サブロクそうすけ(1976年2月8日 - )は、日本のお笑い… サブロクそうすけ(1976年2月8日 - )は、日本のお笑い芸人、元プロ野球選手(投手)。本名及び旧芸名は杉浦 双亮(すぎうら そうすけ)。2016年の1シーズン、四国アイランドリーグplusの愛媛マンダリンパイレーツに所属した。選手としての登録名は「サブロク双亮」。ジモン軍団のメンバー。 太田プロダクション所属。山内崇とのコンビ、360°モンキーズ(2018年1月限りで解散)でボケを担当していた。 八丈島の出身で、埼玉県大宮市(現さいたま市)・東京都渋谷区で育つ。実家は寺院で、父親は僧侶だった。帝京高校から帝京大学に進学した。 下記、プロ野球選手の引退発表時に芸名の改名を発表。2017年12月10日から芸名を本名から「そうすけ」に改めた。
池田 豪(いけだ ごう、1975年11月26日 - )は、東… 池田 豪(いけだ ごう、1975年11月26日 - )は、東京都目黒区出身の元野球選手。アメリカ独立リーグでプレー、その後MLBで通訳、スカウトなどを務めた。 大学中退後、フロリダのベースボールアカデミーでトレーニングを続けアメリカ独立リーグのフロンティアリーグのカラマズーコディアックスに入団し、外野手のレギュラーとして67試合に出場した。 翌年、ノーザンリーグのアディロンダック・ランバージャックスに移籍した。 現役引退後、伊良部秀輝投手の通訳(モントリオール・エクスポズ時代)、エクスポズスカウト、フロリダ・マーリンズスカウトを歴任し、TBSの番組『ガチンコ!』では、男どアホ大リーグの講師をつとめるなど、野球普及に取り組んでいる。
伊達 昌司(だて まさし、1975年8月23日 - )は、神… 伊達 昌司(だて まさし、1975年8月23日 - )は、神奈川県川崎市高津区出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。現在は東京都立雪谷高等学校教諭、同校野球部の助監督を経て監督。父は元プロ野球選手の伊達泰司。 小学1年で野球を始める。法政二高時代は同期の田中亮司(法大-鷺宮製作所)と主戦投手の2本柱として2年秋に関東大会ベスト8、春は同大会準優勝。父と同じく法政大学に進み、同期の真木将樹や1学年後輩の矢野英司らと共に投手陣を支えた。当時、父がロッテスカウトとして活躍を見守っていた。3年春は真木らが不調のなかでリーグ戦の防御率1位で優勝に貢献。4年秋はリーグ戦1試合の登板ながら1学年後輩の矢野、福山龍太郎らの活躍で優勝すると明治神宮大会は決勝でこの年の大学選手権を制した近大に先制されると福山の後を受けて5回2/3を投げて無失点に抑えるが清水章夫に完封負けで準優勝。
米澤 貴光(よねざわ たかみつ、1975年8月17日 - )… 米澤 貴光(よねざわ たかみつ、1975年8月17日 - )は、日本の高校野球指導者。関東第一高等学校硬式野球部監督。 関東第一高校時代は硬式野球部に所属し、小倉全由(米澤の代が最上級生になった1992年12月に監督復帰)の指導を受けた。高校時代は東京屈指の好打者として修徳高等学校の左エース高橋尚成としのぎをけずった。夏の甲子園出場をめざし東東京大会決勝に臨んだが、高橋擁する修徳に一歩及ばず敗れた。 卒業後は中央大学へ進むも在学中は東都大学野球2部リーグ所属。4年時は主将を務め、阿部慎之助は3年後輩。その後カラオケ事業・給食事業を展開していた企業・シダックスに就職した。1年目には都市対抗野球大会に出場するが、主力にはキューバからの選手もいて出番はなし。
髙橋 尚成(たかはし ひさのり、1975年4月2日 - )は… 髙橋 尚成(たかはし ひさのり、1975年4月2日 - )は、東京都墨田区出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)、野球解説者、野球評論家、スポーツキャスター、YouTuber。ホリプロ所属。 現役時代は投手として主に読売ジャイアンツで活躍し、5度のリーグ優勝、3度の日本シリーズ優勝に貢献。個人ではNPBで合計3個のタイトル(2個)・主要表彰(1個)を獲得している。またMLBではニューヨーク・メッツ、ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム、ピッツバーグ・パイレーツ、シカゴ・カブスに所属していた。 横浜DeNAベイスターズ時代の2014年には「尚成」を登録名としていた。 東京都墨田区の下町で育ち、兄の影響で野球を始める。
髙橋 尚成(たかはし ひさのり、1975年4月2日 - )は… 髙橋 尚成(たかはし ひさのり、1975年4月2日 - )は、東京都墨田区出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)、野球解説者。2014年の登録名は「尚成」。ホリプロ所属。
