スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
大竹 重幸(おおたけ しげゆき、1957年12月16日 - … 大竹 重幸(おおたけ しげゆき、1957年12月16日 - )は、日本の男性元プロボクサーである。元協栄ボクシングジムのマネージャーで、会長代行やプロボクシングトレーナーを務めた。福島県白河市生まれ東京都新宿区出身。 西城正三に憧れ中学1年で協栄ジムの門を叩き、中央商業高校1年でインターハイ出場(当大会には興南高校3年だった後の同門具志堅用高も出場)。 卒業後の1978年にプロデビュー。最高位でジュニアライト級5位までランクを上げたが、怪我のため現役続行を断念。通算戦績3勝(1KO)5敗。 引退後は金平正紀会長(当時)の下でトレーナーに転向。後に高橋勝郎の後を受けてマネージャーも兼任。佐藤修、坂田健史を世界王者に育て上げ、第18回(2007年度)エディ・タウンゼント賞を受賞した。
吉中 六(よしなか ろく、1946年6月12日 - )は、日… 吉中 六(よしなか ろく、1946年6月12日 - )は、日本の俳優、スーツアクター。本名および旧芸名は吉中 正一。 大阪府大阪市出身。中央商業高等学校(現・中央学院大学中央高等学校)卒業。SKY企画を経て、エレメンツ所属。 身長169cm。体重65kg。特技は殺陣、乗馬。
髙橋 洋二(たかはし ようじ、1943年3月6日 - )は日… 髙橋 洋二(たかはし ようじ、1943年3月6日 - )は日本の実業家で、ユニマットグループ代表である。フレッシュネス代表取締役社長なども歴任。 中央商業高等学校(現中央学院大学中央高等学校)卒業。中央商業では吉野賢治教諭(のちに太田昭和監査法人副理事長等)の簿記の授業などを受けた。後年、学校法人中央学院理事や同評議員に就任。 高校卒業後アルバイトで得た資金と親の援助を元手にして25歳で独立して神田で婦人服輸入業を始める。29歳頃に消費者金融業を始めて「ユニマットレディス」を全国におよそ300店舗を展開して融資残高3000億円ほどで業界6位へ躍進したほか、飲食や不動産など事業を多角化している。42歳で自動販売機事業を運営するユナイテッドスティールを買収して業界1位へ成長させた後、現在の株式会社ユニマットライフに当たるオフィスコーヒーサービス事業を分社し、57歳で自販機事業、消費者金融事業など主要な会社を売却して売却利益1750億円を得ている。
福浦 健次(ふくうら けんじ、1942年9月13日 - )は… 福浦 健次(ふくうら けんじ、1942年9月13日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(投手)。 中央商業高等学校(現:中央学院大学中央高等学校)では大型左腕投手として知られ、1961年に阪神タイガースに入団。1年目から一軍に上がり、中継ぎとして5試合に登板する。1963年10月13日に国鉄スワローズを相手に初先発。金田正一と投げ合い、5回を2安打3失点に抑えるが敗戦投手となった。その後は出場機会に恵まれず、1965年に自由契約になり西鉄ライオンズに移籍。ここでも中継ぎとして起用され、1967年と1968年にそれぞれ12試合に登板した。1970年限りで引退した。
土屋 靖雄(つちや やすお、1938年4月24日 - )は、… 土屋 靖雄(つちや やすお、1938年4月24日 - )は、日本の俳優、元子役。本名は同じ。旧芸名は土屋 靖男。 埼玉県出身。東京都出生。 中央学院大学中央高等学校卒業。アマチプロゼ、劇団こまどり、東宝、三木事務所、たつみプロダクションを経て、天知プロダクション、田中プロモーションなどに所属していた。
吉野 賢治(よしの けんじ、1937年 - )は、日本の公認… 吉野 賢治(よしの けんじ、1937年 - )は、日本の公認会計士。新日本監査法人副理事長や学校法人中央学院理事長、日本マクドナルドホールディングス監査役、高エネルギー加速器研究機構監事等を歴任した。インディアナポリス名誉市民。 1955年中央商業高等学校(現中央学院大学中央高等学校)卒業。1959年東京経済大学経済学部卒業。母校中央商業教諭を経て、1965年一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。指導教官飯野利夫。 1965年アーサーヤング会計事務所東京事務所入所。1969年公認会計士登録。外国法人や海外に子会社を持つ日本企業の監査などにあたったほか、ODA部を設立し、JICAからの受注など、事業拡大を行った。
