楠美 恩三郎(くすみ おんざぶろう、1868年4月17日(慶… 楠美 恩三郎(くすみ おんざぶろう、1868年4月17日(慶応4年3月25日) - 1927年(昭和2年)10月8日)は、日本の作曲家、教育者。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。青森県弘前市出身。 弘前藩士、楠美晩翠の三男として生まれる。1889年(明治22年)、東京音楽学校師範部を卒業。1902年(明治35年)、東京音楽学校助教授、1910年(明治43年)〜1917年(大正6年)まで同教授として活躍し、日本の音楽教育に貢献した。 また、島崎赤太郎、岡野貞一、南能衛、上真行、小山作之助らとともに、文部省編『尋常小学唱歌』の作曲委員の一人として参加し、『尋常小学読本唱歌』の編纂にもたずさわった。
乾 正士(いぬい せいし、慶応4年3月25日(1868年4月… 乾 正士(いぬい せいし、慶応4年3月25日(1868年4月17日) - 昭和16年(1941年)6月18日)は、日本の軍人。旧土佐藩士族 乾市郎兵衛家・第8代当主。自由民権運動家・発陽社社員。 慶応4年3月25日(1868年4月17日)、板垣退助の次男として、高知城下に生まれる。母は萩原復斎の娘・薬子(やくし)。板垣退助の分家・乾市郎平正厚が、明治3年5月22日(1870年6月20日)無嗣のまま死去した為、正厚家の家格を維持するために、同家の養子となり家督相続。 高知城下より高知県土佐郡潮江村370番屋敷へ転住。 明治10年(1877年)に北川貞彦が「立志社」の下部組織として興した民権結社「発陽社」(跡地・高知県高知市天神町14)に実兄・板垣鉾太郎と共に参加。
神戸 次郎(かんべ じろう、旧暦 慶応4年4月13日(新暦 … 神戸 次郎(かんべ じろう、旧暦 慶応4年4月13日(新暦 1868年5月5日) - 1933年〈昭和8年〉9月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は従四位勲三等功四級。陸士1期。現在の山形県鶴岡市出身。 旧暦 慶応4年4月13日、出羽国 庄内藩 近習頭取 神戸善十郎(諱:義方)の次男として、鶴岡城下(現・鶴岡市)に生れる。 1887年(明治20年)に陸軍士官学校に入校し、1890年(明治23年)7月26日に卒業した(陸士1期、歩兵科)、ちなみに 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期を歩兵科47番/103名で卒業している。 1891年(明治24年)3月26日、陸軍少尉。
秋山 真之(あきやま さねゆき、旧字体: 秋山 眞之、18… 秋山 真之(あきやま さねゆき、旧字体: 秋山 眞之、1868年4月12日〈慶応4年3月20日〉- 1918年〈大正7年〉2月4日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。位階勲等功級は従四位勲二等功三級。勲二等旭日重光章、功三級金鵄勲章を授与された。通称は淳五郎(じゅんごろう)。 三兄は「日本騎兵の父」と云われた陸軍大将の秋山好古、次兄は朝鮮京城電気重役の岡正矣。子は4男2女。元参議院議員・大石尚子は、真之の孫(二女・宜子の長女)。 日本海海戦出撃の際の報告電報の一節で、後に名文と評された「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」や、「聯合艦隊解散之辞」の起草者としても知られる。 伊予国松山城下中徒町(現:愛媛県松山市歩行町)に松山藩の下級武士・秋山久敬の5男として生まれる。
鷲尾 順敬(わしお じゅんきょう、慶応4年3月18日(186… 鷲尾 順敬(わしお じゅんきょう、慶応4年3月18日(1868年4月10日) - 昭和16年(1941年)1月13日)は、摂津国(大阪府)出身の仏教史学者。 東洋大学卒業後、曹洞宗大学林、その後身の駒澤大学、東洋大学にて教授。明治25年(1892年)、境野黄洋、村上専精と協力して溯源窟を興し『仏教史林』を刊行。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
松本 与右衛門(與右衞門、まつもと ようえもん、1868年4… 松本 与右衛門(與右衞門、まつもと ようえもん、1868年4月10日(明治元年3月18日)- 1920年(大正9年)8月10日)は、明治から大正期の酒造家、実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国胆沢郡塩竃村(岩手県胆沢郡水沢町、水沢市を経て現奥州市水沢中上野町)で、庄屋・松本元助、きさ の長男として生まれた。1888年(明治21年)明治法律学校(現明治大学)に入学した。 1889年(明治22年)帰郷して条約改正反対運動を進めた。その後、岩手自由青年会を組織して幹事に就任。1897年(明治30年)憲政党岩手支部幹事となる。また、胆沢郡会議員、水沢町会議員、岩手県会議員にも在任した。 1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(岩手県郡部、立憲政友会)で当選し、1903年(明治36年)3月、第8回総選挙(岩手県郡部、立憲政友会)でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