井口 資仁(いぐち ただひと、本名:井口 忠仁〈読み同じ〉、… 井口 資仁(いぐち ただひと、本名:井口 忠仁〈読み同じ〉、1974年〈昭和49年〉12月4日 - )は、東京都田無市(現:西東京市)出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、野球解説者・野球評論家。 NPB時代は福岡ダイエーホークス・千葉ロッテマリーンズ時代に日本シリーズ優勝を3度、MLB時代はシカゴ・ホワイトソックス、フィラデルフィア・フィリーズ時代にワールドシリーズ優勝を2度、それぞれ経験している。 2018年シーズンから2022年シーズンまでロッテの監督を務めた。 東京都田無市(現:西東京市)で生まれる。軟式野球チーム「ビクトリー」で捕手として野球を始め、小学6年時に硬式野球チームの「保谷リトルリーグ」に移り、内野手に転向。
木村 昌広(きむら まさひろ、1974年8月16日 - )は… 木村 昌広(きむら まさひろ、1974年8月16日 - )は、東京都武蔵村山市出身の元プロ野球選手(投手)。 小学1年から野球を始め、小学6年の時に遊撃手から投手に転向。中学時代は外野手。 拓大一高から東都大学野球連盟の拓大に進学。大学時代は2部リーグ(3部も経験)であった。卒業後は、日立製作所に入社し、都市対抗野球では2年連続で先発勝利。1998年に開催されたバンコクアジア大会決勝の韓国戦では先発投手を務めた。同年、1998年度ドラフト会議にてオリックス・ブルーウェーブから4位指名を受け、入団。 二軍ではまずまずの成績を残すものの一軍では勝ち星を挙げられず、2001年シーズンオフに球団から戦力外通告を受けた。
坂本 竜一(さかもと りゅういち、1974年8月11日 - … 坂本 竜一(さかもと りゅういち、1974年8月11日 - )は、東京都調布市出身の元プロ野球選手(投手)。 調布シニアから進んだ日大鶴ヶ丘高校では2年秋に都大会ベスト8。3年夏はシード校で臨むも、3回戦で優勝した創価高校に被安打2で敗れた。日大に進学すると見られたが1992年のドラフト5位で西武ライオンズに入団。 一軍登板すること無く、1998年限りで退団。
山本 幸正(やまもと ゆきまさ、1974年8月3日 - )は… 山本 幸正(やまもと ゆきまさ、1974年8月3日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。 堀越高校では2年秋の都大会決勝で帝京高校の三澤興一と投げ合うが敗れて準優勝。3年時の1992年春に、1学年後輩の井端弘和らと第64回選抜高等学校野球大会へ出場。村野工業高校との1回戦で、安達智次郎に投げ勝った。星稜高校との2回戦では、4番打者の松井秀喜に第4打席で本塁打を浴びた末に敗退した。大会終了後に右肘の軟骨除去手術を受けた、夏は他の投手が主戦となり西東京大会決勝では先発するが初回に2連続四球で外野手に退くと7回に再登板したが暴投で失点すると降板して敗戦。前述の星稜高校戦で松井を第3打席まで凡退させたことで一躍注目。
牧野 塁(まきの るい、1974年7月17日 - )は、東京… 牧野 塁(まきの るい、1974年7月17日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)、野球解説者。
小野 公誠(おの こうせい、1974年7月11日 - )は、… 小野 公誠(おの こうせい、1974年7月11日 - )は、東京都東大和市出身の元プロ野球選手(捕手、右投右打)・コーチ。 聖望学園高校では、2年夏に1年上のエース門倉健を擁して一塁手で県大会準優勝。 高校通算28本塁打。また、改装後の県営大宮球場初の本塁打を放っている。 門倉と同じく東北福祉大学に進み、バッテリーを組むと3年時には大学選手権準優勝。4年時には正捕手として春季リーグ最優秀選手で大学選手権では延長サヨナラ本塁打の活躍でベスト4、明治神宮大会準優勝して日米大学野球では4番を打った。3年時も春季リーグ戦最優秀選手、3・4年春の首位打者。ベストナイン3年春:三塁手、3年秋~4年秋:捕手。
阿久根 鋼吉(あくね こうきち、1974年6月22日 - )… 阿久根 鋼吉(あくね こうきち、1974年6月22日 - )は、東京都足立区出身の元プロ野球選手(内野手)。右投左打。 花咲徳栄高等学校ではエースの池田郁夫と同期、1学年上に品田操士、1学年下にその弟・寛介がいた。1993年に創価大学に進学。東京新大学リーグでは1994年春季リーグ戦からの8連覇のうち、6連覇に貢献。自身も2年秋から4年春までベストナイン受賞。大学では1学年上の武藤孝司と三遊間を組み、1学年下に中村隼人がいた。 社会人野球のNTT関東では1998年の日本選手権で3試合連続本塁打を打つなど優勝に貢献し最優秀選手に選出された。また同年のバンコクアジア大会決勝の韓国戦で朴賛浩から本塁打を打った。
