因州山 稔(いんしゅうざん みのる、1916年3月1日 - … 因州山 稔(いんしゅうざん みのる、1916年3月1日 - 1980年5月3日)は、鳥取県気高郡宝木村(現役当時、現在の鳥取県鳥取市気高町)出身で春日野部屋に所属した大相撲力士。本名は梅原 實(うめはら みのる)→渡辺 實(わたなべ -)。現役時代の体格は174cm、101kg。得意手は右四つ、寄り。 17歳の時に、元横綱・栃木山が率いる春日野部屋へ入門し、1934年1月場所で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、「久寶山」。 固く体が締まったアンコ型で、右差しで頭を付けての寄りを得意とした。ただし、右を差さないと力を出せない右一辺倒の力士であり、そのため“右の石松”の異名があった。 昇り坂の時期の1938年1月場所から、兵役により、3年間のブランクがある。
常陸海 光房(ひたちうみ みつふさ、1916年1月19日 -… 常陸海 光房(ひたちうみ みつふさ、1916年1月19日 - 没年不明)は、茨城県筑波郡谷和原村(現つくばみらい市)出身で時津風部屋(入門時は荒汐部屋)に所属した大相撲力士。本名は飯塚 光房。最高位は東前頭12枚目。身長171cm、体重90kg。 茨城県筑波郡谷和原村(現つくばみらい市)出身。荒汐部屋に入門し、1936年5月場所に初土俵を踏む。順調に昇進し、1941年5月に新十両、1943年1月には西十両2枚目で10勝5敗と入幕確実の星を挙げる。その場所限りで荒汐部屋は閉鎖され、力士たちは双葉山道場に引き取られることになった。そのため、新入幕の1943年5月場所から廃業まで双葉山道場→時津風部屋の所属となった。
双見山 一夫(ふたみやま かずお、1915年8月4日 - 1… 双見山 一夫(ふたみやま かずお、1915年8月4日 - 1974年3月5日)は、大分県佐伯市(津久見市とする文献もあり)出身(生まれは愛媛県西宇和郡三崎町(現・伊方町))で立浪部屋に所属した元大相撲力士。本名は大星 一夫。現役時代の体格は身長171cm、体重118kg。最高位は東前頭筆頭。得意手は左四つ、寄り。 1937年1月場所、本名の大星の四股名で幕下付出とされて初土俵を踏んだ。天竜三郎らが率いた関西角力協会に入門していたための措置だったが負け越したため、当時の協会内規で翌5月場所は序二段に降格されてしまった。 初土俵から3年後の1940年1月場所に新十両、1941年1月場所に13勝2敗で十両優勝、翌5月場所双見山又五郎の名(1943年1月から下の名を本名の一夫に改名)で入幕を果たした。
松浦潟 達也(まつらがた たつや、1915年5月27日 - … 松浦潟 達也(まつらがた たつや、1915年5月27日 - 1945年3月10日頃)は、佐賀県東松浦郡名古屋村馬渡島(現・唐津市鎮西町馬渡島)出身の大相撲力士。本名は牧山 強臣(まきやま つよみ)。 1930年1月場所に錦島部屋から初土俵を踏む。四股名は出身地の松浦潟(唐津湾)に由来する。1938年1月からは「大蛇潟(おろちがた)」の四股名で新入幕を果たすが、負け越して1場所で十両陥落となる。このままでは伸び悩むと判断したことから、四股名を「枩浦潟」に戻し、1940年1月場所で再入幕。このとき、独立した能代潟錦作と共に立田山部屋へ移籍した。 折しも時代は太平洋戦争へと突入し、若手の力士たちも次々に戦場へ召集されていったが、枩浦潟は大相撲に必要不可欠な存在として兵役を免除され、戦時中にあっても現役の力士として活躍を続けた。
千葉昇 隆利(ちばのぼり たかとし、1915年1月2日 - … 千葉昇 隆利(ちばのぼり たかとし、1915年1月2日 - 没年不詳)は、千葉県野田市出身で春日野部屋に所属した元大相撲力士。本名は長妻 高治。最高位は十両6枚目。 春日野部屋に入門し、1929年1月「野田ノ里」の四股名で初土俵を踏む。1936年5月十両昇進、この間四股名を「千葉昇」に改めた。十両は連続6場所務めた。幕下に落ちた1942年1月に廃業した。
福知海 勝美(ふくちうみ かつみ、1915年1月1日 - 没… 福知海 勝美(ふくちうみ かつみ、1915年1月1日 - 没年不明)は、昭和時代の元大相撲力士。若藤部屋所属。本名は水上 勝美。最高位は十両9枚目。 福岡県宗像郡福間町(現福津市)出身。若藤部屋に入門し、1932年2月「西郷」の四股名で初土俵を踏む。1936年5月十両昇進、この間四股名を「福知海」に改めた。十両で5勝6敗と負け越し、幕下に落ちた。1937年5月に廃業した。