小浜 松次郎(こはま まつじろう、1868年4月7日〈慶応4… 小浜 松次郎(こはま まつじろう、1868年4月7日〈慶応4年3月15日〉 - 1946年〈昭和21年〉9月24日)は、日本の内務・警察官僚。官選青森県知事、小倉市長、初代函館市長。 薩摩国姶良郡加治木(現鹿児島県姶良市)で小浜有照の二男として生まれる。 第二高等学校を首席で卒業。1897年7月、東京帝国大学法科大学を卒業。内務省に入省し内務属となり警保局に配属。1898年1月、警視庁警部兼警視属に発令。1900年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1901年7月、警視庁警視・小松川警察署長に就任。以後、検疫事務支署長、宮崎県警部長、宮崎県事務官・第四部長、石川県事務官・第四部長、警視庁警視・第二部長、同第一部長、同警務部長などを歴任。
野間 五造(のま ごぞう、慶応4年3月10日(1868年4月… 野間 五造(のま ごぞう、慶応4年3月10日(1868年4月2日) - 昭和21年(1946年)2月18日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)。ジャーナリスト。 岡山藩士野間隼太の長男として生まれる。岡山中学校を卒業後、同志社英学校などを経て、1887年(明治20年)に東京専門学校に入学した。1888年(明治21年)に英語科を卒業し、翌年には邦語政治科を卒業した。1890年(明治23年)、『東京日日新聞』の記者となる。翌年、清に渡って広東同文館で中国語を学び、また『東京日日新聞』『東京新報』特派員として長江流域の哥老会反乱を報じた。1893年(明治26年)、沖縄県に渡って琉球新報社を興し、主筆となった。
川上 善兵衛(かわかみ ぜんべえ、1868年4月2日(慶応4… 川上 善兵衛(かわかみ ぜんべえ、1868年4月2日(慶応4年3月10日) - 1944年5月21日)は、新潟県上越市の岩の原葡萄園の創業者であり、「日本のワインの父」「日本のぶどうの父」「日本のワインぶどうの父」と呼ばれる。 岩の原ワインは、現在でも代表的な国産ワインとして人気が高い。
原 錦吾(はら きんご、1867年4月30日(慶応3年3月2… 原 錦吾(はら きんご、1867年4月30日(慶応3年3月26日)- 1936年(昭和11年)4月13日)は、日本の実業家である。 江戸の生まれ。高等商業学校(現在の一橋大学)卒業後、同学校の教授となり教鞭を執る。1892年(明治25年)に明治火災保険(現在の東京海上日動火災保険)に入社し、副支配人や代表取締役を歴任した。 1914年(大正3年)には同社の常務に就任するが翌1915年(大正4年)に自身の独立によって辞任し、三井物産の小田柿捨次郎常務取締役から損害保険会社設立のための調査研究の委嘱を受け、大正海上火災保険の設立計画書の立案を行った。 しかし、1917年(大正6年)には平生釟三郎東京海上火災保険専務取締役の反対で、大正海上火災保険での経営への参画を辞退させられ、その後は日本初の火災保険協会であった日本共立火災保険の設立に携わる。
武生 房栄(たけふ ふさえ、1867年4月25日(慶応3年3… 武生 房栄(たけふ ふさえ、1867年4月25日(慶応3年3月1日) - 1945年9月7日)は、日本の女性医師。明治期からすくなくとも1920年(大正9年)まで、福井県内で活動していた女性医師は1名のみであり、この間、武生は県内ただ一人の女性医師であった。 近江国高島郡(現・滋賀県)に生まれる。済生学舎(後に東京医学専門学校済生学舎、日本医科大学の前身)に学び、1891年(明治24年)に24歳で医術開業試験に合格し、女性医師として日本で12番めに医籍登録した。 1893年(明治26年)福井県敦賀郡中郷村(現・敦賀市)堂の武生慶哲と結婚。同地で主に眼科を専門として開業し、西愛発・中愛発・東愛発などの近隣小学校の校医も務めた。
六角 紫水(ろっかく しすい、1867年4月24日(慶応3年… 六角 紫水(ろっかく しすい、1867年4月24日(慶応3年3月20日) - 1950年(昭和25年)4月15日)は、日本の漆工芸家。日本の漆工芸界の草分け。旧姓・藤岡、幼名・仲太郎。のち注多良と改名。 1867年、 広島県佐伯郡大原村(現・江田島市大柿町大原)生まれ。1883年(明治16年)広島師範学校初等師範科(現・広島大学教育学部)を卒業後、母校の小学校で教員を務めたのち上京。東京美術学校(現・東京芸術大学)の一期生として漆工科へ入学。1893年(明治26年)卒業と同時に同校漆芸科助教授に就任し、岡倉天心とともに国内の古美術を研究した。 1898年(明治31年)、岡倉が同校を辞職した際には行動をともにし、日本美術院の創立に参加。
