大塚 義樹(おおつか よしき、1966年4月6日 - )は… 大塚 義樹(おおつか よしき、1966年4月6日 - )は、神奈川県相模原市出身の元プロ野球選手(捕手)。 向上高では同期の高橋智とバッテリーを組む。同期に鶴見信彦がいた。 1984年のプロ野球ドラフト会議で南海ホークスから3位指名を受け入団。 プロ2年目の1986年に一軍初出場を果たす。 1990年はマイナーリーグA級のサリナス・スパーズ(英語版)に野球留学した。ホークスでは香川伸行や吉田博之などがいたため7年間で25試合しか出場できず、1991年オフに新浦壽夫との交換トレードで横浜大洋ホエールズへ移籍した。 横浜では1994年シーズン終盤に代打で2打席連続本塁打を記録している。 1995年に34試合に出場し、秋元宏作や谷繁元信との正捕手争いに加わった。
中村 大伸(なかむら だいしん、1966年2月11日 - )… 中村 大伸(なかむら だいしん、1966年2月11日 - )は、神奈川県横浜市南区出身の元社会人野球選手(外野手)。左投左打。 1996年アトランタオリンピック野球日本代表主将。 小学校4年の時に「永田オックス」で野球を始め、横浜市立永田中学校時代に投手から外野手に転向。 横浜市立横浜商業高等学校では2年春からベンチ入りし、2年秋からエース三浦将明擁するチームの主力となる。3年春(1983年)には第55回選抜高等学校野球大会では5番センターで出場、水野雄仁 擁する池田高に敗れ、準優勝を果たした。 春夏連続出場した夏の第65回全国高等学校野球選手権大会でも5番センターで、決勝戦で桑田真澄、清原和博のKKコンビ擁するPL学園高に敗れ、惜しくも春夏連続準優勝となった。
呉 俊宏(ご としひろ、1966年1月27日 - )は、神奈… 呉 俊宏(ご としひろ、1966年1月27日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(投手)。 両親は台湾出身で後に日本へと帰化している。 小学生の時から軟式野球をやっており、法政二高時代は軟式野球部で3年連続県大会で優勝、法政大学時代は野球から離れていたが3年次から準硬式野球部に所属する。2年間で11勝1敗、防御率1.28。 硬式野球の経験はなかったものの、左腕投手が手薄だったチーム事情もあって1987年オフにドラフト外で横浜大洋ホエールズに入団。 しかし、プロ入り後は伸び悩み、結果が出ないまま1991年シーズン途中に藤野正剛との交換トレードで西武ライオンズに移籍。1993年にはイースタン・リーグ記録となる145イニングを投げたが、1994年限りで現役を引退した。
三浦 将明(みうら まさあき、1965年9月17日 - )は… 三浦 将明(みうら まさあき、1965年9月17日 - )は、神奈川県川崎市幸区出身の元プロ野球選手(投手)。甲子園ではエースとして春夏ともに準優勝に導いた。 川崎市立御幸中学校在学時は、同校軟式野球部に所属し投手として活躍した。 高校は県内および東京の私学校から熱心な誘いを受けるも、地元神奈川の強豪である公立の伝統校、Y校こと横浜商業高に入学。 1981年秋の新チームから、1年生ながら長身から投げ下ろす速球と縦に割れる大きなカーブを武器に主戦投手としてチームを牽引。旧くからのライバル校である横浜高を筆頭に桐蔭学園高や東海大相模高、法政二高や日大高など数多の強豪私学がひしめく秋季神奈川県大会を制する。
山本昌(やまもとまさ、本名:山本 昌広(やまもと まさひろ)… 山本昌(やまもとまさ、本名:山本 昌広(やまもと まさひろ)、1965年8月11日 - )は、東京都大田区生まれ、神奈川県茅ヶ崎市出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者、野球評論家、スポーツコメンテーター。茅ヶ崎市の市民栄誉賞を受賞している。
