髙梨 正助(たかなし しょうすけ、1843年6月12日(天保… 髙梨 正助(たかなし しょうすけ、1843年6月12日(天保14年5月15日)- 1925年(大正14年)7月18日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、千葉県会議長、千葉県夷隅郡東村長。 上総国夷隅郡佐室村(千葉県夷隅郡佐室村、東村佐室、大原町を経て現いすみ市佐室)で、農業・髙梨正作、モトの長男として生まれる。堀江文同に師事し漢学を修めた。1867年(慶応3年)組頭、名主に就任。1869年(明治2年)から1879年(明治12年)まで、宮谷県、木更津県、千葉県の捕亡掛、第6大区副区長、同戸長を歴任した。この間、自由民権運動に加わり、1879年、以文会の発会式に参加した。 1880年(明治13年)1月、補欠選挙で千葉県会議員に選出され、1891年(明治24年)11月まで在任し、この間、同副議長(1889年11月-1890年10月)、同議長(1890年10月-1891年11月)を務めた。
8代 式守 伊之助(はちだい しきもり いのすけ、天保14年… 8代 式守 伊之助(はちだい しきもり いのすけ、天保14年5月14日(1843年6月11日) - 明治30年(1897年)12月18日)は、大相撲の立行司。本名は後藤文次郎(与太夫)。出身地は現在の岩手県北上市。 6代式守伊之助の弟子。初代の式守錦太夫で、安政3年(1856年)11月に初めて番付に載る。明治4年(1871年)3月に3代式守与太夫を襲名し、地道に昇進していった。明治17年(1884年)5月に8代式守伊之助を襲名。1年後に次席となった。堅実な軍配裁きに定評があった。明治30年(1897年)12月18日死去した。享年54。墓所は東京都江東区の万徳院。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。
四代目 滝 兵右衛門(たき へいえもん/ひょうえもん、瀧 兵… 四代目 滝 兵右衛門(たき へいえもん/ひょうえもん、瀧 兵右衛門、1843年6月11日(天保14年5月14日) - 1918年(大正7年)1月27日)は、明治から大正時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。タキヒヨーの始祖。 尾張国丹羽郡東野村(現・愛知県江南市)出身。1875年(明治8年)名古屋へ進出し、先代が築いた呉服太物商絹兵を拡張し滝兵右衛門商店とした。さらに京都、東京に支店を出し1912年(大正元年)11月滝兵商店(現タキヒヨー)を組織した。 ほか、名古屋銀行頭取、愛知織物、帝国撚糸各社長、尾張紡績取締役、関西鉄道監査役、名古屋市参事会員、同市会議員などを歴任した。1897年(明治30年)愛知県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。
鈴木 大亮(すずき だいすけ、1842年6月26日(天保13… 鈴木 大亮(すずき だいすけ、1842年6月26日(天保13年5月18日) - 1907年(明治40年)2月1日)は、日本の政治家、農商務官僚。貴族院議員、官選県知事、錦鶏間祗候、男爵。幼名・篤敬。 陸奥国遠田郡中埣村(現:美里町)で仙台藩士・鈴木雄三郎の長男として生まれる。文久3年(1863年)、江戸で江川塾において砲術を学び、黒田清隆と知り合う。戊辰戦争に従軍した。 明治4年(1871年)11月、黒田清隆の推薦で開拓使十二等出仕となる。以後、開拓少主典、同主典、同権大主典、同大主典、開拓権少書記官、同権大書記官などを歴任。1882年2月、開拓使が廃止され農商務省に移り大書記官に就任。以後、兼大蔵大書記官、北海道庁理事官、農商務省水産局長などを務めた。
野村 素介(のむら もとすけ、1842年6月26日(天保13… 野村 素介(のむら もとすけ、1842年6月26日(天保13年5月18日)- 1927年(昭和2年)12月23日)は、幕末から昭和初期にかけての日本の武士(長州藩士)、官僚、政治家、書家。正二位勲一等 男爵。幼名は範輔、字は絢夫、号は右仲、素軒。 1842年(天保13年)5月18日に長州藩士 有地留之助の次男として周防国吉敷郡長野村(現在の山口県山口市)に生まれる。はじめ、萩の藩校明倫館で学ぶ。1859年(安政6年)4月、江戸へ行き、長州藩上屋敷内の有備館で学ぶ。さらに儒学者 塩谷宕陰から漢籍・経書・歴史を、書家 小島成斎から書道を学ぶ。1862年(文久2年)に帰国して明倫館舎長となる。 1863年(文久3年)10月に同じく長州藩士 野村正名の養子となり、1866年(慶応2年)2月、家督を継ぐ。
足立 寛(あだち かん、1842年6月14日(天保13年5月… 足立 寛(あだち かん、1842年6月14日(天保13年5月6日) - 1917年(大正6年)7月7日)は、幕末から明治にかけての医師、医学者、日本陸軍軍医、陸軍軍医学校校長。最終階級は陸軍軍医総監。字は士得。号は菊径、欲堂。妻は坪井信道の娘。 遠江国山名郡国本村(現・静岡県袋井市)生まれ。木村軍太郎に師事した後、緒方洪庵の適塾、福沢諭吉の書生として慶應義塾で学び、のちに塾長も務める。幕府の西洋医学校塾頭となる。1887年(明治20年)陸軍軍医学舎長となり、一等軍医正まで昇格する。陸軍省に出仕し、軍医総監、陸軍軍医学校長、慶應義塾医学所の設立に携わる。文部省医術開業試験委員長、文部省薬剤師開業試験委員長をつとめ、多忙を極める中、衛生学教程本を多数記す。
