水之江 文二郎(みずのえ ぶんじろう、1860年11月29日… 水之江 文二郎(みずのえ ぶんじろう、1860年11月29日(万延元年10月17日)- 1929年(昭和4年)2月11日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、大分県会議長、大分県宇佐郡封戸村長。旧姓・鶴田、号・孤峰。 豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡和間村鶴田新田(長洲町を経て現宇佐市)で、鶴田文左衛門(文左ヱ門)の二男として生まれる。漢学、詩学、歌道を修める。上京して独逸学校で独逸学、数学を学び、1882年(明治15年)東京大学医学部に入学したが病のため退学し、書法を研究した後に帰郷した。 1886年(明治19年)8月、宇佐郡封戸村水崎(現豊後高田市)の素封家で父の異母兄・水之江浩の養嗣子となった。
服部 金太郎(はっとり きんたろう、1860年11月21日(… 服部 金太郎(はっとり きんたろう、1860年11月21日(万延元年10月9日) - 1934年(昭和9年)3月1日)は日本の実業家。服部時計店(現セイコーホールディングス)の創業者。輸入時計の販売店を開業し、のちに掛時計・腕時計の製造・販売へと事業を拡大して世界のセイコーの礎を築き、「日本の時計王」とも呼ばれる。
持田 若佐(もちた / もちだ わかさ、1860年10月30… 持田 若佐(もちた / もちだ わかさ、1860年10月30日(万延元年9月17日)- 1931年(昭和6年)2月28日)は、明治から昭和初期の神職・政治家・実業家。衆議院議員。1913年(大正2年)「若狭」に改名した。 下野国都賀郡高椅村(栃木県下都賀郡絹村字高椅、桑絹村、桑絹町を経て現小山市高椅)で、持田和泉の長男として生まれる。明治元年(1868年)結城藩黌に入り和漢学を修め、栃木県中教院を終えて上京し、専修学校(現専修大学)で法律学、経済学を学んだ。 1875年(明治8年)教導職試補となり、郡吏、絹村戸長、少講義などを歴任。1885年(明治18年)高椅神社祠官に就任。1887年(明治20年)栃木県会議員に選出され4期在任し、同常置員、絹村会議員、下都賀郡会議員、同参事会員、教育諮問会員、郡徴兵参事会員、農林会特別会員、地方森林会議員、神道栃木分局顧問、神道教師尋常検定委員なども務めた。
井坂 直幹(いさか なおもと、万延元年9月1日(1860年1… 井坂 直幹(いさか なおもと、万延元年9月1日(1860年10月14日) - 大正10年(1921年)7月27日)は、日本の木材実業家、秋田木材株式会社社長。 常陸国水戸にて水戸藩士の子として生まれた。幼名は亮太郎。藩の俊才が学ぶ自彊舎に入学し水戸学と漢書を学び、さらに栗田寛の彰考館にて『大日本史』の資料編集に従事したが、次第に洋学を志し彰考館を辞めることになる。このころ福澤諭吉と同郷で門下生である茨城師範学校長松木直己が福沢の依頼で優秀な若者を探していたが、井坂はこの推薦する4人の中に選ばれ、明治14年(1881年)に石河幹明、高橋義雄らと共に慶應義塾に入学する。在学中は福沢諭吉の家に寄宿し、優秀な成績を修めた。
高杉 金作(たかすぎ きんさく、1860年(萬延元年)10月… 高杉 金作(たかすぎ きんさく、1860年(萬延元年)10月 - 1931年(昭和6年)4月22日)は、日本の政治家、実業家。 陸奥国津軽郡高杉村(青森県中津軽郡高杉村を経て現弘前市)出身。明治法律学校(明治大学)卒業。青森県会議員、弘前商工会議所会頭などを務め、1915年には第12回衆議院議員総選挙に立憲政友会から出馬し、当選した。第五十九国立銀行(現青森銀行)の第5代頭取や、青森貯蓄銀行(現みちのく銀行)取締役なども務めた。勲四等。
渡辺 専次郎(わたなべ せんじろう、1860年9月27日 (… 渡辺 専次郎(わたなべ せんじろう、1860年9月27日 (万延元年8月13日) - 1916年(大正5年)9月26日)は、日本の実業家。三井物産専務理事や、三井同族会管理部会員など務めた。 横浜の医師渡邊顯哉の次男として生まれる。商法講習所(現一橋大学)を経て、矢野二郎校長の紹介で岩下清周とともに1879年に三井物産に入社した。1881年横浜支店詰。その後ロンドン支店詰となり、長年イギリスで勤務し、妻の満里はイギリス人。 1885年ロンドン支店副支配人。1886年ロンドン支店支配人。1895年には理事兼ロンドン支店支配人(1899年から支店長に名称変更)となり、紡績機の輸入や米の輸出、山本条太郎上海支店長との連携による石炭の購入などを進めた。
並河 理二郎(なびか りじろう、1860年9月25日(万延元… 並河 理二郎(なびか りじろう、1860年9月25日(万延元年8月11日)- 1926年(大正15年)6月4日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、島根県会議長、島根県能義郡安来町長。本家並河家14代当主。号・適處(てきしょ)。 出雲国能義郡安来町(島根県能義郡安来町を経て現安来市)で、本家並河家12代・三郎兵衛方月の二男として生まれた。山村勉斎に師事し漢学を修めた。1877年(明治10年)6月、本家並河家14代の家督を相続した。 安来村戸長、学務委員、所得税調査委員、安来町会議員、徴兵参事員、島根県会議員、同議長、安来町長、能義郡会議員、島根県農会長、地方森林会議員、能義郡教育会長などを務めた。
