平田 紀一(ひらた きいち / のりかず、1886年〈明治1… 平田 紀一(ひらた きいち / のりかず、1886年〈明治19年〉3月17日 - 1938年〈昭和13年〉5月28日)は、日本の官僚。山梨県知事、群馬県知事、富山市長を歴任した。 現在の福島県会津美里町出身。三高を経て1911年(明治44年)に東京帝国大学を卒業。法科大学法律学科(独法)の同期生に石坂泰三、重光葵、正力松太郎などがいる。同年に高等文官試験に合格し、内務省に入省した。 平田の官歴は茨城県属に始まり、警視として富山県で警務課長、衛生課長を務める。富山はおよそ20年後に市長に迎えられる地であった。大阪府理事官、同工場課長を経て、米国出張。鎌田栄吉、河原田稼吉らと国際労働会議に参加した。
菅原 佐平(すがわら さへい、1885年〈明治18年〉3月1… 菅原 佐平(すがわら さへい、1885年〈明治18年〉3月17日 - 1969年〈昭和44年〉7月17日)は、日本の海軍軍人(海軍軍医)、政治家。最終階級は海軍軍医中将。一関市長。正七位。 岩手県西磐井郡真滝村(現・一関市)出身。滝沢小学校、一関中学校を経て、第二高等学校、1911年(明治44年)東京帝国大学医科卒。同年海軍軍医となる。1928年(昭和3年)海軍軍医大佐となり、1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議の随員として加わる。帰国後は第二艦隊軍医長などを務めた。1933年(昭和8年)に湊海軍病院長に就任し、翌1934年(昭和9年)に海軍軍医少将に昇進するとともに呉海軍病院長に就任、1935年(昭和10年)に佐世保海軍病院長に就任した。
丸山 芳登(まるやま よしと、1885年3月17日 - 19… 丸山 芳登(まるやま よしと、1885年3月17日 - 1959年12月19日)は、日本の医学者。台北帝国大学医学部教授。 1885年、山形県に生まれる。1910年、東京帝国大学医学部卒業。その後日本統治下の台湾にわたり、台湾総督府医学研究所の技手となる。1919年10月、台湾総督府医学校助教授に就任。1923年、教授に昇進。1926年、「ペスト菌の有毒性並に抗体原性に関する実験的研究」により東京帝国大学から医学博士を授与。博士号取得後、ドイツ・フランス・イギリス各国に留学。台湾に戻ったのち、当地の医事衛生環境の向上に尽力する。1945年、終戦により日本に帰国。帰国後も研究をつづけ、1957年に出版した著書「日本領時代に遺した台湾の医事衛生業績」は1970年代以前の台湾医学史研究における最も重要な史料とみなされている。
田端 八十吉(たばた やそきち、1885年(明治18年)3月… 田端 八十吉(たばた やそきち、1885年(明治18年)3月17日 - 1968年(昭和43年)8月20日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 広島県佐伯郡玖波村(玖波町を経て現大竹市玖波)で生まれた。陸軍士官学校第17期卒業。1922年(大正11年)8月15日に陸軍歩兵少佐、1926年(大正15年)8月6日に陸軍歩兵中佐に進級し、1930年(昭和5年)に歩兵第70連隊附となり、神戸商業大学兼神戸商業大学附属商学専門部服務となった。1932年(昭和7年)に陸軍歩兵大佐に進級し、第4師団司令部附となる。1933年(昭和8年)3月18日に東京陸軍幼年学校附を経て、8月1日に東京陸軍幼年学校訓育部長に就任した。
西方 利馬(にしかた としま、1883年(明治16年)3月1… 西方 利馬(にしかた としま、1883年(明治16年)3月17日 - 1973年(昭和48年)11月8日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(6期)。 山形県東置賜郡中川村(現・南陽市)で、旧米沢藩の中山城代家中(陪臣)の西方家に生まれる。1919年中央大学法律科卒。中山葡萄、山形新聞各社長、山形県議、山形県体育会長などを務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙において山形県第4区(当時、小選挙区)から立憲政友会公認で立候補して初当選。以来当選6回。立憲政友会総務、内閣東北局委員、内務省委員などを歴任する 。 戦後、大政翼賛会の推薦議員のため、公職追放となる。1951年追放解除。1973年死去。