石坂 昌孝(いしざか まさたか、1841年6月11日〈天保1… 石坂 昌孝(いしざか まさたか、1841年6月11日〈天保12年4月22日〉 - 1907年〈明治40年〉1月13日)は、日本の幕末から明治期の名主、政治家。神奈川県会議員、神奈川県会議長(初代)、群馬県知事(官選第5代)、衆議院議員(4期)。幼名・高之助。苗字は「石阪」とも表記され、文献によってぶれがある。 武蔵国多摩郡野津田村(のち鶴川村、現在の町田市域)で豪農・石阪吉恩の三男として生まれ、母の実家、名主・石阪昌吉の養子となる。安政4年10月(1857年11月)、家督を相続し、又次郎を襲名。 明治維新後、明治5年1月(1872年2月)、第三十戸籍区戸長となり、第八区区長、神奈川県権少属を歴任。
池田 成章(いけだ なりあき、天保11年5月26日〈1840… 池田 成章(いけだ なりあき、天保11年5月26日〈1840年6月25日〉 - 大正元年〈1912年〉10月11日)は、日本の武士(米沢藩士)、官僚、実業家。 三井財閥筆頭常務理事、大蔵大臣などを務めた池田成彬は長男。 出羽米沢藩士五十騎組香坂昌邦の三男として生まれ、1864年(元治元年)に同じく藩士の五十騎組池田峰蔵の養子となった。 初め、貞吉、丈八と改め、のちに新次郎、さらに成章と改めた。 藩校興譲館で書・文学を学び、上杉茂憲の小姓となる。町奉行[要出典]、江戸留守居役を歴任。茂憲の側役として麻布邸に起居し、甘糟継成と行動を共にし、ここで慶應義塾の福澤諭吉や小幡篤次郎、シーボルトを初めとする人物らと知己を得た。
根岸 武香(ねぎし たけか、天保10年5月15日(1839年… 根岸 武香(ねぎし たけか、天保10年5月15日(1839年6月25日) - 明治35年(1902年)12月3日)は、武蔵国大里郡冑山村(現在の熊谷市)出身の政治家、郷土史家。 幼名「新吉」、後に「伴七」と改めた。父は根岸友山。孫 根岸憲助の妻は横川重次妹。娘の岳父は雨宮敬次郎。 剣道を千葉周作、和漢学を寺門静軒、安藤野雁に学ぶ。明治12年(1879年)に埼玉県会開設と共に同議員に選出されて副議長となり、翌明治13年(1880年)から14年(1881年)まで第2代議長、明治23年(1890年)から25年(1892年)まで第10代議長を務め、明治27年(1894年)10月10日には補欠選挙で貴族院多額納税者議員に選出され、1897年(明治30年)9月28日まで在任した。
広瀬 久光(ひろせ ひさみつ、天保10年5月13日(1839… 広瀬 久光(ひろせ ひさみつ、天保10年5月13日(1839年6月23日) - 明治43年(1910年)8月11日)は山梨県の名望家、戸長、県会議員。 地域の戸長、区長などを歴任、また東山梨郡書記に任用されるなど、地方自治や農政の進展に貢献した。明治13年(1880年)から二期4年間、県会議員に在任活躍し、特に青梅街道の開発に最も力を注いでいた。また、自家の屋敷は「於曽屋敷」として昭和38年(1963年)9月9日に山梨県指定の史跡に指定されている。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
山口 尚芳(やまぐち ますか / なおよし / ひさよし、天… 山口 尚芳(やまぐち ますか / なおよし / ひさよし、天保10年5月11日〈1839年6月21日〉 - 1894年〈明治27年〉6月12日)は、日本の士族(佐賀藩士)、官僚、政治家。父は山口尚澄。通称は範蔵(はんぞう)、範造、範三、繁蔵。 「尚芳」の読みは「なおよし」とされることが一般だった。しかし、当時の官僚たちの履歴資料が『勅奏任官履歴原書』(国立公文書館所属)として1995年に刊行され、そこに載っていた読みが「ますか」であった。同資料は掲載された人々自身の閲読を経ていることから信頼性は高く、「ますか」の読みが併記されることが増えている。 幼少のころから佐賀藩武雄領主・鍋島茂義に将来性を見込まれ、佐賀藩主・鍋島直正(閑叟)の命令により、他の藩士子弟らとともに長崎に遊学し、オランダ語や英語を学んだ。
坂田 警軒(さかた けいけん、天保10年5月5日(1839年… 坂田 警軒(さかた けいけん、天保10年5月5日(1839年6月15日) - 明治32年(1899年)8月15日)は、明治期の漢学者、衆議院議員。名は丈、字は夫卿、初名は丈助、のち丈平。警軒または九邨と号した。 備中国川上郡九名村(現・岡山県井原市)に生まれる。阪谷朗廬の甥。嘉永6年(1853年)に藩校・興譲館で学び、都講まで進む。万延から肥後国に遊学し、木下犀潭に入門。井上毅・竹添進一郎と共に木門の三才と称されるようになった。慶応元年(1865年)に江戸に出て安井息軒に師事し、慶応3年(1867年)に帰郷して岡山藩家老池田氏の賓師から、明治元年(1868年)に阪谷朗廬の後をうけて第2代興譲館館長に就任。