名寄岩 静男(なよろいわ しずお、1914年9月27日 - … 名寄岩 静男(なよろいわ しずお、1914年9月27日 - 1971年1月26日)は、北海道名寄市出身(出生地は北海道小樽市)で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は岩壁 静雄(いわかべ しずお)。最高位は西大関。 1914年9月27日、北海道高島郡高島村で家伝の灸と鍼を用いた治療業を営む家に生まれる(母は鍼灸師の免許を持っていなかったため正式な開業はできなかったとも伝わる)。生後10ヵ月くらいの時に、岩壁家は名寄町に移住し、もう1つの家業である小さな養豚業を営んでいた。 6人兄弟の長男である静雄少年は馬にリアカーを引かせて町内の旅館などから豚の餌となる芋の皮や残飯を貰い受けていた。幼少期から体格が良く、街で彼の姿を見かけた人々は、「静夫少年が馬より大きく見え、馬を引いていたように見えた」と語る。
小嶌川 庄吉(こじまがわ しょうきち、1914年9月5日 -… 小嶌川 庄吉(こじまがわ しょうきち、1914年9月5日 - 1946年9月15日)は、現在の東京都江東区出身で立浪部屋に所属した力士。本名は米花 庄吉(こめばな しょうきち)。173cm、102kg。最高位は西前頭5枚目。引退後は4代八角を襲名したが、在職中に死去した。 1928年5月初土俵、1934年5月十両昇進。1938年1月新入幕。肋膜を患って1942年5月限り急遽引退し、7月の八角(大鳴門)の死去により八角を襲名した。素早い出足からの激しい突っ張り、押しを武器に人気を集めた江戸っ子力士であった。1946年巡業先で32歳で急死。 同部屋の羽黒山が横綱に昇進した際、土俵入りの露払いを務めた。
神威山 力雄(かむいやま りきお、1914年6月5日 - 1… 神威山 力雄(かむいやま りきお、1914年6月5日 - 1974年2月19日)は、北海道室蘭市出身で花籠部屋に所属した元大相撲力士。本名は熊谷 力雄。最高位は十両4枚目。 花籠部屋に入門し、1929年5月初土俵を踏む。1934年1月満19歳で十両に昇進。この場所負け越し、幕下に落ちる。1935年1月、一場所で十両に復帰したが、この場所も負け越し再び幕下に落ちる。1936年1月、三度目の十両昇進で勝ち越し、この場所から5場所連続十両の地位にあった。1938年5月幕下に落ち十両復帰を目指し、「神惠山」(かむえやま)に改名(1941年5月)したが、十両に復帰することなく1942年5月に廃業した。1974年死去。
安藝ノ海 節男(あきのうみ せつお、1914年5月30日 -… 安藝ノ海 節男(あきのうみ せつお、1914年5月30日 - 1979年3月25日)は、広島県広島市南区宇品海岸出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。第37代横綱。本名は永田 節男(ながた たかお)。 双葉山定次の70連勝を阻止した「世紀の一番」で知られる。四股名は「せつお」だが、本名は「たかお」と読む。 広島県広島市南区宇品海岸の食料品商の家に生まれ、宇品尋常高等小学校を卒業後は家業を手伝う。1931年に市内で開催された関西中学校相撲選手権を観戦したところ、藤嶌にスカウトされて角界入り。1932年2月場所に出羽海部屋から“永田”の四股名で初土俵を踏む。序二段で「安藝ノ海」と改名すると、順調に昇進して1936年1月場所に新十両、1938年1月場所では、23歳で新入幕を果たした。
三舩浪 盛吉(みふねなみ せいきち、1914年5月28日 -… 三舩浪 盛吉(みふねなみ せいきち、1914年5月28日 - 1943年9月23日)は、昭和時代の大相撲力士。浅香山部屋→井筒部屋所属。本名は有川 盛吉。最高位は十両5枚目。 鹿児島県姶良郡隼人町(現霧島市)出身。同郷の横綱であった三代目西ノ海の浅香山部屋に入門。1933年1月初土俵を踏む。間もなく師匠が亡くなり、井筒部屋に移籍する。1940年1月十両昇進。連続5場所その地位にあったが、1942年5月に幕下に落ちてから休場続きで、三段目まで落ちた1943年9月23日、現役のまま死去した。 錦江洋→三船浪→三舩浪
松若 正次(まつわか まさじ、1914年5月15日 - 没年… 松若 正次(まつわか まさじ、1914年5月15日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。大阪府中河内郡柏原町(現柏原市)出身。中村部屋所属。本名は門下 正次。最高位は十両7枚目。得意技は突っ張り。 中村部屋に入門し、1934年5月場所で初土俵を踏む。順調に番付を上げ、1939年5月場所に十両に昇進。この場所は3勝12敗と大きく負け越し、1場所でその座を明け渡した。その後は勝ち越すことなく1940年5月場所に26歳で廃業した。
前田山 英五郎(まえだやま えいごろう、1914年5月4日 … 前田山 英五郎(まえだやま えいごろう、1914年5月4日 - 1971年8月17日)は、愛媛県西宇和郡喜須来村(現:愛媛県八幡浜市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。第39代横綱。本名は萩森 金松(はぎもり かねまつ)。 1914年5月4日に愛媛県西宇和郡喜須来村で生まれる。喜須木尋常高等小学校を卒業後、1928年に高砂一行が高知市へ巡業に来た際、体格の良い金松少年がいるのを見つけた高砂が自ら勧誘した。当時の金松少年は相撲に対して興味を示さなかったが徐々に気持ちが傾き、大工だった兄を頼って上京してその日の夜に高砂部屋へ入門、1929年1月場所で初土俵を踏んだ。金松は入門に関して自惚れのようなものがあり、自分より体の小さい力士がおり、それには勝てるだろうなどと思っていた。