三澤 興一(みさわ こういち、1974年6月8日 - )は、… 三澤 興一(みさわ こういち、1974年6月8日 - )は、埼玉県入間郡大井町(現:ふじみ野市)出身の元プロ野球選手(投手)。2001年6月までの登録名は「三沢 興一」(読みは同じ)。 アトランタオリンピック野球の銀メダリスト。 帝京高校では1991年春夏、1992年春夏の4季連続甲子園出場を果たす。2年秋の明治神宮大会では決勝で松井秀喜を擁する星稜高校に敗れた。高校通算29本塁打を記録するなど3年時はエースで4番だった。 1992年の第64回選抜大会では4連投の末、決勝戦で東海大相模高校を3-2で破り、優勝を果たす。同年の第74回全国選手権では1回戦で尽誠学園高校に0-1で敗れ、春夏連覇の夢を絶たれる。
清水 千曲(しみず ちくま、1974年5月26日 - )は、… 清水 千曲(しみず ちくま、1974年5月26日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(外野手)。 創価高時代は、1992年の第74回全国高等学校野球選手権大会に出場。同年のドラフト会議にてヤクルトスワローズから8位指名を受け入団。 一軍での出場のないまま、1995年に現役引退。
副島 孔太(そえじま こうた、1974年5月17日 - )は… 副島 孔太(そえじま こうた、1974年5月17日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。
髙木 大成(たかぎ たいせい、1973年12月7日 - )は… 髙木 大成(たかぎ たいせい、1973年12月7日 - )は、東京都八王子市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手、捕手)、野球解説者。 現役時代は西武ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)でプレーし、引退後は西武の球団職員として活動した。2011年12月から2017年3月まではプリンスホテルに勤務した。 両親が福岡県出身で、福岡県の平和台野球場を本拠地球場としていた西鉄ライオンズの後身である西武ライオンズの本拠地である西武ライオンズ球場(現:ベルーナドーム)に髙木をよく野球観戦に連れて行っていたことから、髙木自身も西武のファンになる。小学2年からリトルリーグで野球を始めた。中学では「八王子リトルシニア」に所属し、チームメイトの1学年上に同じくプロ野球選手となった遠藤政隆や、お笑い芸人の渡部建(アンジャッシュ)がいた。
髙木 大成(たかぎ たいせい、1973年12月7日 - )は… 髙木 大成(たかぎ たいせい、1973年12月7日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(内野手、外野手、捕手)。現役引退後は埼玉西武ライオンズの球団職員を経て、2011年12月よりプリンスホテルに勤務。
清水 隆行(しみず たかゆき、1973年10月23日 - )… 清水 隆行(しみず たかゆき、1973年10月23日 - )は、東京都足立区出身の元プロ野球選手(外野手、右投左打)、野球解説者・野球評論家。 2009年から2012年までの登録名は清水 崇行(読み同じ)。 江戸川ポニーでは中学3年時に全国準優勝。浦和学院高等学校から東洋大学へ進学。高校のチームメイトには鷹野史寿がおり、通算20本塁打を放つが2年夏の県大会準優勝が最高であった。東洋大学時代の同期には川中基嗣と塩崎真(塩崎は中退)、3学年先輩に和田孝志、2学年先輩に関口伊織、1学年後輩に今岡誠、2学年後輩に田中充、3学年後輩に福原忍がおり、川中とはプロで再びチームメイトとなった。東都大学リーグ通算78試合出場、253打数71安打、打率.281、6本塁打、46打点。
鷹野 史寿(たかの ふみとし、1973年8月10日 - )は… 鷹野 史寿(たかの ふみとし、1973年8月10日 - )は、東京都東村山市出身の元プロ野球選手(外野手)、コーチ、プロ野球解説者。 浦和学院高校時代は清水隆行と同学年であった。高校卒業後は、東都大学野球リーグの国士舘大学に進学。3年秋、4年春は1部でリーグ通算26試合に出場、94打数26安打、打率.277、4本塁打、10打点、3盗塁の記録を残し、ベストナイン1回(1994年秋)、4年春の入替戦では1敗の2戦目で本塁打を放つも延長15回で亜大に惜敗、2部通算は69試合、306打数90安打、打率.294、13本塁打。卒業後は日産自動車に入団。1998年は都市対抗野球で優勝に貢献。持ち前のパンチ力で全日本メンバーに選ばれ、シドニーオリンピックの予選を兼ねたアジア選手権ではプロアマ混成チームながら外野の一角を担った。
