福永 活也 (ふくなが かつや 1980年11月12日 - … 福永 活也 (ふくなが かつや 1980年11月12日 - )は、日本の弁護士、実業家、著作家、政治活動家。 三重県伊勢市にて出生、伊勢市立の小学校卒業、伊勢市立厚生中学校卒業、三重県立伊勢高等学校卒業。 名古屋工業大学工学部電気情報工学科卒業、関西大学法科大学院修了。メンサ会員。 名古屋工業大学卒業後は新卒で住宅リフォーム会社に入社したが、すぐに辞めてフリーターになる。フリーターだった頃は、高校までは野球部であったことから草野球を始めて、草野球が生活の中心であった。フリーター時代の月収は6~7万円ほどであった。 フリーターから司法試験合格を目指そうと思ったきっかけは、高校時代の親友が裁判官になっていたことと、「カバチタレ!」の影響で行政書士試験の勉強を始めてみたところ、意外なほど面白かったことから。
安田 安之(やすだ やすゆき、1947年? - 1972年5… 安田 安之(やすだ やすゆき、1947年? - 1972年5月30日)は、日本の新左翼活動家、テロリスト、革命家。1972年5月30日に奥平剛士、岡本公三らとテルアビブ空港乱射事件を起こして死亡。 日本赤軍のメンバーの一人として紹介されることがあるが、厳密にいえば乱射事件発生時点では、日本赤軍は結成されていない。 三重県員弁郡北勢町(現・いなべ市)で製材業を営む父親の元に生まれる。1966年、三重県立四日市高等学校を卒業。同年京都大学工学部建築科へ入学。1970年に同校を休学。1971年9月30日、家族にギリシャへ建築の勉強に行くと言い残して出国。1972年1月、レバノンのベイルートで京都大生が水泳中に死亡する事故があったが、この際に一緒に行動していたことが確認されている。
森田 必勝(もりた まさかつ、自称読み:ひっしょう、1945… 森田 必勝(もりた まさかつ、自称読み:ひっしょう、1945年〈昭和20年〉7月25日 - 1970年〈昭和45年〉11月25日)は、日本の政治活動家。三島由紀夫が結成した「楯の会」の第二代学生長。三島と共に憲法改正のための自衛隊の決起を呼びかけた後に割腹自殺した(詳細は三島事件を参照)。 三島の単なる伴走者や主従関係の「従」ではなく、むしろ森田必勝が「主」となり三島らを引っ張っていったのではないか、という見解もしばしば見受けられる。 1945年(昭和20年)7月25日、三重県四日市市大治田町905番地(現・大治田2丁目7-21)に、父・森田和吉と母・たまの間に次男として誕生。父・和吉(明治33年生)は、市内の国民学校・内部小学校の校長をし、母・たま(明治39年生)は女学校の代用教員をしていた。
三上 治(みかみ おさむ、1941年4月9日 - )は、日本… 三上 治(みかみ おさむ、1941年4月9日 - )は、日本の編集者・文筆家・評論家、元政治運動家。 本名・味岡修。三重県出身。 三重県四日市市生まれ。三重県立四日市高等学校卒業。1960年、中央大学法学部政治学科に入学し、安保闘争に参加。1962年、再建された社会主義学生同盟の全国委員長になる。1966年、中央大学中退、第二次ブントに加わり、全共闘運動やベトナム反戦闘争にも加わる。1969年、ブント内部の党派闘争で統一派として赤軍派と対立する。 1969年4月28日の沖縄闘争で指名手配され、9月に逮捕。1970年、いったん保釈されるが、保釈取り消しで東京拘置所に入所。この間、神津陽と共に共産主義者同盟叛旗派をつくり、同派のリーダーとなる。
福島 博憲(ふくしま ひろのり、1940年(昭和15年)5月… 福島 博憲(ふくしま ひろのり、1940年(昭和15年)5月19日 -) は、登山家であり、社会事業家。 1969年7月マッターホルン北壁の単独登攀は日本人初(世界第三登)。1973年9月日本エベレスト登山隊、南西壁隊員。関西大学二部体育会山岳部OB会所属。三重県名張市出身。 現在[いつ?]、スイス山岳会会員、第2次RCC同人、日本オセアニア交流協会理事。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
和田 春生(わだ はるお、1919年3月15日 - 1999… 和田 春生(わだ はるお、1919年3月15日 - 1999年10月17日)は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)。 東京府東京市四谷区四谷左門町生まれ。三重県伊勢市出身。1939年鳥羽商船学校(現鳥羽商船高等専門学校)卒、山下汽船に航海士として入社。1945年全日本海員組合に参加し、1948年組織部長。1950年総評結成に参加して常任幹事となるが、1952年秋季闘争での総評の敗北を機に総評主流の左傾的傾向を批判、海員組合・全繊同盟・全映演・日放労の「四単産批判」取りまとめの中心となる。その後、日放労を除いた3単産を中心に総評内の右派系単産をまとめ1954年に全労会議を結成して初代書記長となり、解散まで右派労働戦線の旗手的存在だった。