冨田濱 正治(とみたはま まさじ、1914年4月27日 - … 冨田濱 正治(とみたはま まさじ、1914年4月27日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。高砂部屋から大山部屋に所属。三重県四日市市出身。本名は広瀬 政治(ひろせ まさじ)。最高位は西十両9枚目。得意技は左四つ、寄り。 1931年5月場所に初土俵。1939年5月場所に十両に昇進。この場所は6勝9敗と負け越した。関脇・高登が引退し大山部屋を興すとともに移籍し、その最初の場所である翌1940年1月場所でも3勝12敗と大きく負け越し、幕下に陥落した。1941年5月場所に27歳で廃業した。
富ノ山 等(とみのやま ひとし、1914年2月10日 - 1… 富ノ山 等(とみのやま ひとし、1914年2月10日 - 1945年10月30日)は、宮城県栗原郡築館町(現栗原市)出身で花籠部屋に所属した力士。本名は佐藤 等。最高位は西前頭4枚目。身長185cm、体重116kg。 1930年、花籠部屋から初土俵を踏む。序ノ口、三段目、幕下で優勝を経験し、3年で十両に昇進した。そのあと少し出世はゆっくりとなったが、1935年1月、20歳で新入幕を果たした。「富野山」に改名した1936年5月場所自己最高位となる西前頭4枚目まで上がるが、11戦全敗で終わった。「冨ノ山」に再改名した1937年5月場所十両に落ち、一時期素行不良で破門され、幕下付出で再出発したこともあった。
大泉 隆司(おおいずみ たかし、1914年1月8日 - 没年… 大泉 隆司(おおいずみ たかし、1914年1月8日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋→武隈部屋所属。本名は真光 弁。最高位は十両15枚目。 大阪府岸和田市出身。1932年2月、「眞光」の四股名で初土俵を踏む。元両國の武隈が部屋を出羽海部屋から独立した際に移籍した。1942年5月に十両に昇進、四股名も「大和泉」から「大泉」に改めた。この場所6勝9敗と負け越し、幕下に落ちた。1年後の1943年5月に廃業した。
葦葉山 七兵衛(あしばやま しちべえ、1913年12月1日 … 葦葉山 七兵衛(あしばやま しちべえ、1913年12月1日 - 1962年2月28日)は、東京都港区出身で井筒部屋に所属した大相撲力士。本名は横山 希雄。最高位は東前頭12枚目。身長177cm、体重116kg。得意手は右四つ、寄り。 東京府東京市麻布区(現在の東京都港区元麻布)生まれ。1928年5月場所に初土俵、1943年5月場所に新入幕を果たした。初土俵から十両昇進まで10年、さらに入幕まで5年を掛けた晩成型であった。1945年11月場所限りで引退、年寄・高田川、のち枝川を襲名。木戸主任から師匠に人柄と豊富な知識を買われ、在京理事に昇進した。1962年心臓病で48歳で死去。相撲の取り口は当時としては恵まれた体格を生かした突進型であったが、足を痛めて威力が激減した。
九州山 義雄(きゅうしゅうざん よしお、1913年10月20… 九州山 義雄(きゅうしゅうざん よしお、1913年10月20日 - 1990年5月30日)は、福岡県山田市(現嘉麻市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は大坪 義雄。最高位は西小結。現役時代の体格は身長176cm、体重88kg。 昭和5年(1930年)1月場所で初土俵を踏み、負け越しなしで昭和7年(1932年)5月場所に十両昇進、春秋園事件からの帰還組との対戦でもまれたために十両では時間がかかったが、昭和9年(1934年)1月場所、大正生まれとして初の幕内力士となった。激しく動き回る相撲で相手を撹乱するのが得意であった。昭和13年(1938年)1月場所には小結昇進、その場所大負けはしたものの、横綱玉錦を素首落としで破る殊勲の星を挙げた。
陸奥ノ洋 光司(むつのなだ こうじ、1913年6月1日 - … 陸奥ノ洋 光司(むつのなだ こうじ、1913年6月1日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋所属。本名は溝口弥二郎。最高位は十両14枚目。 青森県青森市出身。出羽海部屋に入門し、1931年3月に本名の「溝口」で初土俵を踏む。1938年5月に十両に昇進。この間四股名を「溝江」から「陸奥ノ洋」に変えた。新十両の場所は5勝8敗と負け越し、幕下に落ちてからは勝ち越すことなく1940年5月で廃業した。 溝口→溝江→陸奥ノ洋
