磯部 孝一(いそべ こういち、1854年(安政元年3月) -… 磯部 孝一(いそべ こういち、1854年(安政元年3月) - 1936年(昭和11年)12月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 長門国大津郡三隅村(のち山口県大津郡三隅町、現・長門市)生まれ。農業を営み、山口県会議員、同常置委員、防長農工銀行創立委員となる。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において山口2区から立憲自由党公認で立候補したが落選。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙では自治党から立候補したが落選。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では国民協会から立候補したが落選。1898年3月の第5回衆議院議員総選挙では国民協会から立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙は不出馬。
手塚 猛昌(てづか たけまさ、1853年12月22日(嘉永6… 手塚 猛昌(てづか たけまさ、1853年12月22日(嘉永6年11月22日) - 1932年(昭和7年)3月1日)は、「時刻表の父」として知られる、明治期の実業家。日本最初の月刊時刻表とされる「汽車汽船旅行案内」の発行者。 現在の山口県萩市須佐出身。元の名は岡部緒三郎。 長州藩士の家柄だが家貧で四書五経を独学で修めた。長州藩永代家老の益田家が設けた郷校・育英館で学び、33歳の時に上京し慶應義塾(現・慶應義塾大学)に進んだ。 その後、庚寅新誌社を創立し政治経済雑誌を発行する一方『庚寅新誌』を発行し、政治活動を始める。1894年(明治27年)に恩師福沢諭吉の勧めで、英国の時刻表を手本に「汽車汽船旅行案内」を発行。
三吉 正一(みよし しょういち、1853年11月28日(嘉永… 三吉 正一(みよし しょういち、1853年11月28日(嘉永6年10月28日) - 1906年(明治39年)3月24日)は、明治中期の日本の技術者。日本初の電気機器製造会社である三吉電機工場を経営し、電気機器の国産化を図った。 三吉正一は周防国岩国に生まれた。家は岩国領主吉川氏に仕え、祖父は佐久間象山や勝海舟とも親交があったという。1871年(明治4年)に大阪の開城学校に入学、翌年には上京して同郷先輩宅に寄宿していたが1875年(明治8年)上州富岡製糸場の伝習生となりその技術を学ぶことになった。やがて工部省が学校を創立し、学生を募集することを知り上京して勝海舟と面会して入学の希望を伝えた。そして東京電信修技校に入学することとなり通信術を学んだ。
江木 千之(えぎ かずゆき、1853年5月21日〈嘉永6年4… 江木 千之(えぎ かずゆき、1853年5月21日〈嘉永6年4月14日〉- 1932年〈昭和7年〉8月23日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の文部・内務官僚、政治家。号は狂塢。 文部省普通学務局長、内務省県治局長、茨城・栃木・愛知・広島各県知事、貴族院議員、文部大臣、皇典講究所長、全国神職会長、枢密顧問官を歴任した。 周防国岩国藩出身。岩国藩士・江木仙左衛門俊敬の長男として生まれる(幼名・吉太郎)。1870年(明治3年)、藩命により大阪開成所で外国語を学び、翌年より開拓使仮学校、大学南校、工部省工学寮などに学ぶ。1874年(明治7年)に文部省に出仕し、会計局副長、視学官、参事官、普通学務局長を歴任。