植田 謙輔(うえだ けんすけ、1860年9月13日(万延元年… 植田 謙輔(うえだ けんすけ、1860年9月13日(万延元年7月28日) - 1927年(昭和2年)2月3日)は、日本の篤農家、政治家(山口県豊浦郡彦島村長)、実業家。彦島電気取締役。族籍は山口県平民。大彦島建設第一の功労者であった。 長門国彦島(現・山口県下関市)出身。植田藤左衛門の長男。第2代村長田代寅次郎に用いられて1890年、助役に就職し、1891年、第3代村長の要職に就いた。一意村治のために村長として約30年の永きにわたり心血を注いだ。 郡の町村長会副会長となり、種々な公的名誉職に関与した。自治功労者として表彰された。『彦島大観』で「彦島の元勲として崇敬すべき歴史的人物である。」と紹介されている。
日比 翁助(ひび おうすけ、1860年8月12日(万延元年6… 日比 翁助(ひび おうすけ、1860年8月12日(万延元年6月26日) - 1931年(昭和6年)2月22日)は、明治時代から昭和前期にかけての実業家。三越百貨店を創業し三越の経営改革を進め、日本初の百貨店をつくった人物。号は美勲。 娘のシゲノは陸軍大将・緒方勝一の妻。 幕末の1860年(万延元年)に筑後国久留米藩士・竹井安太郎(馬廻格・高良山別荘臨番)の次男として生まれる。1876年(明治9年)18歳で江崎済の黒木塾にて学ぶ。海軍軍人になることを志し、竹崎氏に漢学を、剣術を藩主指南役・津田氏に、南画を同藩の狩野氏に学んだ。1879年(明治12年)日比家の養嗣子になった事で転向する。 剣も相当の腕だったが、久留米藩御納戸役時代に福澤諭吉の著作を読んで傾倒し、上京して1884年(明治17年)、慶應義塾を卒業。
十代目綾部 利右衛門(あやべ りうえもん、1860年7月30… 十代目綾部 利右衛門(あやべ りうえもん、1860年7月30日(万延元年6月13日)- 1932年(昭和7年)1月2日)は、実業家、初代川越市長。幼名・峰太郎。 綾部家は元禄13年(1700年)以来、武蔵国川越(埼玉県川越市)喜多町で、屋号を「麻屋」と称し塩・油・肥料を業としてきた豪商である。川越藩御用達として活躍していた家系であり、代々が綾部利右衛門を踏襲してきた。宝暦14年(1764年)の綾部家の記録で、綾部家は新河岸川の川越五河岸に出店し、舟運で江戸との物資の交易にあたっていた巨商であったことが分かる。こうした経緯から歴代当主は江戸の文化を吸収し、全国の経済活動に通暁し膨大な文化的資産(蔵書)を所有していた。
大戸 復三郎(おおと ふくさぶろう、万延元年6月8日(186… 大戸 復三郎(おおと ふくさぶろう、万延元年6月8日(1860年7月25日) - 大正13年(1924年)1月12日)は、日本の衆議院議員(甲辰倶楽部→大同倶楽部)、弁護士、実業家。 備後国芦田郡府中市村(現在の広島県府中市)出身。1883年(明治16年)、司法省法学校を卒業し、司法省に出仕した。岡山始審裁判所判事となり、1890年(明治23年)に岡山区裁判所判事に転じた。1894年(明治27年)、退官。退官後は岡山市に弁護士事務所を開業した。 1904年(明治37年)、第9回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。同年、岡山市会議員にも当選し、議長に選出された。 実業方面では、共立絹糸紡績会社取締役、加島銀行理事、岡山製氷会社取締役、中外燐寸株式会社社長などを歴任し、1921年(大正10年)には岡山商業会議所会頭に選出された。
宇田 友四郎(うだ ともしろう、1860年4月15日(万延元… 宇田 友四郎(うだ ともしろう、1860年4月15日(万延元年3月25日) - 1938年(昭和13年)10月9日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員、衆議院議員。 宇田家は香宗我部氏の重臣の末裔で、代々家老職を務めた名家。江戸時代に香宗の城下より故郷の岸本浦(現在の高知県香南市香我美町岸本)に戻った。岸本浦にて半農半漁の生活を営んだのち、江戸時代後期頃に「増田屋」の屋号を名乗るようになった。 2代宇田長蔵、久満子の二男として土佐国香美郡岸本に生まれる。1866年(慶応2年)村の寺子屋である柳瀬塾へ入り、柳瀬清治(別名近森孝策)に学ぶ。当時、「大鼻水垂れ」とのあだ名で塾中の評判となり、読書よりも習字を好む少年だった。
清瀧 徳兵衛(きよたき とくべえ、1860年4月13日〈万延… 清瀧 徳兵衛(きよたき とくべえ、1860年4月13日〈万延元年3月23日〉 - 没年不明)は、日本の商人(青物商、乾物砂糖商)、資産家、実業家。池田実業銀行頭取。北摂信託副社長。摂池銀行、池田実業銀行、池田製氷各取締役。族籍は大阪府平民。 大阪府平民・清瀧徳兵衛の長男。1883年、家督を相続する。青物商や、乾物砂糖商を営み、傍ら池田実業銀行頭取のほか会社重役であった。大阪府在籍で、住所は豊能郡池田町(現池田市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