小枩山 貞造(こまつやま ていぞう、1913年3月11日 -… 小枩山 貞造(こまつやま ていぞう、1913年3月11日 - 1972年4月27日)は、石川県能美郡寺井野村小杉(現在の能美市小杉町)出身で井筒部屋に所属した大相撲力士。ただし、1944年に井筒親方が亡くなった後、双葉山相撲道場預かりになっていた。本名は竹田 貞造(たけだ ていぞう)。最高位は西前頭3枚目(1941年5月場所)。現役時代の体格は170cm、101kg。 得意手は右四つ、出し投げ、小股掬い、内掛け、肩透かし、櫓投げ。変わり身が速く、多彩な技を繰り出す取り口で人気が有った。 1941年1月場所4日目、西前頭14枚目の地位で東横綱男女ノ川を破っているが、これは大正時代に「金星」という相撲用語が見られるようになってからでは、長らく最も番付下位の力士による金星獲得の記録であった。
雲仙嶽 光徳(うんぜんだけ みつのり、1913年2月15日 … 雲仙嶽 光徳(うんぜんだけ みつのり、1913年2月15日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋所属。本名は福本 光徳。最高位は十両3枚目。 長崎県佐世保市出身。出羽海部屋に入門し、1930年10月に本名の「福本」で初土俵を踏む。1938年1月十両に昇進。1939年1月から2年間応召され、1941年1月に復帰した。1942年5月自己最高位となる東十両3枚目まで上がるが、この場所3勝12敗と大きく負け越し廃業した。身長184cmと当時としては長身だったが、兵役に取られていたのと、腰を痛めたため大成できなかった。
青葉山 徳雄(あおばやま のりお、1913年2月4日 - 1… 青葉山 徳雄(あおばやま のりお、1913年2月4日 - 1972年3月1日)は、宮城県仙台市青葉区出身で陣幕部屋に所属した大相撲力士。本名は阿部 徳雄(あべ のりお)。最高位は西前頭4枚目。得意手は右四つ、寄り。現役時代の体格は173cm、112kg。 大坂相撲で大関だった12代陣幕に弟子入りし、1929年1月場所に初土俵を踏んだ。がっぷり四つに組まないと力が出ないタイプで、勝ち身も遅く、じっくりした相撲ぶりだったという。そのため水入りも多く、「バケツ」とあだ名された。それでも1934年5月場所に幕下で11戦全勝優勝を遂げて、翌1935年1月場所に十両昇進してからは注目も浴び、1937年5月場所に新入幕を果たした。
神東山 忠也(じんとうざん ちゅうや、1913年1月28日 … 神東山 忠也(じんとうざん ちゅうや、1913年1月28日 - 1983年6月23日)は、現在の東京都中央区出身で春日野部屋に所属した大相撲力士。本名は神谷 信義(かみや のぶよし)。現役時代の体格は170cm、135kg。最高位は東前頭4枚目(1941年5月場所)。得意手は右四つ、寄り。 中央商業学校(現・中央学院大学中央高等学校)卒業後、春日野部屋に入門し、1932年5月場所、「神武山」の四股名で初土俵を踏む。1937年5月場所で十両に昇進。1939年1月場所、新入幕。入幕2場所目の5月場所、四股名が初代天皇の神武天皇からきているため、「神東山」に改名。幕内の中位から下位で取り、1946年11月場所で十両に落ち、この場所13戦全敗を記録した。
玉ノ海 梅吉(たまのうみ うめきち、1912年11月30日 … 玉ノ海 梅吉(たまのうみ うめきち、1912年11月30日 - 1988年10月23日)は、長崎県東彼杵郡(現:長崎県大村市)出身で二所ノ関部屋に所属した大相撲力士。本名は蔭平 梅吉(かげひら うめきち)。最高位は東関脇。 当初から近眼だったため、家業である真珠の養殖作業を継ぐことが出来ず、既に立派な体格をしていたことから宮相撲で活躍し、力士を志すようになる。1930年に同郷の肥州山栄を頼って上京したものの、既に巡業へ出発した後だったために入門は叶わなかったが、偶然そばを通りかかった玉錦三右エ門から見出され、二所ノ関部屋へ入門した。四股名は故郷・長崎県の名産である真珠をイメージして「海ノ玉」または「玉ノ海」で迷ったが、後者を選択したと後年になって語った。
豊錦 規矩雄(とよにしき きくお、1912年10月4日 - … 豊錦 規矩雄(とよにしき きくお、1912年10月4日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。井筒部屋→九重部屋→朝日山部屋所属。本名は上田 菊男(うえだ きくお)。最高位は東十両8枚目。得意技は突っ張り、右四つ、寄り。 大分県宇佐市出身。井筒部屋に入門し、1927年1月場所に初土俵を踏む。その後、同郷の大関・豊國福馬が独立した際に九重部屋に移籍した(その後朝日山部屋に移籍)。1934年1月場所に十両に昇進したが、2場所続けて負け越し、幕下に陥落。「祝洋」に改名後の1937年1月場所に廃業した。