山根 武亮(やまね たけすけ、1853年3月24日〈嘉永6年… 山根 武亮(やまね たけすけ、1853年3月24日〈嘉永6年2月15日〉- 1928年〈昭和3年〉4月4日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。勲一等受章。 長州藩士・山根修平の二男として生まれる。明倫館で学び、警視庁巡査を経て、1875年(明治8年)2月、陸軍士官学校に入学。少尉試補、工兵少尉・工兵第1大隊付を経て、1878年(明治11年)12月、陸軍士官学校(旧1期)を卒業する。 参謀本部出仕(清国駐在)、参謀本部管西局、清国差遣、ドイツ駐在、ドイツ・オーストリア留学、工兵第1大隊長、参謀本部第1局員などを経て、日清戦争に第2軍兵站参謀長として出征した。続けて台湾平定(乙未戦争)に臨時台湾鉄道隊隊長として従軍。
硲 俊聡(俊聰、はざま しゅんそう、1853年1月24日(嘉… 硲 俊聡(俊聰、はざま しゅんそう、1853年1月24日(嘉永5年12月15日) - 1931年(昭和6年)8月30日)は、明治から昭和初期の教育者、政治家。衆議院議員、第5代・10代山口県会議長、山口県玖珂郡伊陸村長、同郡神代村長。旧姓・村岡、旧名・米村平之進。 周防国玖珂郡神代村原(山口県玖珂郡神代村、由宇町を経て現岩国市)で、村岡伝左衛門の三男として生まれる。兄に村岡柳太郎。 米村家の養子となるが、その後、伊陸村の硲家の養子となる。幼くして学問を好み、藩儒の東沢瀉に学び、和漢学を修めた。戊辰戦争では精義隊に入隊し中央隊長として奥羽に出征した。 大阪開成所(のち大阪英語学校)で仏蘭西学を学び、1878年(明治11年)官立大阪師範学校を卒業した。
植田 治作(うえだ じさく、1853年(嘉永6年) - 19… 植田 治作(うえだ じさく、1853年(嘉永6年) - 1925年(大正14年))は、日本の篤農家、政治家(山口県豊浦郡会議員、同郡彦島村会議員)、実業家。 長門国彦島西山(現・山口県下関市)出身。植田甚之丞の嫡子。1889年、町村制が実施されると推されて村会議員となり30余年間その公職にあって村政に参与し、その間には郡会議員となり信用組合・漁業組合の理事及び各種の名誉職に挙げられた。 1915年11月、彦島村長より、1919年10月、山口県知事より村治功労者として同年10月には彦島町長より1922年4月、豊浦郡長より自治功労者として表彰され、里人の手によって頌徳碑が建設された。 貧困な家を復興すると同時に全身熱血を注いで部落の青年を薫陶し、常に誠意をもって不言実行した。
荒川 邦蔵(あらかわ くにぞう、嘉永5年4月18日〈1852… 荒川 邦蔵(あらかわ くにぞう、嘉永5年4月18日〈1852年6月5日〉 - 1903年〈明治36年〉10月11日)は、明治時代の官僚、政治家。内務省などで務め、福井県知事も務めた。 長州藩領の長門国大津郡向津具村(現・山口県長門市)出身。諸官を経て、1892年11月16日に牧野伸顕の後をついで、内務省衛生局長から福井県知事に任ぜられた。荒川は県知事として、濃尾地震の被害による道路などの修復に県から全額支出させた。また、県内の女子の就学を奨励した。1897年4月6日まで務めた。 1898年、内務省県治局長に任ぜられるがまもなく辞任。その後帝国党の組織に尽力した。1903年10月11日に病死し、同日に位を一級進めて正四位に叙される。
沢山 保羅(さわやま ぽうろ、嘉永5年3月22日(1852年… 沢山 保羅(さわやま ぽうろ、嘉永5年3月22日(1852年5月10日) - 明治20年(1887年)3月27日)は、日本のキリスト教牧師、教育者。「保羅」は使徒パウロに由来し、本名は馬之進。日本で按手礼を受けた最初の牧師であり、梅花女学校(現在の学校法人梅花学園)を設立した。 周防国吉敷郡吉敷村(現山口県山口市吉敷赤田大形)に生まれる。父は長州藩士沢山源之丞。父源之丞は吉敷毛利家の毛利元一に仕える下級武士であった。同郷に先輩に内務大臣の内海忠勝(豪助)がいる。 1858年に憲章館に入学し、四書五経の漢学、書道、武術、礼式などを学ぶ。同輩が服部一三で、6年後輩が成瀬仁蔵である。1867年(慶応3年)まで憲章館で学ぶ。