岡本 松太郎(おかもと まつたろう、1860年4月9日(万延… 岡本 松太郎(おかもと まつたろう、1860年4月9日(万延元年3月19日)- 1942年(昭和17年)11月23日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、兵庫県会議長。 播磨国飾東郡八重畑村(兵庫県飾東郡谷内村、飾磨郡谷内村、飾東村を経て現姫路市飾東町)で、代々農業を営む家に生まれた。普通学を修めた。 1880年(明治13年)小学校教員となり8年間在任。1888年(明治21年)兵庫県会議員に選出され、同常置委員、同副議長、同議長も務めた。その他、徴兵参事員、旅団徴兵参事員なども務めた。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(兵庫県第7区、進歩党)で初当選し、同年8月の第6回総選挙(兵庫県第7区、憲政本党)でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
山田 直矢(やまだ なおや、1860年4月1日(万延元年3月… 山田 直矢(やまだ なおや、1860年4月1日(万延元年3月11日) - 1939年(昭和14年)1月9日)は、明治から昭和初期にかけての日本の鉱山学者、実業家。大久保利世の孫、大久保利通の甥。 薩摩藩士の山田有庸とスマ(大久保利世三女)の次男として鹿児島城下で生まれる。 1874年に上京し、伯父の大久保利通宅に寄宿。東京英語学校に入学する。1877年に大学予備門、1885年に旧東京大学を卒業し、理学士を授与される。 1886年、正八位となる。翌年依願免官後、ドイツへ留学。1889年の帰国後、大島高任の娘である大島ヒサと結婚。 1894年に帝国大学工科教授に就任。1897年、三井鉱山(現・日本コークス工業)に入社し、同年5月に分家する。
5代上野 松次郎(うえの まつじろう、旧姓・鵜月、前名・豊次… 5代上野 松次郎(うえの まつじろう、旧姓・鵜月、前名・豊次郎、1860年3月31日〈万延元年3月10日〉 - 1939年〈昭和14年〉11月27日)は、日本の商人(油屋、肥料商)、栃木県多額納税者、資産家、実業家、政治家。衆議院議員(当選1回)。族籍は栃木県平民。 下総国銚子(現・千葉県銚子市)生まれ。鵜月庄蔵の二男。鵜月庄三郎の弟。1883年、栃木県宇都宮の上野家の4代目松次郎の長女タミと結婚し、養子となり、1889年、上野家の家督を相続した。 五代目松次郎として家業の肥料商を営み、また肥料問屋として業界で重きをなした。また銀行会社の重役だった。宇都宮商工会議所初代会頭、宇都宮銀行、下野中央銀行各頭取、下野製紙、宇都宮瓦斯、上野松次郎商店各代表取締役などをつとめた。
鈴木 万次郎(萬次郎、すずき まんじろう、1860年3月24… 鈴木 万次郎(萬次郎、すずき まんじろう、1860年3月24日(万延元年3月3日)- 1930年(昭和5年)2月26日)は、明治から昭和初期の医師、政治家、実業家。衆議院議員。愛国生命保険創立者。 陸奥国岩瀬郡、のちの福島県岩瀬郡須賀川町 (現須賀川市)で、医師、自由民権家・鈴木俊安の長男として生まれる。会津藩の儒者・橋爪信次郎に漢学を、二本松藩・堀江半峯に詩文を師事した。福島県師範学校予科を経て、1879年(明治12年)に上京し 岡鹿門から詩文を学んだ。訓蒙学舎や外国語学校でドイツ語を学び、さらに東亜医学校で医学を修め、1886年(明治19年)開業試験に合格し医師となった。その後、東京府神田区に神保病院を開設した。
竹内 明太郎(たけうち めいたろう、1860年3月20日(万… 竹内 明太郎(たけうち めいたろう、1860年3月20日(万延元年2月28日) - 1928年(昭和3年)3月23日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(高知県第五区選出、当選3回)。族籍は東京府士族。 現在の高知県宿毛市出身。竹内綱の長男。父に従い大阪、東京に赴き、同人社で英語、仏学塾でフランス語を学び、父と一緒に自由党に尽くし、『東京絵入自由新聞』の経営に従事したが、鉱山業、鉄工業に転じて、父の経営する佐賀県の芳谷炭鉱の主宰となる。1901年(明治34年)欧米を漫遊して鉱山業を視察し、新式の機械を購入して帰国。 1902年(明治35年)には遊泉寺銅山の開発に着手すると、1917年に遊泉寺銅山の附属施設として小松鉄工所(後の小松製作所)を設立した。
前川 槙造(槇造、まえかわ まきぞう、1860年3月7日(万… 前川 槙造(槇造、まえかわ まきぞう、1860年3月7日(万延元年2月15日)- 1902年(明治35年)7月12日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 但馬国朝来郡、のちの兵庫県朝来郡竹田村(竹田町、和田山町を経て現朝来市)で生まれた。郷里の習田雪峰に師事し漢学を修めた。1876年(明治9年)上京して官立外国語学校(のち東京外国語学校)に入学し仏語科で学んだが中退。1884年(明治17年)東京専門学校(現早稲田大学)に入り政治学、経済学を学んで1887年(明治20年)に卒業し帰郷した。 1888年(明治21年)2月、大阪府会議員に選出され、同常置委員、同副議長に在任。その他、南区徴兵参事員、府立大阪博物場協議員、地方衛生会員、市立大阪商業学校商議員、大阪市水道敷設委員、第4回内国勧業博覧会事業取調委員、大阪築港取調相談役なども務めた。
