野村 興兒(のむら こうじ、1944年(昭和19年)7月29… 野村 興兒(のむら こうじ、1944年(昭和19年)7月29日 - )は、日本の政治家、元大蔵官僚。山口県萩市長を新旧合わせて6期務めた。 2018年4月に至誠館大学の学長に就任。 山口県萩市出身。河村建夫は山口県立萩高等学校の2年先輩。 1967年、京都大学経済学部経済学科を卒業し、同年大蔵省に入省。主計局調査課に配属。同期に伏屋和彦、黒田東彦(日銀総裁)、山口公生(銀行局長)などがいる。
山縣 伊三郎(やまがた いさぶろう、1858年2月6日〈安政… 山縣 伊三郎(やまがた いさぶろう、1858年2月6日〈安政4年12月23日〉- 1927年〈昭和2年〉9月24日)は、日本の官僚。元老山縣有朋の養子で公爵を継いだ。旧姓は勝津。妻は加藤弘之の娘の隆子。息子は有道、三郎と養子の有光。 長州藩藩士勝津兼亮と山縣有朋の姉・壽子の間に次男として生まれる。明治維新の立役者の一人であった有朋には三男四女があったが、次女以外夭折して山縣家を継ぐべき子供がいなかったため、甥である伊三郎を養子とした。 ドイツ留学後、内務官僚として徳島県知事、三重県知事、内務省地方局長、内務次官などを歴任した。1906年(明治39年)に第1次西園寺内閣で逓信大臣として入閣。しかし、鉄道建設に関する予算問題をめぐって大蔵大臣の阪谷芳郎と対立した末、1908年(明治41年)1月に逓相を辞任している。
飯田 俊徳(いいだ としのり、弘化4年6月25日〈1847年… 飯田 俊徳(いいだ としのり、弘化4年6月25日〈1847年8月5日〉 - 1923年〈大正12年〉8月27日)は、日本の鉄道の父といわれる井上勝らと共に、日本の鉄道敷設に努めた明治時代の官僚、技術者である。山口県萩市出身。元長州藩士。 萩藩大組飯田家の子として生まれた。はじめは吉次郎といった。 藩校明倫館に学んだ後、吉田松陰・大村益次郎らに師事する。1864年、高杉晋作率いる奇兵隊にも所属していた。 1867年(慶応3年)12月、藩命で長崎・米国・オランダへ留学した(この時飯田と共に派遣されたのが、松下村塾時代の同期生でもあった渡辺蒿蔵)。帰国後、工部省鉄道局に入局。 1877年(明治10年)、大阪停車場(現大阪駅)構内にて日本最初の鉄道技術者養成機関として設立された工技生養成所で教鞭を執り、多くの日本人技術者らを育て上げる。
国司 仙吉(くにし せんきち、1846年(弘化9年) - 1… 国司 仙吉(くにし せんきち、1846年(弘化9年) - 1915年(大正4年)12月25日)は、幕末の長州藩士、明治期の官僚。秋田県権令。他の通称・千吉郎、号・水門。 長門国萩城下で長州藩士・国司右内、まし夫妻の息子として生まれた。安政4年(1857年)春、松下村塾に入り、安政5年(1858年)吉田松陰の野山再獄まで指導を受ける。文久3年(1863年)若殿様御前詰、元治2年(1865年)御小姓役となる。また、干城隊に入り、その後御楯隊に転じ、改組された整武隊に慶応3年(1867年)まで在籍した。慶応4年2月(1868年)、御蔵元順番検使役に任ぜられ、以後会計局検使、大坂検使役、会計局権大属などを歴任。
木梨 精一郎(きなし せいいちろう、弘化2年9月9日(184… 木梨 精一郎(きなし せいいちろう、弘化2年9月9日(1845年10月9日) - 明治43年(1910年)4月26日)は、日本の内務官僚、陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍歩兵中佐。男爵、錦鶏間祗候。別名を恒準、号は宮圃。 長州藩士・木梨彦右衛門(大組、63石)の嫡男として生まれる。戊辰戦争には、東海道鎮撫総督参謀や東征大総督府参謀補助、奥羽鎮撫総督参謀、仙台追討総軍監を歴任し、戦後、軍功により永世賞典450石を受けた。 長州藩兵第1大隊長を経て明治4年(1871年)に上京、兵部省に出仕して兵部少丞となる。明治5年(1872年)の陸軍省創設後は陸軍少丞となるが、明治6年(1873年)8月、依願免本官となり位階の返上をした。
