澄川 道男(すみかわ みちお、1896年〈明治29年〉8月5… 澄川 道男(すみかわ みちお、1896年〈明治29年〉8月5日 - 1977年〈昭和52年〉6月18日)は日本の海軍軍人。海兵45期。最終階級は少将。勲三等旭日章、勲二等瑞宝章、金鵄勲章功四級、仏国金鵄勲章レジオンドヌール勲章三級。 1896年(明治29年)8月5日、山口県吉敷郡山口町(現:山口県山口市)で出生、旧制山口中学(現在の山口県立山口高等学校)では後に総理大臣となった岸信介と首席の座を競った。1914年(大正3年)海軍兵学校入学、卒業後は主として航空畑、参謀畑を歩んだ。1937年(昭和12年)フランス国大使館附武官(駐在武官)。海軍大佐時代には水上機母艦「瑞穂」艦長(1940年10月15日 - 1941年9月5日)、航空母艦「飛鷹」艦長(1942年11月21日 - 1943年8月15日)を務めている。
田中 頼三(たなか らいぞう、1892年(明治25年)4月2… 田中 頼三(たなか らいぞう、1892年(明治25年)4月27日 - 1969年(昭和44年)7月9日)は、日本の海軍軍人。海兵41期。最終階級は海軍中将。 山口県山口市嘉川(旧嘉川村)の本間家の三男に生まれる。 旧制山口中学校を卒業。1913年(大正2年)12月海軍兵学校41期卒。生粋の駆逐艦乗りで、水雷屋としてキャリアを重ねた。 第一次世界大戦では第二特務艦隊に属し、地中海で連合国艦船の護衛任務に従事している。 第一次世界大戦後の1920年11月、山口県の田中家へ入籍し姓が田中となる。 太平洋戦争直前の1941年(昭和16年)9月15日、五藤存知少将の後任として第二水雷戦隊司令官となる。そのまま日米開戦を迎え、南方作戦・蘭印作戦に従事。
高橋 忠治(たかはし ちゅうじ、1885年(明治18年)10… 高橋 忠治(たかはし ちゅうじ、1885年(明治18年)10月16日 - 1964年(昭和39年)1月24日)は、日本の海軍軍人、山口市長。最終階級は海軍大佐。 山口県吉敷郡大内村(現在の山口市)出身。高木権次郎の二男として生まれ、高橋千代造の養子となった。1907年(明治40年)、海軍兵学校を卒業。1908年(昭和41年)、海軍少尉に任官し、1929年(昭和4年)に海軍大佐となった。その間、舞鶴鎮守府副官、大湊要港部副官、海軍軍令部員、菱艦長、海軍水雷学校教官、磐手副長、第7駆逐隊司令、第1駆逐隊司令、第29駆逐隊司令を歴任した。1931年(昭和6年)、予備役。 在郷軍人会山口連合分会副会長を経て、1935年(昭和10年)に山口市長に選出された。
大村信行(おおむら のぶゆき、1865年1月17日〈元治元年… 大村信行(おおむら のぶゆき、1865年1月17日〈元治元年12月20日〉 - 没年不明)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。従四位勲三等功四級 1865年1月17日(元治元年12月20日)長州藩大村久兵衛の次男として生まれる。父久兵衛はかつて、奇兵隊と常備軍の小郡付近での戦闘において常備軍側に加わり戦闘に参加した。明治の初め頃には少年を集めて郷勇隊を編成し、武術の鍛錬などを行っていた。
藤井 幸槌(ふじい こうつち、1864年2月12日〈文久4年… 藤井 幸槌(ふじい こうつち、1864年2月12日〈文久4年1月5日〉- 1927年〈昭和2年〉4月17日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 山口県出身。藤井由助の二男として生れる。1886年(明治19年)6月、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し、歩兵少尉に任官、歩兵第10連隊付となる。近衛歩兵第1連隊付などを経て、1892年(明治25年)12月、陸軍大学校(8期)を卒業した。 1894年(明治27年)4月、陸士教官心得となり、後備歩兵第3連隊中隊長心得、陸士教官、台湾総督府参謀、同陸軍部課員、参謀本部第3部員などを経て、1900年(明治33年)10月、陸軍少佐に進級し近衛歩兵第4連隊付となった。
寺内 正毅(てらうち まさたけ、旧字体: 寺內 正毅、185… 寺内 正毅(てらうち まさたけ、旧字体: 寺內 正毅、1852年3月25日〈嘉永5年閏2月5日〉 - 1919年〈大正8年〉11月3日)は、明治・大正期の日本の陸軍軍人、政治家。軍人としての階級は元帥陸軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功一級。爵位は伯爵。 書の雅号は桜圃、魯庵。「ビリケン宰相」の異名を持つ。 陸軍大臣(第7代)、外務大臣臨時兼任(第2次桂内閣・寺内内閣)、韓国統監(第3代)、朝鮮総督(初代)、内閣総理大臣(第18代)、大蔵大臣(第19代)などを歴任した。 明治から大正にかけて陸軍軍人として活躍し、第1次桂内閣では児玉源太郎の後任として陸軍大臣に就任した。以来、第1次西園寺内閣や第2次桂内閣でも陸軍大臣を務めた。
宇佐川 一正(うさがわ かずまさ、1849年12月24日〈嘉… 宇佐川 一正(うさがわ かずまさ、1849年12月24日〈嘉永2年11月10日〉- 1927年〈昭和2年〉11月10日)は、明治から昭和初期の日本陸軍の軍人、政治家、華族。最終階級は陸軍中将。貴族院男爵議員。 長州藩士・藤村太郎右衛門の四男として生まれ、宇佐川久平の養子となる。伏水教導隊に入り、下士官試補、権曹長、曹長と昇進し、1874年(明治7年)6月、陸軍戸山学校を卒業し、翌月、歩兵少尉に任官。以後、歩兵第14連隊付となり、1877年(明治10年)2月、西南戦争に出征した。歩兵第24連隊大隊副官、歩兵第1旅団参謀、同副官、近衛歩兵第1旅団副官、第1師団参謀、歩兵第17連隊付、監軍部副官、近衛師団参謀などを歴任し、日清戦争には第1軍参謀として出征し、田村怡与造の後任として同軍参謀副長となった。