川真田 徳三郎(かわまた とくさぶろう、1860年3月5日(… 川真田 徳三郎(かわまた とくさぶろう、1860年3月5日(安政7年2月13日) - 1918年(大正7年)11月22日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。 阿波国麻植郡(ごおり)鴨島字上下島(現在の徳島県吉野川市鴨島町上下島)出身。初名は国三郎。 麻植郡会議員、徳島県会議員、所得税調査委員、徴兵参事員などを務める。阿波商業会議所会頭などを経て、1890年の第1回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以降、第2回、第7回から第13回総選挙で立憲政友会より9回当選を果たす。 また阿波国共同汽船専務、阿波藍社長、徳島鉄道社長、阿波藍同業組合組長などを歴任。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
尾澤 福太郞(おざわ ふくたろう、1860年3月4日〈万延元… 尾澤 福太郞(おざわ ふくたろう、1860年3月4日〈万延元年2月12日〉 - 1937年9月17日)は、日本の実業家。姓の「澤」は「沢」の旧字体、名の「福」は「福」の旧字体、「郞」はJIS X 0208では「郎」と同一の区点が割り当てられていることから、尾澤 福太郞(おざわ ふくたろう)、尾澤 福太郎(おざわ ふくたろう)、尾沢 福太郎(おざわ ふくたろう)とも表記される。 尾澤組組長(第2代)、諏訪電気株式会社社長(第3代)、株式会社尾澤組社長(初代)、片倉製糸紡績株式会社常務取締役、朝鮮生糸株式会社社長、京浜電力株式会社取締役、片倉殖産株式会社取締役、第二京浜電力株式会社取締役、諏訪工材株式会社取締役、武州製糸株式会社取締役、片倉生命保険株式会社監査役、富国火災海上保険株式会社監査役、千曲電気株式会社代表取締役、日本相互電気株式会社取締役、岩手県是製糸株式会社取締役、尾澤組合名会社代表社員などを歴任した。
本城 安次郎(ほんじょう やすじろう、1860年3月4日(万… 本城 安次郎(ほんじょう やすじろう、1860年3月4日(万延元年2月12日)- 1901年(明治34年)11月5日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 石見国那賀郡、のちの島根県那賀郡周布村(現浜田市)で、建築業・本城新輔の息子として生まれた。大阪開明学校を卒業し、上京して攻玉塾で学び、1878年(明治11年)ころ工部大学校に入学したが、病のため1879年(明治12年)秋に退学した。 健康が回復すると神戸で紙類廃売店を開業し、また、貿易店を営み、日清戦争時には軍需物品を扱い、大阪に本城商会を設けて遼東、台湾へも事業を拡張した。その他、神戸樟脳取引所理事、大阪浪速商品取引所創立委員長、神戸商業会議所議員などを務めた。
木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、幼名・篤太郎、万延元年2月4… 木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、幼名・篤太郎、万延元年2月4日〈1860年2月25日〉 - 1926年〈大正15年〉3月25日)は、明治期の政治家、実業家。衆議院議員(7期)、群馬県会議員、群馬郡会議員、伊香保町会議員。伊香保電気軌道社長。高崎水力電気、伊香保鉱泉場組合、渋川紡績各取締役。族籍は群馬県平民。24代目武太夫。隠居後秀家を名乗る。 政治家として自由民権運動に関心をもち、廃娼運動に率先して取り組み、実業家としても群馬、伊香保の発展に尽力した。伊香保温泉の衛生環境と施設の改善を改良取締所(後の伊香保鉱泉場取締所、現・渋川伊香保温泉観光協会)頭取として推進し、伊香保を東京の代表的避暑地として定着させた。
家永 エイ(いえなが エイ、万延元年(1860年)2月18日… 家永 エイ(いえなが エイ、万延元年(1860年)2月18日 - 1927年(昭和2年)5月12日)は、長崎県長崎市稲佐にあったロシア人向けのホテル・ヴェスナーなどを経営した女性実業家。洋妾・からゆきさん。長崎では稲佐お栄の通称と共に日露親善に尽力した女性として知られ、楠本イネ・大浦慶と共に長崎三女傑に数えられる。以下、本記事ではお栄と表記し、特記のない年齢は数え年とする。 お栄は当時ロシア人の居留地になっていた長崎市稲佐のロシア将校クラブで洋妾として働いたのち、ロシア艦隊旗艦の艦長に気に入られて22歳で渡露。ウラジオストクに滞在したのち、31歳で帰国した。 翌年の1891年にお忍びで長崎に上陸したロシア皇太子ニコライらをもてなし、一説には寝室を共にしたとされる。
山口 俊一(やまぐち しゅんいち、1860年2月16日(万延… 山口 俊一(やまぐち しゅんいち、1860年2月16日(万延元年1月25日)- 1933年(昭和8年)10月1日)は、明治から大正期の実業家・政治家。衆議院議員、京都府会議長、京都府加佐郡新舞鶴町長。幼名・浅吉。 丹波国天田郡細見辻村(京都府天田郡細見村細見辻、三和村、三和町を経て現福知山市)で、農業、酒造業・山口覚兵衛、てい の長男として生まれる。1876年(明治9年)京都に出て、林正躬、横井忠直から漢学を、吉田健吾から数学を学び、京都府中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)にも通った。1879年(明治12年)大阪で牧田修蔵から法律学を学んだ。 1881年(明治14年)に帰郷し、同年11月、細見辻村戸長に就任。
