山本 祐揮(やまもと ゆうき、1993年(平成5年)11月2… 山本 祐揮(やまもと ゆうき、1993年(平成5年)11月26日、 - )は日本の実業家。株式会社こころび・代表取締役社長。 熊本県熊本市生まれ。熊本すみれ保育園、熊本市立池田小学校に入学。0歳で母親を病で亡くしており、父親だけでなく、祖父母、親戚の家に育てられる。小学校高学年のころ、『母がなくなった年齢に近づくにつれて、自分がいつか死ぬんだ』ということを実感し、死に対する漠然とした恐怖を抱えはじめる。 熊本県熊本市の真和中学校入学、その後真和高等学校に進学。中学校、高校時代にはバスケ部に所属しながら、応援団や生徒会に所属し『自分の心に火がついたら、人はものすごいパワーがでて、幸福度も高くいれる』ということに気付く。
神田 康範(かんだ やすのり、1981年〈昭和56年〉4月3… 神田 康範(かんだ やすのり、1981年〈昭和56年〉4月3日 - )は、熊本県熊本市出身の実業家。本田圭佑のマネージャーやライジングゼファーフクオカの代表取締役社長兼CEO、火の国サラマンダーズの球団社長を経て、現在はサンロッカーズ渋谷の代表取締役社長を務めている。 熊本県立済々黌高等学校卒業、大阪外国語大学卒業(現大阪大学外国語学部)。高校時代は野球部に所属。 大学卒業後ブリヂストンスポーツに入社し、アメリカでゴルフのマーケティングに携わる。帰国後サニーサイドアップを経て、本田圭佑の所属事務所HONDA ESTILOの執行役員に就任。本田の広告セールスやマネージャー業に従事した。本田が経営に関与するオーストリアのSVホルンのCEO兼副会長として運営にも携わった。
奥村 剛(おくむら つよし、1967年7月8日 - )は、元… 奥村 剛(おくむら つよし、1967年7月8日 - )は、元社会人野球選手(内野手)、実業家。株式会社西武ライオンズ社長。熊本県熊本市出身。 熊本工業高校では緒方耕一の1学年上、明治大学では同郷の東瀬耕太郎や今久留主成幸と同期。 1990年3月よりプリンスホテルに入社し、野球部にも所属した。野球部では主に内野手として活躍し、宮本慎也とも二遊間を組んだ。コーチ兼任となった1999年の都市対抗野球では東芝府中の補強選手として10年連続出場選手表彰を受ける。 社業では2005年7月に総務部次長、2007年6月に川越プリンスホテル総支配人、2010年4月に第1事業部部長、同年6月に人材開発部部長、2015年4月にサンシャインシティプリンスホテル兼川越プリンスホテル総支配人、2019年4月に執行役員、東京都市圏エリア統括総支配人兼新横浜プリンスホテル総支配人を歴任。
井手 らっきょ(いで らっきょ、本名:井手 博士〈いで ひろ… 井手 らっきょ(いで らっきょ、本名:井手 博士〈いで ひろし〉、1959年〈昭和34年〉12月11日 - )は、熊本県を拠点に活動する日本のお笑い芸人、実業家、たけし軍団団員、ローカルタレント。 スキンヘッドがトレードマークで、裸芸(癖)が定番。テレビのバラエティ番組のほか、映画や舞台でも俳優として活躍している。まれに芸名を「井出らっきょ」と誤表記される事がある。 その傍ら、熊本市にて2005年5月に野球専門学校「プロフェッショナル・ベースボール・アカデミー」を設立した。 熊本県熊本市中央区出身。株式会社TAP所属。血液型はAB型。息子は、ラッパーのROOKで、芸能活動の傍ら、現在、井手の経営するダーツバーで勤務している。
木村 康(きむら やすし、1948年(昭和23年)2月28日… 木村 康(きむら やすし、1948年(昭和23年)2月28日 - )は、日本の石油実業家、元石油連盟会長。日産自動車取締役会議長、国際石油開発帝石社外取締役、ENEOSホールディングス株式会社特別理事、元代表取締役会長、元JX日鉱日石エネルギー株式会社代表取締役社長・会長。元一般財団法人石油エネルギー技術センター理事長。
細谷 英二(ほそや えいじ、1945年〈昭和20年〉2月24… 細谷 英二(ほそや えいじ、1945年〈昭和20年〉2月24日 - 2012年〈平成24年〉11月4日)は日本の実業家。りそなホールディングス会長、りそな銀行会長。東日本旅客鉄道(JR東日本)副社長、総合研究開発機構理事、経済同友会幹事などを歴任した。熊本県熊本市出身。正四位旭日重光章。 1945年(昭和20年)2月、熊本市で生まれる。東京大学法学部を卒業後、1968年、日本国有鉄道に入社する。経理局に勤務していたとき大蔵省への予算説明などを担当したことがあり自ら予算を作ったこともあった。そして井手正敬・松田昌士・葛西敬之ら国鉄改革三人組をサポートし、国鉄分割民営化という結論に達した。1985年3月に天王寺鉄道管理局への左遷も経験する が、同年7月に経営計画室計画主幹、1987年1月にJR東日本設立準備室次長を経て、1987年4月のJR東日本発足時には総合企画本部投資計画部長となる。