有明 五郎(ありあけ ごろう、1912年9月1日 - 195… 有明 五郎(ありあけ ごろう、1912年9月1日 - 1959年7月20日)は、東京府東京市(現在の東京都新宿区)出身で錦嶌部屋に所属した大相撲力士。本名は金子 元五郎(かねこ もとごろう)。身長171cm、体重111kg。得意手は左四つ、寄り。最高位は東前頭11枚目(1944年5月場所)。有明吾郎とは別人物。 1929年5月場所、錦島部屋から初土俵を踏む。最初の四股名は錦谷であった。四つに組むと力を出す相撲であったが、体も硬く勝ち身が遅く、あまり稽古熱心な方ではなかった。新十両は1936年1月場所、しかしその後も幕下と十両の間を往復し、新入幕は1941年1月場所、入門から12年も経過していた。
一ノ濵 枩雄(いちのはま まつお、1912年3月28日 - … 一ノ濵 枩雄(いちのはま まつお、1912年3月28日 - 没年不明)は、北海道函館市出身で井筒部屋に所属した元大相撲力士。本名は海老田 松夫。最高位は十両8枚目。 井筒部屋に入門し、1927年1月初土俵を踏む。1934年5月十両に昇進。翌1935年1月、東十両8枚目まで上がったが、4勝7敗と負け越し、この場所限りで24歳の若さで廃業した。 一ノ浪 枩夫→谷岩 枩夫(1933年1月場所-)→一ノ濵 枩雄(1934年5月場所-)
磐城 徳枩(ばんじょう とくまつ、1912年3月25日 - … 磐城 徳枩(ばんじょう とくまつ、1912年3月25日 - 1942年6月2日)は、昭和時代の大相撲力士。二十山部屋所属。本名は小野 徳松。197cm、113kg。最高位は十両2枚目。 宮城県亘理郡亘理町出身。二十山部屋に入門し、1929年1月、「小ノヶ嶽」(後、小野ヶ嶽)の四股名で初土俵を踏む。2m近い体格で早くから有望視された。1932年5月十両昇進。6場所連続十両の地位にあったが、1935年1月幕下に落ちた。翌5月に十両に復帰、四股名も「磐城」に改めた。十両は4場所いたが、1938年1月再び幕下に落ち、「春風」と改名。その後は幕下の地位にあった。1942年1月に廃業し、同年6月に満30歳で死去した。
双葉山 定次(ふたばやま さだじ、1912年2月9日 - 1… 双葉山 定次(ふたばやま さだじ、1912年2月9日 - 1968年12月16日)は、大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。第35代横綱。位階は従四位。本名は龝吉 定次(あきよし さだじ)。 現在も破られていない69連勝の大相撲記録を樹立し、太平洋戦争前の日本で国民的人気を得た。横綱在任時代に双葉山相撲道場を創立して指導者(親方)となり後進力士を育て時津風一門を形成、日本相撲協会理事長として運営の改善にも取り組んだ。 1912年2月9日に大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)で生まれる。5歳の時に吹き矢が自身の右目に直撃して負傷し、右目が半失明状態になった。
鶴ヶ嶺 道芳(つるがみね みちよし、1912年1月17日 -… 鶴ヶ嶺 道芳(つるがみね みちよし、1912年1月17日 - 1972年3月18日)は、鹿児島県熊毛郡中種子町出身で井筒部屋に所属した大相撲力士。本名は下家 道義。最高位は東前頭2枚目(1942年5月場所)。得意手は左四つ、吊り、櫓投げ。現役時代の体格は188cm、101kg。引退後は井筒部屋を経営し、多くの力士を育てた。 1931年5月場所、井筒部屋から「種子ヶ島」の四股名で初土俵をふむ。相星(4勝4敗)は一度あるが負け越し無しで順調に昇進を重ね、1934年1月場所に新十両。この時「星甲」を名乗る。種子ヶ島、星甲の四股名はともに先代井筒の横綱・2代西ノ海(西ノ海も鶴ヶ嶺同様種子島出身)が若き日に名乗った名で、星甲は師匠から受け継いだものでもあった。
鏡川 四郎(かがみかわ しろう、1911年7月1日 - 没年… 鏡川 四郎(かがみかわ しろう、1911年7月1日 - 没年不明)は、高知県香美郡野市町(現香美市)出身で、二子山部屋に所属した元大相撲力士。本名は西山 四郎。最高位は十両12枚目。 同郷の元前頭の土州山役太郎の二子山部屋に入門。1928年10月に初土俵を踏む。1941年1月十両に昇進。十両は3場所つとめたが、いずれも大負けして勝ち越すことができなかった。1945年11月で廃業した。
照錦 富治(てるにしき とみじ、1911年6月15日 - 1… 照錦 富治(てるにしき とみじ、1911年6月15日 - 1971年3月9日)は、伊勢ノ海部屋、花籠部屋に所属した元力士。また11、13代放駒、10代花籠。本名は照井 富治(てるい とみじ)。現在の岩手県花巻市出身。164cm、105kg。最高位は西十両4枚目。得意技は右四つ、寄り、下手投げ。 1926年5月場所に初土俵。1932年5月場所に十両昇進。1937年に右腕の関節を痛め、更に右大腿部を脱臼して一時は三段目まで陥落したが、そこから奮起して1940年1月場所に十両に復帰した。その後は入幕を果たせぬまま1943年1月場所に引退。その後は11代放駒を襲名、以後10代花籠、そして放駒を再襲名した。