是永 歳太郎(これなが としたろう、1860年2月15日(万… 是永 歳太郎(これなが としたろう、1860年2月15日(万延元年1月24日)- 1920年(大正9年)12月29日)は、明治から大正前期の警察官、農業経営者、政治家。衆議院議員、大分県西国東郡高田町長。名・直房、通称・歳太郎。 豊後国国東郡、のちの大分県西国東郡高田町(現豊後高田市)で、副里正の家に生まれる。漢学を修めた。 1877年(明治10年)西南戦争後に警察官となり、大分警察署(現大分中央警察署)勤務、鶴崎葉派出所詰を務めて退職。故郷の高田で書籍・文具商を経営。当時の高田警察署(現豊後高田警察署)長・赤鉾文太郎の勧誘で同署書記を務めた。 1889年(明治22年)町村制施行により高田町が発足し、同年6月、初代町長となり1899年(明治32年)8月まで在任。
河田 繁穂(かわだ / かわた しげほ、1860年1月24日… 河田 繁穂(かわだ / かわた しげほ、1860年1月24日(安政7年1月2日)- 1925年(大正14年)10月3日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県苫田郡芳野村長。有弘(ゆうこう)に改名した。 美作国西西条郡吉原村(岡山県西西条郡芳野村、苫田郡芳野村を経て現鏡野町吉原)で、河田竹治の長男として生まれる。 1879年(明治12年)吉原村戸長に就任。以後、西西条郡書記、円宗寺村外5カ村戸長を歴任。1886年(明治19年)岡山県会議員に選出され通算6期、1919年(大正8年)まで在任。この間、同常置委員、同議長(1896年-1898年)も務めた。1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(岡山県第6区、自由党)で当選し、衆議院議員に1期在任。
広瀬 満正(ひろせ みつまさ、1860年1月10日(安政6年… 広瀬 満正(ひろせ みつまさ、1860年1月10日(安政6年12月18日)- 1928年(昭和3年)12月5日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 広瀬宰平の長男として伊予国新居郡金子村久保田(現愛媛県新居浜市久保田町)に生まれる。東京外国語学校を卒業後、郷里に帰り中萩、金子両村で数千ヘクタールに及ぶ開墾を行う。ほか、川崎汽船や朝鮮殖産銀行などの重役も務めた。 1911年(明治44年)愛媛県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1918年(大正7年)9月28日まで在任した。
岡田 治衛武(おかだ じえむ、1860年1月2日(安政6年1… 岡田 治衛武(おかだ じえむ、1860年1月2日(安政6年12月10日) - 大正年間没)は、日本の実業家。政治家、衆議院議員(2期)。 岡田治右衛門の長男として、長門国美祢郡伊佐村(現美祢市)に生まれる。漢学を学ぶ。村会議員、同議長、山口県会議員、共栄汽船社長、大日本製薬(株)専務取締役、総武鉄道(株)顧問、真宗信徒生命保険会社社長、徴兵保険、武蔵電気鉄道各(株)社長となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において山口県郡部から立憲政友会公認で立候補したが落選。1903年の第8回衆議院議員総選挙において無所属で立候補して初当選する。1904年の第9回衆議院議員総選挙ではトップで再選。衆議院議員を2期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙では大同倶楽部公認で立候補したが落選した。
大橋 澤三郎(おおはし さわさぶろう、1860年(万延元年)… 大橋 澤三郎(おおはし さわさぶろう、1860年(万延元年) - 1889年(明治22年)10月30日)は、実業家。岡山県高梁市出身。諱は義質、号は達堂。1888年、倉敷紡績を設立。 大橋澤三郎は万延元年(1860年)11月12日、川上郡吹屋村(現:高梁市成羽町吹屋)の中山実富の四男に生まれた。 井原興譲館(現:備中興譲館)、坂田警軒の門に入り、経史を修め、頭角をあらわした(倉敷文庫「倉敷人物百選」より)。 澤三郎は倉敷村(現:倉敷市)大橋重質(和泉大橋家)の長女・竹の婿養子となり分家した(通称:向大橋家)。 かって東京に遊学して英語を学び 、また経済に明るく、新知識を身につけていた澤三郎(当時26歳)は、小松原慶太郎(当時24歳)、木村利太郎(当時26歳)と相携えて、「知識交換会」を結成。
有本 国蔵(ありもと くにぞう、有本 國蔵とも。1860年 … 有本 国蔵(ありもと くにぞう、有本 國蔵とも。1860年 - 1944年1月10日)は、丹後国加佐郡舞鶴(現・京都府舞鶴市)出身の実業家・篤志家・政治家。1908年(明治41年)から1912年(大正元年)まで衆議院議員を1期務めた。1927年(昭和2年)に紺綬褒章を受章し、1929年(昭和4年)に緑綬褒章を受章。 生家は丹後国加佐郡舞鶴(現・京都府舞鶴市)にあった平野屋。1860年(万延元年)に四男として生まれた。父親は嘉助、母親は京子。12歳だった1871年(明治4年)には丹後田辺藩の元藩主である牧野弼成が経営する審致舎に丁稚奉公したが、審致舎が解散すると1877年(明治10年)に大阪に出て、長兄の賀三が経営する洋酒店兼洋服店に勤めた。