根鈴 雄次(ねれい ゆうじ、1973年8月9日 - )は、元… 根鈴 雄次(ねれい ゆうじ、1973年8月9日 - )は、元プロ野球選手(外野手)、コーチ。 日大藤沢高校では1年生時からレギュラーで4番を務めるほどの実力があったが、体育会系部活にありがちな上下関係に対する嫌悪感や、家庭内でも両親が離婚するなど多くの問題を抱えていた。そのことから自律神経失調症を患い、不登校→留年→退学となる。留年後の学業では留年したことから野球部に戻れないこともあり、16歳から18歳まで野球をしないで過ごす。 高校を中退後、10代で渡米。地元の高校入学を目指したものの、留学斡旋の会社に騙され入学は許可されず、語学学校に通いながらバッティングセンターに通う日々を送る。バッティングセンターのオーナーから大学の監督を紹介されたり、オープントライアウトでスカウトの目に留まるが、学生ビザが切れたため、高卒の資格を取得するため日本に戻る決心をする。
津川 力(つがわ ちから、1973年5月1日 - )は、東京… 津川 力(つがわ ちから、1973年5月1日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(外野手)で、現プロ野球審判員。
小林 敦司(こばやし あつし、1972年12月8日 - )は… 小林 敦司(こばやし あつし、1972年12月8日 - )は、東京都北区出身の元プロ野球選手(投手)野球指導者、パティシエ。2001年の登録名は小林 渥司(読み同じ)。 中学時代は板橋シニアに所属。2年生エースに隠れてライトで8番であった。拓大紅陵高時代は控え投手であったが、1990年のプロ野球ドラフト会議で広島東洋カープから5位指名を受けて入団。 入団当初は本人によればストレートは速いとは言えず、コントロールも悪かったと言う。 1992年、右肘を痛める。 1993年シーズンにサイドスローへ転向。本人によると戦力外通告をこの時点で意識しており、巨人で活躍していた斎藤雅樹を真似てサイドスローで投げることにしたという。
山﨑 健(やまさき けん、1972年10月21日 - )は、… 山﨑 健(やまさき けん、1972年10月21日 - )は、東京都調布市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ。 調布リトル時代に全国優勝。関東一高では1年夏に都大会でノーヒットノーランを記録。3年夏は甲子園に出場し、打者としても活躍した。 1990年のドラフト4位で広島東洋カープに入団。 斎藤雅樹のフォームを参考にしたサイドスロー投手として、特に阪神戦では勝負強さを発揮し、「虎キラー」と呼ばれた。 1993年から一軍登板を果たしたが伸び悩みオーバースローからサイドスローに転向。 1996年シーズンには4完封を記録し、奇しくも引き合いに出される巨人の斎藤雅と並びセリーグの最多完封を記録する。
山﨑 健(やまさき けん、1972年10月21日 - )は、… 山﨑 健(やまさき けん、1972年10月21日 - )は、東京都調布市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ。
遠藤 政隆(えんどう まさたか、1972年9月20日 - )… 遠藤 政隆(えんどう まさたか、1972年9月20日 - )は、東京都八王子市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 福島県西白河郡西郷村生まれ。幼い頃に東京都八王子市に移る。小学4年でリトルリーグ入りし、中学3年の時には「八王子リトルシニア」でプレーし、全国大会で3位になった。アンジャッシュの渡部建とリトルリーグでチームメイトだった。 山梨県の日本大学明誠高等学校を卒業後、社会人野球の熊谷組へ入社。チームの休部が決まっていた1993年度のNPBドラフト会議で中日ドラゴンズから4位指名を受け、同年11月29日に契約金5000万円、年俸720万円の契約条件で仮契約した。 1994年は1試合に先発した以外は全て中継ぎでの登板でこの年は全体でも13試合に登板し防御率4.56を記録した。