山縣 有朋(やまがた ありとも、新字体:山県 有朋、1838… 山縣 有朋(やまがた ありとも、新字体:山県 有朋、1838年6月14日〈天保9年閏4月22日〉- 1922年〈大正11年〉2月1日)は、日本の政治家・軍人。最終階級・称号は元帥陸軍大将。位階・勲等・功級・爵位は従一位大勲位功一級公爵。 内務卿(第9代)、内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)を歴任した。 幼名辰之助、通称は小助、1864年以降は狂介・小輔・狂助・狂輔。変名として萩原鹿之助の名も用いた。1871年以降に有朋の諱を称した。号は1871年まで素狂、以降は無隣庵主、含雪。 長州藩の蔵元付仲間だった下級武士の家に生まれ、学問と槍の稽古に励んだ。
堀 真五郎(ほり しんごろう、天保9年閏4月11日〈1838… 堀 真五郎(ほり しんごろう、天保9年閏4月11日〈1838年6月3日〉 - 1913年〈大正2年〉10月25日)は、幕末の長州藩の志士で、明治時代の大審院判事、貴族院勅選議員。諱は義彦。変名は有田又四郎。姓は藤原とも。号は水石・風民・白鷺夫・斜石。 天保9年(1838年)4月11日、長門国阿武郡萩町において、妙玖寺の臣・堀文左衛門松園の子として生まれる。年少の頃から軍談を好んで、功名心旺盛だったため、脱藩して各国の志士達、特に久坂玄瑞・高杉晋作らと交友を深めて尊皇攘夷活動に加わった。文久2年(1862年)11月に高杉晋作らの英国公使館焼き討ち事件にも参加し、文久3年(1863年)に八幡隊が結成されると初代総管に就任した。
寺島 直(てらじま なおし、1837年6月1日(天保8年4月… 寺島 直(てらじま なおし、1837年6月1日(天保8年4月28日)- 1910年(明治43年)6月29日)は、幕末の武士、維新の志士。明治時代の官吏、法律家、判事。位階および勲等は従三位・勲二等。 下総国香取郡小見川(現在の千葉県香取市)に小見川藩士の寺島彦三郎の子として生まれる。儒学者の並木栗水の螟蛉塾に学ぶ。後に京都に出て、梅田雲浜などと尊王攘夷論者として国事に奔走し、禁錮刑となった。 1870年に本保県(現在の福井県)の逮部伍長に任じられた。1871年に敦賀県参事となった。1877年に判事となり、東京上等裁判所や宮城県上等裁判所の判事、熊本裁判所長、大審院評定官を歴任し、1884年に大審院判事となり、勲六等単光旭日章を賜った。
牛島 秀一郎(うしじま / うししま ひでいちろう、1835… 牛島 秀一郎(うしじま / うししま ひでいちろう、1835年6月20日(天保6年5月25日)- 1898年(明治31年)2月5日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、佐賀県会議長。 肥前国小城郡多久原村(佐賀県小城郡北多久村、北多久町を経て現多久市北多久町多久原)で生まれる。東原庠舎で学び、さらに草場船山から漢学を学んだ。 1873年(明治6年)多久原村戸長に就任。その後長崎で『西海日報』を創刊し自由民権運動を推進した。1879年(明治12年)長崎県会議員に選出され、佐賀県会議員、同常置委員、同3代議長(1887年11月-1889年10月)を歴任。1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙で佐賀県第1区から中央交渉会所属で出馬して当選し、議員倶楽部に所属し衆議院議員に1期在任した。
川路 利良(かわじ としよし、天保5年5月11日(1834年… 川路 利良(かわじ としよし、天保5年5月11日(1834年6月17日) - 明治12年(1879年)10月13日)は、日本の警察官・陸軍軍人。幕末から明治初期の薩摩藩士、内務官僚。階級は大警視(後に旧警視長を経て現在の警視総監)、陸軍少将(臨時)。位階は正五位。勲等は勲二等。 初代大警視(現・警視総監)を務め、欧米の近代警察制度を日本で初めて詳細に構築した事実上日本の警察の創設者にして、「日本警察の父」とも言われている。西南戦争では大警視と臨時に陸軍少将を兼任し、警視隊で組織された別働第三旅団を率いて抜刀隊を指揮して西郷軍に大きな打撃を与えた。 名は当初「としなが」と名乗っていたが、後に「としよし」と改名した。
真田 正穀(さなだ まさよし、天保5年(1834年)6月8日… 真田 正穀(さなだ まさよし、天保5年(1834年)6月8日 – 大正4年(1915年))は、土佐藩士。土佐藩の海軍・軍艦行政を担った官僚的藩士で、維新後は中央・地方官を歴任した。旧姓は武藤、別名・号に武藤広陵、颿(はやめ)があり、明治期に正穀、のち真田庵と改名した。 土佐藩の上士身分である御馬廻に属し、藩船運用・軍艦行政・蒸気機関教育などを担当した、土佐藩における海軍行政の専門家である。吉田東洋門下としても知られる。 天保5年(1834年)6月8日、土佐国高知城下下金子橋に生まれる。父は御馬廻・武藤万作。正穀は次男で、実兄の武藤清八は御山奉行を務めた。身分は上士・御馬廻である。 若年より藩政実務に通じ、藩船夕顔の船将を務めた。