平戸灘 常吉(ひらとなだ つねきち、1911年2月24日 -… 平戸灘 常吉(ひらとなだ つねきち、1911年2月24日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。山分部屋所属。本名は松本 政雄。最高位は十両6枚目。 佐賀県東松浦郡鎮西町(現唐津市)出身。山分部屋に入門し、1930年10月「白鷺」の四股名で初土俵を踏む。1937年5月十両に昇進。十両の中位から下位にとどまった。1941年5月に「平戸灘」と改名したが、翌1942年1月全休し、そのまま廃業した。
笠置山 勝一(かさぎやま かついち、1911年1月7日 - … 笠置山 勝一(かさぎやま かついち、1911年1月7日 - 1971年8月11日)は、奈良県生駒郡(後の大和郡山市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は仲村 勘治(なかむら かんじ)。最高位は西関脇。 1911年1月7日に奈良県生駒郡(後の大和郡山市)で生まれる。小学生の時から相撲で活躍し、小学6年生では大阪毎日新聞社が主催した奈良県学童相撲で優勝する実力を身に付けた。奈良県立郡山中学校では相撲を離れて柔道部に所属していたが、1928年に常陸山谷右エ門の叔父である内藤高治の推薦で出羽海部屋へ入門した。しかし、学業を修了していなかったため、東京・早稲田中学校へ転校して部屋から中学校へ通う生活を続けていた。
大平山 圭四郎(おおひらやま けいしろう、1910年12月2… 大平山 圭四郎(おおひらやま けいしろう、1910年12月23日 - 1981年5月18日)は、昭和時代の大相撲力士。春日野部屋所属。本名は斎藤 四郎。最高位は十両4枚目。 栃木県宇都宮市出身。上京し鐘淵紡績に就職、会社では運動部員として活躍し、相撲では東京府代表として明治神宮の大会に出場した。春日野部屋に入門し、1934年1月働いていた会社にちなみ「鐘ヶ渕」の四股名で初土俵を踏んだ。順調に番付を上げ、1941年1月に十両に昇進したが3勝12敗と負け越し、幕下に落ちた。幕下で十両復帰を目指したが、この間四股名を「大平山」と改めた。1943年1月に十両に復帰した。十両では勝ち越しと負け越しを繰り返し、9勝が最高成績だった。
沖ツ海 福雄(おきつうみ ふくお、1910年5月28日 - … 沖ツ海 福雄(おきつうみ ふくお、1910年5月28日 - 1933年9月30日)は、福岡県宗像郡(現:福岡県宗像市)出身で若藤部屋に所属した大相撲力士。本名は北城戸 福松(きたじょうと ふくまつ)。最高位は東関脇。 1910年5月28日に福岡県宗像郡(現:福岡県宗像市)で生まれる。千田川部屋(大坂相撲)に入門するが龍神事件で師匠が廃業したため、1924年5月場所から東京市内の若藤部屋に移籍した。当初は上ヶ汐の四股名だったが、1926年5月場所より沖ツ海と改名した。1931年1月場所で新入幕を果たすと、この年は1月と5月の東京場所で5勝6敗と負け越したが、3月場所は8勝3敗、10月場所は7勝4敗と勝ち越して番付を上げた。
龍王山 光(りゅうおうざん ひかる、1910年3月25日 -… 龍王山 光(りゅうおうざん ひかる、1910年3月25日 - 1948年2月18日)は、福岡県飯塚市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は高鍋 光。最高位は東前頭2枚目(1941年1月場所)。得意手は突っ張り、叩き。現役時代の体格は180cm、113kg。 1930年3月場所、出羽海部屋から初土俵を踏む。入門が遅かったわりには出世もあまり早くはなく、十両昇進は1936年1月場所だった。その後は上昇気流に乗り、1938年1月場所で十両優勝して5月場所には新入幕、そこでも勝ち越しを続け、入幕3場所目となる1939年5月場所8日目には初日から勝ちっ放しの横綱男女ノ川から金星を挙げる活躍をした。翌1940年1月場所8日目、横綱双葉山に、仕切り1回で立ち合うという奇襲を仕掛けたが、あっさりと上手投げで退けられた。
布引 國太郎(ぬのびき くにたろう、1910年3月5日 - … 布引 國太郎(ぬのびき くにたろう、1910年3月5日 - 没年不明 )は、千葉県富津市出身で粂川部屋、双葉山道場に所属した元大相撲力士。本名は伊藤 國太郎(いとう くにたろう)。最高位は東十両3枚目。得意技は突っ張り、押し、左四つ、投げ。 粂川部屋に入門し、1929年3月場所に初土俵を踏む。入門当初は「富錦」の四股名であった。「錦岩」の四股名で1934年5月場所に十両に昇進。十両は連続で3場所務めたが、1936年1月場所に幕下に陥落。翌5月場所に十両に復帰したが1勝10敗と大きく負け越し、またしても幕下に陥落した。1939年5月場所に再度十両に復帰、四股名を「布引」に改めた。十両は連続して6場所務めたが、1942年1月場所は3勝12敗と大きく負け越し、この場所限りで廃業した。
