郡司 和斗(ぐんじ かずと、1998年6月4日 - )は、日… 郡司 和斗(ぐんじ かずと、1998年6月4日 - )は、日本の歌人、俳人、川柳家。歌誌「かりん」および俳誌「蒼海」に所属。 茨城県生まれ。茨城県立結城第二高等学校三年生であった2016年、当時バスケットボール部に所属していたが、助っ人として第11回全国高校生短歌大会に出場することになった際に読んだ石川啄木『一握の砂』がきっかけで短歌に興味を持ち始める。 2017年、二松学舎大学に進学。二松学舎大学松風短詩会を桜望子らと結成。また、同大学の非常勤講師を務める堀本裕樹の教えを受け、俳句の創作を始める。大学在学中の2019年、第39回かりん賞を受賞。同年、連作「ルーズリーフを空へと放つ」にて第62回短歌研究新人賞を受賞。
村上 健志(むらかみ けんじ、1980年〈昭和55年〉12月… 村上 健志(むらかみ けんじ、1980年〈昭和55年〉12月8日 - )は、日本のお笑い芸人、俳人。お笑いコンビ「フルーツポンチ」のボケ・ネタ作り担当。立ち位置は向かって右。相方は亘健太郎。吉本興業所属。 茨城県稲敷郡牛久町(現在の牛久市)出身。牛久市立中根小学校、牛久市立下根中学校、茨城県立竜ヶ崎第一高等学校、青山学院大学経済学部を卒業した。 2004年4月、東京NSCに入学(10期生)。翌年に同期の亘健太郎とフルーツポンチを結成。 2015年4月28日、稀勢の里とともに、牛久市の初代観光大使に任命された。 2023年8月9日、一般女性との結婚を公表したが、のちにその相手が女優の木乃江祐希であることが判明。
染野 太朗(そめの たろう、1977年10月21日 - )は… 染野 太朗(そめの たろう、1977年10月21日 - )は、歌人。茨城県出身、埼玉県に育つ。
関 悦史(せき えつし、1969年〈昭和44年〉9月21日 … 関 悦史(せき えつし、1969年〈昭和44年〉9月21日 - )は、日本の俳人。 茨城県土浦市出身・在住。二松学舎大学文学部国文科卒。吉岡実の散文で富澤赤黄男、永田耕衣、高柳重信を知ったことから現代俳句に触れ、数年後、20代半ばより病中の気散じに作句をはじめる。2002年、すべて漢字・カタカナで記した作品「マクデブルクの館」100句により第一回芝不器男俳句新人賞城戸朱理奨励賞を受賞。 また俳句評論家としても活動し、2008年、「全体と全体以外―安井浩司的膠着について―」で現代俳句評論賞佳作。 2009年、「天使としての空間―田中裕明的媒介性について―」で俳句界評論賞受賞、「他界のない供犠―三橋鷹女的迷宮について」で再び現代俳句評論賞佳作。
高山 れおな(たかやま れおな、男性、1968年7月7日 -… 高山 れおな(たかやま れおな、男性、1968年7月7日 - )は、日本の俳人。本名同じ。 茨城県日立市生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。20歳の頃より俳句を作り始め、1993年同人誌「豈」に20号より参加。「芸術新潮」編集者のかたわら、俳人として活動。1998年第一句集『ウルトラ』(沖積舎)刊行。2005年、第二句集『荒東雑詩』(同)刊行、同句集により第11回加美俳句大賞受賞。 2008年、中村安伸とともにウェブサイト「俳句空間―豈weekly」を立ち上げ、第100号で終了するまで2年間運営。また同サイトをきっかけに、筑紫磐井、対馬康子とともに若手俳人アンソロジー『新撰21』(邑書林、2009年)および『超新撰21』(同、2010年)を編集、刊行する。
佐怒賀 正美(さぬか まさみ、1956年(昭和31年)- )… 佐怒賀 正美(さぬか まさみ、1956年(昭和31年)- )は、俳人。俳句結社「秋」主宰。妻は、歌人橋本喜典の長女。 茨城県古河市に生まれる。茨城県立古河第三高等学校を経て、東京大学文学部仏文科卒業。小学館辞典編集部に勤務し、2014年4月早期退職。 中学時代に第4回俳句研究賞受賞者である牧辰夫により俳句を知り、大学時代は東大学生俳句会、東大本郷句会に参加、山口青邨、小佐田哲男、有馬朗人の指導を受ける。1978年、石原八束主宰の「秋」に入会、師事。1990年、有馬朗人主宰の「天為」創刊に参加。二代目「秋」主宰、文挾夫佐恵にも学ぶ。「秋」副主宰を経て2006年主宰。第74回現代俳句協会賞受賞。小学館の同僚である村井康司らとともに同人誌「恒信風」にも参加。
沖 ななも(おき ななも、1945年9月24日 - )は歌人… 沖 ななも(おき ななも、1945年9月24日 - )は歌人。歌誌「熾」代表。本名は中村眞理子。 茨城県古河市生まれ。埼玉県立浦和西高等学校卒業。 中学生のころから現代詩をつくり始め、1968年、若い人社文学会に参加。1974年、歌誌「個性」に入会(2004年終刊)。1994年1月、佐藤信弘と「詞法」を創刊、2004年4月、「熾」と改め、代表となる。2024年、「熾」が発足して20年になることを記念して、既刊10歌集を収めた『沖ななも選歌集』が刊行された。 2008年より、朝日新聞埼玉版および埼玉新聞の短歌欄選者。2009年より、埼玉文芸賞(さいたま文学館)および埼玉文学賞(埼玉新聞社)の選考委員。
五所 美子(ごしょ よしこ、1944年10月1日 - )は、… 五所 美子(ごしょ よしこ、1944年10月1日 - )は、日本の歌人。 茨城県水戸市生まれ。生後まもなく、両親の郷里・大分県宇佐市に帰る。九州大学文学部卒業。卒論は「式亭三馬の言語描写についての一考察」。 1982年、石田比呂志に師事し、歌誌「牙」に入会、20年ほど在籍。2009年11月、個人誌「和布刈通信」を創刊。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
