後藤 洋(ごとう よう、1958年 - )は、日本の作曲家、… 後藤 洋(ごとう よう、1958年 - )は、日本の作曲家、編曲家、音楽評論家。主に、吹奏楽の分野で活動している。 1958年、秋田県生まれ。秋田県立横手高等学校在学中に作曲した「即興曲」が、1976年度全日本吹奏楽コンクール課題曲として採用された。その後山形大学教育学部特設音楽科卒業、東京音楽大学研究科(大学院)修了、ノース・テキサス大学大学院修士課程(作曲および音楽教育)修了。作曲をシンディ・マクティー(英語版)、池辺晋一郎、金田成就に師事。 2001年以来アメリカに本拠を置き、吹奏楽と音楽教育の分野を中心に作曲・編曲家、音楽評論家、研究家として活躍。吹奏楽の分野では、今日国際的に評価を得ている日本人作曲家のひとりであり、その作品はアメリカとヨーロッパ諸国で注目を集めている。
村田 辰美(むらた たつみ、1952年7月9日 - )は、秋… 村田 辰美(むらた たつみ、1952年7月9日 - )は、秋田県横手市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。 横手市立金沢小学校、横手市立金沢中学校を卒業後、秋田県立六郷高等学校に進学。1試合18奪三振で無安打に抑えたにも関わらず、試合に敗れた、いわゆる「ノーヒットありラン」を経験。高校卒業後は三菱自動車川崎に入社。菅野光夫とは三菱自動車川崎時代のチームメイト。 1974年の都市対抗野球では、菅野と共に東芝の補強選手として出場し、チームの準決勝進出に貢献。 1974年のドラフト2位で近鉄バファローズに入団。当初は中継ぎ、特に対左打者用ワンポイントとして起用された。 コントロールに難があり登板機会に恵まれなかったが、入団4年目にサイドスローに転向し飛躍する。
友川 カズキ(ともかわ かずき、1950年2月16日 - )… 友川 カズキ(ともかわ かずき、1950年2月16日 - )は、日本の歌手、競輪評論家、画家である。本名:及位 典司(のぞき てんじ)。2004年に「友川かずき」から現在の表記へと改めている。
島森 路子(しまもり みちこ、1947年1月17日 - 20… 島森 路子(しまもり みちこ、1947年1月17日 - 2013年4月23日)は、日本の広告評論家・エッセイスト・編集者。月刊誌『広告批評』の2代目編集長・発行人を務めた。 秋田県横手市出身。秋田県立横手高等学校を経て、1969年に立教大学社会学部を卒業。講談社に入社し、児童図書(子ども向け百科事典や絵本)などの編集に関わった。 1971年、天野祐吉のマドラ・プロダクションに移る。『キャッチフレーズ3000選』『今日の広告』の編集に携わりながら、広告評論活動も開始した。1979年、天野と共に『広告批評』を創刊。副編集長・メインインタビュアーを経て、1988年に天野から編集長を引き継いだ。 1990年にはフジテレビ「FNN NEWSCOM」のキャスターを務めたほか、TBSテレビ「ブロードキャスター」などでコメンテーターとしても活動した。
石山 宏一(いしやま こういち、1947年 - )は、日本の… 石山 宏一(いしやま こういち、1947年 - )は、日本のジャーナリスト、辞書編纂者、評論家、英語学者、桐蔭横浜大学客員教授。 秋田県秋田市生まれ。秋田県立秋田高等学校卒業。「グル-基金」(米国大学留学制度)奨学生選抜試験合格、渡米。1969年ミドルベリー大学教養学部政治学科卒業。 1970年タフツ大学フレッチャ-法律外交大学院修士課程修了。 1971年サイマル・インターナショナル会議通訳者、1972年東京大学研究生、1973年AP通信(米国)記者、1980年ザ・タイムズ(ロンドン)記者、1983年ストレーツタイムズ(シンガポール)記者、1988年ビジネスタイムズ(シンガポール)記者 (金融担当)、1992年駒沢女子短期大学英文科助教授、1999年桐蔭横浜大学法学部助教授、2004年同教授、2010年客員教授となり、時事英語、ビジネス英語、ジャーナリズム入門等を教えている。
高杉 晋吾(たかすぎ しんご、1933年3月18日 - )は… 高杉 晋吾(たかすぎ しんご、1933年3月18日 - )は日本の社会評論家、ジャーナリスト。本名、石川晋吾。 秋田県秋田市生まれ。1957年、早稲田大学第一文学部卒業。団体記者を経て、1962年、日本社会党機関紙「社会新報」記者となるが、1970年にフリーランスとなり、『朝日ジャーナル』『現代の眼』などにルポや論文を発表。 袴田事件を当初[いつ?]から冤罪であると考え、死刑判決後にルポを発表するなど20年にわたり支援活動に携わる。人体実験についての著作も複数ある。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