西川 籐吉(にしかわ とうきち、1874年(明治7年)3月1… 西川 籐吉(にしかわ とうきち、1874年(明治7年)3月17日 - 1909年(明治42年)6月22日)は、日本の真円真珠養殖の研究者、真円真珠発明者。大阪府桃谷出身。 見瀬辰平とともに真円真珠を発明した研究者として知られている。西川式・ピース式と呼ばれ、現在の真珠養殖の技術の基礎となっている。東京帝国大学で水産動物学を専攻し1897年(明治30年)に卒業した後、農商務省水産局技師として、箕作佳吉・飯島魁両博士の指導の下、真円真珠養殖およびアワビの人工授精の研究に従事した。御木本研究所で本格的な真珠の研究にはいり、真円真珠形成の原理を解明した。 1903年(明治36年)、御木本幸吉の次女を嫁に貰う。
白滝 幾之助(しらたき いくのすけ、1873年〈明治6年〉3… 白滝 幾之助(しらたき いくのすけ、1873年〈明治6年〉3月17日 - 1960年〈昭和35年〉11月25日)は、兵庫県出身の日本の洋画家。作風は写実的作品を発表し続けた。 1873年(明治6年)3月17日、但馬国豊岡県朝来郡(現・兵庫県朝来市)生野奥銀谷町に生まれる。幼少時に父を亡くし、女手一つで育てられた。 1890年(明治23年)、17歳時に鉱山技師を目指して上京、築地の工手学校に入学。1894年(明治27年)、第4回内国勧業博覧会にて「待ち遠し」が入選。褒状を受け有栖川官家に買い上げ。1896年(明治29年)、下宿先で同居していた同郷の和田三造に誘われて山本芳翠の生巧館画塾に入る。後に生巧館画塾が黒田清輝に譲られ、天心道場となった後、黒田清輝に師事。
丹下 梅子(たんげ うめこ、1873年3月17日 - 195… 丹下 梅子(たんげ うめこ、1873年3月17日 - 1955年1月29日)は、日本の栄養学者、食品化学者。東京帝国大学農学博士。辻村みちよに次いで日本人女性として2人目の女性農学博士である。女性初の帝国大学(東北帝国大学理科大学)に入学・卒業した3名のうちの一人。丹下ウメ子、丹下ウメの表記を採る資料もある。 1873年(明治6年)に鹿児島県鹿児島府下金生町ほか十四町(現在の山形屋鹿児島本店付近)の商家、戸高丹下伊左衛門と丹下エダの三女として生まれる。幼年時にままごとの竹箸を持ちながら走っていたときに転倒して竹箸が右眼に刺さり、失明する。 鹿児島県立女子師範学校(現在の鹿児島大学教育学部)を卒業後、当時の女子師範附属尋常小学校(現在の鹿児島市立名山小学校)の教師になる。
深町 錬太郎(ふかまち れんたろう、1871年3月17日(明… 深町 錬太郎(ふかまち れんたろう、1871年3月17日(明治4年1月27日)- 1918年(大正7年)9月25日)は、明治後期から大正前期の逓信官僚、内務官僚。官選愛媛県知事。 加賀国金沢下高儀町で加賀藩士深町鉄五郎の長男として生まれる。第四高等学校を首席で卒業。1896年(明治29年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。逓信省に入省し通信局属となる。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。 1897年(明治30年)逓信事務官となる。以後、通信事務官、鹿児島郵便電信局・大阪郵便電信局・札幌郵便電信局の各勤務を歴任。1899年(明治32年)内務省に転じ、愛知県事務官、茨城県事務官、栃木県事務官、新潟県事務官・内務部長を務めた。