三宅 速(みやけ はやり、1867年4月22日(慶応3年3月… 三宅 速(みやけ はやり、1867年4月22日(慶応3年3月18日) - 1945年(昭和20年)6月29日)は、日本の外科医。 徳島県穴吹町舞中島(現・美馬市)出身。1891年(明治24年)に帝国大学医科大学卒業後、外科教授であったユリウス・スクリバの勧めで外科医となる。徳島市内の外科病院で5年ほど勤務したのち、ドイツへ留学してブレスラウ大学のミクリッチ(ミクリッツ、Jan Mikulicz-Radecki)に師事し、胆石症の研究を行った。 帰国後、35歳の時に大阪府立医学校(現在の大阪大学)の付属医院外科医長、続いて京都帝国大学、福岡医科大学(現在の九州大学医学部)に赴任した。その後再度ドイツへ留学し、1904年(明治37年)、38歳の時に福岡医科大学教授となった。
鈴置 倉次郎(すずおき くらじろう、慶応3年3月15日(18… 鈴置 倉次郎(すずおき くらじろう、慶応3年3月15日(1867年4月19日) - 大正15年(1926年)5月6日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→猶興会→立憲国民党→立憲同志会→憲政会)。 尾張国知多郡北崎村(現在の愛知県大府市)出身。知多郡大府村初代村長の鈴置善平は実兄にあたる。1883年(明治16年)、愛知県中学校を卒業。1886年(明治19年)に大学予備門を終え、1890年(明治23年)に東京帝国大学法科大学政治理財科を卒業した。卒業後は会計検査院の検査官となった。1898年(明治31年)に退官し、小栗銀行の理事に就任した。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
本多 日生(ほんだ にっしょう、1867年4月17日(慶応3… 本多 日生(ほんだ にっしょう、1867年4月17日(慶応3年3月13日) - 1931年(昭和6年)3月16日)は、日本の宗教家、僧侶。日蓮宗妙満寺派、顕本法華宗元管長であり、法号は聖応院日生。近代日本の代表的な日蓮仏教の改革者として名を残す。 1867年(慶応3年)、播磨国姫路藩(現在の兵庫県姫路市)に、姫路藩士・国友堅二郎と勝子との間に次男として生まれる(幼名・長二)。幼くして母方の菩提寺である妙善寺の本多日境に師事し、本多姓を継いだ。小学校卒業後、妙立寺の池田日昌のもとで得度し、日昌亡き後は岡山県津山の本蓮寺で児玉日容のもと、日什教学を学ぶ。18歳で大阪府堺市の妙満寺住職に任命され、1887年(明治20年)、上京後に私立哲学館(現・東洋大学)の第一期生として入学する。
神戸 松之輔(かんべ まつのすけ、1867年4月15日(慶応… 神戸 松之輔(かんべ まつのすけ、1867年4月15日(慶応3年3月11日) - 1929年(昭和4年)4月3日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 播磨国飾東郡姫路(現兵庫県姫路市)出身。姫路銀行頭取、姫路瓦斯(株)社長となる。 1904年の第9回衆議院議員総選挙において姫路市選挙区から立憲政友会公認で立候補して当選した。1908年の第10回衆議院議員総選挙でも再選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1929年に死去した。
神崎 東蔵(東藏、かんざき とうぞう、1867年4月14日(… 神崎 東蔵(東藏、かんざき とうぞう、1867年4月14日(慶應3年3月10日)- 没年不詳)は、明治から大正期の裁判官・弁護士・政治家。衆議院議員、佐賀市会議長。 武蔵国江戸麻布(現東京都港区)で佐賀藩士・神崎要助、のせ の四男として生まれる。1889年(明治22年)帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業した。 司法官に任官し、判事試補、和歌山地方裁判所判事、佐賀地方裁判所判事などを歴任し、1891年(明治24年)に退官し佐賀市で弁護士を開業し、その後、福岡市、長崎市、小倉市、久留米市などにも出張所を開設した。 1897年(明治30年)憲政本党に入党し、佐賀市会議員、同議長、佐賀県会議員、佐賀商業会議所議員、九州鉄道顧問などを務めた。
小林 源蔵(こばやし げんぞう、慶応3年3月6日(1867年… 小林 源蔵(こばやし げんぞう、慶応3年3月6日(1867年4月10日) - 大正10年(1921年)1月9日)は、日本の鉄道官僚、衆議院議員(立憲政友会)。位階勲等は正四位勲三等。 出羽国旧米沢藩士の秋山家に生まれ、小林家の養子となった。1894年(明治27年)、東京帝国大学法科大学を卒業。逓信省に入り、鉄道書記となった。1897年(明治30年)、鉄道事務官に昇進。1902年(明治35年)から翌年にかけて欧米各国の鉄道事務を視察した。 日露戦争が勃発すると野戦鉄道経理部庶務課長に任命されたが、戦地に赴く途中、乗船していた佐渡丸がロシアの攻撃を受け、捕虜となった。1年半にわたって虜囚生活を送ったが、1905年(明治38年)に帰国することができた。