大友 亀太郎(おおとも かめたろう、1834年6月4日 - … 大友 亀太郎(おおとも かめたろう、1834年6月4日 - 1897年12月14日)は、江戸時代後期から明治時代初期にかけ、北海道の開拓に貢献した相模国(現在の神奈川県)出身の幕臣。 二宮尊徳の門下生の一人としても知られ、札幌市の中心部に現在の創成川のもととなる、「大友堀」を掘るなど、用水路や橋梁を始めとする土地の開発に尽力した。札幌村の土台を作り上げたその業績から、「開拓の祖」と称されることがある。現在札幌市内には大友亀太郎像が設置され、札幌市時計台には生前の写真が展示されている(隻眼であったことが見て取れる)。また、大友公園や資料を収蔵した記念館など功績を称える施設が残されている。 天保5年(1834年)、相模国足柄下郡(現在の神奈川県小田原市)で農家を営んでいた飯倉吉衛門の長男として誕生。
清瀬 善三(きよせ ぜんぞう、1833年6月26日(天保4年… 清瀬 善三(きよせ ぜんぞう、1833年6月26日(天保4年5月9日 )- 1912年(明治45年)7月4日)は、明治期の醸造家・銀行家・政治家・慈善家。貴族院多額納税者議員。幼名・秀吉。慈善事業にも資金を提供した。 豊前国宇佐郡四日市村(大分県宇佐郡四日市村、四日市町を経て現宇佐市四日市)で醸造業・清瀬亀助の六男として生まれた。敷田年治(吉松伊勢守)から読書算術習字などを学んだ。父からその優れた資質を見込まれ、1855年(安政2年6月)に家督を相続した。 1856年(安政3年)四日市の宿役に就任。その後、里掌、四日市村戸長を務め、1879年(明治12年)四日市村会議員に選出され、同町会議員、宇佐郡会議員なども務めた。
初代 相馬 哲平(そうま てっぺい、1833年6月22日〈天… 初代 相馬 哲平(そうま てっぺい、1833年6月22日〈天保4年5月5日〉 - 1921年〈大正10年〉6月6日)は、日本の政治家・貴族院議員・北海道多額納税者・資産家・実業家・慈善家。函館貯蓄銀行頭取。相馬合名代表社員。族籍は北海道平民。北海道屈指の豪商だった。多くの公共施設や神社仏閣、凶作救済資金などに多額の私財を寄付した。 越後国蒲原郡荒井浜(のち新潟県北蒲原郡乙村大字荒井浜、現胎内市)で、相馬熊次郎の二男として生まれる。生家は木造和船を一艘所有した回漕業と綿屋の兼業で生計を立てていた。家計が豊かでなかったので、少年時代から「何か腕に芸を覚えよう」と考えていた。 文久元年(1861年)、28歳で箱館に移り、岩船屋春蔵宅で奉公(住み込み労働)。
長谷川 直則(はせがわ なおのり、1833年6月22日(天保… 長谷川 直則(はせがわ なおのり、1833年6月22日(天保4年5月5日) - 1896年(明治29年)5月4日)は、幕末から明治時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 豪商・佐藤伊兵衛の四男として出羽国村山郡天童(山形県東村山郡天童町を経て現天童市)に生まれ、のち長谷川吉内の養子となる。山形藩主秋元家に仕えたのち、実業界に入り、1888年(明治21年)7月には第八十一国立銀行頭取に就任した。ついで翌年5月、山形市会議員に当選し、所得税調査委員、山形興業幹事を経て、1890年(明治23年)山形県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1895年(明治28年)12月7日まで在任した。
岸田 吟香(きしだ ぎんこう、天保4年4月28日〈1833年… 岸田 吟香(きしだ ぎんこう、天保4年4月28日〈1833年6月15日〉、一説に天保4年4月8日〈1833年5月26日〉 - 1905年〈明治38年〉6月7日)は、日本の新聞記者、実業家、教育家。美作国久米北条郡垪和村(現岡山県久米郡美咲町)出身。目薬「精錡水」を販売するなど、薬業界の大立者としても知られる。 幼名を辰大郎。名前は大郎、大郎左衛門、達蔵、称子麻呂、清原桜、作良(さくら)、さくら、まゝよ、銀次あるいは銀次郎などがある。また墨江岸国華、墨江桜、墨江岸桜、岸国華、岸吟香、岸大郎、岸桜、小林屋銀次、岸田銀治、岸田屋銀治、京屋銀治郎、桜井銀治郎などとも名乗った。号は吟香、東洋、桜草。筆名には吟道人がある。
島本 仲道(しまもと なかみち、天保4年4月18日(1833… 島本 仲道(しまもと なかみち、天保4年4月18日(1833年6月5日) - 明治26年(1893年)1月2日)は、明治時代の官僚、法律家である。通称は審次郎、号は北洲。 土佐国土佐郡潮江村(現高知県高知市)で土佐藩士・島本卓次の二男として生まれた。土佐勤皇党に参加し終身刑の宣告を受けたが、戊辰戦争で伊予松山藩の征伐を命じられる。明治維新後、明治新政府で兵部省、司法省の官僚を歴任、江藤新平の右腕として近代日本国家の検察、警察、弁護士の機構制度の確立に尽力した。1873年、江藤の下野とともに司法省を退職し、東京と大阪に弁護士事務所を開く。 その後、自由民権運動に参加、1887年に保安条例で東京退去の処分を受けるも、明治憲法発布の恩赦で赦免された。