内田喜吉(うちだ きよし、1931年3月15日 - )はラオ… 内田喜吉(うちだ きよし、1931年3月15日 - )はラオックス元社長。東京都出身。ラオックス創業者の谷口正治とは遠縁にあたる。 1948年に中央商業学校を卒業後、谷口商店に入社。同年7月には谷口電機から分離した朝日無線電機に転じる。以降、1959年に常務取締役、1974年に専務取締役を経て、1976年にラオックスの専務取締役となる。1981年、副社長に就任。1990年にはラオックスのザ・コンピュータ館の立ち上げも行っている。 1991年6月、ラオックスの2代目社長に就任。1995年6月まで4年間つとめた。 ラオックス社長を退任後は株式会社ダイエー・メディア・ソリューションズの代表取締役専務をつとめている。
日方 一夫(、1918年〈大正7年〉7月21日 - 没年不詳… 日方 一夫(、1918年〈大正7年〉7月21日 - 没年不詳)は、日本の元俳優。東京市日本橋区出身。中央学院大学中央高等学校卒。本名は松永 亥太郎()。 東宝の専属俳優として、ジャンルを問わず多くの作品に出演。目元と口元が特徴である。 1971年、専属俳優一斉解雇の際に俳優を引退。 同じ専属俳優の加藤茂雄によると、東宝専属廃止の際に組合リーダーとして会社側と談判したが、継続希望の加藤たちとは違い、退職金目当ての立場だったという。
西 博(にし ひろし、1913年10月2日もしくは10月6日… 西 博(にし ひろし、1913年10月2日もしくは10月6日 - 1974年12月16日)は、日本の実業家、馬主。 1913年、石川県出身。1931年に中央商業高等学校を卒業。西清太郎商店業務執行社員を経て1941年に西商事株式会社社長。1943年に関東金属常務、1946年に西商店社長、1948年に加陽金属社長就任。1950年再び西商事社長、1957年に西製鋼株式会社を設立し社長に就任。1974年12月16日、病気のため死去。61歳没。なお、西死去後、西製鋼は1980年に大三製鋼に吸収合併されている。 趣味はゴルフ、謡曲(宝生流)、競馬。 日本中央競馬会に登録していた馬主としても知られた。勝負服の柄は青、白三本輪。
神東山 忠也(じんとうざん ちゅうや、1913年1月28日 … 神東山 忠也(じんとうざん ちゅうや、1913年1月28日 - 1983年6月23日)は、現在の東京都中央区出身で春日野部屋に所属した大相撲力士。本名は神谷 信義(かみや のぶよし)。現役時代の体格は170cm、135kg。最高位は東前頭4枚目(1941年5月場所)。得意手は右四つ、寄り。 中央商業学校(現・中央学院大学中央高等学校)卒業後、春日野部屋に入門し、1932年5月場所、「神武山」の四股名で初土俵を踏む。1937年5月場所で十両に昇進。1939年1月場所、新入幕。入幕2場所目の5月場所、四股名が初代天皇の神武天皇からきているため、「神東山」に改名。幕内の中位から下位で取り、1946年11月場所で十両に落ち、この場所13戦全敗を記録した。
秋元 正雄(あきもと まさお、1911年11月7日 - 19… 秋元 正雄(あきもと まさお、1911年11月7日 - 1996年9月24日)は、日本の実業家。佐藤商事株式会社・代表取締役社長、会長。学校法人羽黒学園理事長。栄典・称号は、従五位・勲四等瑞宝章・紺綬褒章・羽黒町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)。
龍岡 晋(たつおか しん、1904年12月16日 - 198… 龍岡 晋(たつおか しん、1904年12月16日 - 1983年10月15日)は、日本の俳優、演出家、俳人、文学座代表取締役社長であった。別表記に竜岡 晋。本名は岩岡 龍治(いわおか たつじ、別表記に岩岡 竜治)。元日本新劇製作者協会会長。 1904年東京・日本橋生まれ、中央商業学校卒業。 1932年に劇団築地座に入団。『カールトアンナ』の兵士役が初舞台。1934年6月、築地座を脱退し劇団創作座の創設に参加。1937年、文学座の創設に参加し、1950年に文学座が株式会社化した際に社長となり、劇団の経営も行った。また、久保田万太郎作品を発掘して『蛍』『雨空』などの久保田の戯曲を演出したり、1978年に演劇集団「円」を中心とした久保田万太郎勉強会を結成するなど久保田作品の継承も行った。
秋田 伸一(あきた しんいち、1899年11月25日 - 1… 秋田 伸一(あきた しんいち、1899年11月25日 - 1941年10月4日)は、日本の元俳優である。本名同じ。サイレント映画の時代に、松竹蒲田撮影所、阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画、マキノ・プロダクション等が製作した現代劇に主演した、線の細い二枚目スターとして知られる。 1899年(明治32年)11月25日、東京府東京市京橋区南新堀(現在の東京都中央区新川)に生まれる。実家は酒問屋であったとも、醤油問屋であったともされる。生年月日については、初期の資料である『日本映画年鑑 大正十三・四年』には「明治三十二年十月二十日」(1899年10月20日)と記されている。 育った町内にあった旧制・中央商業学校(のちの中央商科短期大学、2001年廃校)に進学、同学を卒業した後、1920年(大正9年)に小林喜三郎が代表を務める帝国興行に入社した。