パンチ佐藤(パンチさとう、本名:佐藤 和弘(さとう かずひろ… パンチ佐藤(パンチさとう、本名:佐藤 和弘(さとう かずひろ)、1964年〈昭和39年〉12月3日 - )は、神奈川県出身のタレント、元プロ野球選手(外野手・内野手、右投左打)、野球解説者。愛称は「パンチ」。 川崎市立西中原中学校から武相高校へ進学。1982年春季関東大会準々決勝に進むが、関東学園大附高に延長14回敗退。同年夏の甲子園県予選の準々決勝にて、のちにプロで同僚となる高田誠を擁した法政二高に延長10回サヨナラ負けを喫する。 亜細亜大学に進み、同野球部に入部、最終年にはキャプテンを務めた。東都大学野球リーグでは、1年上の3年生エース三原昇の好投もあり1984年春季リーグにて優勝を経験。直後の全日本大学野球選手権大会決勝では、3年生エース西川佳明や秦真司捕手、島田茂、伊吹淳一(のち熊谷組)、若井基安ら強力打線の法大に延長11回惜敗、準優勝にとどまる。
荒井 幸雄(あらい ゆきお、1964年10月13日 - )は… 荒井 幸雄(あらい ゆきお、1964年10月13日 - )は、神奈川県横浜市金沢区出身の元プロ野球選手(外野手)、野球指導者。 愛称は同姓のタレント・荒井注にちなみ「チューさん」。ロサンゼルスオリンピック野球の金メダリスト。 横浜市立六浦中学校から横浜商業高校に進学。中堅手として1982年の春の選抜に出場。2年生エース三浦将明を擁し準決勝に進出するが、この大会に優勝したPL学園の榎田健一郎投手に抑えられ、2-3xで9回サヨナラ負け。高校通算43本塁打を記録している。 卒業後は社会人野球の日本石油に所属、1984年ロサンゼルスオリンピック野球日本代表では四番に座り金メダル獲得に貢献した。同年の日本・キューバ国際野球大会でも日本代表に選出されている。
石井 章夫(いしい あきお、1964年9月30日 - )は、… 石井 章夫(いしい あきお、1964年9月30日 - )は、日本の元野球選手(捕手)、元野球監督。
荒井 直樹(あらい なおき、1964年8月16日 - )は、… 荒井 直樹(あらい なおき、1964年8月16日 - )は、神奈川県出身の元アマチュア野球選手、高校野球指導者。 綾瀬市立綾北中学校、日本大学藤沢高等学校を経て、いすゞ自動車で社会人野球選手としてプレー。 高校時代は投手として活動。3年夏の全国高等学校野球選手権神奈川大会では2試合連続ノーヒットノーランを達成する。しかしながら、続く準々決勝の横浜商業高戦では自身が登板しないまま敗れ、甲子園出場は叶わなかった。1学年下の山本昌とは一緒に練習したり食事をする仲であり、交友関係は高校卒業後も続く。 高校卒業後は、社会人野球の名門いすゞ自動車に入社。しかし、入社4年で投手から 外野手にコンバートさせられ、その後 三塁手への転向を命じられた。
友成 晋也(ともなり しんや、Shinya Tomonari… 友成 晋也(ともなり しんや、Shinya Tomonari、1964年7月16日 - )は、東京都出身の野球指導者。一般財団法人アフリカ野球・ソフト振興機構、Japan-Africa Baseball&Softball Foundation(J-ABS)代表理事。 10歳から野球を始め、慶應義塾高等学校野球部時代は遊撃手、慶應義塾大学体育会野球部では二塁手を務める。大学野球部は在籍中に2度日本一になるなど黄金時代だった。慶應義塾大学経済学部を卒業後、リクルートコスモス社を経て、独立行政法人国際協力機構(JICA)へ入構。1996年、西アフリカのJICAガーナ事務所へ赴任、仕事の傍らガーナナショナル野球チーム初の監督に就任しシドニーオリンピックを目指す。