児玉 源太郎(こだま げんたろう、旧字体: 兒玉 源太郞、1… 児玉 源太郎(こだま げんたろう、旧字体: 兒玉 源太郞、1852年4月14日〈嘉永5年閏2月25日〉- 1906年〈明治39年〉7月23日)は、明治時代の日本の陸軍軍人、政治家。日露戦争において満洲軍総参謀長を務め、勝利に貢献した。階級は陸軍大将、栄典は正二位勲一等功一級子爵。 嘉永5年(1852年)閏2月25日、周防国都濃郡徳山の本丁で、長州藩の支藩・徳山藩の上士(馬廻役、100石。)児玉半九郎忠硯の長男として生まれる。当時、児玉家には長女の久子と次女の信子がいるのみで、児玉源太郎が初めての男子であったため、彼の誕生に家族一同は大いに喜んだ。児玉が生まれた時に父・半九郎は向かいの家に住む友人で漢学者の島田蕃根の家に赴き、四、五人で詩文に興じていたが、家人が慌ただしくやって来て男子誕生を告げたため、半九郎は歓喜して直ちに島田家から帰宅し、祝杯を挙げた。
有坂 成章(ありさか なりあきら、1852年4月5日〈嘉永5… 有坂 成章(ありさか なりあきら、1852年4月5日〈嘉永5年2月18日〉 - 1915年〈大正4年〉1月12日)は、日本の陸軍軍人、華族。最終階級は陸軍中将。爵位は男爵。別名に淳蔵。 大日本帝国陸軍の国産小銃である有坂銃の開発者であり、村田経芳に次いで銃砲開発の大家と謳われた人物である。 周防国岩国に生まれた、長州藩(岩国領)吉川家家臣の木部左門の二男、幼名を四郎という。文久2年(1862年)、11歳で同藩の砲術家有坂長良の養嗣子となった。岩国藩の洋式軍隊である日新隊の一員として、鳥羽・伏見の戦いに参加している。 明治維新後の明治2年(1869年)開成学校で学んだ後、明治3年(1870年)には陸軍兵学寮に入る。
寺内 正毅(てらうち まさたけ、旧字体: 寺內 正毅、185… 寺内 正毅(てらうち まさたけ、旧字体: 寺內 正毅、1852年3月25日〈嘉永5年閏2月5日〉 - 1919年〈大正8年〉11月3日)は、明治・大正期の日本の陸軍軍人、政治家。軍人としての階級は元帥陸軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功一級。爵位は伯爵。 書の雅号は桜圃、魯庵。「ビリケン宰相」の異名を持つ。 陸軍大臣(第7代)、外務大臣臨時兼任(第2次桂内閣・寺内内閣)、韓国統監(第3代)、朝鮮総督(初代)、内閣総理大臣(第18代)、大蔵大臣(第19代)などを歴任した。 明治から大正にかけて陸軍軍人として活躍し、第1次桂内閣では児玉源太郎の後任として陸軍大臣に就任した。以来、第1次西園寺内閣や第2次桂内閣でも陸軍大臣を務めた。
古谷 安民(ふるたに やすたみ、1852年2月11日(嘉永5… 古谷 安民(ふるたに やすたみ、1852年2月11日(嘉永5年1月22日) - 1918年(大正7年)11月22日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。栄典は正五位功三級勲三等。 長門国美祢郡岩永村(現山口県美祢市)士族出身。 西南戦争では第4旅団第1大隊第4中隊に属する。歩兵第30連隊長を経て、日露戦争では第三軍兵站監をつとめる。武学生養成所(※山口県愛山会武学講習所)所長。 1918年没。戒名は奨武院殿安道濟民大居士。
