光町大谷に生まれる。金光攝胤とキクヨ(佐藤範雄の娘)の長男。父金光攝胤の死に伴う金光教教主選挙で、昭和38年7月9日二代目金光教主に就任、信奉者からは四代金光様と呼ばれた。 平成3年1月10日死去。死後は長男の金光平輝(こんこうへいき)が、教主に選出された。
赤松 月船(あかまつ げっせん、1897年3月22日 - 1… 赤松 月船(あかまつ げっせん、1897年3月22日 - 1997年8月5日)は、日本の詩人、曹洞宗僧侶。梅花流詠讃歌で知られる。岡山県浅口郡鴨方村(現・浅口市)出身。旧名は藤井卯七郎。 小学校卒業と同時に井原の善福寺の住職赤松仏海の養子となり、13歳で得度、1914年(大正3年)から新居浜の瑞応寺で修行、1916年から大本山永平寺で修行。1918年(大正7年)、僧籍を離れ上京して生田長江に師事。文学上の友人としては村井武生がいる。佐藤春夫、室生犀星らと知り文学活動を始め、『紀元』『文藝時代』などに参加。 1936年、岡山県に帰り、洞松寺(矢掛町)、善福寺の住職。1950年、曹洞宗特派布教師。1951年、正教師。
三宅 剛一(みやけ ごういち、1895年1月1日 - 198… 三宅 剛一(みやけ ごういち、1895年1月1日 - 1982年10月8日)は、日本の哲学者。専攻は臨床哲学・倫理学。文学博士(京都帝国大学)。長男は歴史学者の三宅正樹。 岡山県浅口市鴨方町益坂出身。旧制私立金光中学校(現:金光学園中学校・高等学校)、旧制第六高等学校(現:岡山大学)を経て、1916年に京都帝国大学哲学科に進み西田幾多郎、朝永三十郎、波多野精一に学ぶ。卒業後は旧制新潟高等学校(現:新潟大学)や東北帝国大学理学部の教授を歴任した。ドイツにも留学し、フライブルク大学でフッサールから現象学の手法を学んだ。1943年「学の形成と自然的世界:西洋哲学の歴史的研究」により京都帝国大学文学博士。
金光 家邦(こんこう いえくに、明治21年(1888年) -… 金光 家邦(こんこう いえくに、明治21年(1888年) - 昭和63年(1988年))は、金光教の二代管長、金光教内では二世管長と呼ばれた。 明治21年10月21日、今の岡山県浅口市金光町大谷に生まれる。金光萩雄の三男。母は赤沢古満(こま)。明治44年嫡系の次男で、管長の後継者とされていた兄金光之照の死去に伴い、父萩雄の死後家督を継ぎ二代目管長となる。 若年のためと、従兄で、金光宅吉の死後四十年以上結界奉仕をし、既に三代金光様と呼ばれていた金光攝胤や、父金光萩雄に比べ、多くの金光教信奉者からの人望も得られず、教団自覚運動とも呼ばれる昭和九年十年事件の結果。昭和16年、管長が世襲から選挙制に変わり、金光攝胤が三代目管長に任命された。
金光 攝胤(こんこう せつたね、明治13年(1880年)8月… 金光 攝胤(こんこう せつたね、明治13年(1880年)8月5日 - 昭和38年(1963年)4月13日)は、金光教の三代金光様。 明治13年8月5日今の岡山県浅口市金光町大谷に生まれる。金光宅吉(いえよし)喜代(きよ)の長男。父金光宅吉の死にあたり、明治26年12月29日から、広前の取次の座を任され、金光教の信奉者からは三代金光様と呼ばれた。 明治31年、金光式子(金光萩雄の長女)を妻に迎えるも、先立たれ、明治40年佐藤キクヨ(佐藤範雄の長女)を妻に迎え、6男3女(金光鑑太郎(かがみたろう)、金光実司之助(みしのすけ)、金光眞整(しんせい)、佐藤祐子(ゆうこ)、金光護佑(ごゆう)、和泉賀代子(かよこ)、竹部理貴代(りきよ)、金光整雄(せいお)、秋山佑一(ゆういち)の9人)をもうけた。
国富 友次郎(くにとみ ともじろう、明治3年2月3日(187… 国富 友次郎(くにとみ ともじろう、明治3年2月3日(1870年3月4日) - 昭和28年(1953年)12月1日)は、日本の教育者。岡山市長。 備中国浅口郡鴨方(現在の岡山県浅口市)の高戸家に生まれ、岡山市の国富大三郎の養子となった。岡山県師範学校卒業後、岡山県下の小学校で校長を務めた。1904年(明治37年)に岡山実科女学校校長に就任し、1908年(明治41年)には岡山実科高等女学校(のち就実高等女学校に改称)を設立し、両校の校長を兼ねた。岡山県教育副会長、岡山市教育会長、帝国教育会理事を歴任。また県会議員、市会議員、同参事会員、同議長に選出された。 1941年(昭和16年)、岡山市長に就任し、1944年(昭和19年)まで務めた。
金光宅吉(こんこう いえよし、安政元年12月25日(1855… 金光宅吉(こんこう いえよし、安政元年12月25日(1855年2月11日) - 明治26年(1893年)12月20日)は、金光教の二代金光様。 今の岡山県浅口市金光町大谷に生まれる。赤沢文治(金光大神)登勢(とせ)の5男。幼名は、宇之丞(うのじょう)、後に虎吉(とらよし)と改められる。金光四神(こんこうしじん)の神号を許され、金光大神の死後、広前の取次の座を主として守り、金光教の信奉者や布教者からは二代金光様あるいは四神様(しじんさま)と呼ばれている。神道本局傘下の神道金光教会で、金光教教監を務めた。諡号は「金光四神貫行君」(こんこうしじんつらゆきのきみ)。 妻 喜代(きよ:安部家より嫁す)との間に、4男4女をもうけた。
金光萩雄(こんこう はぎお、嘉永2年4月25日(1849年5… 金光萩雄(こんこう はぎお、嘉永2年4月25日(1849年5月17日) - 大正8年(1919年)12月17日)は、金光教の初代管長。 嘉永2年(1849年)4月25日、今の岡山県浅口市金光町大谷に生まれる。赤沢文治(金光大神)登勢(とせ)の4男。幼名は、茂平(もへい)、後に石之丞(いしのじょう)と改められる。 慶応2年(1866年)10月11日、浅尾藩有志組に志願して名字帯刀を許され、明治元年(1868年)11月1日金光山神(こんこうさんじん)の神号を授けられた。 明治8年(1875年)古川参作の長女ゆきと結婚、三男二女をもうけた。 父、金光大神の布教を助けるため、教導職の資格を取り佐藤範雄らと共に金光教公認活動の中心となった。
鈴木 寛子(すずき ひろこ)は、NHK神戸放送局の契約キャス… 鈴木 寛子(すずき ひろこ)は、NHK神戸放送局の契約キャスター。 岡山県出身。大学卒業後地元のNHK岡山放送局に契約キャスターとして採用される。契約期間満了後の2006年、NHK山口放送局に移籍。夕方の報道番組を担当し、夕方の顔として親しまれるも、2010年3月に期間満了で退局。 その後1年のブランクを経て2011年4月、NHK神戸放送局に採用された。ここでもやはり夕方の顔としての登場となる。 山口勤務最後の年に防府市で起こった豪雨災害の爪痕を取材した経験がある。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(アナウンサーPJ)。