神村 吉郎(かみむら きちろう、1867年4月9日(尚泰20… 神村 吉郎(かみむら きちろう、1867年4月9日(尚泰20年3月5日) - 1942年(昭和17年)1月24日)は、沖縄県出身の政治家、実業家。衆議院議員。琉球政府で行政副主席を務めた神村孝太郎は長男。 具志川間切天願(現うるま市字天願)で、代々地頭代を務める神村家の神村孝吉の長男として生まれる。1889年、沖縄県尋常師範学校を卒業し、帝国大学農科大学実科で学び、1892年に卒業した。 1894年、沖縄県属に就任。その後退官し、1898年、沖縄県農工銀行創立委員となり、1899年に設立後、監査役に就任。同年、謝花昇らと沖縄倶楽部を結成し自由民権運動に加わったが、1900年、農工銀行重役改選において支配者層につき取締役に選出された。
美馬 儀一郎(みま / みうま ぎいちろう、1867年4月7… 美馬 儀一郎(みま / みうま ぎいちろう、1867年4月7日(慶応3年3月3日)- 1939年(昭和14年)8月19日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・神原、旧名・亀吉。 阿波国那賀郡富岡町(現徳島県阿南市富岡町)で、酒造業・神原五郎右衛門の二男として生まれた。少年時代は叔母の三木与吉郎家で奉公し東京支店で働いた。1885年2月、徳島佐古町918番屋敷の大地主・先代美馬儀一郎の養子となった。養父の死去により、1898年3月に家督を相続し儀一郎を襲名した。 家業の綿織物商に加えて、染織工場の設置、石炭販売業を開業するなど多角経営を計った。また、阿波染織同業組合長、阿波商業銀行頭取、徳島商業会議所会頭などを務め、徳島県立工業学校の設立、徳島高等工業学校の設備充実に尽力した。
武藤 山治(むとう さんじ、1867年4月5日(慶応3年3月… 武藤 山治(むとう さんじ、1867年4月5日(慶応3年3月1日) - 1934年(昭和9年)3月10日)は、明治・大正・昭和前期の経営者、労務管理思想家、言論人、衆議院議員(3期)。 『博聞雑誌』を創刊した後、三井財閥に招聘されて経営に携わり、「紡績王」と呼ばれた。「経営家族主義」と「温情主義」を提唱・実践して日本的経営論を考案した。 晩年は実業同志会(後に国民同志会)を結成して政界に進出し、衆議院議員を3期務めた。また、『時事新報』の編集者として、渋沢栄一の系譜に繋がる政商や、徳富蘇峰などの御用新聞記者を攻撃。「政・財・官」の癒着を次々と暴き、連載『番町会を暴く』で帝人事件を告発した。このために権力者から付け狙われ、1934年(昭和9年)3月に銃撃されて死去した。
志村 源太郎(しむら げんたろう、慶応3年3月1日(1867… 志村 源太郎(しむら げんたろう、慶応3年3月1日(1867年4月5日)- 昭和5年(1930年)8月23日)は、明治から昭和にかけての日本の官僚、銀行家。日本勧業銀行総裁。貴族院議員。 甲斐国(現・山梨県)出身。明治22年(1889年)に東京帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。東京農林学校(現東京大学農学部)教授等を経て、その後農商務省に入り参事官・秘書官を歴任する。その後法制局に移動し参事官を務め、農商務省に戻り工務局長に就任。退官し日本勧業銀行に相談役として入行。一旦横浜正金銀行に移り検査役・外国課長を歴任したが、その後日本勧業銀行に戻り副総裁を経て明治44年(1911年)総裁に就任し長きにわたり総裁を務める。
永山 時英(ながやま ときひで、慶応3年3月1日(1867年… 永山 時英(ながやま ときひで、慶応3年3月1日(1867年4月5日) - 昭和10年(1935年)2月6日)は、日本の教育家。長崎県立長崎図書館初代館長。 近世長崎の歴史的特異性に着目し、世界史の中の長崎という視点から、キリシタン史料・対外貿易史料の収集等特色ある図書館作りに努めた。また、日本図書館協会の理事を務め、日本の図書館活動の発展に寄与した。同時期の長崎で活動した古賀十二郎・武藤長蔵と並んで長崎学の三大家とされる。
畑 良太郎(はた りょうたろう、1867年4月4日〈慶応3年… 畑 良太郎(はた りょうたろう、1867年4月4日〈慶応3年2月30日〉- 1937年〈昭和12年〉4月5日)は、日本の外交官。駐ブラジル公使。駐スウェーデン公使。錦鶏間祗候。正三位勲一等。 信濃国(後の長野県)出身。1890年(明治23年)、帝国大学法科大学独法科を卒業し、外務省試補となった。1892年(明治25年)より駐オーストリア公使館交際官試補、駐オランダ公使館三等書記官、駐ドイツ公使館二等書記官、同一等書記官を歴任。1908年(明治41年)に外務書記官となり、さらに駐ドイツ大使館参事官になった。 その後、駐ブラジル公使、駐スウェーデン公使を歴任した。退官後の1925年(大正14年)に錦鶏間祗候となった。
藤田 胸太郎(ふじた きょうたろう / むねたろう、1867… 藤田 胸太郎(ふじた きょうたろう / むねたろう、1867年4月4日(慶應3年2月30日)- 1927年(昭和2年)2月21日)は、明治後期から昭和初期の実業家・政治家。衆議院議員、山梨県会議長、山梨県北都留郡上野原町長。 甲斐国都留郡松留村(山梨県北都留郡巌村、上野原町を経て現上野原市松留)で、藤田重兵衛の四男として生まれる。 1903年(明治36年)山梨県会議員に選出され3期在任し、同参事会員も務め、1911年(明治44年)県会議長に就任した。その後、上野原町を務めた。 1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙で山梨県第5区から立憲政友会所属で出馬して当選。中央線電化促進などに尽力したが、議員在任中の1927年2月、甲府の旅館で急逝し、衆議院議員に1期在任した。