高階 秀爾(たかしな しゅうじ、1932年2月5日 - 20… 高階 秀爾(たかしな しゅうじ、1932年2月5日 - 2024年10月17日)は、日本の美術史学者・美術評論家。位階は従三位。 東京大学文学部名誉教授。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。日本芸術院院長、公益財団法人西洋美術振興財団理事長、大原美術館館長などを務めた。秋田県立美術館顧問。 1932年、東京で生まれた。父は哲学者・高階順治で、母方の姓を継いで旧姓・佐々木を名乗った。東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に入学し、のちに東大教授となる芳賀徹、平川祐弘、石井進、平田賢とは同じクラス(第1部)であり、波多野里望とはこの頃から仲良しであった。1944年に小学校を卒業し、東京高師附属中学(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。
三浦 淳史(みうら あつし、1913年11月1日 - 199… 三浦 淳史(みうら あつし、1913年11月1日 - 1997年10月13日)は、日本の音楽評論家。秋田市生まれ。イギリス音楽の第一人者として知られた。 父は北海道帝国大学工学部で冶金学の教授を務めていた。札幌第二中学校(現札幌西高等学校)で伊福部昭、佐藤忠良らと知り合う。北大予科在学中の1934年、伊福部らと共に「新音楽連盟」を結成する。当時に映画『慕情』のモデルとなるイアン・モリソン(映画ではマーク・エリオット)に英語のてほどきを受ける。その後“落第”して東北帝国大学に転じる。1940年、同大学法文学部を卒業する。ここでは村岡典嗣による日本思想史の講義を受講したという。北大予科在学中から音楽誌『月刊楽譜』に「札幌楽信」等を寄稿、戦後音楽誌の復活に伴い、音楽ジャーナリズムで活躍するようになった。
佐貫 亦男(さぬき またお、1908年(明治41年)1月1日… 佐貫 亦男(さぬき またお、1908年(明治41年)1月1日 - 1997年(平成9年)6月28日 )は、日本の航空技術者、航空宇宙評論家、作家、エッセイスト。 秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)生まれ。秋田県立横手中学校(秋田県立横手高等学校の前身)卒業、1931年(昭和6年)に東京帝国大学工学部航空学科を卒業した。 東京帝国大学卒業後、軍命で日本楽器製造(現ヤマハ)に赴きプロペラの設計を行う。陸軍の九七式戦闘機を担当した。1941年に、ユンカース社からフルフェザー機構・圧縮木材製プロペラ技術導入のため、第二次世界大戦最中のドイツに出張する。 しかし同年6月に、独ソ戦開戦のためにドイツからソビエト連邦に直行するシベリア鉄道経由の帰路が絶たれ、1943年11月まで在独し、その後中立国を迂回する形で帰国した。
青江 舜二郎(あおえ しゅんじろう、1904年11月26日 … 青江 舜二郎(あおえ しゅんじろう、1904年11月26日 - 1983年4月30日)は、日本の劇作家、評論家。本名は大嶋長三郎。秋田県秋田市生まれ。 1904年(明治37年)11月26日、薬卸小売商「衛生堂」の長男として茶町梅ノ丁(現在の大町四丁目)に誕生。衛一と命名されるが、1915年(大正4年)、父が逝去したため、その名前を継いで以後は長三郎を名乗る。旧制秋田中学(現在の秋田県立秋田高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1929年(昭和4年)東京帝国大学文学部印度哲学科卒業。 大学在学中、第九次「新思潮」同人となり、同誌に掲載された戯曲『火』『見物教育』が小山内薫に認められ、師事する。大学卒業後、香川県社会教育主事として高松に赴任するが、劇作に専念するため4年後に再度上京。
安成 貞雄(やすなり さだお、1885年4月2日 - 192… 安成 貞雄(やすなり さだお、1885年4月2日 - 1924年7月23日)は、日本の評論家。 秋田県北秋田郡(現・北秋田市)生まれで、中学までは能代市で育つ。父正治は元長府藩士で、阿仁鉱山の高級機械工を経て、東雲の精錬所に勤務した。弟には歌人の安成二郎、福原信三の秘書を務めた安成三郎がいる。 大館中学校(現・秋田県立大館鳳鳴高等学校)時代は正岡子規選の新聞「日本」に投稿した。また校長排斥ストライキの首謀者として無期停学の処分を受けるが、県知事にかけ合って最終的に校長に辞表を書かせた。 高等工業学校への進学を望んでいた父の願いに背き、作家を志して早稲田大学文学部英文科へ進学。日露戦争の真っ只中であり、文学者の中に反戦気運が広がっていた。
田口 掬汀(たぐち きくてい、1875年1月18日 - 19… 田口 掬汀(たぐち きくてい、1875年1月18日 - 1943年8月9日)は、日本の小説家、劇作家、美術評論家である。本名は田口 鏡次郎(たぐち きょうじろう)。息子に画家の田口省吾、孫に小説家の高井有一。 1875年(明治8年)1月18日、秋田県仙北郡角館町(現在の同県仙北市角館町)に生まれる。。 角館の小学校を卒業し、商家に奉公するなどして、1900年(明治33年)ころ、雑誌『新声』への投稿が認められて上京、佐藤義亮の新声社(新潮社の前身)に入社。編集・記者業務に従事する傍ら創作活動を開始した。 1903年(明治36年)朝報社に入社。1904年『萬朝報』に小説『女夫波』を連載、1905年『伯爵夫人』を連載、これらの家庭小説で人気作家となった。