河西 健次(かさい けんじ、明治元年2月24日〈1868年3… 河西 健次(かさい けんじ、明治元年2月24日〈1868年3月17日〉 - 昭和2年〈1927年〉5月14日)は日本の医師。陸軍軍医、満鉄大連医院院長、武蔵野病院創設者。 長野県小県郡和田村の医者の家系に長男として生まれる。1890年(明治23年)帝国大学医科大学在学中に陸軍医官候補生に採用され、日清戦争に出征した。1894年(明治27年)大学卒業後、京都帝国大学大学院を経て、伏見衛生病院、台北衛生病院付となり、日露戦争時には三等軍医正となる。1906年(明治39年)ドイツ駐在となり、1908年(明治41年)現役のまま南満洲鉄道衛生課長兼大連医院長に就任した。 1911年(明治44年)、奉天における国際ペスト会議に列席し、軍医正に進み、1912年(大正元年)南満医学堂の初代堂長を兼任した。
藤堂 高成(とうどう たかしげ、1867年3月17日(慶応3… 藤堂 高成(とうどう たかしげ、1867年3月17日(慶応3年2月12日)- 1930年(昭和5年)10月23日)は、明治から昭和初期の華族、政治家。男爵、旧名張領主名張藤堂家(藤堂宮内家)第12代。幼名は憲丸。 山城国京都で竹内治則の二男として生まれた。1876年(明治9年)2月、旧名張領主の名張藤堂家当主・藤堂高節の養子となり、1893年(明治26年)家督を相続。1914年(大正3年)9月28日、高成に改名した。 國學院で学ぶ。1894年(明治27年)神宮皇學館の舎監兼助教授に就任。1906年(明治39年)9月17日、男爵を叙爵。1910年(明治43年)6月に小栗常太郎らと設立した興業貯金株式会社では取締役社長を務めた。
森田 卓爾(もりた たくじ、慶応2年2月1日(1866年3月… 森田 卓爾(もりた たくじ、慶応2年2月1日(1866年3月17日) - 昭和3年(1928年)4月13日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)。弁護士。森田俊佐久の弟。 安芸国高田郡根野村(現在の広島県安芸高田市)出身。最初慶應義塾に入学したが、東京専門学校(現在の早稲田大学)に移り、1886年(明治19年)に卒業した。翌年、代言人試験に合格し、東京にて開業。1889年(明治22年)に広島市に事務所を移し、広島弁護士会長にたびたび選ばれた。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第8回、第9回でも再選を果たした。
田部 香蔵(たなべ こうぞう、1864年3月17日(元治元年… 田部 香蔵(たなべ こうぞう、1864年3月17日(元治元年2月10日) - 1923年(大正12年)10月5日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 広島県出身。田部百合、ナヲの長男として生まれた。1882年、明治法律学校卒。広島県商工諮問会委員、町村組合会議員、所得税調査委員、比婆郡徴兵参事員、比婆郡会議員、同議長、比婆郡農会代表者、広島県農工銀行監査役、同頭取となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において広島県郡部から憲政本党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1903年の第8回衆議院議員総選挙で落選した。1923年に死去した。
川口 栄之進(かわぐち えいのしん、1864年3月17日〈元… 川口 栄之進(かわぐち えいのしん、1864年3月17日〈元治元年2月10日〉 - 1948年〈昭和23年〉1月)は、日本の弁護士、政治家、教育者。青森県弁護士会会長、青森市会議長、青森市会議員、青森県会議員を歴任したほか、青森商業会議所顧問などの要職も務めた。北山盲唖学校校長、日本聖公会の信徒。 弘前生まれ。版籍奉還にともなう水田整理により、1871年(明治4年)に羽野木沢(後の北津軽郡七和村、現・五所川原市)に転居。 次いで、1876年(明治9年)には北津軽郡宮野沢村(後の中里町、現・中泊町)に転住する。1879年(明治12年)に中里小学校を卒業後、同校の助教員となる。 その後、東京に遊学し、築地の立教大学校(現・立教大学)を卒業。