斎藤 斐章(さいとう ひしょう、慶應3年2月26日(1867… 斎藤 斐章(さいとう ひしょう、慶應3年2月26日(1867年4月2日) - 昭和19年(1944年)5月27日)は、日本の教育者、歴史学者。 岩手県出身。1899年(明治32年)、東京高等師範学校文科を卒業し、東京府師範学校訓導・教諭となる。1902年(明治35年)、東京高等師範学校助教諭となり、1906年(明治39年)に教諭、1908年(明治41年)に教授に進んだ。歴史学・歴史教育法研究のため欧米に留学し、1911年(明治44年)に帰国した。1920年(大正9年)からは附属中学校主事を兼ねた。1936年(昭和11年)、退官。
望月 圭介(もちづき けいすけ、1867年4月1日(慶応3年… 望月 圭介(もちづき けいすけ、1867年4月1日(慶応3年2月27日) - 1941年(昭和16年)1月1日)は日本の政党政治家。広島県出身。
荻野 六郎(おぎの ろくろう、1867年4月1日(慶応3年2… 荻野 六郎(おぎの ろくろう、1867年4月1日(慶応3年2月27日)- 1923年(大正12年)2月6日)は、明治時代の実業家、政治家。衆議院議員。 武蔵国榛沢郡横瀬村(のち埼玉県大里郡豊里村、現深谷市)で、名主・荻野竹五郎の長男として生まれる。1887年、埼玉県師範学校を卒業した。 1896年、大里郡会議員補欠選挙で当選し、同参事会員も務めた。1897年、進歩党所属で埼玉県会議員に当選した。1894年9月、第4回衆議院議員総選挙で埼玉県第五区から選出された原善三郎が、1897年 9月29日、貴族院多額納税者議員に就任したため、その補欠選挙に出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。 その他、下谷商業銀行頭取、深谷銀行専務取締役、吾妻馬車鉄道株式会社社長、赤坂湖泉株式会社取締役、深川電灯株式会社社長、大日本生命保険株式会社取締役、中央商業銀行監査役、日本商業興信所評議員などを務めた。
黒木 欽堂(くろき きんどう、1866年4月25日(慶応2年… 黒木 欽堂(くろき きんどう、1866年4月25日(慶応2年3月11日) - 1923年(大正12年)8月31日)は、明治・大正時代の書家・漢学者。名は安雄。字は武卿。別号に欣堂、蓍園。讃岐国(香川県)出身。金石文の権威であり、楚辞や文選等を得意とした。 慶応2年(1866年)讃岐国那珂郡良野村(現・まんのう町吉野)大宮神社祠官黒木茂矩(しげのり)の子として生まれる。黒木家は江戸時代から続く漢学者の家系で、父・茂矩は秋山厳山、日柳燕石らに学び、高松藩藩校・講道館学寮教授、教部省の神道教導職、金刀比羅宮の禰宜(ねぎ)等を務めた。 欽堂は父・茂矩と片山冲堂に学んだ後、漢学塾・二松學舍を経て、1885年(明治17年)東京大学文学部附属古典講習科漢書課後期入学、1888年(明治21年)7月卒業。
坂本 嘉治馬(さかもと かじま、慶応2年3月11日(1866… 坂本 嘉治馬(さかもと かじま、慶応2年3月11日(1866年4月25日) - 昭和13年(1938年)8月23日)は、日本の実業家。明治、大正期を代表する出版社、冨山房を神田神保町に設立した。土佐国(高知県)宿毛村出身。 1866年、土佐国(高知県)宿毛村坂ノ下で生まれる。1884年に酒井融をたよって上京、同郷の小野梓が経営する東洋館に勤務する。1886年、東洋館が終焉をむかえたため、小野の義兄小野義眞の援助を受け冨山房を設立。1900年、吉田東伍『大日本地名辞書』の刊行を開始。1915年、上田萬年、松井簡治『大日本国語辞典』の刊行を開始。1920年、内外印刷株式会社を設立。1929年、出身地に私立坂本図書館(現:宿毛市立坂本図書館)を設立。
石井 菊次郎(いしい きくじろう、慶応2年旧暦3月10日(1… 石井 菊次郎(いしい きくじろう、慶応2年旧暦3月10日(1866年4月24日)- 1945年(昭和20年)5月25日?)は、日本の外交官、政治家。第2次大隈内閣で外務大臣を務め、国際連盟設立期には日本代表を務めた。特使としてアメリカで締結した石井・ランシング協定にその名を残すことでも知られる。
高久 倉蔵(たかく くらぞう、1866年4月23日(慶応2年… 高久 倉蔵(たかく くらぞう、1866年4月23日(慶応2年3月9日) - 1917年(大正6年)6月17日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。 下野国都賀郡皆川村(現在の栃木県栃木市)出身。皆川村会議員、同村長、下都賀郡会議員、栃木県会議員を歴任した。1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、野州日報社主を務めた。