安藤 強(あんどう つよし、1963年12月27日 - )は… 安藤 強(あんどう つよし、1963年12月27日 - )は、神奈川県横浜市出身の野球指導者、元社会人野球選手(内野手)。 NPBの現役選手を経ずに、NPB球団のコーチとなった。 柳川高等学校時の1980年の選抜大会に三塁手として出場。エースは中島輝士であった。 その後、東海大学へ進み4年春にベストナイン受賞。同期に酒井勉、渡辺伸治。卒業後は本田技研でプレー。 2007年からはHondaの監督に就任し、2009年に長野久義らを擁して、都市対抗野球大会で優勝。2015年からは社会人野球の日本代表監督も務めた。 2017年2月1日からは母校の東海大学の監督に就任。しかし、2020年12月に部内での不祥事により、同校のコーチでHondaでの後輩でもあった西郷泰之とともに監督を引責辞任した。
中川 明仁(なかがわ あきひと、1963年10月24日 - … 中川 明仁(なかがわ あきひと、1963年10月24日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(投手)。 向上高から、1981年のプロ野球ドラフト会議でヤクルトスワローズから3位指名を受け入団。上手からカーブ、シュートを武器とした。プロ4年目の1985年に一軍初登板するも、それ以降一軍登板はなく1987年に現役を引退。 その後はレンタルビデオ店の経営などを経て栃木県のスポーツDEPOにてアドバイザリースタッフを務めた。
山中 博一(やまなか ひろかず、1963年10月4日 - … 山中 博一(やまなか ひろかず、1963年10月4日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(内野手)。 横浜高校ではエース・愛甲猛を擁して優勝した2年夏の甲子園で控え、翌3年夏の甲子園には同期の片平保彦(大洋でも同僚)らとレギュラーで出場。1981年ドラフト6位で横浜大洋ホエールズに入団。一軍出場のないまま1985年に引退。
渡辺 伸治(わたなべ しんじ、1963年9月8日 - )は、… 渡辺 伸治(わたなべ しんじ、1963年9月8日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(捕手)。右投右打。
片平 保彦(かたひら やすひこ、1963年6月9日 - )… 片平 保彦(かたひら やすひこ、1963年6月9日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(捕手)。 中学生までは投手で、関東大会での優勝経験を持つ。 横浜高校にも投手として入学するも、後にロッテ・オリオンズへ入団した愛甲猛の球を受けるために捕手へ転向した。在学中には、全国高等学校野球選手権大会に神奈川県代表で2度出場。2年生だった1980年には、4番打者として第62回大会の全国制覇に貢献した。早稲田実業との対戦になった決勝では、同校のエース・荒木大輔からタイムリーを放ったことで、荒木の連続無失点記録を44回1/3で止めた。また、3年生だった1981年には、主将として第63回大会に出場した。 高校卒業後に関東学院大学へ進学したが、1982年に中退してから横浜大洋ホエールズに球団職員扱いの練習生として契約し、1983年のドラフトで、同球団の6位指名を受けて、支配下登録選手として正式に入団した。
善波 達也(よしなみ たつや、1962年8月11日 - )は… 善波 達也(よしなみ たつや、1962年8月11日 - )は、神奈川県綾瀬市出身の元アマチュア野球選手(捕手)、野球指導者。 桐蔭学園高校では3年夏の県大会で近藤章仁とのバッテリーで決勝へ進むが、エース・愛甲猛を擁して後に全国制覇する横浜高に敗れる。卒業後に明治大学に進学して硬式野球部に所属し、東京六大学野球リーグでは1983年の春季と1984年の秋季の制覇に貢献。1984年の秋季はベストナインに選出された。同年の日米大学野球選手権大会の全日本メンバーにも選ばれた。4年時には主将を務めて同期の竹田光訓とバッテリーを組み、同じ学年に4番の広澤克実、1学年下に福王昭仁がいた。 大学卒業後は、社会人野球の東京ガスのチームに入団した。