重城 保(じゅうじょう たもつ、天保4年4月17日(1833… 重城 保(じゅうじょう たもつ、天保4年4月17日(1833年6月4日) - 大正元年(1912年)9月13日)は、上総国高柳(現在の木更津市)の名主。後に千葉県の初代県会議長、衆議院議員を務める。幼名は安次郎。 代々名主の家に生まれ、若い頃に正木幽谷・大槻磐渓に学んだ後、故郷に戻り家業に励んだ。明治5年(1872年)、当時の木更津県の郡中地券係に任じられて、当時の県令柴原和の面識を得る。その後千葉県の成立で柴原がそのまま同県令に転じると、柴原が力を入れた育児政策を実施する育児取締頭取を務めた。明治9年(1876年)に千葉県会が設置されると、保は初代県会議長となった。 当時、自由民権運動が盛んになり、各地で県令と県会の衝突が起こったが、保は柴原県令と県会双方に自重を求めて対立の回避に努めた。
寺島 宗則(てらしま むねのり、1832年6月21日〈天保3… 寺島 宗則(てらしま むねのり、1832年6月21日〈天保3年5月23日〉- 1893年〈明治26年〉6月6日)は、日本の外交官・政治家。元は松木 弘安(まつき こうあん)、別字に弘菴、弘庵、洪庵。通称は寺島改姓後に陶蔵と名乗った。日本の電気通信の父と呼ばれる。第4代外務卿として活躍した。 天保3年(1832年)、薩摩国出水郡出水郷脇本村字槝之浦(現:鹿児島県阿久根市脇本字槝之浦)の郷士・長野成宗の次男として生まれる(幼名徳太郎、後に藤太郎)。5歳のとき、跡継ぎがいなかった伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子となり、長崎で蘭学を学ぶ。 弘化2年(1845年)、江戸に赴き伊東玄朴、川本幸民より蘭学を学び、安政2年(1855年)より中津藩江戸藩邸の蘭学塾(慶應義塾の前身)に出講する。
高山 長五郎(たかやま ちょうごろう、文政13年4月17日〈… 高山 長五郎(たかやま ちょうごろう、文政13年4月17日〈1830年6月7日〉 - 1886年〈明治19年〉12月10日)は、上野国緑野郡高山村(現・群馬県藤岡市)出身の養蚕業者。清温育を生み出し日本中に広めた。長五郎は通称で、名は重礼。 その遺跡である「高山社跡」は国の史跡に指定されており、世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産となっている。 文政13年(1830年)4月17日に高山村で生まれた。高山家は戦国時代以降、この村に住むようになったと伝えられており、高山彦九郎と共通の先祖を持つという。 経済観念に乏しい父のもとで傾いていた家にあって、幼時に母をなくし、祖母に育てられた。この祖母が敬虔な気持ちを持って養蚕業に熱心に打ち込んでいたが、蚕病によってたびたび深い悲しみに暮れることがあった。
九代 久次米 兵次郎(くじめ ひょうじろう、1829年6月1… 九代 久次米 兵次郎(くじめ ひょうじろう、1829年6月12日(文政12年5月11日) - 1913年(大正2年)3月3日)は、日本の銀行家。藍商人(染織家)。阿波国名東郡新居村(現・徳島県徳島市不動北町)出身。幼名は国太郎。 1829年(文政12年)に阿波藍商人である八代久次米兵次郎・義簡の子として生まれる。1869年(明治2年)、40歳で家督を相続し九代久次米兵次郎を名乗る。 1879年(明治12年)に一族が築き上げてきた経済力を基に名東郡船場町(現徳島市西船場町)に日本で6番目の私立銀行である久次米銀行(後の阿波銀行)を設立。資本金は50万円で、当時は三井銀行に次いで第2位の規模であった。
陣幕 久五郎(じんまく きゅうごろう、文政12年5月3日(1… 陣幕 久五郎(じんまく きゅうごろう、文政12年5月3日(1829年6月4日) - 明治36年(1903年)10月21日)は、出雲国意宇郡意東村(現・島根県松江市東出雲町下意東)出身で秀ノ山部屋(入門時は滝登部屋)に所属した大相撲力士。第12代横綱(江戸最後の横綱)。本名は石倉 槇太郎(いしくら まきたろう)。 「負けず屋」と言われた強豪で、明治維新の後に大阪頭取総長となり横綱の代数を創案した。 文政12年5月3日(1829年6月4日)に、出雲国意宇郡意東村の農家に生まれる。14歳だったある日、兄と友人の3人で小舟に乗って海釣りを楽しんでいると、昇った月が3個に分割してその間に3個の星が出ているのが見え、左から右へ旋回する様子が15分ほど見られた。
広瀬 宰平(ひろせ さいへい、文政11年5月5日(1828年… 広瀬 宰平(ひろせ さいへい、文政11年5月5日(1828年6月16日) - 大正3年(1914年)1月31日)は、初代住友総理人である。明治期の大阪財界の大立者。位階は従六位勲四等。 広瀬宰平は、近江国野洲郡八夫村(現滋賀県野洲市)の旧家・北脇家の次男として生まれた。幼名・駒之助、維新後は宰平と改名した。 9歳のとき、別子銅山の支配人をしていた叔父の北脇治右衛門に連れられて別子に移り、11歳のときに別子銅山に奉公にあがった。1855年、家長・住友吉左衛門の推薦で、元住友江戸店の支配方であった伊予国新居郡金子村久保田(現・新居浜市)の広瀬義右衛門の養子となる。1865年、別子銅山の近代化を訴えた宰平は、家長により別子銅山の総支配人に抜擢される。