岡井 藤之丞(おかい とうのじょう、1866年4月22日(慶… 岡井 藤之丞(おかい とうのじょう、1866年4月22日(慶應2年3月8日)- 1944年(昭和19年)12月19日)は日本の政治家、弁護士。衆議院議員(中央倶楽部)。 1866年(慶應2年3月)、美濃国郡上郡八幡町に生まれる。1886年(明治19年)に東京法学校(現・法政大学)を卒業し、代言人試験に合格する。 1899年(明治32年)に岐阜県会議員に当選し、第17代副議長をへて、1903年(明治36年)、第8回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する。第9回衆議院議員総選挙、第10回衆議院議員総選挙に連続当選する。 また、1904年(明治37年)の日露戦争においての功労により勲四等旭日小綬章を受章する。
福井 菊三郎(ふくい きくさぶろう、1866年4月16日(慶… 福井 菊三郎(ふくい きくさぶろう、1866年4月16日(慶應2年3月2日)- 1946年(昭和21年)) は、日本の実業家。戦前三井財閥の幹部で、三井合名常務理事や、東神倉庫会長、パリ講和会議代表顧問等を務めた。陶磁器収集家としての著書もある。 江戸で中村萬吉の五男として生まれる。1881年福井家の先代むめの養子となる。1883年、商法講習所(現一橋大学)卒業後、18歳で三井物産に入る。同級生に小室三吉元三井同族会理事などがいた。 在学中の成績は良くなかったが、村長や地主に落ち着いた同級生たちを尻目に小室とともに出世頭となり、三井物産シンガポール支配人、三井物産香港支店長、三井物産営業部長、三井物産大阪支店長、三井物産ニューヨーク支店長、三井物産取締役兼東神倉庫取締役を経て、1910年三井物産常務取締役。
金沢 種次郎(金澤、かなざわ たねじろう、1866年4月16… 金沢 種次郎(金澤、かなざわ たねじろう、1866年4月16日(慶応2年3月2日)- 1925年(大正14年)10月18日)は、明治から大正期の実業家・政治家。衆議院議員。旧姓・伊沢。 阿波国板野郡中喜来浦(徳島県板野郡松茂村字中喜来を経て現松茂町中喜来)で、伊沢壮太郎の三男として生まれる。小学校卒業後、徳島中学校(現徳島県立城南高等学校)に進んだ。私塾で漢学も修めた。1886年(明治19年)大阪に出て先代・金沢仁兵衛と出会い、その勧めで同家の肥料商に従事。1887年(明治20年)徴兵され衛生部員として広島衛戍病院、野砲兵第5連隊(広島)で勤務し、1889年(明治22年)帰休兵となり除隊した。その後上京して、1892年(明治25年)7月、東京専門学校(現早稲田大学)で英法及経済財政学を修めて卒業し、さらに同年8月、明治法律学校(現明治大学)の三カ年全課程試験に合格し仏蘭西派法律及政治科を卒業した。
松本 恒之助(まつもと つねのすけ、慶応2年2月29日(18… 松本 恒之助(まつもと つねのすけ、慶応2年2月29日(1866年4月14日) - 大正15年(1926年)6月1日)は、日本の衆議院議員(猶興会→又新会→中正会→憲政会)。父は伊勢新聞創業者の松本宗一、曽祖父は津藩郷士の松本安親、弟は衆議院議員の松本宗吾、曾姪孫は歌手・女優のあべ静江。 伊勢国一志郡矢野村(現在の三重県津市)に松本宗一の長男として生まれる。1883年(明治16年)、同志社に入学するが、1885年(明治18年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)に移り、1888年(明治21年)に卒業した。卒業後は郷里に帰り、伊勢新聞社の経営にあたった。また、津市会議員に選出された。 1904年(明治37年)、衆議院議員に補欠当選。
並木 和一(なみき かずいち/わいち、慶應2年2月28日〈1… 並木 和一(なみき かずいち/わいち、慶應2年2月28日〈1866年4月13日〉 - 1953年〈昭和28年〉12月7日)は、明治から大正時代の政治家、貴族院多額納税者議員、大地主。 並木衛七の長男として信濃国佐久郡野沢村(現・佐久市野沢)に生まれ、1883年(明治16年)12月、家督を相続する。上京し、鈴木松塘に漢籍を学び、帰郷して松本中学校(現・長野県松本深志高等学校)に学ぶ。村会議員を1期、町会議員を4期、郡会議員を経て、1903年(明治36年)長野県会議員となり、さらに翌1904年(明治37年)長野県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任。議員を1911年(明治44年)9月28日まで7年1期務め、その間、請願委員、決算委員を歴任した。
寺崎 広業(てらさき こうぎょう、慶応2年2月25日(186… 寺崎 広業(てらさき こうぎょう、慶応2年2月25日(1866年4月10日) - 1919年2月21日)は、秋田県出身の日本画家。 放浪の画家といわれた寺崎広業は慶応2年(1866年)久保田古川堀反(秋田市千秋明徳町)の母の実家久保田藩疋田家老邸で生まれた。寺崎家も藩の重臣であった。父の職業上の失敗もあって横手市に移って祖母に育てられた。幼児から絵を好みすぐれていたというが貧しく、明治10年(1877年)には太平学校変則中学科(現秋田県立秋田高等学校)に入学するも一年足らずで退学。10代半ば独り秋田に帰り牛島で素麺業をやったりしたという。秋田医学校にも入ったが学費が続かなかった。結局好きな絵の道を選び、16歳で手形谷地町の秋田藩御用絵師だった狩野派の小室秀俊(怡々斎)に入門、19歳で阿仁鉱山に遊歴の画家第一歩を印したが、鹿角に至った時戸村郡長の配慮で登記所雇書記になった。