後藤 安太郎(ごとう やすたろう、1859年12月30日〈安… 後藤 安太郎(ごとう やすたろう、1859年12月30日〈安政6年12月7日〉 - 1936年〈昭和11年〉10月2日)は、日本の実業家、資産家。財団法人後藤安報恩会(公益財団法人後藤報恩会の前身)初代理事長。族籍は岐阜県平民。 美濃国今尾村(のち岐阜県海津郡今尾町、現・海津市)の百姓、安太郎の長男。1880年、家督を相続し、襲名する。郷里で油雑穀営業に従事する。不動産、米、株と青年時代から利殖に心を砕く。株式仲買業を営む。 会社の重役であり、後藤商事社長、名古屋米穀取引所理事長・同相談役、愛知電気鉄道、名古屋電力各取締役などをつとめる。名古屋商業会議所議員に推される。 趣味は書画。画幅も多く、珍品を蒐集する。
西村 真太郎(西村 眞太郎、にしむら しんたろう、1859年… 西村 真太郎(西村 眞太郎、にしむら しんたろう、1859年12月12日(安政6年11月19日) - 1922年(大正11年)9月13日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。族籍は兵庫県平民。 播磨国加東郡(後の兵庫県加東郡下東条村、現小野市)生まれ。西村重太郎の長男。家は代々農業を営む。漢学を修める。 加東郡農事会議員、同議長、戸長、郡徴兵参事員、同学務委員、兵庫県会議員となった。また、播磨鉄道取締役、加東郡米穀取引所理事長、関西競馬倶楽部監事、社銀行、大阪四ツ橋銀行各頭取、西丹貯蓄銀行取締役、兵庫県農工銀行、台湾銀行各監査役などを務めた。 1894年3月、第3回衆議院議員総選挙において兵庫県第六区から出馬し当選。
今井 五介(いまい ごすけ、安政6年11月15日(1859年… 今井 五介(いまい ごすけ、安政6年11月15日(1859年12月8日) - 昭和21年(1946年)7月9日)は、日本の実業家、政治家。片倉財閥家出身。片倉兼太郎の実弟。 信濃国諏訪郡三沢村(現長野県岡谷市)の片倉市助の三男に生まれる。藤森桂谷、武居用拙らに学び、1877年(明治10年)今井太郎の養子となる。1886年(明治19年)農商務省の蚕病試験場に入り、一時渡米を経て、片倉組松本製糸所長となる。 1909年(明治42年)松本商業会議所初代会頭、松本電灯社長に就任。1914年(大正3年)には信濃鉄道(現・JR大糸線)の社長に就任し、信濃大町駅-松本駅間を開通させる。また経営難に陥っていた私塾「松本戊戌学校」を支援し、「松本商業学校」として再出発させた。
西能 源四郎(さいのう げんしろう、1859年12月4日(安… 西能 源四郎(さいのう げんしろう、1859年12月4日(安政6年11月11日)- 1916年(大正5年)12月6日)は、日本の実業家、政治家。富山県会議員や衆議院議員を務め、両砺銀行を設立し頭取となった。幼名・源之助、本名・義彰、通称・源四郎。号・五州、士強、耕萬里。 越中国礪波郡広安村(のち富山県東礪波郡福野町を経て、現南砺市)で、先代・西能源四郎の長男として生まれる。11歳で父が死去したため、母の実家で養育され、祖父・天富鼎太郎の薫陶を受けた。その後、富山藩儒・岡田呉陽の家塾で漢文、詩文を修めた。 自由民権運動に加わり、島田孝之らの越中改進党に参加した。富山県会議員を3期務めた(明治19年9月〜同12年2月、同21年3月〜同25年6月、同29年8月〜同年10月)。
塚田 啓太郎(つかだ けいたろう、1859年11月16日(安… 塚田 啓太郎(つかだ けいたろう、1859年11月16日(安政6年10月22日)- 1944年(昭和19年)1月16日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 武蔵国幡羅郡蓮沼村(のちの埼玉県大里郡明戸村、現:深谷市)で生まれる。英学、国漢学、法律学、経済学を学ぶ。 1885年、文部省中等教員検定に合格。比企横見中学校の教員を務め、大里外三郡中学校連合会議員となる。1894年、埼玉県会議員に選ばれ、所得税調査委員も務めた。 1902年8月、第7回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から立憲政友会所属で出馬して当選。第10回総選挙でも当選し、衆議院議員を二期務めた。 実業界では、1901年、深谷商業銀行を設立して頭取に就任。
上遠野 富之助(かどの とみのすけ、1859年11月13日〈… 上遠野 富之助(かどの とみのすけ、1859年11月13日〈安政6年10月19日〉 - 1928年〈昭和3年〉5月26日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の実業家・政治家である。 秋田県出身ながら愛知県名古屋市に移り名古屋財界で立身、名古屋商業会議所会頭や名古屋鉄道社長を務めた。政界では名古屋市会議員・同議長を歴任した。 上遠野富之助は、安政6年10月19日(新暦:1859年11月13日)、出羽国横手城下(現・秋田県横手市)に久保田藩士上遠野群吾の次男として生まれた。実家上遠野家は代々剣術・槍術師範をつとめる家であり、実兄秀忠(幼名:馬之助)も剣術家となっている。一方で富之助は生まれて5か月で実子のいない伯父・上遠野実の養子に引き取られた(養子だが戸籍上は豊の長男という扱い)。
菊池 恭三(きくち きょうぞう、1859年11月9日(安政6… 菊池 恭三(きくち きょうぞう、1859年11月9日(安政6年10月15日)- 1942年(昭和17年)12月28日)は、明治から昭和前期の紡績技術者、実業家、政治家。大日本紡績(現ユニチカ)社長、貴族院勅選議員、工学博士。幼名・文造。 伊予国宇和郡川名津浦(愛媛県西宇和郡川上村を経て現八幡浜市川上町)で、庄屋・菊池久右衛門泰成、久子の三男として生まれる。1871年(明治4年)、一時、伊予吉田藩郡奉行・鈴木勝吉の養嗣子となり、藩校文武館で学んだ。その後、松山の勝山校などで学び、1976年(明治9年)大阪英語学校に入学。1878年(明治11年)11月、父に無断で上京したが、父の許しを得て勉学を続け、1879年(明治12年)工部大学校に入学し、予備科、機械工学科で学び1885年(明治18年)4月に卒業した。