青木 秀夫(あおき ひでお、1962年6月17日 - )は、… 青木 秀夫(あおき ひでお、1962年6月17日 - )は、神奈川県横浜市鶴見区の元プロ野球選手(投手)。 鶴見工業高では、愛甲猛、宮城弘明らと並ぶ県内屈指の好投手として知られる。1980年夏の県大会では準々決勝で、エース近藤章仁を擁する桐蔭学園高に延長11回の接戦の末に敗退、甲子園には届かなかった。 高校卒業後は、社会人野球の東芝に入団。黒紙義弘、川端順らと強力投手陣を構成し、1983年の都市対抗野球で優勝、日本選手権でも準優勝を果たす。 1983年のプロ野球ドラフト会議で横浜大洋ホエールズから2位指名を受け入団。 即戦力として期待されたが、ほとんど戦力にならず未勝利のまま1987年限りで現役を引退。
飯田 孝雄(いいだ たかお、1962年3月22日 - )は、… 飯田 孝雄(いいだ たかお、1962年3月22日 - )は、神奈川県横須賀市出身の元アマチュア野球選手(内野手)、野球指導者。 桐蔭学園高等学校を経て、法政大学に入学し、1983年秋に東京六大学野球リーグで優勝に貢献し、ベストナインに選ばれた。明治神宮大会は準決勝で東海大の高野光に完投され敗退。同期には小早川毅彦、銚子利夫がいる。大学卒業後に、社会人野球の日本IBM野洲のチームでプレーした。 1987年には第6回インターコンチネンタルカップと第14回アジア野球選手権大会の日本代表にも選ばれた。 その後は、社業の傍らでWIEN94でプレーした後に日本IBM野洲の監督、副部長を務め、法政大学の助監督、永和商事ウィングのコーチを経て、2022年時点では東京経済大学の監督を務めている。
小山 昭晴(こやま あきはる、1960年12月14日 - 2… 小山 昭晴(こやま あきはる、1960年12月14日 - 2005年11月14日)は、神奈川県出身のプロ野球選手。1981年に昭治から昭晴に改名した。
吉田 博之(よしだ ひろゆき、1960年10月25日 - )… 吉田 博之(よしだ ひろゆき、1960年10月25日 - )は、神奈川県横浜市出身の元プロ野球選手(捕手)。 社会人野球・JR九州に同姓同名の監督がいるが、全くの別人である。 横浜高校では2年次の1977年、夏の甲子園神奈川大会に3番・遊撃手として出場し、注目を浴びるようになる。この時のエースは後に阪神で活躍する中田良弘であった。3年次の1978年、1年生エース・愛甲猛のストレートを捕球できる選手が吉田しかおらず、夏の大会直前の6月に捕手に転向。甲子園では2回戦の徳島商戦で本塁打を放ち、ベスト16まで勝ち上った。打撃と強肩がプロの目に留まり、同年のドラフト4位で南海ホークスに入団。甘いマスクと強肩で「梨田2世」とも呼ばれ、女性の人気を得た。
嶋田 信敏(しまだ のぶとし、1960年4月9日 - )は、… 嶋田 信敏(しまだ のぶとし、1960年4月9日 - )は、日本の元プロ野球選手(外野手)・野球解説者、野球指導者。神奈川県生まれ指導者としては、いずれも日本ハムファイターズに所属した。
渋井 敬一(しぶい けいいち、1959年8月29日 - )は… 渋井 敬一(しぶい けいいち、1959年8月29日 - )は、神奈川県横浜市出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。
後藤 雄一(ごとう ゆういち、1959年6月25日 - )は… 後藤 雄一(ごとう ゆういち、1959年6月25日 - )は、神奈川県高座郡出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 神奈川・相洋高から1977年のドラフト3位でヤクルト入団。1984年現役引退。本格派で、武器はスライダーとカーブ。 引退後は神奈川県藤沢市で焼鳥匠を経営している。