西郷 泰之(さいごう やすゆき、1972年8月30日 - )… 西郷 泰之(さいごう やすゆき、1972年8月30日 - )は、日本の元社会人野球選手(内野手)、コーチ。左投げ左打ち。 東京都出身。練馬リトルシニアから日本学園高校卒業後、三菱自動車川崎(後・三菱ふそう川崎)に入社。 当初は投手であったが野手に転向。徐々に他チームの脅威の的となり、1995年に初めて日本代表入りすると、日本代表チームでも中核を打って社会人野球を代表するスラッガーとなり、現役最多の日本代表キャリア18を誇る。30代に入ってもその強打は衰えることなく、2007年の第78回都市対抗野球大会では東芝に補強されて全試合で4番を任されて3本塁打を放ち(8打点)、打撃賞を獲得した。都市対抗野球大会での個人通算ホームラン数14本は杉山孝一(新日鐵名古屋)と並ぶ大会記録である。
土山 剛弘(つちやま たかひろ、1972年2月28日 - )… 土山 剛弘(つちやま たかひろ、1972年2月28日 - )は、 日本野球機構審判部 関西局所属のプロ野球審判員。審判員袖番号『34』 郁文館高等学校、帝京大学を経て、1998年にセントラル・リーグ審判部(関西支社)に入局。2023年終了時点での試合出場数は1,460試合。 2011年にセ・パ両リーグの審判部が統合された時、白井一行が『20』の袖番号を着用したため、土山の袖番号は『34』に変更された。 2009年にオールスターゲーム初出場を果たした。2017年には日本シリーズ初出場(ソフトバンク対DeNA戦)を果たし、第4戦(11月1日、横浜スタジアム)では球審を務めた。 2019年4月11日に通算1,000試合出場(阪神タイガース対横浜DeNAベイスターズ、三塁塁審、甲子園)、2024年6月7日に通算1,500試合出場(中日ドラゴンズ対東北楽天ゴールデンイーグルス、一塁塁審、バンテリンドーム)を達成した。
原 正俊(はら まさとし、1971年6月29日 - )は、東… 原 正俊(はら まさとし、1971年6月29日 - )は、東京都港区出身の元プロ野球選手(投手)。 帝京高に入学するが1年で中退し、日大二高に再入学。2年生の頃から140km/h台の速球で注目され、夏の西東京大会でベスト8まで進出している。指定校のあった慶大への進学を希望していた。 1990年のプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツから5位で指名を受け、契約金と年俸それぞれ6000万円、420万円(いずれも推定)で入団が決まった。 投手として入団したが、その後外野手に転向する。しかし、一軍出場のないまま1992年をもって退団している。在籍中は同姓の主砲・原辰徳がスコアボード等で「原辰」表記となっていた。
佐伯 秀喜(さえき ひでき、1971年4月28日 - )は、… 佐伯 秀喜(さえき ひでき、1971年4月28日 - )は、東京都日野市出身の元プロ野球選手(内野手)。 小学生の時は日野東リトルに所属。中学生で調布シニアに所属し全日本選抜のメンバーとしてアメリカ遠征も経験した。 国学院久我山高では2、3年夏の西東京大会でベスト4。高校通算35本塁打を記録。大学進学希望の為指名拒否を打ち出していたが、1989年度のプロ野球ドラフト会議で西武ライオンズから5位指名を受け、入団。 プロ1年目の1990年9月24日、対日本ハムファイターズ戦でプロ初打席初本塁打を放った。しかし、1991年シーズン以降は一軍出場がなく、1998年シーズンオフに現役を引退。 2016年の学生野球資格回復研修を受講した上で、翌2017年2月7日に日本学生野球協会より学生野球資格回復の適性認定を受けたことにより、学生野球選手への指導が可能となる。
鹿野 浩司(しかの こうじ、1971年4月3日 - )は、東… 鹿野 浩司(しかの こうじ、1971年4月3日 - )は、東京都葛飾区出身の元プロ野球選手(内野手)。 サッカー選手の鹿野修平は息子。 帝京高校時代は、吉岡雄二らと共に3年次の1989年に春のセンバツ、夏の選手権と春夏連続で甲子園に出場。 夏の選手権では、2回戦の米子東高戦から準々決勝の海星高戦にかけて8打数連続安打を記録する。これは現在も水口栄二らと並んで大会最多連続安打記録である。決勝の仙台育英高戦では、延長10回に大越基から決勝2点適時打を放つなどして優勝に輝いた。 1989年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズから5巡目で指名され入団する。しかし、一軍出場の機会がないまま1994年限りで現役を引退。