角屋 堅次郎(かどや けんじろう、1917年(大正6年)3月… 角屋 堅次郎(かどや けんじろう、1917年(大正6年)3月15日 - 2017年(平成29年)4月7日)は、日本の農林技官、労働運動家、政治家。衆議院議員(11期)。 三重県度会郡豊浜村(現伊勢市豊浜)出身。学歴は宇治山田中学(現三重県立宇治山田高等学校)を卒業。その後三重高等農林学校(現在の三重大学)農業土木学科を卒業し、さらに満洲大同学院を卒業した。 満洲国開拓総局などに勤務。従軍して陸軍中尉で終戦を迎えた。その後、農林省に勤務して、農林技官、全農林中央執行委員長、日本社会党三重県本部委員長などを歴任する。 1955年(昭和30年)2月の第27回衆議院議員総選挙で左派社会党から立候補するが落選。
清水 亘(しみず わたる、1909年〈明治42年〉5月14日… 清水 亘(しみず わたる、1909年〈明治42年〉5月14日 - 1974年〈昭和49年〉1月26日)は、三重県熊野市出身の政治活動家。 正則英語学校英文科卒業後、橋本欣五郎の『大日本青年党』(後の大日本赤誠会)に加わり、上海交響楽団の運営にも関与していたと自称。 敗戦数年後より右翼活動を本格化し、1948年4月26日『大日本独立青年党』を結党、同年中に内山昌宣(別名:富士宮瓊光)率いる『真正日本建設協議会』に加わり、次いで1949年10月3日『祖国防衛自衛団』を結成した。 また『全日本愛国者団体協議会』(後代の全日本愛国者団体会議と直接の関係は無い)も立ち上げ、孫文の『五民主義』(民族・民生・民治・民享・民友)を掲げて、徒党にナチスの物を摸した制服を着せ、主要駅頭でアジ演説を打つなどしていたが、この段階で勢力は弱小だった。
山高 しげり(やまたか しげり、別名:金子しげり、金子茂、1… 山高 しげり(やまたか しげり、別名:金子しげり、金子茂、1899年1月5日 - 1977年11月13日)は、日本の政治家、婦人運動家、フェミニスト。婦人参政権獲得期成同盟会(婦選獲得同盟)の創設に加わり、全国地域婦人団体連絡協議会の初代理事長となったほか、参議院議員を2期務めた。 1899年1月5日に三重県津市で、三重県師範学校校長であった父・幾之丞と母・とみの間に次女として生まれた。幼い頃の戸籍名はひらがなではなく、漢字の「茂」であった。子どもの頃は教師であった両親の仕事の都合でさまざまな場所に住んでいた。父が亡くなって以降は母子家庭で育っており、これが後年に母子保護活動に尽力するようになった大きな理由のひとつである。
伊東 ハンニ(いとう はんに、1898年(明治31年)8月2… 伊東 ハンニ(いとう はんに、1898年(明治31年)8月25日 -1969年(昭和44年)8月3日)は、日本の作家、相場師、社会運動家。伊東阪二とも書く。本名松尾 正直(まつお まさなお)。昭和初期に相場で巨富を得、兜町の風雲児として注目され「昭和の天一坊」とも呼ばれた。 『国民新聞』、雑誌『日本国民』のオーナー。川端康成、与謝野晶子等のプロデューサー。東洋のマタハリと呼ばれた川島芳子と親交あり。熱烈な愛国者であり、太平洋戦争を回避しようと日本国中を遊説した。 三重県鈴鹿郡加太村(現亀山市)に米穀商・松尾伝吉の三男に生まれる。父は米穀商の傍ら株の仲買人を手がけていたが、日露戦争後の相場の乱高下で損害を被り名古屋へ転居。
山村 熊次郎(やまむら くまじろう、1886年(明治19年)… 山村 熊次郎(やまむら くまじろう、1886年(明治19年)8月21日 - 1949年(昭和24年)8月8日)は、日本の点字出版社の創設者、点字雑誌の創刊者、社会事業家である。少年時代の失明により、視覚障害者が読める点字書籍の不足を痛感し、視覚障害者に情報保障を行うため、点字医学書・点字医学雑誌、日本初の視覚障害者向け通信大学講義録の点訳出版を手掛けた。 1886年(明治19年)、三重県名張町(現・名張市)で商家の三男に生まれる。1902年(明治35年)に緑内障を発症した。 1906年(明治39年)に京都府立盲学校に入学、YMCAの英語夜学校で英語を学ぶ。1909年(明治42年)に同針按科を卒業した。
伊藤 証信(いとう しょうしん、1876年(明治9年)9月1… 伊藤 証信(いとう しょうしん、1876年(明治9年)9月10日 - 1963年(昭和38年)1月14日)は、日本の仏教思想家、社会運動家。青年期には出家した僧であった。 三重県員弁郡久米村坂井(後の桑名市坂井)の農家に生まれ、幼名を清九郎といった。 13歳で出家して真宗大谷派円授寺で得度し、僧となって、名を証信とした。岐阜県大垣の美濃教校、京都市の真宗中学校を経て、真宗大学(大谷大学の前身)に学ぶ。在学中から清沢満之に師事し、大学の東京への移転を機に上京する。大学卒業後は、清沢が唱えた「精神主義」の運動に加わった。 1904年、父の看病のために久米村へ帰郷した際、霊感体験をし「無我の愛」を悟ったという。