浅石 恵八(あさいし えはち、1864年3月17日(元治元年… 浅石 恵八(あさいし えはち、1864年3月17日(元治元年2月10日) - 1941年(昭和16年)2月5日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。 阿波国那賀郡坂野村(現在の徳島県小松島市)に、浅石卯太郎の長男として生まれる。坂野村会議員、坂野村長、那賀郡会議員、那賀郡参事会員、那賀郡会議長、徳島県会議員などを歴任した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は3回を数えた。その他、阿波木炭株式会社社長を務めた。
阿部 武智雄(あべ たけちお、1863年3月17日(文久3年… 阿部 武智雄(あべ たけちお、1863年3月17日(文久3年1月28日) – 1931年(昭和6年)2月3日)は、衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。 陸奥国北津軽郡七和村(現在の青森県五所川原市)に阿部弥吉の長男として生まれる。青森県師範学校を卒業後、小学校訓導を務めていたが、政界に進出し、七和村会議員、北津軽郡会議員、同参事会員、同議長、青森県会議員、同参事会員、同副議長、同議長を歴任した。岩木川改修期成同盟会長として岩木川の治水に尽力し、また造林事業にも力を注いだ。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第14回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他に青森日報社専務取締役を務めた。
磯辺 弥一郎(いそべ やいちろう、1861年3月17日(万延… 磯辺 弥一郎(いそべ やいちろう、1861年3月17日(万延2年2月7日) - 1931年(昭和6年)4月23日)は、国民英学会の創立者。磯部彌一郎とも。 熊本藩士磯辺謙叟の二男として豊後国大分郡鶴崎村(現・大分市鶴崎)に生まれる。漢学塾を経て1875年(明治8年)上京し鳴門塾へ入学したのち慶應義塾に学ぶ。一度ほかの私立学校に転じたのち、1877年(明治10年)慶應義塾に復学し、翌年応募した懸賞作文『酒と博打いずれがその害大なるや』で賞を受ける。 福沢諭吉の民権主義に感化され、1880年(明治13年)に退学して北海道の開拓会社「函館開拓社」へ入社、岩内社に移ったのち、同社の閉鎖に伴い岩内小学校の教員となる。
肥後 静雄(ひご しずお、1858年3月17日(安政5年2月… 肥後 静雄(ひご しずお、1858年3月17日(安政5年2月3日) - 1924年(大正13年)8月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 鹿児島県出身。曽於郡志布志郷の後の東志布志村(志布志町を経て現志布志市の一部)に生まれる。薩摩藩藩校造士館に学ぶ。囎唹郡東志布志村長、鹿児島県会議員となる。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において鹿児島県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1924年に死去した。
千田 軍之助(せんだ ぐんのすけ、安政3年2月11日(185… 千田 軍之助(せんだ ぐんのすけ、安政3年2月11日(1856年3月17日) – 大正3年(1914年)3月2日)は、衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会)、ジャーナリスト。 紀伊国那賀郡南志野村(現在の和歌山県紀の川市)の郷士の家に生まれた。1874年(明治7年)、副戸長となり、第三大区第二小区会議所に勤務した。1876年(明治9年)、地租改正にあたって県令神山郡廉に地価の不当を訴えたが、容れられなかったため副戸長を辞した。その後、児玉庄右衛門(児玉仲児の父)らとともに自由民権運動を展開したため、投獄された。これに対し数百の民衆が彼らを奪還しようと蜂起したため、神山は大阪鎮台に出兵を乞う事態となった(粉河騒動)。