田尻 寅雄(たじり とらお、1866年4月6日 - 1947… 田尻 寅雄(たじり とらお、1866年4月6日 - 1947年)は、日本の医学者。 東京芝白金に北里柴三郎が設立した「土筆ケ岡養生園」で医師として勤務し、同時に「私立衛生会伝染病研究所」の助手として細菌学研究に従事した。 熊本初のハンセン病病院、回春病院初代院長として、ハンナ・リデルを助け病院の充実に努めた。 1866年(慶応2年)熊本県玉名市天水町立花に肥後国田尻氏の本流として生まれる。 代々医師の家系で父であり医師、田尻宗彦(そうげん1824ー1896)は村田家と同様熊本藩の産科医として有名であった。細川家の上級医師(御目見医師)で、田尻宗彦の元には、唐津藩の命により草場見節が産婦人科の修行に来ていた。
露無 文治(つゆむ ぶんじ、慶応2年2月18日(1866年4… 露無 文治(つゆむ ぶんじ、慶応2年2月18日(1866年4月3日) - 昭和16年(1941年)2月22日)は日本組合基督教会の牧師である。 1866年(慶応2年)備中国倉敷天城に久次郎、せん子の子として生まれる。1882年(明治15年)岡山市に出て原泉学舎で漢学を学び、オティス・ケーリや金森通倫によりキリスト教に接する。 新聞で新島襄の経歴を読んで渡米することを志すが、天城教会の亀山昇から同志社に行くように勧められ、同志社英学校に入学した。在学中に、京都第二公会(現・日本基督教団同志社教会)でアメリカンボードのJ・D・デイヴィスから洗礼を受ける。 在学中、同志社英学校で開催された第1回夏季学校の記録を編集して、『学生之大会』を刊行する。
尾高 次郎(おだか じろう、1866年4月2日〈慶応2年2月… 尾高 次郎(おだか じろう、1866年4月2日〈慶応2年2月17日〉 - 1920年〈大正9年〉2月4日)は、日本の実業家、銀行家。武州銀行(現埼玉りそな銀行)の初代頭取。岳父は渋沢栄一。族籍は埼玉県平民。 武蔵国榛沢郡下手計村(のちの八基村、現埼玉県深谷市下手計)出身。尾高惇忠の次男。数え3歳の頃、親族の尾高幸五郎の養子になる。1882年、幸五郎から家督を相続する。 1891年、高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、第一銀行(現みずほフィナンシャルグループ)入行。名古屋支店長、四日市支店長、釜山支店長、仁川支店長、監査役を歴任し、釜山・仁川で日本人商業会議所会頭、居留民会議長も務めた。 1904年、韓国興業専務取締役。
友田 文次郎(ともだ ぶんじろう、1865年4月30日(元治… 友田 文次郎(ともだ ぶんじろう、1865年4月30日(元治2年4月6日) - 1932年(昭和7年)9月17日)は、日本の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 安芸国山県郡溝口村(現広島県山県郡北広島町)で、農業、醤油製造業、鉱山業を営む友田幸兵衛の長男として生まれる。広島で漢学を、大阪で法律学を学んだ。その後、村吏、郡吏、裁判所吏員、広島の山陽土木会社社員などを務めた。 父の事業で財産を失ったことから、1891年に北海道移住を計画。資産が無いため屯田兵に応募しようとしたが、当時は広島県での募集はなく、岡山県で募集があり同県に転籍。屯田兵に合格して同年6月に岡山から小樽に渡航。同年7月1日、上川郡永山村(現旭川市)に入植し開墾に従事した。
井出 台水(いで だいすい、本名・井出治、1865年4月29… 井出 台水(いで だいすい、本名・井出治、1865年4月29日(慶応元年4月5日) - 1950年(昭和25年)8月1日)は、岡山県出身の日本の俳人、陸軍軍人。最終階級は陸軍主計総監(中将相当官)。旧姓・佐々。別号に彭洋。 岡山藩(現・岡山県赤磐市)で佐々寅三の二男として生まれる。少年時代から父の影響で定型俳句を始めるも、軍人の道を進んだ。陸軍監督長・井出正章の養嗣子となり、1899年(明治32年)1月に家督を相続した。 1886年6月25日、工兵少尉に任官。1889年11月2日、工兵中尉に昇進し、1894年7月31日に経理部へ転科し監督補となる。陸軍経理学校卒業後、陸軍省経理局建設課長、陸軍主計監・第18師団経理部長、近衛師団経理部長、朝鮮駐剳軍(朝鮮軍)経理部長等を歴任。
貴山 幸次郎(きやま こうじろう、1865年4月27日(慶応… 貴山 幸次郎(きやま こうじろう、1865年4月27日(慶応元年4月3日) - 1940年(昭和15年)6月9日)は日本基督教会の牧師である。 1865年(慶応元年)伊予国吉田(現・愛媛県宇和島市)に生まれ、幼少期は吉田郷校(藩校文武館の後身)で学び、卒業後に同校の教師になる。1881年(明治14年)に宇和島に来た桜井昭悳の演説を聴いてキリスト教を知った。1885年(明治18年)に横井時雄の伝道説教を聞いてキリスト教信仰を持つ。 1885年に東京に移り津田仙の学農社で学び『農業雑誌』の編集を行う。植村正久の『真理一斑』を読んで信仰を強くし、1885年新栄教会で石原保太郎から洗礼を受ける。その後、献身し東京一致英和学校、東京一致神学校で学ぶ。