木内 喜八(きうち きはち、1827年6月5日(文政10年5… 木内 喜八(きうち きはち、1827年6月5日(文政10年5月11日) - 1902年(明治35年)8月19日)は、幕末から明治時代に活躍した日本の木工芸家である。 号は梅里道人、幼名は友吉。 江戸の深川(現在の東京都江東区)に船大工の棟梁の設計に携わった家系の子として生まれる。初めは山田流の琴職人であった重元平八の門人となり、指物象嵌について学ぶ。その後は家業であった船大工や鞘、西洋の鉄砲等多くの制作に携わった。 後に木細工の製作に専念し、同時期に加賀藩の前田家に仕える。1877年(明治10年)に開催された第1回内国勧業博覧会に喜八の作品が出品され、次回の1881年(明治12年)に開催された第2回内国勧業博覧会に2回連続で出品された。
大島 高任(おおしま たかとう、文政9年5月11日(1826… 大島 高任(おおしま たかとう、文政9年5月11日(1826年6月16日) - 明治34年(1901年)3月29日)は、明治時代の鉱山学者。父・大島周意は藩医として盛岡藩に勤めた。 文政9年5月11日(1826年6月16日)、盛岡仁王小路にて盛岡藩侍医・大島周意の長男として生まれる。天保13年(1842年)17歳で留学、江戸で蘭方医の箕作阮甫や坪井信道に師事し、長崎では採鉱術を学ぶ。嘉永6年(1853年)、水戸藩主の徳川斉昭から招かれて那珂湊反射炉を建造。大砲の鋳造に成功するが、原材料が砂鉄の為にその性能は高くはなかった。西洋と並ぶ高品質な鉄を造るべく、良質の鉄鉱石が産出する大橋(釜石)の地にU・ヒュゲーニン著の「ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法」を参考として西洋式高炉を建造、安政4年12月1日(新暦1858年1月15日)に鉄鉱石製錬による本格的連続出銑に成功する。
大迫 貞清(おおさこ さだきよ、1825年6月22日(文政8… 大迫 貞清(おおさこ さだきよ、1825年6月22日(文政8年5月7日) - 1896年(明治29年)4月27日)は、幕末の薩摩藩士、明治の官僚・政治家。元老院議官、貴族院議員、子爵。 薩摩国鹿児島城下平之町に薩摩藩士・山之内立幹の四男として生まれ、大迫貞邦の養子となる。万延元年(1860年)から京都警備に従事。戊辰戦争では、二番遊撃隊隊長、そして東山道先鋒総督本営付として従軍した。 明治に入り薩摩藩の藩政改革に参政、権大参事として取り組む。明治5年(1872年)に陸軍少佐に任官し、中佐まで進み第1経営部司令官に就任。1874年(明治7年)1月に静岡県令に転じ、以後、文官として歩んだ。 1883年(明治16年)12月、警視総監に就任し、1885年(明治18年)12月、元老院議官を兼務した。
須田 泰嶺(すだ たいれい、文政8年5月5日(1825年6月… 須田 泰嶺(すだ たいれい、文政8年5月5日(1825年6月20日) - 明治41年(1908年)9月5日)は日本の医師(蘭方医)。諱は経哲 、号は経石、老嶺。 信濃国伊那郡西伊那部村(三州街道伊那部宿、現長野県伊那市)の医家に生まれる。弘化元年(1844年)には江戸の林洞海、嘉永元年(1848年)には佐倉の佐藤泰然に入門し蘭方医学を学んだ。嘉永4年(1851年)に帰郷して外科、産科を開業し、種痘を実施したことで高遠藩から賞詞を授かった。また天保の大飢饉に直面する農民の飢餓を『天保雑記』に記した。 安政4年(1857年)藩命で再び上京し、林洞海と伊東玄朴に入門し、象先堂の塾頭を務め、文久元年(1861年)、麻酔薬クロロホルムを使用した下腿切断手術を日本で初めて実施した。
大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政8年5月3日〈18… 大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政8年5月3日〈1825年6月18日〉 - 明治2年11月5日〈1869年12月7日〉)は、幕末期の日本の官僚・洋学者。維新の十傑の一人。旧姓は村田(むらた)、幼名は宗太郎、通称は蔵六(ぞうろく)、良庵(または亮庵)、のちに益次郎(ますじろう)。雅号は良庵・良安・亮安。諱は永敏(ながとし)。位階は贈従二位。家紋は丸に桔梗。 戊辰戦争では東征大総督府補佐として勝利への立役者となった。太政官制において兵部省初代大輔(次官・長官の卿は皇族が就いたため、事実上の最高責任者)を務め、日本陸軍の創始者、陸軍建設の祖とされる。兵部省は陸軍省・海軍省の前身であり、教え子からは伊藤雋吉ら海軍の重鎮も輩出しており、近代日本軍全体に対する創業の功績も大きい。
富永 有隣(とみなが ゆうりん、文政4年5月14日(1821… 富永 有隣(とみなが ゆうりん、文政4年5月14日(1821年6月13日) - 明治33年(1900年)12月20日)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩士・儒学者。諱は徳、後に悳彦。通称は弥兵衛。有隣は字で、『論語』の「徳は孤ならず必ず隣あり」から命名したとされる。 文政4年(1821年)、周防国吉敷郡陶村(現在の山口県山口市)にて誕生。 幼少の頃に天然痘にかかり右目を失明する。9歳で長州藩藩校・明倫館に入り、13歳で藩世子(藩主嫡男)に『大学』を講じた。成人後、小姓を務めるが、他人と打ち解けなかったために、同僚・親族らに憎まれ、嘉永5年(1852年)に冤罪で見島に流され、嘉永6年(1853年)には萩野山獄に移された。