瀧川 辨三(たきがわ べんぞう、嘉永4年11月21日(185… 瀧川 辨三(たきがわ べんぞう、嘉永4年11月21日(1851年12月13日) - 大正14年(1925年)1月12日)は、日本の実業家、政治家。 1884年、神戸で興したマッチ製造会社(精燧社)が成功、精燧社は数々の会社を吸収して東洋燐寸株式会社と改名し、辨三は「日本のマッチ王」と呼ばれるようになる。神戸のガス・水道・電気・築港などの公共事業にも参画した。神戸商工会議所会頭、貴族院多額納税者議員(1915年1月21日 - 1918年9月28日)などを歴任し1925年没。享年75。 嘉永4年(1851年)11月21日長府藩士瀧川清の二男として生まれた(戸籍では兵庫県平民)。幼名は百十郎、通称は武熊。
服部 一三(はっとり いちぞう、1851年3月13日(嘉永4… 服部 一三(はっとり いちぞう、1851年3月13日(嘉永4年2月11日) - 1929年(昭和4年)1月25日)は明治時代の日本の文部・内務官僚。族籍は山口県士族。 東京英語学校、東京大学法・理・文各学部綜理(1880年(明治13年)6月4日)、東京大学予備門(いずれも東京大学教養学部の前身)校長・予備門長、大阪専門学校(京都大学の前身の1つ)綜理、日本地震学会初代会長、東京大学法学部初代学部長、共立女子職業学校(共立女子中学校・高等学校の前身)校長、文部省普通学務局長、岩手・広島・長崎・兵庫の各県知事、貴族院議員を歴任した。 長州藩士槍術指南役渡辺兵蔵の三男として周防国吉敷郡吉敷村(現山口県山口市)で誕生する。
真鍋 斌(まなべ あきら/さかり、1851年3月7日(嘉永4… 真鍋 斌(まなべ あきら/さかり、1851年3月7日(嘉永4年2月5日)- 1918年12月14日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。幼名・熊槌。 長門国阿武郡萩城下(現山口県萩市)で長州藩中士・真鍋安信の長男として生まれる。明倫館で学び、1866年、干城隊に入隊。1870年、大坂兵部省屯所に入営し、1871年、陸軍青年学舎を卒業。陸軍教導団出仕を経て、1872年、陸軍少尉任官。以後、陸軍兵学寮付、陸軍省第1局第3課などを経て、1877年4月から10月まで西南戦争に出征した。 陸軍省第1局第3課長心得、総務局武学課長、同局第3課長心得、同課長、歩兵第3連隊長、第1軍事課長、第4師団参謀長、第1軍事課長、総務局人事課長などを歴任し、1897年7月、陸軍少将に進級。
原田 良太郎(はらだ りょうたろう、1851年3月5日〈嘉永… 原田 良太郎(はらだ りょうたろう、1851年3月5日〈嘉永4年2月3日〉- 1903年〈明治36年〉3月24日)は、幕末の徳山藩士、明治期の大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階は正四位、勲等は勲二等、軍功は功四級。幼名・正良、1878年6月、良太郎に改名。 周防国都濃郡、後の山口県都濃郡久保村(現下松市)で原田亀之丞の二男として生まれた。明治元年(1868年)徳山藩兵として鳥羽・伏見の戦いに従軍した。長州藩諸隊脱走兵反乱に出動した。 大阪兵学校で学び、1872年(明治5年)陸軍省に出仕。1874年(明治7年)陸軍騎兵少尉に任官した。西南戦争に出征。1887年(明治20年)3月、輜重兵少佐に昇進し輜重兵第1大隊長に就任。
坂田 昌熾(さかた まさあき / まさたる、1851年(嘉永… 坂田 昌熾(さかた まさあき / まさたる、1851年(嘉永4年1月)- 1908年(明治41年)3月30日)は、幕末の長州藩奇兵隊士、明治期の海軍軍人・政治家。衆議院議員。最終階級は海軍少佐。通称・次郎。号・琴所。 周防国熊毛郡伊保庄南村(山口県熊毛郡伊保庄南村、阿月村を経て現柳井市阿月)で、長州藩寄組で阿月領主浦氏の家臣の家に生まれた。赤禰武人、岡村熊七らに学んだ。奇兵隊に所属し四境戦争に従軍した。 明治維新後、大阪、東京で英語を学んだ。1874年(明治7年)1月、海軍に出仕し海軍少尉補に任官。神風連の乱・萩の乱の鎮定、西南戦争に従軍した。 以後、水路部測量班長、軍事部勤務、参謀本部海軍部第1局員、艦隊対戦演習取調委員、大演習審判官陪従、兵器部次長、横須賀軍港司令官副官、軍法会議判士長、迅鯨艦副長、鳳翔艦長、海軍造兵廠火薬科長などを歴任。