川北 和典(かわきた かずのり、1970年11月18日 - … 川北 和典(かわきた かずのり、1970年11月18日 - )は、東京都東久留米市出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。 國学院久我山高では2年秋の東京都大会準々決勝で修徳高の酒井忠晴に完投負け。3年夏の西東京大会で1学年下の佐伯秀喜らとベスト4、社会人野球のプリンスホテルに入団するが、2年で退社する。 実家の家業を手伝いながら横浜大洋ホエールズの入団テストに合格し、1991年のプロ野球ドラフト会議で8位指名を受け入団。 一軍出場のないまま、1993年限りで現役を引退。
桑 認(くわ みとむ、1970年5月29日 - )は、東京都… 桑 認(くわ みとむ、1970年5月29日 - )は、東京都清瀬市出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。 日大三高では3年夏の西東京大会準優勝、1988年のプロ野球ドラフト会議で近鉄バファローズから5位指名を受け入団。前年の野林大樹に続いた。背番号は49。 プロ2年目の1990年の6月にウエスタンリーグ月間MVPを獲得するなど、リスト使いに長けた非凡な打撃センスの持ち主であったが、右肩痛に泣き一軍試合出場を果たせないまま、1993年オフに現役を引退。 引退後は、埼玉県のエース物流株式会社に就職し、2008年11月より代表取締役を務めている。
山口 幸勇(やまぐち ゆきお、1970年4月24日 - )は… 山口 幸勇(やまぐち ゆきお、1970年4月24日 - )は、東京都江戸川区出身の元プロ野球選手(外野手)。
江藤 智(えとう あきら、1970年4月15日 - )は、東… 江藤 智(えとう あきら、1970年4月15日 - )は、東京都東大和市出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)・プロ野球コーチ。 現役時代は主に広島東洋カープで本塁打王2回・打点王1回を獲得するなど主軸打者として活躍し、読売ジャイアンツ(巨人)・西武ライオンズ→埼玉西武ライオンズでもプレーした。 関東高等学校(現:聖徳学園高等学校)に入学した時点では投手だったが、強肩強打を見込まれ、2年生で捕手に転向した。高校時代は甲子園出場の経験はなかったが、練習試合、公式戦を通じて通算61本塁打を記録した。2年時に投手から捕手へ転向したが、「東の江藤、西の谷繁」と言われるほどの強打の捕手として名を馳せた。
古屋 剛(ふるや つよし、1970年4月13日 - )は、東… 古屋 剛(ふるや つよし、1970年4月13日 - )は、東京都立川市出身の元プロ野球選手(内野手)・監督。右投右打。 駿台甲府高等学校、拓殖大学を経て、新日鉄君津でプレー。 1995年の都市対抗野球では、川鉄千葉の補強選手としてベスト4に進出し、優秀選手となった。 1996年の都市対抗野球では、松中信彦、のちに西武でも同僚となる森慎二らとベスト8に進出した。 同年のプロ野球ドラフト会議で西武ライオンズから7位で指名され入団した。ドラフト指名時26歳と、比較的遅めのプロ入りとなった。 2年目の1998年に一軍初出場。2001年から2003年まで3年続けて開幕一軍入りを果たし、2002年4月13日の福岡ダイエーホークス戦でプロ初本塁打も記録したが、一軍定着に至らないシーズンが続いた。
鈴木 浩文(すずき ひろふみ、1970年4月12日 - )は… 鈴木 浩文(すずき ひろふみ、1970年4月12日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者。 調布リトル・シニア両主将を務め、リトル時代の小学校6年、シニアでの中学2、3年の時に全国優勝。関東一高では1年夏にレギュラーとして東東京大会準優勝、2年春に三輪隆らと選抜高校野球準優勝、夏は準々決勝で酒井忠晴がエースの修徳高に敗れ、3年夏も同じく準々決勝で2年生エースの吉岡雄二を擁する帝京高に敗退。父の母校でもある早稲田大学へ進み、2年春に主将の水口栄二、1年生の大越基らの活躍で優勝。その後、1学年下の仁志敏久と二遊間を組む。4年次は主将を務めた。リーグ通算87試合に出場、318打数93安打、打率.292、5本塁打、36打点、ベストナイン1回、3年秋に首位打者。
岸川 登俊(きしかわ たかとし、1970年1月30日 - )… 岸川 登俊(きしかわ たかとし、1970年1月30日 - )は、東京都大田区出身の元プロ野球選手(投手)。 読売ジャイアンツ(巨人軍)の打撃投手を2017年まで務めていた。 安田学園高等学校では2年春からエースになるも同年の夏のベスト8が最高で甲子園には出場できなかった。卒業後、地元・大森に拠点がある東京ガスへ進み、都市対抗野球では補強選手として先発も経験。同じ左腕の富岡久貴が台頭するなどやや目立たない存在であった。 1994年のドラフト6位で千葉ロッテマリーンズに入団。即戦力として新人の年から中継ぎで起用されていたが活躍できなかった。 1998年に小島弘務、樋口一紀との2対1トレードで中日ドラゴンズへ移籍。