品川 弥二郎(しながわ やじろう、旧字体: 品川 彌二郞、天… 品川 弥二郎(しながわ やじろう、旧字体: 品川 彌二郞、天保14年閏9月29日〈1843年11月20日〉- 明治33年〈1900年〉2月26日)は、日本の官僚・政治家。栄典は正二位勲一等子爵。名は省吾、弥吉。号は扇洲。別称に橋本八郎、松本清熊などがある。 天保14年(1843年)、長州藩の足軽・品川弥市右衛門と池田六左衛門の長女・まつの長男として生まれた。安政5年(1858年)、松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受けるが、安政6年(1859年)に安政の大獄で松陰が刑死すると、高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、英国公使館焼き討ちなどを実行している。元治元年(1864年)の禁門の変では八幡隊長として参戦し、のちに太田市之進、山田顕義らと御楯隊を組織した。
佐藤 與三(さとう よぞう、天保14年8月23日〈1843年… 佐藤 與三(さとう よぞう、天保14年8月23日〈1843年9月16日〉 - 没年不詳)は、明治期の商工官僚。官選群馬県知事。 長門国阿武郡萩平安湖町(現萩市)に生まれる。 明治5年(1872年)工部省五等出仕に任官。さらに鉄道助・燈台権守を務めた。1873年、燈台頭に昇進。以後、工部大書記官として、鉱山権頭、鉱山局長、内国勧業博覧会審査部長、工作局長、総務局鉱山課長、品川硝子製造所長、参事院員外議官補などを歴任。 1884年7月30日、群馬県令に就任。1886年7月19日、地方官官制改正に伴い同県知事となる。明治21年(1888年)6月限りで廃止とされた公娼について、同年5月に廃娼延期令を発布し、世論の反発を受けて廃止の期限を限るなどの妥協を行うが、県会から辞職を迫られ議会解散を行う。
国貞 廉平(くにさだ れんぺい、天保12年3月22日〈184… 国貞 廉平(くにさだ れんぺい、天保12年3月22日〈1841年5月12日〉 - 1885年〈明治18年〉1月18日)は、日本の武士(長州藩士)、官僚。愛知県令。諱は景孝、景廉、景行。通称は鶴之進、直之進、直人、晩年には廉平。変名は逸水清助。雅号は韓山。 天保12年3月(1841年5月)、長門国萩城下松本村で長州藩士・国貞要助の嫡男として生まれた。藩校・明倫館で学び、万延元年(1860年)江戸の有備館に入り、大橋訥庵の指導も受けた。文久2年(1862年)藩世子・毛利元徳の近侍となる。 慶応2年正月(1865年)、鎮静会議員に加わり内乱の収拾に尽力。慶応2年5月(1866年)、干城隊頭取兼文学寮都講となり、さらに国政方を務めた。
国重 正文(くにしげ まさぶみ、天保11年10月15日〈18… 国重 正文(くにしげ まさぶみ、天保11年10月15日〈1840年11月30日〉 - 1901年〈明治34年〉10月27日)は、幕末の長州藩士、明治期の内務官僚・教育者・神職。官選富山県知事。通称・徳次郎、篤次郎。漢詩・書に堪能で、半山と号した。 長門国阿武郡萩土原(現山口県萩市)で、安芸武田氏の流れを汲む長州藩大組士・国重三郎兵衛恒升の長男として生まれた。藩校・萩明倫館で学ぶとともに、吉田松陰からも山鹿流兵学を学んだ。文久元年(1861年)家督を継ぎ浜崎代官に就任。さらに、当島代官、大組物頭御軍制総掛、山口明倫館頭人役を歴任した。 維新鴻業で果たした役割として夙に知られる事跡は少ないものの、滋賀県大津市の円満院門跡坊官西坊家では、第8代当主暹胤の後室由里の実兄で第9代当主七造の実父が国重正文であるとしており、西坊家に伝わる口伝として①京都の池田屋事件の時には新選組より逃れた一人である②明治維新の頃には桂小五郎と一緒に行動していた――等の秘話を伝えている。
境 二郎(さかい じろう、天保7年8月〈1836年〉 - 1… 境 二郎(さかい じろう、天保7年8月〈1836年〉 - 1900年〈明治33年〉2月9日)は、幕末の長州藩士、明治期の官僚。島根県令(現在の知事)。旧名・斎藤栄蔵。名・建直(たてなお)、字・子(士)彦。 長門国萩土原村(現・山口県萩市)の長州藩士の斎藤貞順の二男として生まれる。当時の名前は斎藤栄蔵、のち境与三兵衛の養子となり、明治初年に境二郎と改名。 15歳の嘉永3年(1850年)藩校明倫館で教授する吉田松陰の門人となる。18歳のとき江戸に遊学後いったん帰郷、21歳の安政3年(1856年)、松下村塾に入門して門下生になる。その後、塩谷宕陰にも師事した。文久3年(1863年)、明倫館文章掛等を歴任。