國光 鉄太郎(くにひかり てつたろう、1910年1月10日 … 國光 鉄太郎(くにひかり てつたろう、1910年1月10日 - 1985年8月22日)は、楯山部屋、伊勢ヶ濱部屋に所属した元大相撲力士。13代濱風、8代谷川、6代君ヶ濱。本名は奥山 鐵太郎。現在の秋田県由利本荘市出身。171cm、84kg。最高位は東十両2枚目。 現在の由利本荘市の玉ノ池「光風園」で相撲を取っていたが、同郷の清瀬川敬之助(のち5代伊勢ヶ濱)にスカウトされ、その内弟子として、楯山部屋に入門し、1929年3月初土俵を踏んだ。四股名は師匠の8代楯山の元の四股名の国ノ音の国と、光風園の光から。故郷の有力者、須藤善一郎が命名した。1935年1月十両昇進、十両を通算で10場所務め、1941年1月引退し、13代濱風を襲名、主に師匠伊勢ヶ濱の秘書役を務めた。
松ノ里 直市(まつのさと なおいち、1909年11月29日 … 松ノ里 直市(まつのさと なおいち、1909年11月29日 - 1985年1月26日)は、青森県五所川原市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は工藤 直市。身長は177cm、 体重は113kg。最高位は西前頭3枚目(1942年5月場所)。得意手は右四つ、寄り。 1926年1月場所に初土俵を踏む。その後、1932年1月の春秋園事件で天竜、大ノ里らにつき協会を脱退、翌年設立の関西角力協会にも参加した。 関西角力協会では幕内で活躍した。関西角力協会の解散後に帰参し、1938年1月場所に三段目筆頭格から再出発。その場所で10勝2敗の好成績を挙げ、翌5月場所には幕下に復帰して優勝を果たした。1939年1月場所は十両に昇進して9勝4敗の成績を挙げて、翌5月場所で新入幕を果たし、12勝3敗の好成績を挙げた。
綾若 真生(あやわか まさお、1909年11月20日 - 1… 綾若 真生(あやわか まさお、1909年11月20日 - 1989年11月10日)は、青森県南津軽郡(現在の黒石市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は高橋 勝雄(たかはし かつお)。最高位は西前頭5枚目(1940年1月場所)。現役時代の体格は身長170cm、体重82kg。得意手は右四つ、下手投げ、捻り、足癖、とったり。 農家に生まれ、幼少時から力が強く米2俵を両手に担ぎ近在の評判になったという。同じ津軽出身の綾櫻を慕って上京、出羽海部屋に入門して1925年1月場所に綾櫻に因んだ「綾若」の四股名で初土俵を踏んだ。綾櫻や大ノ里らの指導を受け、入門から5年後の1930年5月場所で十両に昇進した。
土州灘 浪五郎(としゅうなだ なみごろう、1909年10月3… 土州灘 浪五郎(としゅうなだ なみごろう、1909年10月31日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。二子山部屋→二所ノ関部屋所属。本名は石川 久治(いしかわ ひさじ)。高知県香美郡香我美町(現香美市)出身。最高位は西十両14枚目。得意技は左四つ、下手投げ。 同郷の前頭・土州山役太郎の二子山部屋に入門。1928年1月場所に初土俵を踏む。1936年5月場所に十両に昇進。この場所は1勝10敗と大きく負け越し、1場所で幕下に落ちた。幕下から三段目に落ち、1942年5月場所で廃業した。
佐渡ヶ嶌 林蔵(さどがしま りんぞう、1909年10月5日 … 佐渡ヶ嶌 林蔵(さどがしま りんぞう、1909年10月5日 - 1955年3月17日)は、新潟県佐渡郡(現・佐渡市)出身で浅香山部屋、井筒部屋に所属した力士。本名は佐々木 林蔵。182cm、98kg。最高位は西前頭12枚目。 1933年1月初土俵。軍隊を終えた後だったため、23歳と遅い入門だった。入門した浅香山部屋が同年7月師匠(元横綱三代目西ノ海)の急逝により閉鎖されたため、井筒部屋に移籍した。左四つの吊り寄りが得意であったが、けたぐりの飛び道具もしばしば見せた。熱心な稽古の甲斐があって1939年1月十両昇進、1940年5月新入幕を果たし、翌1941年1月には最高位となる西前頭12枚目に昇進し、横綱男女ノ川と大関五ッ島を倒す殊勲を演じたものの4勝11敗と大きく負け越した。
大ノ濵 勝治(おおのはま かつじ、1909年9月20日 - … 大ノ濵 勝治(おおのはま かつじ、1909年9月20日 - 1979年1月1日)は、現在の千葉県銚子市出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は若山 勝治。167cm、107kg。最高位は東前頭4枚目。 1927年1月初土俵、1932年1月十両昇進、1932年2月新入幕(春秋園事件の余波)したが、1933年5月に廃業した。もろ差しからの速攻を磨き、幕下時代には6戦全勝の優勝同点も記録した。春秋園事件の影響で幕内に上がったが、地力が伴わず4場所とも勝ち越せなかった。廃業後は千葉県内で鮮魚店を営み、巡業の勧進元を務めた。