中田 良弘(なかだ よしひろ、1959年4月8日 - )は、… 中田 良弘(なかだ よしひろ、1959年4月8日 - )は、神奈川県横浜市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・監督、野球解説者。 横浜市立平楽中学校から横浜高校に進学し同級生に副島保彦。1年秋は2番手投手ながら県大会準優勝で関東大会でも救援登板したが1回戦で敗退。その後はエースとして同期の佐野クリストとバッテリーを組み、1976年秋季県大会準決勝に進むが、東海大相模高に敗退。翌1977年夏の県大会でも、準々決勝で法政二高に敗れ、甲子園には出場できなかった。1年下のチームメートに遊撃手の吉田博之がいた。 卒業後は亜細亜大学に進んだが1年で中退。日産自動車に在籍していた先輩から誘われて入社。高卒時にも日産から誘いがあったが、亜大のセレクションに参加したところ矢野祐弘総監督が惚れ込んで進学することとなるも部の体質に馴染めずに中退したという。
原 辰徳(はら たつのり、1958年7月22日 - )は、日… 原 辰徳(はら たつのり、1958年7月22日 - )は、日本の元プロ野球選手(内野手・外野手)。元プロ野球監督。解説者。読売ジャイアンツ球団特別顧問。読売ジャイアンツ前監督、WBC第2回大会(2009)日本代表監督を務めた。福岡県大牟田市生まれ、神奈川県厚木市育ち、相模原市(現南区)出身。
水上 善雄(みずかみ よしお、1957年8月9日 - )は、… 水上 善雄(みずかみ よしお、1957年8月9日 - )は、神奈川県横須賀市出身の元プロ野球選手(内野手)。現在は福岡ソフトバンクホークス二軍監督。
土手本 勝次(どてもと かつじ、1957年6月25日-)は、… 土手本 勝次(どてもと かつじ、1957年6月25日-)は、神奈川県小田原市出身の元プロ野球選手。
北村 照文(きたむら てるふみ、1957年1月7日 - )は… 北村 照文(きたむら てるふみ、1957年1月7日 - )は、神奈川県・横浜市港北区出身の元プロ野球選手(外野手、右投右打)・コーチ。 現役時代は俊足・好守が持ち味で、その華麗な外野守備からマスコミなどでは「鳥人」と形容された。 武相高では、1974年夏の甲子園県予選準々決勝に進むが、原辰徳らのいた東海大相模高に惜敗。高校同期に須田清見がいた。 高校卒業後は、社会人野球のキャタピラー三菱を経て三菱名古屋に入社。1978年の都市対抗野球では、電電東京との1回戦で大会史上初となるサイクルヒットを記録する。翌年の都市対抗野球にも出場するが、東芝府中との1回戦で石毛宏典(プリンスホテルから補強)に先制本塁打を喫し敗退。
上野 貴士(うえの たかし、1957年 - )は、日本の元ア… 上野 貴士(うえの たかし、1957年 - )は、日本の元アマチュア野球選手(主に内野手)、監督。 横浜高校では渡辺元監督の指揮の下、2年生の時、1973年の春の選抜に遊撃手として出場。エースの永川英植の好投により、広島商業高校を破り、初優勝を果たした。しかし、翌年の1974年の春の選抜の2回戦(初戦)で高知高校に敗れる。 同年のドラフト会議でヤクルトスワローズに4位指名されたが、入団を拒否し、高校卒業後は東芝に入社した。ヤマハ発動機に移籍して主将として1982年の日本選手権で優勝、優秀選手。その後、横浜高校でコーチ・監督(渡辺は部長に回る)を、平塚学園高校、山梨県の富士学苑高校でも監督を務め、横浜で1989年選手権(初戦敗退)、平塚学園で西神奈川代表として1998年選手権(2回戦敗退)に導き、2016年夏に指導者生活を勇退した。
須田 清見(すだ きよみ、1956年8月8日 - )は、神奈… 須田 清見(すだ きよみ、1956年8月8日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(内野手)。 武相高を卒業後、北村スポーツ商事に入社。その後、1975年オフにドラフト外でロッテオリオンズに入団。 1977年、一軍公式戦に出場することなく退団した。