田中 昭洋(たなか あきひろ、1943年12月2日 - )は… 田中 昭洋(たなか あきひろ、1943年12月2日 - )は、日本の経営者。ウシオ電機社長を務めた。熊本県熊本市出身。 1966年に熊本商科大学商学部を卒業し、1968年2月にウシオ電機に入社。1989年6月に取締役に就任し、1990年3月に常務、1994年6月に専務を経て、1995年4月には社長に就任。2005年3月から2009年4月までに副会長を務めた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
田村 浩章(たむら ひろあき、1943年〈昭和18年〉8月2… 田村 浩章(たむら ひろあき、1943年〈昭和18年〉8月24日 - )は、日本の経営者。やまぐち産業振興財団理事長、元宇部興産(現・UBE)取締役会長。 1943年(昭和18年)8月24日、東京都の目黒海軍病院で軍医の息子として産まれる。1歳より母方の故郷である熊本県八代市で育つ。熊本県立熊本高等学校、京都大学工学部機械工学科を経て、1966年(昭和41年)に宇部興産(現・UBE)へ入社。なお、同期の入社には、辻卓史(鴻池運輸会長)、前田高行(中東経済研究者)などがいる。1997年(平成9年)に同社取締役建設資材事業本部セメント生産統括部長に就任し、以降、同社常務取締役、同社専務執行役員建設資材カンパニープレジデント、同社取締役(専務待遇)、専務執行役員社長補佐を歴任する。
信原 啓也(のぶはら ひろや、1941年11月30日 - )… 信原 啓也(のぶはら ひろや、1941年11月30日 - )は、熊本県熊本市出身の財界人。元日本クレジットカード協会会長、元ジェーシービー(JCB)社長。
田代 圓(たしろ まどか、1931年8月25日 - 2019… 田代 圓(たしろ まどか、1931年8月25日 - 2019年1月27日)は、日本の実業家。東ソー元取締役社長。熊本市出身。 1956年、東京大学教養学部卒業。同年、東洋曹達工業(現・東ソー)入社。1981年、同社経営企画本部企画部長、1985年、同社取締役、新規事業部長。1988年、同社常務取締役・経営管理本部長・経営企画部長。1990年同社専務取締役、1992年同社取締役社長。2001年同社取締役会長。2009年同社取締役相談役。 2019年1月27日午後5時9分、敗血症のため、東京都港区の病院で死去、87歳。 社外では、高分子学会代表幹事、石油化学工業協会副会長、日本ソーダ工業会会長、塩ビ工業・環境協会会長、相模中央化学研究所理事長などを歴任した。
小堀 富夫(こぼり とみお、1930年1月23日 - 201… 小堀 富夫(こぼり とみお、1930年1月23日 - 2018年4月24日)は、日本の経営者。熊本放送社長を務めた。茶道肥後石流小堀家第12代当主でもあった。 熊本県熊本市出身。1949年に熊本語学専門学校を卒業し、同年に熊本日日新聞社に入社。1953年にラジオ熊本(のちの熊本放送)に転じ、1974年6月に取締役に就任し、1978年6月に常務、1986年7月に専務を経て、1988年6月には社長に就任。1998年6月から2004年6月までに会長を務めた。 1994年4月に藍綬褒章を受章。 2018年4月24日に肺炎のために死去。88歳没。
小田 啓二(おだ けいじ、1925年12月14日 - 200… 小田 啓二(おだ けいじ、1925年12月14日 - 2006年9月9日)は日本の実業家。熊本市出身。兼松株式会社元代表取締役社長。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
田中 子玉(たなか しぎょく、1906年9月29日 - 19… 田中 子玉(たなか しぎょく、1906年9月29日 - 1986年1月28日)は、日本の経営者。テレビ西日本社長を務めた。熊本県熊本市出身。 1930年に早稲田大学高師部英語科を卒業し、1935年に福岡日日新聞社(のちの西日本新聞社)に入社した。 1958年3月にテレビ西日本専務に就任し、1963年に副社長を経て、1967年から1971年までに社長を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章。 1986年1月28日肺炎のために死去。79歳没。
美作 太郎(みまさか たろう、1903年9月17日 - 19… 美作 太郎(みまさか たろう、1903年9月17日 - 1989年7月3日)は、昭和期の編集者、出版会社経営者、出版学研究者。 熊本県熊本市生まれ。1927年東京帝国大学法学部卒業後、日本評論社に入社。東大で教わった師の河合栄治郎の著作『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系』『ファッシズム批判』『学生に与う』『学生叢書』などの出版を担当する。 1938年、河合栄治郎事件が起こり、河合著の『ファッシズム批判』などが発禁となる。自身は1944年に横浜事件により逮捕される。両事件により、日本評論社は相当な被害を被る。戦後は同社に復帰し、編集局長、専務取締役になる。1951年退社し、1952年に新評論社(のち新評論)を創立し、社長、のち会長となる。