神谷 傳兵衛(かみや でんべえ、安政3年2月11日(1856… 神谷 傳兵衛(かみや でんべえ、安政3年2月11日(1856年3月17日) - 大正11年(1922年)4月24日)は、三河国幡豆郡松木島村(現在の愛知県西尾市一色町松木島)出身の実業家。神谷 伝兵衛とも表記される。 東京都台東区浅草の洋酒バーの神谷バー、茨城県牛久市のワイン醸造所のシャトーカミヤの創設者。旭製薬社長のほか、神谷醸造、日本製粉、九州炭鉱汽船、三河鉄道、東洋遊園地などの役員を務めた。 幼名は松太郎。実子はなく、養女のぶ(神谷桂助長女)の婿養子の神谷(旧姓:小林)伝蔵(傳藏とも表記される)が2世神谷傳兵衛を名乗る。 安政3年2月11日(1856年3月17日)、三河国松木島村の名主の六男として生まれた。
菊池 大麓(きくち だいろく、1855年3月17日〈安政2年… 菊池 大麓(きくち だいろく、1855年3月17日〈安政2年1月29日〉- 1917年〈大正6年〉8月19日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の数学者、教育行政官。男爵、理学博士。 東京帝国大学(東京大学の前身)理科大学長・総長、文部次官・大臣、学習院長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、帝国学士院院長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。 蘭学者の箕作秋坪とつね夫妻の次男として江戸天神下(現:新宿区喜久井町)の津山藩の下屋敷に生まれ、父の実家・菊池家の養嗣子となった。秋坪は蘭学者箕作阮甫の弟子で、つねはその阮甫の三女である。 蕃書調所(東京大学の前身)で英語を学び、1867年(慶応3年)に幕府派遣で、1870年(明治3年)に新政府派遣で、2度に渡り英国に留学した。
留川 一路(とめかわ いちろ、1854年3月17日(安政元年… 留川 一路(とめかわ いちろ、1854年3月17日(安政元年2月19日) - 没年不詳)は日本基督教会の牧師である。 山脇藤吉、ブンの次男として、豊前国中津(現・大分県中津市)に生まれ、留川家の養子になる。留川家の家督を継ぐ。中津藩の儒学の大久庭家塾をへて、1872年(明治5年)より、3年間藩校の修徳館で、英語と数学を学んだ。続いて、1875年(明治8年)秋にヘンリー・スタウトの塾に入り英語を学ぶ。スタウトの家庭礼拝に出て、スタウトから聖書を学ぶ。1876年(明治9年)頃スタウトの影響でキリスト教に入信し、1876年12月25日に長崎一致教会(現・日本基督教団長崎教会)でスタウトから洗礼を受ける。
井上 信八(いのうえ しんぱち、1852年3月17日〈嘉永5… 井上 信八(いのうえ しんぱち、1852年3月17日〈嘉永5年2月21日〉 - 1922年〈大正11年〉7月9日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 信濃国筑摩郡笹賀村(のち東筑摩郡笹賀村、現・長野県松本市)出身。材木商を営み、町会議員、所得税調査委員、学務委員、高等小学校組合会議員等を務める。また、野口(合)業務担当社員、愛知農工銀行、熱田銀行、愛知燐寸各(株)取締役、愛知木材、中央煉瓦各(株)専務取締役、(株)鉄道車輪製造所取締役となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において愛知2区から無所属で立候補したが落選する。8月の第6回衆議院議員総選挙では日吉倶楽部から立候補して当選する。
5代 大針 徳兵衛(德兵衞、おおばり とくべえ、1847年3… 5代 大針 徳兵衛(德兵衞、おおばり とくべえ、1847年3月17日(弘化4年2月1日)- 1908年(明治41年)8月11日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、福井県坂井郡雄島村長。幼名・長之助。 越前国坂井郡安島浦(福井県坂井郡安島浦、雄島村安島、三国町安島を経て現坂井市三国町安島)で、回漕業・4代大針徳兵衛の長男として生まれた。明治のはじめに5代徳兵衛を襲名した。回漕業を営む。 里正、組合総代、敦賀県第53大区小2区戸長、第14大区23小区戸長、浦役人、学務委員、所得税調査委員などを務めた。1889年(明治22年)5月、雄島村会議員となり、1890年(明治23年)2月、雄島村長に就任し、安島道の改修に尽力した。