堅田 少輔(かただ しょうすけ、嘉永3年10月26日(185… 堅田 少輔(かただ しょうすけ、嘉永3年10月26日(1850年11月29日)- 大正8年(1919年)11月29日)は、幕末の長州藩士、明治から大正初期の教育者、政治家。長州藩家老、衆議院議員、山口県都濃郡湯野村長。旧姓・高洲。諱・信義、親正。通称・健助、大和、少輔。 長門国阿武郡萩平安古(山口県阿武郡萩町を経て現萩市平安古)で、長州藩寄組士・高洲平七元忠の五男として生まれた。嘉永4年(1851年)同藩寄組士筆頭・堅田安房謹恪の婿養子となり家督を相続した。 慶応元年(1865年)5月、八幡隊総管に就任。慶応2年(1866年)6月)、第二次長州征討で芸州口から豊前小倉に転戦した。慶応3年(1867年)、鋭武隊総管となる。
高島 北海(たかしま ほっかい、嘉永3年9月26日(1850… 高島 北海(たかしま ほっかい、嘉永3年9月26日(1850年10月31日) - 昭和6年(1931年)1月10日)は、明治~大正期の日本画家。本名は、得三(とくぞう)。なお三女に映画女優の高島愛子がいる。 父親の手ほどきもあり、幼少の頃から絵を描くことが好きであったが後、徳山(現・山口県周南市)出身の大庭学僊(おおば がくせん)に本格的に学ぶ。明治新政府の技官としての半生の上に、植物学の深い造詣を基礎とし、南画に写生の技法を加えた清新な山岳風景画を描いた。 1990年代以降には、近代アカデミズム成立以前の先駆的な地形学者、地質学者、地理学者としての再評価が進んでいる。 長州阿武郡(現・山口県萩市)出身、萩藩の藩医の子(幼名:和三郎)として生まれ、学んだ明倫館では、9歳(当時)で下郷していた後の陸軍大将・乃木希典との交友もあった。
長谷川 好道(はせがわ よしみち、1850年10月1日〈嘉永… 長谷川 好道(はせがわ よしみち、1850年10月1日〈嘉永3年8月26日〉- 1924年〈大正13年〉1月27日)は、日本の陸軍軍人。韓国駐剳軍司令官、参謀総長、朝鮮総督を歴任。官位は元帥陸軍大将・従一位・大勲位・功一級・伯爵。 1850年(嘉永3年)10月1日、長州藩支藩岩国藩士・長谷川藤次郎の子として生まれる。剣術師範であった父について剣術を修める。戊辰戦争には精義隊小隊長として参戦する。 明治後は大阪兵学寮学生となり、1871年(明治4年)8月に陸軍少尉心得、同年12月には陸軍大尉・5番大隊長。1872年(明治5年)4月、陸軍少佐、翌年5月歩兵第1連隊長心得、同6月中佐として西南戦争に従軍する。
粟飯原 常世(あいはら つねよ、嘉永3年8月〈1850年〉 … 粟飯原 常世(あいはら つねよ、嘉永3年8月〈1850年〉 - 1919年〈大正8年〉9月24日)は、幕末の長州藩士、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲二等功三級。 長門国阿武郡椿郷西分村(現山口県萩市)で、長州藩士・粟飯原衛門兵衛の長男として生まれた。四境戦争、鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争での奥州各地の戦闘に参戦した。 1872年(明治5年)2月、陸軍少尉に任官。西南戦争では別働狙撃大隊(長:河野通好少佐)の第1中隊長を務め、佐賀県を転戦のち熊本城下守備につく。1891年(明治24年)4月に陸軍歩兵中佐・歩兵第19連隊長に補任され、第3師団・桂太郎中将隷下で日清戦争に出征し、海城攻防戦にて奮戦した。