川原 茂輔(かわはら もすけ、1859年10月10日〈安政6… 川原 茂輔(かわはら もすけ、1859年10月10日〈安政6年9月15日〉- 1929年〈昭和4年〉5月19日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議長、佐賀県会議長。位階は従四位。勲等は勲二等。 肥前国西松浦郡大川内村(現:佐賀県伊万里市)生まれ。草場船山の塾で漢学を学ぶ。佐賀県参事会員、佐賀日日新聞社長などを歴任。 1884年(明治17年)4月から1892年(明治25年)9月まで佐賀県会議員を務めた。同年2月、第2回衆議院議員総選挙に佐賀県第2区で中央交渉部から出馬し初当選。次の第3回衆議院議員総選挙では国民協会から出馬するも落選。1899年(明治32年)9月に佐賀県会議員選挙に西松浦郡選挙区から自由派(憲政党派)所属で立候補して、当選した。
掘越 寛介(ほりこし かんすけ、1859年8月23日(安政6… 掘越 寛介(ほりこし かんすけ、1859年8月23日(安政6年7月25日)- 1916年(大正5年)2月27日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、埼玉県北埼玉郡川俣村長。堀越と表記される場合がある。族籍は埼玉県平民。 武蔵国埼玉郡本川俣村(のち埼玉県北埼玉郡川俣村、現:羽生市)で、豪農・掘越庭七郎、りく夫妻の三男として生まれる。和漢学を修めた。 1874年、本川俣村戸長に就任。自由民権運動に加わり、1876年、埼玉郡羽生町に同志と民権結社通見社を創設した。1879年、国会開設請願書を元老院に提出。1881年、羽生領用悪水路連合会、島川路連合会、羽生中学連合会などの議長となる。同年に自由党が創設されると、1882年、通見社などを母体に自由倶楽部を結成し、これが立憲自由党埼玉部に発展し部理(理事)となる。
小原 金治(おはら きんじ、1859年8月21日(安政6年7… 小原 金治(おはら きんじ、1859年8月21日(安政6年7月23日)- 1939年(昭和14年)7月5日)は、明治から昭和前期の実業家、農業経営者、政治家。衆議院議員。 安房国安房郡南条村(千葉県安房郡南条村、豊房村南条を経て現館山市南条)で、農業・小原桂助、かよ の長男として生まれた。泰西法律学校で学んだ。農業を営む。 安房4郡勧業委員、安房郡相続税審査委員、同町村連合会議員を務めた。1890年(明治23年)3月、千葉県会議員に選出され、立憲改進党に所属し1894年(明治27年)9月まで在任した。1893年(明治26年)11月の立憲改進党全国大会に出席し、その他の出席者有志と同党千葉県支部設置を決議した。
内藤 久寛(ないとう ひさひろ、1859年8月20日(安政6… 内藤 久寛(ないとう ひさひろ、1859年8月20日(安政6年7月22日)- 1945年(昭和20年)1月29日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院勅選議員。幼名・駒二郎、旧名・道二郎。明治期の石油産業の開拓者であり、日本石油を設立し「日本の石油王」と呼ばれた。 越後国刈羽郡石地村(現新潟県柏崎市西山町石地)で、代々里正を務めた名家の内藤久之、貞子夫妻の二男として生まれる。兄と姉が幼くして死去したため一人息子のように育った。柏崎県黌、横浜の高島学校、新潟英語学校で学んだが、退学して衰退した実家の再建のため懸命に働いた。 1879年(明治12年)4月、戸長に就任。1885年(明治18年)新潟県会議員に当選した。
大久保 利和(おおくぼ としなか、1859年8月5日〈安政6… 大久保 利和(おおくぼ としなか、1859年8月5日〈安政6年7月7日〉- 1945年〈昭和20年〉1月20日)は、日本の実業家、政治家、華族。貴族院侯爵議員。位階・勲等・爵位は正二位勲三等侯爵。通称は彦熊、彦之進。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下で、大久保正助(利通)と満寿子夫妻の長男として生まれる。1871年(明治4年)、岩倉使節団に随行して渡米し、普通学研修のためフィラデルフィアの中学校に入学。1874年(明治7年)に帰国して開成学校に入学した。 1878年(明治11年)、19歳の時に父・利通が紀尾井坂の変で暗殺される。同年、父の勲功により華族に列し、1884年(明治17年)7月7日に侯爵を叙爵。
田中 喜太郎(たなか きたろう、1859年7月29日(安政6… 田中 喜太郎(たなか きたろう、1859年7月29日(安政6年6月30日)- 1936年(昭和11年)5月31日)は、明治から昭和前期の日本の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、石川県石川郡一木村長、同粟崎村長、同松任町長。 加賀国石川郡宮丸村(石川県石川郡一木村字宮丸、松任町、松任市を経て現白山市宮丸町)の農家に生まれる。松本白華に師事した。その後、法律学、経済学を修めた。 1881年(明治14年)村井・宮丸連合村会議員、石川県町村連合会規則編纂委員に就任。自由民権運動に加わる。1887年(明治20年)石川県学事委員となり、1890年(明治23年)5月、石川郡旧義倉会議員、1895年(明治28年)石川県教育会員、石川県検疫委員に就任。