白根 多助(しらね たすけ、文政2年5月6日〈1819年6月… 白根 多助(しらね たすけ、文政2年5月6日〈1819年6月27日〉 - 1882年〈明治15年〉3月15日)は、幕末の長州藩士、明治期の内務官僚。埼玉県令。旧姓・太田、諱・翼、通称・多助、変名・大田翼、号・梅園。 周防国吉敷郡吉敷村佐畑(現山口県山口市)で、長州藩士・太田直猷の七男として生まれ、白根兼清の養子となる。藩では美禰郡宰として出仕し、さらに大坂藩邸で勤務した。文久3年(1863年)3月、中山忠光らの長州移送に尽力した。文久4年(1864年)正月、帰藩後に所帯方役に就任し会計を担当。以後、会計庶務方、美禰部署管事(代官)、山口藩会計大属などを歴任し、藩財政の維持に尽力した。 明治政府に出仕し、明治4年(1871年)11月、埼玉県権参事に就任。
荻野 独園(おぎの どくおん、文政2年〈1819年〉6月 -… 荻野 独園(おぎの どくおん、文政2年〈1819年〉6月 - 1895年〈明治28年〉8月10日)は、幕末・明治の臨済宗僧侶。諱は承珠(じょうじゅ)、字は独園、号は退耕庵。独園承珠とも。廃仏毀釈の際に相国寺住持として日本の禅宗を守るために奔走した。 備前国児島郡山坂村(現在の岡山県玉野市)出身。8歳の時に親族がいた同郡の掌善寺に入って13歳で出家し、18歳の時に豊後国の帆足万里の下で儒学を学び、特に『周易』に通じた。6年後、京都に上洛して相国寺の大拙承演に師事して厳しい修行を積む。師が病気で倒れると越渓守謙の指導を受けながら最後まで師に尽くした。師の没後、心華院(現在の大光明寺)に移って布教活動をした。
市川 兼恭(いちかわ かねのり、文政元年5月11日(1818… 市川 兼恭(いちかわ かねのり、文政元年5月11日(1818年6月14日) - 明治32年(1899年)8月26日)は、幕末・明治の蘭学者。オランダ語、ドイツ語を修得。西洋兵学を学ぶ。姓は源、幼名三輔。後、岩之進または斎宮、明治2年(1869年)9月逸吉に改める。号は浮天斎。父は広島藩藩医の市川文微。母は林氏政子。市川文吉は長男。 福井藩で砲術師範となった。幕府天文台訳員を勤め、蕃書調所と開成所教授職を歴任。大番格砲兵差図役頭取勤方となる。電信機や活版印刷などの技術開発に携わる。維新後は陸軍兵学中教授となった。東京学士会院会員。 清水卯三郎「和蘭文典前後編」によれば蘭学の文法書「セインタキス」を翻刻したのは箕作阮甫であるとしているが、市川兼恭「経歴談」によると、市川が杉田のところにいた際に箕作から頼まれて版下を書き下ろして印刷したとある。
梅津 只圓(うめづ しえん、文化14年4月17日(1817年… 梅津 只圓(うめづ しえん、文化14年4月17日(1817年6月1日) - 明治43年(1910年)7月3日)は幕末明治の喜多流シテ方能楽師。福岡市出身。通称は源蔵、諱は利春。夢野久作『梅津只圓翁伝』の題材となった。 文化14年(1817年)4月17日、福岡藩召抱能楽師シテ方、梅津源蔵正武の長男として薬院中庄に生まれた。幼名は政之進、栄で、藩主黒田長溥の命で利春と改名した。 天保3年(1832年)春、喜多六平太能静と師弟関係を結び、「翁」の允可を受けた。弘化元年(1844年)春と嘉永元年(1848年)春の2度上京し、喜多六平太能静に直接指導を受けた。弘化3年(1846年)3月家督を継ぐ。 嘉永5年(1852年)3月自宅舞台で「翁」を初披露し、藩主黒田斉溥に御装束預を命じられた。
大原 其戎(おおはら きじゅう、四時園其戎、文化9年5月18… 大原 其戎(おおはら きじゅう、四時園其戎、文化9年5月18日(1812年6月26日) - 明治22年(1889年)3月31日)は、伊予松山の俳人。通称は熊太郎、沢右衛門。 青年期の正岡子規が俳句の指導を受けた人物である。 伊予国(現・愛媛県)の三津浜に生まれた。父親は綿・麻織物を扱う太物商で俳人の其沢である。万延元年(1860年)、京都に出て七世桜井梅室に入門し、二条家から宗匠の免許を受けた。その後、故郷に戻り俳諧結社の明栄社を興し、明治13年(1880年)に月刊俳誌『真砂の志良辺』を創刊した。同誌に投稿した俳人は800人に達した。 上京後、俳句に興味を持った正岡子規が、明治20年(1887年)の2度目の帰郷の際、友人の勝田主計の勧めで其戎のもとを訪ね、句稿を見せて批評を仰いだ。
鈴木 重胤(すずき しげたね、文化9年5月5日(1812年6… 鈴木 重胤(すずき しげたね、文化9年5月5日(1812年6月13日) - 文久3年8月15日(1863年9月27日))は、江戸時代後期の皇学者である。 1812年(文化9年)、淡路国津名郡仁井村(現:兵庫県淡路市仁井)の庄屋・穂積重威の5男として生まれる。幼名は雄三郎、通称は勝左衛門、橿廼家・厳橿本・府生・柱州と号し、諱は重胤。 1825年(文政8年)ころ、大坂鴻池家に商業見習いに住み、父の遺訓で国学を志望し、大坂や神戸で奉公のかたわら学問に励んだ。1832年(天保3年)、江戸在住の平田篤胤に書信で教えを受けるが、面会できないうちに篤胤は亡くなる。1834年(天保5年)ころ大国隆正に入門。 嘉永・安政にかけて『延喜式祝詞講義』『日本書紀伝』の著述に努めたが、1857年(安政4年)、篤胤の養子・銕胤らと不和が生じ、1858年(安政5年)には破門される。