岩永 巌(いわなが いわお、1901年7月28日 - 198… 岩永 巌(いわなが いわお、1901年7月28日 - 1985年1月9日)は、日本の経営者。熊本県熊本市出身。 1915年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に東洋レーヨン(現在の東レ)に入社。1947年に取締役に就任し、1948年に常務を経て、1960年に副社長に就任し、1963年には三井石油化学工業社長に昇格。1969年11月に会長に就任。 1965年に藍綬褒章を受章し、1971年に勲二等瑞宝章を受章。 1985年1月9日急性心不全のために死去。83歳没。
立石 一真(たていし かずま、明治33年(1900年)9月2… 立石 一真(たていし かずま、明治33年(1900年)9月20日 - 平成3年(1991年)1月12日)は、日本の実業家、技術者。オムロンの創業者。立石孝雄は長男、立石信雄は次男、立石義雄は三男。 熊本県熊本市(現・熊本市中央区)新町に伊万里焼盃を製造販売する立石熊助およびエイの長男として生まれた。立石家は祖父・孫一が佐賀県伊万里の地で焼き物を習得し熊本に移住、「盃屋」を店開きした。 一新尋常小学校(現・熊本市立一新小学校)、旧制熊本中学校(現・熊本県立熊本高等学校)を経て、1921年(大正10年)熊本高等工業学校電気科一部(現・熊本大学工学部)卒業。兵庫県庁での勤務を経て、1930年(昭和5年)に「彩光社」を京都市にて設立。
金子 秀三(かねこ ひでぞう、1900年9月14日 - 19… 金子 秀三(かねこ ひでぞう、1900年9月14日 - 1980年9月21日)は、日本の実業家である。RKB毎日放送の社長・会長を務めた。熊本県熊本市出身。 1924年、慶應義塾大学法学部政治学科を卒業。同年に毎日新聞社に入社し、大連支局長、天津支局長、北京支局長、西部本社論説委員などを歴任した。 1951年6月にラジオ九州設立と同時に代表取締役代表に就任した。専務、副社長を経て、1961年11月に社長に就任し、1969年11月に会長に就任し、1971年11月に相談役に就任した。日本民間放送連盟で理事、副会長、顧問を務めた。1965年に藍綬褒章を受章し、1970年に勲二等瑞宝章を受章した。著書に「音波から映像へ」、「私の飲み食い放談」などがある。
阿部 嘉八(あべ かはち、1884年(明治17年)2月 - … 阿部 嘉八(あべ かはち、1884年(明治17年)2月 - 1938年(昭和13年)5月18日)は、日本の外交官、実業家。在シカゴ帝国領事、在バンクーバー帝国領事、大阪鐵工所取締役等を歴任した。 熊本県熊本市生まれ。壷川小学校を経て、1900年(明治33年)熊本商業学校卒業。1904年(明治37年)東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、大阪商船に入社。1906年(明治39年)同校専攻部卒業。柔道部出身。1907年(明治40年)外交官試験に合格し、領事官補任官。1908年(明治41年)在ホノルル総領事代理。1909年(明治42年)在サンフランシスコ領事官補。 1910年(明治43年)在シアトル領事官補。
橋本 信次郎(はしもと しんじろう、1879年(明治12年)… 橋本 信次郎(はしもと しんじろう、1879年(明治12年)4月11日 - 没年不明)は日本の実業家、政治家。内国通運(現:日本通運)社長、極東煉乳(現:明治)創業者及び専務。東京市会議員。 橋本忠次郎の長男で、熊本県熊本市出身。工手学校卒業。1916年(大正5年)家督相続。父が創業した土木鉱山業の橋本店を受け継ぎ、北海道倶知安の鉄山売却で手腕を発揮する。1917年(大正6年)極東煉乳創業者の1人として取締役となる。1921年(大正10年)千原伊之吉を利用して河村寛裕一派の工作によるお家騒動で内国通運を乗っとる形で社長就任。1923年(大正12年)同社長辞任。 1929年(昭和4年)3月、東京市会議員となり、関東大震災からの復興に携わる。
岡 次郎太郎(おか じろうたろう、1854年(安政元年2月)… 岡 次郎太郎(おか じろうたろう、1854年(安政元年2月) - 1929年(昭和4年)9月5日)は、明治から大正時代の政治家、実業家、銀行家。鉱山経営者。衆議院議員(1期)。 岡権内の第二子として熊本城下内坪井町(現熊本市中央区内坪井町)に生まれる。藩校に入ったのち岡松甕谷の門に入る。第百五十一国立銀行の創立に尽くし、観光社などの重役を務め、鉱山業を営んだ。1884年(明治17年)大蔵省御用掛となり、翌年、秋田県収税長を任ぜられ1889年(明治22年)10月まで務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では熊本県第4区から出馬し当選。大成会に所属し衆議院議員を1期務めた。