永川 英植(ながかわ えいしょく、1956年6月23日 - … 永川 英植(ながかわ えいしょく、1956年6月23日 - 1991年7月15日)は、神奈川県横浜市鶴見区出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。 横浜高ではエースとして活躍。1972年秋季関東大会に出場、準決勝では木更津中央高の古屋英夫らと投げ合い快勝。決勝に進出するが作新学院の江川卓に完封を喫する。1973年春の選抜では決勝に進み、広島商の佃正樹と投げ合う。延長11回に冨田毅(リッカー)が決勝2点本塁打、選抜初優勝を飾る。同年夏は神奈川大会準々決勝で長内孝のいた桐蔭学園に敗退。他のチームメートに一塁手の西山茂、中堅手の長崎誠(リッカー)がいた。同年の秋季関東大会でも決勝に進むが、銚子商の土屋正勝に完封負け。
堀田 一彦(ほった かずひこ、1956年4月11日)は、神奈… 堀田 一彦(ほった かずひこ、1956年4月11日)は、神奈川県出身の元アマチュア野球選手(投手)、高校・大学野球指導者。 藤沢商業高校ではアンダースローの好投手として知られる。2年生時に堀江幹夫(日本鋼管)の控え投手として1973年夏の甲子園に出場。1回戦で萩商を相手にリリーフで甲子園初登板、2回戦で盛岡三高に完封負けを喫する。同年秋季関東大会県予選はエースとして準決勝に進むが、横浜高の永川英植と投げ合い0-1で完封負け、甲子園出場はならなかった。 専修大学に進学。東都大学野球リーグでは同期の中尾孝義(1浪入学)とバッテリーを組む。1977年春季リーグでチームは2位ながら最優秀投手、ベストナインに選出される。
入澤 淳(いりさわ じゅん、1956年4月11日 - )は、… 入澤 淳(いりさわ じゅん、1956年4月11日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。
鬼嶋 一司(きじま かずし、1956年1月5日 - )は、元… 鬼嶋 一司(きじま かずし、1956年1月5日 - )は、元アマチュア野球選手・指導者・実業家である。扶桑電機株式会社代表取締役社長、元慶應義塾大学野球部監督。 慶應義塾普通部を卒業後、慶應義塾高等学校では捕手として活躍、2年秋は県大会準決勝まで進むが横浜高の永川英植に完投されて敗退。卒業後は慶應義塾大学に入学。1学年後輩に堀場秀孝がいたためレギュラーには定着できなかった。 大学卒業後は社会人野球の川崎製鉄千葉に入社。1980年の都市対抗野球に正捕手として出場し、ベスト8。1984年の都市対抗野球へ出場を果たして引退し、その年から監督に就任。自身が選手時代に控え捕手であった大野雄次を4番として抜擢し、1986年の都市対抗野球へ出場。
内田 周作(うちだ しゅうさく、1955年11月13日 - … 内田 周作(うちだ しゅうさく、1955年11月13日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(投手)。 目黒高から金陽社では投手、1975年オフにドラフト外で大洋ホエールズへ入団。 外野手としてテストに合格したが、地肩の強さを見込まれて入団に際しては投手として登録される。 一軍公式戦の出場がなく、1979年に現役を引退。1980年から1981年まで打撃投手をつとめ、その後退団した。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
石井 昭男(いしい あきお、1955年9月26日 - )は、… 石井 昭男(いしい あきお、1955年9月26日 - )は、神奈川県三浦市出身の元プロ野球選手(外野手)。