井上 篤太郎(いのうえ とくたろう、1859年7月12日〔安… 井上 篤太郎(いのうえ とくたろう、1859年7月12日〔安政6年6月13日〕 - 1948年〔昭和23年〕11月28日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。現在の京王電鉄の前身・京王電気軌道の事実上の創業者である。 明治法律学校(現在の明治大学の前身)を経て、愛甲郡役所の書記を務めた後、村会議員、神奈川県会議員を務めた。1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙(神奈川郡部、立憲政友会)で当選し、衆議院議員を1期務めた。 その後、富士瓦斯紡績(現・富士紡ホールディングス)に入社し、社長の和田豊治の知遇を得る。その縁で、玉川電気鉄道(現・東急電鉄世田谷線など)や王子電気軌道(現・都電荒川線)の取締役に招聘され、それぞれの経営の安定化に貢献。
多木 久米次郎(多木 粂次郎、たき くめじろう、1859年6… 多木 久米次郎(多木 粂次郎、たき くめじろう、1859年6月28日〈安政6年5月28日〉 - 1943年3月15日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(6期)。株式会社多木製肥所(現在の多木化学)の創業者。そのほか、県農会長、兵庫県会議員、加古郡会議員などを務めた。 安政6年、播磨国加古郡別府村(現在の兵庫県加古川市別府町)に多木勝市郎の三男として生まれる。多木家は江戸中期より干鰯業を営み、天保年間には海運業にも進出して事業を拡大していた。分家を経て、父・勝市郎は醤油・酢の醸造や魚肥の販売、農業経営を家業としていた。1887年(明治20年)、父の死去により家業を継いだ。 当時主要肥料だった鰯粕の高騰により困窮する農家のため、多木家は1885年(明治18年)に獣骨を使った日本初の蒸製骨粉製造を始め、1890年(明治23年)には骨粉を原料とした過燐酸石灰の化学肥料製造を開始した。
野崎 廣太(のざき こうた/ひろた、1859年6月19日(安… 野崎 廣太(のざき こうた/ひろた、1859年6月19日(安政6年5月19日) - 1941年(昭和16年)12月2日)は、日本の実業家。岡山市北区平野出身。幼名・兵三。諱・通礼。筆名・汲古庵主。号・幻庵(げんあん)。 茶道への造詣が深く、1906年から1927年まで茶会の記事を新聞に書き続け、『茶会漫録』12冊を発刊。茶道に影響を与えた。近代小田原三茶人の1人。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
高井 利一郎(たかい りいちろう、1859年6月17日〈安政… 高井 利一郎(たかい りいちろう、1859年6月17日〈安政6年5月17日〉 - 没年不明)は、日本の政治家(姫路市会議員)、名望家、実業家。高井織物取締役社長。高井綿ネル工場主。万里銀行取締役。姫路足袋相談役。中播織物同業組合長。族籍は兵庫県平民。 兵庫県平民・中山治三郎の弟。1883年6月、先代高井つねの入夫となり、家督を相続した。初め県立師範学校を卒業し教鞭を執ったが、のち染木綿染手拭製造を創めた。経営は思うようにならなかったので方法を改め新たに海外より諸機械を購入し、原料を精選し製品が精良になるように努めた結果声価が高まった。 年産額32万円に達し直接国税954余円を納める盛況を見た。1916年、株式組織に変更し社長となった。
高橋 金治(たかはし きんじ、1859年6月4日(安政6年5… 高橋 金治(たかはし きんじ、1859年6月4日(安政6年5月4日)- 1917年(大正6年)8月22日)は、明治から大正期の地主、実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国胆沢郡、のちの岩手県胆沢郡水沢町(水沢市を経て現奥州市)で、大地主、仙台藩水沢伊達家家臣・高橋万右衛門の二男として生れ、1893年(明治26年)1月、兄・敬章の跡を継承した。藩校立生館で学んだ。1875年(明治8年)水沢県に出仕したが廃県後に辞職した。 その後、商業に従事したが事業に失敗して各地を放浪した。宮城県下で教師をしていたフランス人と出会い、日本語教授、翻訳助手となり、仏学を学んだ。 1895年(明治28年)同志と水沢銀行の設立に参画した。
横山 通英(よこやま みちひで、1859年5月18日(安政6… 横山 通英(よこやま みちひで、1859年5月18日(安政6年4月16日)- 1916年(大正5年)12月5日)は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、宮崎県西諸県郡小林村長。 日向国諸県郡小林郷細野村(鹿児島県諸県郡、宮崎県北諸県郡、西諸県郡小林郷細野村、小林村大字細野、小林町を経て現小林市細野)で、農業・横山通章、タメの長男として生まれた。赤木通園、谷山照方に師事し漢学を修めた。小林小学校、都城学校、宮崎学校で学んだ。1875年(明治8年)12月、宮崎学校師範学科(のち宮崎師範学校)を卒業し、1876年(明治9年)1月から1881年(明治14年)1月まで小林小学校訓導を務めた。また岡千仭に師事して漢学の学びを深めた。