野林 大樹(のばやし ひろき、1969年9月9日 - )は、… 野林 大樹(のばやし ひろき、1969年9月9日 - )は、東京都世田谷区出身の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者。 登録名を野林 広起(広島時代)・野林 大氣(第二期近鉄・ヤクルト時代)としていた時期もある。(※いずれも読み方は本名と同じ) 目黒西リトルリーグを経て、中学からの内部進学で日大三高へ進学。2年夏は西東京大会準決勝で川尻哲郎が先発した兄弟校の日大二高を延長13回の末に破るが決勝では東亜学園の川島堅に完投されて準優勝。1987年夏の西東京大会では準決勝に進むが再度、東亜学園の川島に完封を喫する。甲子園出場こそかなわなかったが、打撃力のある大型内野手として「当時の東京都高校球界ではひとかど知れ渡った存在(広島時代の同僚でもあった1学年下の江藤智の談話より)」と注目される。
関川 浩一(せきかわ こういち、1969年4月1日 - )は… 関川 浩一(せきかわ こういち、1969年4月1日 - )は、東京都調布市出身の元プロ野球選手(外野手・捕手、右投左打)、コーチ。
宮川 一彦(みやかわ かずひこ、1969年2月23日 - )… 宮川 一彦(みやかわ かずひこ、1969年2月23日 - )は、東京都葛飾区出身の元プロ野球選手(内野手)。 静清工業高時代は、3番・遊撃手として活躍。東北福祉大学では、2番を打ち俊足巧打の外野手として4年春ベストナイン(秋は二塁手)に選出された。4年次には大学選手権で準優勝、日米大学野球にも選出。大学通算打率.320 8本塁打。1学年上に佐々木主浩、大塚光二、同期に矢野燿大、1学年下に斎藤隆、金本知憲らがいた。 1990年のプロ野球ドラフト会議で横浜大洋ホエールズから2位指名を受け入団。 即戦力として期待され、プロ1年目の1991年から一軍出場を果たすが、打撃が非力で代打・守備要員止まりだった。
川尻 哲郎(かわじり てつろう、1969年1月5日 - )は… 川尻 哲郎(かわじり てつろう、1969年1月5日 - )は、東京都中野区出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・監督・コーチ・野球解説者。 実家は酒屋を営む。中学から内部進学した日大二高では、1986年夏の西東京大会で準決勝に先発するが、野林大樹のいた日大三高に延長13回サヨナラ負けを喫し、甲子園出場はならなかった。その年の秋に東都大学野球リーグ戦を観て知った亜細亜大学へ進学を希望、既にセレクションが終わっている時期であったが知人の伝手で矢野祐弘総監督に特別に投球を見てもらい、コントロールの良さを買われて入学が決まった。1年から登板の機会があったが同期に小池秀郎、高津臣吾両投手がおり、あまり登板機会には恵まれなかった。
古川 祐一(ふるかわ ゆういち、1968年10月15日 - … 古川 祐一(ふるかわ ゆういち、1968年10月15日 - )は、東京都出身の元アマチュア野球選手(投手、内野手)、野球指導者。 足立西高校では2年秋の東京都大会では準々決勝の早稲田実戦で先発登板して途中降板したが延長12回サヨナラ勝ち、準決勝は奈良原浩、芝草宇宙を擁した帝京高に惜敗。3年春の都大会は準決勝で帝京高に雪辱して決勝戦は敗れたが準優勝して関東大会出場。夏は東東京大会ベスト8。卒業後に神奈川大学に進学して硬式野球部に所属し、大学1年生までは投手を務めたが、それ以降は内野手に転向した。同期に浮島徹士(短大卒)がいた。 大学卒業後は、社会人野球のTDKのチームに入団し、都市対抗野球にも出場。
木田 優夫(きだ まさお、1968年9月12日 - )は、東… 木田 優夫(きだ まさお、1968年9月12日 - )は、東京都国分寺市出身の元プロ野球選手(投手)及び野球指導者。右投右打 現在、北海道日本ハムファイターズチーム統括本部ゼネラルマネジャー(GM)代行を務めている。 現役時代はNPBの読売ジャイアンツ(巨人)で4度のセントラル・リーグ優勝、3度の日本シリーズ優勝に貢献し、北海道日本ハムファイターズ時代にも1度のパシフィック・リーグ優勝を、MLBのロサンゼルス・ドジャース時代にも1度の地区優勝を経験している。個人ではNPBで巨人時代の1990年にリーグ最多奪三振を記録している(当時は連盟表彰なし)。 高校球児だった父親の影響で野球を始め、地元の少年野球チーム「スネークス」に入る。