江口 定條(えぐち さだえ、元治2年4月1日(1865年4月… 江口 定條(えぐち さだえ、元治2年4月1日(1865年4月25日) - 昭和21年(1946年)3月14日)は、日本の実業家、政治家。 土佐国土佐郡高知城下本町(現・高知県高知市本町)出身。1887年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒、同校教諭に就任。その後、三菱合資会社入社。同社専務理事、監事等を経て1920年同社総理事。1925年社団法人如水会初代理事長。1931年6月、経営状態が悪化していた南満州鉄道(満鉄)の副総裁に就任し経営の実務に当たるが、就任直後に満州事変が発生。満鉄総裁の内田康哉が急進的な事変拡大派に転向し、満鉄が関東軍に協力する中で江口は事変拡大に反対し軍部に批判的な立場であり続けた。
森田 勇次郎(もりた ゆうじろう、1865年4月25日〈慶応… 森田 勇次郎(もりた ゆうじろう、1865年4月25日〈慶応元年4月1日〉 - 1920年〈大正9年〉11月10日)は、日本の新聞記者、政治家。衆議院議員(静岡県郡部選出、当選2回)。族籍は静岡県平民。 肥後国天草郡志岐村(現・熊本県天草郡苓北町)に生まれた。森田市郞次の三男。1885年、東京専門学校(現・早稲田大学)邦語政治科を卒業。 1889年、静岡大務新聞社に聘せられた。1891年、静岡民友新聞を創立し主筆となった。静岡商業会議所書記長、同特別議員となった。進歩党静岡支部幹事として党務に尽瘁した。 1903年の第8回衆議院議員総選挙と1908年の第10回衆議院議員総選挙で当選。進歩党、憲政本党、立憲国民党に所属した。
小久保 喜七(こくぼ きしち、1865年4月17日(慶応元年… 小久保 喜七(こくぼ きしち、1865年4月17日(慶応元年3月22日) - 1939年(昭和14年)12月14日)は、日本の政治家、自由民権家。従四位勲二等。中田文武館館長。号は城南。族籍は茨城県平民。 下総国猿島郡(のちの茨城県猿島郡新郷村中田、現在の茨城県古河市)出身。小久保藤吉の長男。幼い頃に母を失い、祖母に養われた。栃木県佐野町で先生に就いて漢学を学んだ。 1879年(明治12年)、郷里に帰り民権自由の説を唱え、自由民権運動に投じる。1883年(明治16年)春に有終会を組織し、又五州志士舟遊会を起し推されて幹事となる。さらに自由党結成大会に出席した。中田文武館を設立し自ら館長となり大に壮士を養う。
成島 治平(なるしま じへい、1865年4月15日〈慶応元年… 成島 治平(なるしま じへい、1865年4月15日〈慶応元年3月20日〉 - 1940年〈昭和15年〉6月12日)は、日本の政治家。甲府市長(官選第14代)。 甲斐国巨摩郡下条南割村(現在の山梨県韮崎市下条南割)に、千野直一の二男として生まれる。1887年(明治20年)4月に成島信順の養子となる。東京薬学学校に学び薬剤師となり、先代の遺業である薬種商「木綿屋」を甲府市錦町で営み、1902年(明治35年)以降、甲府市学務委員、水道調査委員、市区改正調査委員などを務めている。1909年(明治42年)には甲府商業会議所議員に当選し、1917年(大正6年)4月18日から1921年(大正10年)5月21日まで同会議所副会頭を歴任した。
勝俣 英吉郎(かつまた えいきちろう、1865年4月13日〈… 勝俣 英吉郎(かつまた えいきちろう、1865年4月13日〈慶応元年3月18日〉 - 1930年〈昭和5年〉4月7日)は、明治から昭和時代前期の政治家、医師。長野県上田市長。俳号・かつ丸。 信濃国上田城下の上田藩医の家に生まれる。1879年(明治12年)東京外国語学校でドイツ語を学び、1883年(明治16年)東京大学医学部別課に入学し、1887年(明治20年)帝国大学医学大学を卒業し、1888年(明治21年)家業の医院を継ぐ。 1891年(明治24年)信陽医学会を創立し、同会長を務める。日清・日露戦争では日本赤十字社救護医として従軍。1909年(明治42年)長野県会議員に当選し、立憲民政党支部長に就任した。
井上敬之助(いのうえ けいのすけ、元治2年3月18日(186… 井上敬之助(いのうえ けいのすけ、元治2年3月18日(1865年4月13日) - 昭和2年(1927年)8月10日)は、滋賀県会議長、衆議院議員を務めた明治・大正期の政治家。滋賀県政の大御所として当時知事が二人いると言われた。 近江甲賀郡石部村(現滋賀県湖南市石部)に、石部宿本陣小島金左衛門の八男として生まれ、幼名を家之助と称した。明治3年(1870年)に医師であり石灰製造所を経営していた井上敬祐の養子となり、同20年(1887年)には敬之助と改名した。 明治20年(1887年)大津自由党の創始者の一人酒井有の紹介で、自由党系の活動に参加した、明治23年(1890年)板垣退助が愛国公党を再興すると、井上は『特に県下の青壮年層に呼びかけて同党の主義綱領を宣伝した』とされる。