松原 由昌(まつばら よしまさ、1955年5月10日 - 2… 松原 由昌(まつばら よしまさ、1955年5月10日 - 2014年3月7日)は、神奈川県出身の元プロ野球選手(投手)。 向の岡工業高を卒業後、東京都水道局に入局。水道局時代は軟式でプレーし、平和島の南部第一支所で各家庭に鉛管を引く工事の監督補佐をしていた。しかし、プロ野球選手になる夢を捨てきれず1974年秋に多摩川グラウンドで行われた読売ジャイアンツの入団テストを受け、見事合格してドラフト外で入団した。それまでは捕手であったが、強肩を買われて投手として採用された。同期入団には、後のエースとなる西本聖や定岡正二などがいた。 しかし、一軍の壁は厚く、1977年オフに巨人を自由契約になりロッテオリオンズに移籍したが実質的には打撃投手を務め、1981年オフに選手登録を外れた。
田代 富雄(たしろ とみお、1954年7月9日 - )は、神… 田代 富雄(たしろ とみお、1954年7月9日 - )は、神奈川県小田原市出身の元プロ野球選手(内野手)、監督、コーチ、解説者。
青木 実(あおき みのる、1954年6月20日 - )は、神… 青木 実(あおき みのる、1954年6月20日 - )は、神奈川県横浜市金沢区出身の元プロ野球選手(外野手)。 横浜高校では1971年秋季県大会準々決勝に進むが、石井昭男らのいた東海大相模高に敗退。翌1972年夏の県大会も準々決勝で東海大相模高に延長10回逆転サヨナラ負けを喫し、甲子園には届かなかった。卒業後は日産自動車に進む。エース長谷川勉を擁し1974年の都市対抗に出場するが途中交代、1回戦で新日鐵堺の山口高志(松下電器から補強)に0-1で完封負けを喫する。同年のドラフトで5位の指名を受け、翌1975年は電電関東の補強選手として都市対抗で優勝。同年暮れにヤクルトスワローズへ入団。 入団時の監督だった広岡達朗に足のスペシャリストとして抜擢され一軍に定着するが、ほとんどが代走・守備固めで、ゲーム終盤にチャーリー・マニエルに代わって登場することが多かった。
木田 勇(きだ いさむ、1954年6月7日 - )は、神奈川… 木田 勇(きだ いさむ、1954年6月7日 - )は、神奈川県横浜市旭区出身の元プロ野球選手(投手)。
斎藤 輝美(さいとう てるみ、1954年2月3日 - )は、… 斎藤 輝美(さいとう てるみ、1954年2月3日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(内野手)。 横浜高等学校では遊撃手。1971年のドラフト会議で西鉄ライオンズに8位指名され入団。 一軍公式戦出場のないまま、1973年限りで引退した。
金島 正彦(かねしま まさひこ、1953年11月29日 - … 金島 正彦(かねしま まさひこ、1953年11月29日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。 武相高等学校ではエース根建忍を擁し、遊撃手、一番打者として1970年秋季関東大会に進むが、1回戦で木更津中央高に敗れる。翌1971年夏の甲子園県予選では決勝に進むが、桐蔭学園の大塚喜代美、土屋恵三郎のバッテリーに抑えられ敗退、甲子園出場を逸する。卒業後は専修大学へ入学。大学同期に大屋好正がいたが、1年で大学を中退し読売ジャイアンツの練習生となる。 1973年のドラフト7位で読売ジャイアンツに指名され入団。1974年のジュニア・オールスターにも選出されるが、一軍公式戦に出場しないまま1978年限りで引退。
土屋 恵三郎(つちや けいざぶろう、1953年11月22日 … 土屋 恵三郎(つちや けいざぶろう、1953年11月22日 - )は、神奈川県出身の高校野球指導者。