武ノ里 武三(たけのさと たけぞう、1909年4月20日 -… 武ノ里 武三(たけのさと たけぞう、1909年4月20日 - 没年不明)は、青森県五所川原市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は吉崎 武三。最高位は東前頭14枚目(1943年1月場所)。173cm・94kg。得意技は左四つ、寄り。 1926年1月場所に初土俵を踏んで以降順調に出世し、東幕下5枚目で迎えた1930年10月場所で幕下優勝し、翌1931年1月場所に十両に昇進。しかし当場所は体調不良により4勝7敗と振るわず、翌5月場所も全休したため幕下に陥落。その直後の1932年1月の春秋園事件で天竜・大ノ里らと行動を共にし協会を脱退、翌年設立の関西角力協会に参加した。 関西角力協会では幕内で活躍、松ノ里、中ノ里とともに「大ノ里門弟三羽烏」と言われていた。
筑波嶺 清平(つくばね せいへい、1909年4月1日 - 1… 筑波嶺 清平(つくばね せいへい、1909年4月1日 - 1948年11月20日)は、現在の茨城県稲敷郡河内町出身で錦島部屋に所属した大相撲力士。本名は加藤 清平(かとう せいへい)。身長170cm、体重105kg。最高位は西前頭2枚目(1933年5月場所)。得意技は突っ張り、右四つ、寄り、吊り。 千葉県立佐原中学校(現在の千葉県立佐原高等学校)を出て、錦島部屋に入門。1927年5月場所に初土俵を踏む。1932年5月場所に新十両、十両を2場所で通過後、1933年1月場所に新入幕。この場所、春秋園事件からの復帰力士たちと伍して7勝4敗の好成績を挙げ、翌場所は西前頭2枚目まで番付を上げたが3勝8敗に終わった。
鳴海潟 陸奥雄(なるみがた むつお、1909年3月6日 - … 鳴海潟 陸奥雄(なるみがた むつお、1909年3月6日 - 没年不明)は、青森県南津軽郡浅瀬石村(現・黒石市)出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は鳴海 源吉。最高位は西十両9枚目(ただし、後述のように十両力士として土俵に上がらなかった)。 1925年郷里の大関大ノ里に憧れて上京し出羽海部屋に入門した。翌1926年1月場所「鳴海潟」の四股名で番付についた。その後は順調に番付を上げ、1932年1月場所で十両に昇進した。しかし、番付発表後天竜は角界の改革を訴えこれに大ノ里も同調したため春秋園事件が起きた。天竜、大ノ里らは相撲協会を脱退。鳴海潟も大ノ里と行動を共にし脱退した。天竜率いる「大日本新興力士団」に加わった。
出羽ノ花 國市(でわのはな くにいち、1909年3月1日 -… 出羽ノ花 國市(でわのはな くにいち、1909年3月1日 - 1987年5月30日)は、元大相撲力士。位階は正五位。 石川県能美郡(現:石川県小松市)出身(出生地は東京都江東区)、出羽海部屋に所属した。本名は市川 國一(いちかわ くにいち)(旧姓:駒澤)。 1909年3月1日に東京府南葛飾郡大島町(現:東京都江東区大島)で肥料会社を営む家に生まれ、石川県能美郡(現:石川県小松市)で育つ。既に9歳で体重が60kgに達して怪童と話題になり、実家の得意先の世話で出羽ノ海部屋を紹介された。毎週土曜日には地元の巡査の迎えで部屋に行って関取と相撲を取らせてもらったり、出羽海によって遊びに連れて行ってもらったり、部屋に宿泊する時は豪華な文房具をお土産に貰ったりするなど可愛がられた。
番神山 政三郎(ばんしんざん せいざぶろう、1909年1月1… 番神山 政三郎(ばんしんざん せいざぶろう、1909年1月17日 - 1982年1月7日)は、新潟県刈羽郡(現:新潟県柏崎市)出身の元大相撲力士。本名は長谷川 政三郎(はせがわ せいざぶろう)。 1909年1月17日に新潟県刈羽郡(現:新潟県柏崎市)で生まれる。尋常高等小学校を卒業後に前橋の作り酒屋へ奉公に出たが、周囲から勧められて出場した宮相撲で優勝したところを雷部屋の元力士・群馬ヶ嶽に見出されて雷部屋に入門、1927年1月場所で初土俵を踏んだ。入門から僅か半年後に雷が死去すると、所属していた力士全員が白玉部屋へ転属、ところが白玉もまもなく没したことから八角部屋へ再転属するなど、いくつかの部屋を転々とする生活が続いた。
津峯山 政雄(つみねさん まさお、1908年10月8日 - … 津峯山 政雄(つみねさん まさお、1908年10月8日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋所属。本名は岩戸 政雄。最高位は十両4枚目。 徳島県阿南市出身。出羽海部屋に入門し、1926年5月に序ノ口に就く。1933年5月十両に昇進。この場所3勝8敗と負け越し、幕下に落ちる。1934年5月に十両に復帰。しかし、この場所から3場所続けて負け越し、十両で一度も勝ち越すことなく再び幕下に落ち、1938年5月で廃業した。