今瀬 剛一(いませ ごういち、1936年9月15日 - )は… 今瀬 剛一(いませ ごういち、1936年9月15日 - )は、日本の俳人。茨城県出身。 1944年、父の生地である茨城県東茨城郡小松村(現在の城里町)に疎開し、以後同地に住む。茨城県立水戸第一高等学校時代にホトトギスの俳人でもあった音楽教師・滝豊(俳号:鼓泉子)の指導のもとで俳句の作成を開始する。茨城大学卒業後、1959年より学校教師として勤める。1961年、「夏草」入会。1970年、「沖」創刊とともに参加し能村登四郎に師事。1975年に沖賞、1979年に茨城文学賞受賞。1986年、「対岸」を創刊・主宰。1997年から東京新聞茨城版「ひたち俳壇」の選者を務める。 2008年、句集『水戸』により第47回俳人協会賞を受賞。
三田 きえ子(みた きえこ、1931年9月29日 - 202… 三田 きえ子(みた きえこ、1931年9月29日 - 2025年7月8日)は、日本の俳人。本名は三田 きい。 1931年9月29日、茨城県結城市に生まれる。1968年、産経学園自由ヶ丘教室で秋元不死男の指導を受け「氷海」入会。あわせて上田五千石に師事。1974年、氷海賞受賞、「氷海」同人となる。1975年、「畦」同人。1994年、第九回俳句研究賞受賞。2000年1月、「かなえ」改め「萌」の主宰となる。俳人協会評議員、日本文芸家協会会員、国際俳句交流協会評議員。 2025年7月8日、老衰のため死去。93歳没。
高野 素十(たかの すじゅう、1893年(明治26年)3月3… 高野 素十(たかの すじゅう、1893年(明治26年)3月3日 - 1976年(昭和51年)10月4日)は、茨城県出身の日本の俳人・医師。学位は、医学博士。高浜虚子に師事。虚子の唱えた「客観写生」を忠実に実践、簡潔で即物的な写生句で頭角を現し、山口誓子、阿波野青畝、水原秋桜子とともに「ホトトギスの四S」と称された。「芹」主宰。本名:高野与巳(よしみ)。 1893年、茨城県北相馬郡山王村(現・取手市神住)に生まれる。農家の長男で、小学校卒業まで利根川とその支流小貝川に囲まれた美しい田園地帯で育った。1905年、新潟県長岡市に住む叔父のもとに寄宿し新潟県立長岡中学校に入学。第一高等学校を経て、1913年に東京帝国大学医学部に入学。
長塚 節(ながつか たかし、1879年(明治12年)4月3日… 長塚 節(ながつか たかし、1879年(明治12年)4月3日 - 1915年(大正4年)2月8日)は、日本の歌人、小説家。 茨城県結城郡に生まれた。病弱で中学を中退、療養生活の中で短歌に親しんだ。正岡子規の『歌よみに与ふる書』に深い感銘を受け、1900年に入門。ひたすら子規の写生の風を摂取、子規短歌の最も正当な継承者と言われた。 「馬酔木」「アララギ」の創刊に参画。晩年には、透徹した清澄な調べをめざす「冴え」の説を唱えた。 1879年(明治12年)4月3日、茨城県岡田郡国生村(現在の常総市国生<こっしょう>)の豪農の家に生まれた。1893年(明治26年)4月、茨城中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)に首席で入学し、4年進級までしたが脳神経衰弱を発症して学業継続困難となる。
横瀬 夜雨(よこせ やう、1878年〈明治11年〉1月1日 … 横瀬 夜雨(よこせ やう、1878年〈明治11年〉1月1日 - 1934年〈昭和9年〉2月14日)は、日本の詩人、歌人。本名は虎寿()[要出典]。別号に利根丸、宝湖、処寿()[要出典]。 茨城県真壁郡横根村(現・下妻市横根)の名家に生まれる。3歳の時、くる病に冒されて歩行の自由を失い、生涯苦しんだ。1895年、『文庫』に「神も仏も」を発表し、河井酔茗らに認められる。1898年には民謡調の詩「お才」を発表し、この頃から「筑波嶺詩人」と呼ばれるようになる。1905年、詩集『花守』を刊行して詩人として有名になる一方で、この時期からくる病が悪化して歩行がほぼ困難となる。1907年には河井酔茗主宰の詩草社に参加し[要出典]、1908年から『女子文壇』の選者を務めた。
小川 芋銭(おがわ うせん、1868年3月11日〈慶応4年2… 小川 芋銭(おがわ うせん、1868年3月11日〈慶応4年2月18日〉 - 1938年〈昭和13年〉12月17日)は、19世紀から20世紀前半にかけて活躍した日本画家、俳人。幼名は不動太郎、本名は茂吉、号は牛里。 小川家は代々牛久藩士で、大坂の陣で討死した木村重成の末裔だという。父は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により新治県城中村(現:茨城県牛久市城中町)に移り農家となった。当初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け、朝野新聞社に一時雇われ画工として入社。そこでは挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと「珊瑚会」を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となる。 生涯のほとんどを牛久沼の畔で農業を営みながら暮らした。