二代目本間 金之助(ほんま きんのすけ、旧姓・山内、1845… 二代目本間 金之助(ほんま きんのすけ、旧姓・山内、1845年3月17日(弘化2年2月10日) - 1929年(昭和4年)1月14日)は、日本の政治家(貴族院議員)、秋田県多額納税者、実業家。第四十八銀行、秋田貯蓄銀行各頭取。北秋木材監査役。族籍は秋田県平民。勲四等。 出羽国雄勝郡(現・秋田県湯沢市)出身。山内三郎兵衛の三男。辻兵吉の兄。幼名は、山内由松。幼い頃より商才があった。戊辰の前後出て久保田城下(秋田市)に来て、独力雑貨を商い、多売薄利を主義として奮闘したため忽ち世間の信用を博した。1872年(明治5年)、本間金之助の養子となり、後家督を相続し、二代目金之助を襲名。 1892年(明治25年)以降秋田県実業調査会、同山林会、秋田市教育会等の役員を務めた。
有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保… 有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保6年2月19日〈1835年3月17日〉- 明治28年〈1895年〉1月15日)は、江戸時代後期・明治時代の日本の皇族、政治家、軍人。雅号は初め泰山、後に霞堂。階級勲等功級は陸軍大将大勲位功二級。世襲親王家の有栖川宮第9代当主。 有栖川宮幟仁親王(霊元天皇玄孫)の第一王子で、幼名は歓宮(よしのみや)。生母は家女房の佐伯祐子。官職は任命順に、大宰帥、国事御用掛、政府総裁、明治政府総裁、東征大総督、兵部卿、福岡藩知事(後に県知事、県令)、元老院議官(後に議長)、鹿児島県逆徒征討総督、左大臣、陸軍参謀本部長、参謀総長、神宮祭主。 和宮親子内親王と婚約していたことで知られるが、徳川幕府の権力失墜に伴い、公武合体を余儀なくされた幕府が公武合体を国内外に誇示するための実績として和宮は降嫁し、徳川将軍第14代徳川家茂と結婚した。
巖谷 一六(いわや いちろく、天保5年2月8日〈1834年3… 巖谷 一六(いわや いちろく、天保5年2月8日〈1834年3月17日〉 - 1905年〈明治38年〉7月12日)は、近江国(滋賀県)出身の書家、官僚、漢詩人。本名は修(しゅう)(幼名は辨治、ついで迂也)、字は誠卿。特に書家として名高く、一六(一六居士)はその号で、別号に迂堂・古梅・金粟道人などがある。日本近代児童文学の創始者と評される巖谷小波はその三男。 天保5年(1834年)、近江国甲賀郡水口(現在の滋賀県甲賀市)に生まれる。巌谷家は代々水口藩加藤家の侍医で、姓は正しくは「巖谷」と記す。ただしもとは「岩谷」で一六の時に字を改めたものである。 父玄通が天保10年(1839年)一六が6歳の時に亡くなり、家督を嗣ぐも幼少のため、しばらくして母利子とともに京都に赴き、同地で医術を三角棣園に、漢籍を皆川西園・家里松嶹に、書を安見氏に学んだ。
武田 敬孝(たけだ ゆきたか、文政3年2月4日〈1820年3… 武田 敬孝(たけだ ゆきたか、文政3年2月4日〈1820年3月17日〉 - 1886年〈明治19年〉2月7日)は、幕末の儒学者。明治時代の官吏。胆沢県権知事。通称は亀五郎。雅号に韜軒、熟軒、天経、伯佐。 大洲藩儒御旗組小頭武田敬忠、新谷藩医久岡氏の女三保子の長男として、伊予国伊予郡中村(愛媛県伊予郡北山崎村を経て現伊予市)に生まれる。大洲藩校で常磐井厳戈に、経史や詩文を山田東海に学んだ。1839年(天保10年)父に代勤して江戸在番の機会を得、大橋訥庵の教えを受け尊王思想を抱くようになる。 学識を認められ足軽小頭から藩主の侍講に登用され、藩校明倫堂教授となり、執政顧問を兼ねた。幕末は尊王諸藩との連携に尽力した。
愛 すみれ(あい すみれ、3月17日 - )は、宝塚歌劇団雪… 愛 すみれ(あい すみれ、3月17日 - )は、宝塚歌劇団雪組に所属する娘役。