大八木 治(おおやぎ おさむ、1953年10月12日- )は… 大八木 治(おおやぎ おさむ、1953年10月12日- )は、神奈川県茅ヶ崎市出身の高校野球監督である。 原貢のいた東海大相模高校に進学し、1970年には控え捕手として夏の甲子園で全国優勝を経験している。その後東海大学に進学。 卒業後は東海大相模コーチ・東海大助監督を経て1977年に東海大甲府高校に赴任した。当初はコーチとして指導していたが1979年に監督に就任し、13年間の在任期間中に夏の高校野球で7回、センバツ大会で4度山梨代表として出場、うち夏に1度、センバツで2度のベスト4進出を果たした。 1991年を最後に東海大甲府監督を退任し、その後は東海大高輪台高校部長、さらに相洋高校監督に就任するも甲子園出場を果たせず、2000年には夏の第1シード校として神奈川大会に臨んだものの、初戦(2回戦)で鶴嶺高校に大敗。
松田 光保(まつだ みつやす、1953年9月2日 - )は、… 松田 光保(まつだ みつやす、1953年9月2日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(投手)。
倉持 明(くらもち あきら、1952年7月20日 - )は、… 倉持 明(くらもち あきら、1952年7月20日 - )は、神奈川県横浜市中区出身の元プロ野球選手(投手)。現在はプロ野球解説者。愛称は「クラさん」「ヒゲクラ」。
瓜生 秀文(うりゅう ひでふみ、1952年2月28日 - )… 瓜生 秀文(うりゅう ひでふみ、1952年2月28日 - )は、神奈川県小田原市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 向上高校では、エースとして1968年秋季関東大会神奈川県予選決勝に進むが、鎌倉学園に大敗。翌1969年夏の甲子園県予選も、準々決勝で桜丘高に惜敗し甲子園には出場できなかった。 1969年ドラフト会議で東映フライヤーズから7位指名を受け入団。1970年には12試合に登板、4月には初先発を果たすが結果を残せず、1971年限りで引退。
東門 明(とうもん あきら、1952年 - 1972年7月1… 東門 明(とうもん あきら、1952年 - 1972年7月14日)は、アマチュア野球選手(内野手)。 茅ヶ崎市立松浪中学校から武相高等学校に進み、投手として甲子園を目指すも、1970年(昭和45年)夏の甲子園神奈川県予選準々決勝で、甲子園出場の東海大相模に敗れる(東海大相模は同夏の甲子園大会で全国制覇を果たす)。同期には菅野光夫、1学年下に根建忍と金島正彦がいた。 1971年(昭和46年)、一般入試で早稲田大学教育学部に進学、同校野球部に所属する。高校の卒業文集には「我が青春に悔いはなし」と書き記した。打力を生かすために内野手へ転向し、2年春に三塁のレギュラーを獲得(背番号9)。リーグ戦での活躍(35打数14安打、打率.400〈リーグ6位〉1本塁打)により、第1回日米大学野球選手権大会日本代表に選出される。
小俣 進(おまた すすむ、1951年8月18日 - )は、神… 小俣 進(おまた すすむ、1951年8月18日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(投手)。
山本 秀樹(やまもと ひでき、1951年7月19日 - )は… 山本 秀樹(やまもと ひでき、1951年7月19日 - )は、神奈川県横浜市磯子区出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 横浜高校では、1969年の夏の甲子園県予選4回戦で三崎高と対戦、1試合20三振を奪い県記録を樹立した。その後も勝ち進み決勝に進出するが、東海大相模の上原広投手と投げ合い0-2で完封負け、甲子園には届かなかった。 1969年ドラフト会議で西鉄ライオンズから6位指名を受け入団。1971年にはジュニアオールスターに出場する。同年には11試合に登板、6月26日にはロッテを相手に初先発を果たすが、2回1失点で降板。8月1日の南海との対戦で2度目の先発、しかし3回に打ち込まれ敗戦投手となる。