竹居 安五郎(たけい やすごろう、文化8年4月15日(181… 竹居 安五郎(たけい やすごろう、文化8年4月15日(1811年6月5日) - 文久2年10月6日?)は、日本の侠客。言葉にどもりがあり、竹居の吃安(どもやす)とも言われる。本名は中村安五郎で、名は安蔵とも記される。甲州博徒の一人で、上黒駒村出身の黒駒勝蔵の兄貴分としても知られる。 甲斐国東八代郡竹居村(山梨県笛吹市八代町竹居)に生まれる。生家の中村家は竹居村の名主を務めた家柄で、父は甚兵衛、母は「やす」。安五郎は甚兵衛の4男。父の甚兵衛は無宿人を取り締まる郡中総代にも任じられている。 安五郎の青年期には甲斐国でも無宿・博徒の活動が活発化し、天保7年(1836年)8月に発生した天保騒動は甲斐一国規模の一揆となり、「悪党」と呼ばれた多くの無宿が騒動に参加し激化した。
笠原 良策(かさはら りょうさく、文化6年5月10日(180… 笠原 良策(かさはら りょうさく、文化6年5月10日(1809年6月22日) - 明治13年(1880年)8月23日)は、江戸時代末期(幕末)の蘭方医。名は良、字(あざな)は子馬、号は鉄仏無涯堂、天香楼、桂窓、白翁。福井藩の町医。越前国足羽郡深見村(現・福井市)生まれ。父は福井城下の町医笠原龍斎。種痘の継続に尽力し、領内諸地域や北陸の近隣諸藩(府中・鯖江・大野・敦賀・大聖寺・金沢・富山)に種痘を広めた。 15、6歳の頃から福井藩の医学所へ通い、妻木陸叟から本草学を学んだ。文政12年(1829年)から天保3年(1832年)にかけて江戸に出て磯野公道(漢方)に入門し、その後福井城下木田中町で開業。天保7・8年(1836年-1837年)頃、湯治に出かけた山中温泉で蘭方医の大武了玄(藤林普山、小石元瑞に学んだ大聖寺藩町医)に出会い、蘭方医学に興味を持ち入門した。
円山 応挙(まるやま おうきょ、旧字体: 圓山 應擧、享保1… 円山 応挙(まるやま おうきょ、旧字体: 圓山 應擧、享保18年5月1日(1733年6月12日)- 寛政7年7月17日(1795年8月31日))は、江戸時代中期~後期の絵師。 近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した画風が特色である。 諸説あるが「足のない幽霊」を描き始めた画家とも言われている。 本姓は藤原、後に源、姓は円山、名は岩次郎、後に主水。夏雲、雪汀、一嘯、仙嶺、僊斎、星聚館、鴨水漁史、攘雲、洛陽仙人と号す。石田幽汀の門人。享保18年(1733年)、丹波国桑田郡穴太(あなお)村(現在の京都府亀岡市曽我部町穴太)に農家の次男として生まれた。穴太は、西国三十三所の札所寺院である穴太寺があることで知られる。
青木 昆陽(あおき こんよう、元禄11年5月12日〈1698… 青木 昆陽(あおき こんよう、元禄11年5月12日〈1698年6月19日〉 - 明和6年10月12日〈1769年11月9日〉)は、江戸時代中期の、幕臣御家人、書物奉行、儒学者、蘭学者。さつまいもの普及を図り、甘藷先生(かんしょせんせい)と呼ばれる。名は敦書(あつのり、あつぶみ)、字は厚甫(原甫とも)、通称は文蔵、昆陽と号した。 江戸日本橋小田原町(現在の東京都中央区)の魚屋・佃屋半右衛門の1人息子として生まれる。先祖は近江国の人で、蒲生氏一族という。 浪人として京都の儒学者である伊藤東涯の古義堂に入門して儒学を学ぶ。江戸町奉行所与力・加藤枝直(又左衛門)と懇意で、享保18年(1733年)に加藤の推挙により南町奉行・大岡忠相に取り立てられ、幕府書物の閲覧を許される。
葵 美哉(あおい みや、6月30日 - )は、元宝塚歌劇団・… 葵 美哉(あおい みや、6月30日 - )は、元宝塚歌劇団・専科の男役。元月組副組長。
堀田 陽一(ほった よういち、6月30日 - )は、日本の作… 堀田 陽一(ほった よういち、6月30日 - )は、日本の作曲家、作詞家、編曲家、キーボーディスト、プログラマー、サウンドディレクター・プロデューサー。いくつかの名義で活動を行っている。現在、hotta(ホッタ)名義でi-nos(アイノス)という音楽ユニットを中心に活動中。長野県茅野市出身。 幼少の頃作曲に目覚め、その後坂本龍一関連の音楽に影響を受ける。中学生の頃、音楽の教師よりシンセサイザー、KORG MS-20を譲り受け、その道を目指すことになる。MS-20は和音の出ないモノフォニックタイプだった為、ポリフォニックシンセサイザーRoland JUNO-106を手に入れ、徐々に電子音楽のノウハウを取得。
美海 そら(みうみ そら、6月29日 - )は、宝塚歌劇団月… 美海 そら(みうみ そら、6月29日 - )は、宝塚歌劇団月組に所属する娘役。 2016年4月、宝塚音楽学校入学。 2018年4月、宝塚歌劇団に104期生として入団。入団時の成績は8番。星組宝塚大劇場公演『ANOTHER WORLD/Killer Rouge』で初舞台。
井上 馨太(いのうえ けいた、6月29日 - )は、日本の作… 井上 馨太(いのうえ けいた、6月29日 - )は、日本の作曲家、編曲家。新潟県出身。MONACA所属。 新潟県出身。駒澤大学グローバル・メディア学科卒業。 2021年に作編曲した楽曲「VOY@GER」ではオリコン週間CDシングルチャートで2位を記録した。