大槻 文人(おおつき ふみひと、1968年6月12日 - )… 大槻 文人(おおつき ふみひと、1968年6月12日 - )は、日本の元大学野球選手(投手、左投左打)。 東京都出身。慶応高校時代は、切れの良いストレートと落差の大きいカーブを武器に活躍。高校3年時の夏、神奈川県大会では、24年ぶりの甲子園出場が期待されるも、大会途中に部員の不祥事で無念の出場辞退。甲子園出場は幻となった。 慶應義塾大学法学部法律学科に進学後も、野球部に所属。1学年上に大森剛、1学年下に小桧山雅仁、大久保秀昭がいた。卒業後は関西テレビ放送に勤務。スポーツ番組を担当している。
伊貸 文秀(いがし ともひで、1968年4月21日 - )は… 伊貸 文秀(いがし ともひで、1968年4月21日 - )は、東京都江東区出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 1987年から1989年までNPBの中日ドラゴンズに在籍したが、一軍(セントラル・リーグ)公式戦への出場機会がないまま現役を引退した。 亀高小学校、第四砂町中学校を経て岩倉高等学校に進学した。岩倉高校3年生だった1986年には夏の東東京大会で、5回戦まで進出したが、優勝した正則学園に敗れており、球界では無名の存在だった。 1987年2月17日以降、中日ドラゴンズの串間春季キャンプに合流、テスト生として二軍の練習に参加、同年3月24日に入団が発表された。左投手としての素質を買われ、入団テスト合格が発表されたものである。
秋元 宏作(あきもと こうさく、1968年1月29日 - )… 秋元 宏作(あきもと こうさく、1968年1月29日 - )は、東京都文京区出身の元プロ野球選手(捕手)・埼玉西武ライオンズのスカウト・育成統括ディレクター。 国学院久我山高では3年次の1985年春の第57回選抜大会に「4番・捕手」として出場するが、1回戦で松商学園に敗れる。同年夏の西東京大会でも準決勝に進むが、日大三高に敗れ、ベスト4。 高校卒業後の1986年4月、日本大学に進学したものの野球部には入らず、母校のコーチを務めていた。同年オフに日大を中退し、ドラフト外で西武ライオンズに入団。 1987年シーズンには、和田博実二軍監督の引率でアメリカ1A「サンノゼ・ビーズ」へ野球留学もしたが、当時の西武は伊東勤が正捕手で固定されており、一軍出場機会はなかった。
河田 雄祐(かわだ ゆうすけ、1967年12月22日 - )… 河田 雄祐(かわだ ゆうすけ、1967年12月22日 - )は、東京都練馬区出身の元プロ野球選手(外野手)、コーチ。 帝京高3年時、第57回選抜大会に出場。主将、先頭打者としてチームを牽引し、準優勝に輝く。同級生に小林昭則(元ロッテオリオンズ)、1年後輩にプロでもチームメートとなる奈良原浩がいた。 1985年のプロ野球ドラフト会議にて広島東洋カープから3位指名を受けて入団。 1987年と1990年にウエスタン・リーグで盗塁王を獲得。同年にプロ入り5年目で一軍初出場を果たした。 1994年、プロ入り9年目にお立ち台に初めて立った。同年5月18日、読売ジャイアンツの槙原寛己が広島戦で完全試合を達成した試合では、9回表の先頭打者として代打で出場し、あわやヒットかというセンターフライに打ち取られている。
田中 善則(たなか よしのり、1967年10月1日 - )は… 田中 善則(たなか よしのり、1967年10月1日 - )は、東京都出身の元社会人野球選手(内野手)・監督。右投右打。 1990年代から2000年代にかけて、たくぎん、シダックスで活躍し、昭和第一学園の監督を務めた。 東京都中央区出身。法政一高では2年春の選抜、夏も甲子園に出場、3年夏は西東京大会準決勝で先発登板したが6回コールド負け。その後法政大学に進んだ。野球部の同級生に大島公一、葛西稔がいる。法大時代はリーグ4連覇を経験、自身もベストナインに3度選ばれている。 その後北海道拓殖銀行に入行して野球部で6年間プレーした後、1995年限りで自らの意思で退部したが、当時結成間もなかったシダックスに請われ転籍。
高林 孝行(たかばやし たかゆき、1967年9月12日 - … 高林 孝行(たかばやし たかゆき、1967年9月12日 - )は、元社会人野球選手(内野手、外野手)。東京都千代田区出身。日本石油に所属していた。 父は元プロ野球選手の高林恒夫。 立教高校(現・立教新座高校)では、1984年秋季関東大会県予選準々決勝に進むが、エース原口哲也を擁する熊谷商に完封負け。翌1985年夏の県予選では、同期の平田国久(立大-日本生命)の好投もあり、決勝で石田雅彦のいた川越工を破り、夏の甲子園に出場。1回戦はエース吉田直喜を骨折で欠く佐世保実を降すが、2回戦では東洋大姫路高の豊田次郎に抑えられ大敗を喫する。他の同期に黒須陽一郎がいた。 卒業後は平田、黒須とともに立教大学に進学。