杉山 直矢(すぎやま なおや、嘉永3年3月14日(1850年… 杉山 直矢(すぎやま なおや、嘉永3年3月14日(1850年4月25日) - 明治29年(1896年)5月16日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。支那(清国)情勢研究の第一人者として知られ、参謀本部における対外情報研究の草分け的存在とされた。 杉山直矢は、嘉永3年(1850年)3月14日(15日とも)、周防国熊毛郡室積村東之庄(現・山口県光市)に、士族林家の次男として生まれ、幼名を文蔵といった。父は一膺、母は光子。少年期に藩儒・東宗一に師事し、特に陽明学に深く通じたとされる。豪胆で不敵な性格で知られ、慶応年間には干城隊に加わって第二次長州征伐に参加し上阪、活躍が認められて山縣有朋の知遇を受けた。
井上 正一(いのうえ せいいち、1850年4月7日(嘉永3年… 井上 正一(いのうえ せいいち、1850年4月7日(嘉永3年2月25日) - 1936年(昭和11年)10月3日)は、日本の法学者、衆議院議員、大審院判事。 長門国大津郡伊上村(山口県大津郡菱海村、油谷町を経て現在の山口県長門市油谷伊上)生まれ。1866年の四境戦争に際して長州藩諸隊の一つ鐘秀隊に加わり、芸州口と石州口を転戦。その後許可を得て隊を離れ、萩明倫館と山口文学寮で学ぶ。維新後に単身上京して箕作麟祥の下でフランス学を修めた。1870年開成学校に入った後、長州藩の貢進生に選ばれ、大学南校を経て1875年に司法省法学校を卒業。同年秋にフランスに留学し、法学博士の学位を取得。1881年に帰国するとただちに司法省雇となり、開校間もない明治法律学校(のちの明治大学)にも講師として迎えられた。
安倍 慎太郎(あべ しんたろう、1850年(嘉永3年)- 1… 安倍 慎太郎(あべ しんたろう、1850年(嘉永3年)- 1882年(明治15年)10月10日)は、日本の政治家。 1850年、安倍英任の長男として長門国大津郡蔵小田村(現:山口県長門市油谷蔵小田)に生まれ、安倍家中興の祖と評される。安倍家は江戸時代に大庄屋を務め、酒と醤油の醸造を営む大地主であり、地元の名門として知られた豪家である。慎太郎は明治12年(1879年)の第1回山口県議会議員選挙に当選、中央政界入りを狙うも明治15年(1882年)10月10日に32歳で死去した。 安倍慎太郎には直系が育たなかったため、妹のタメが郡内で名門として知られる椋木(むくのき)家から彪助を婿養子に迎える。彪助はタメとの間に一人息子・安倍寛を儲けた。
宇佐川 一正(うさがわ かずまさ、1849年12月24日〈嘉… 宇佐川 一正(うさがわ かずまさ、1849年12月24日〈嘉永2年11月10日〉- 1927年〈昭和2年〉11月10日)は、明治から昭和初期の日本陸軍の軍人、政治家、華族。最終階級は陸軍中将。貴族院男爵議員。 長州藩士・藤村太郎右衛門の四男として生まれ、宇佐川久平の養子となる。伏水教導隊に入り、下士官試補、権曹長、曹長と昇進し、1874年(明治7年)6月、陸軍戸山学校を卒業し、翌月、歩兵少尉に任官。以後、歩兵第14連隊付となり、1877年(明治10年)2月、西南戦争に出征した。歩兵第24連隊大隊副官、歩兵第1旅団参謀、同副官、近衛歩兵第1旅団副官、第1師団参謀、歩兵第17連隊付、監軍部副官、近衛師団参謀などを歴任し、日清戦争には第1軍参謀として出征し、田村怡与造の後任として同軍参謀副長となった。
桂 弥一(かつら やいち、嘉永2年(1849年)12月10日… 桂 弥一(かつら やいち、嘉永2年(1849年)12月10日 – 昭和14年(1939年)6月19日)は、幕末から明治・昭和初期にかけての長府藩士、維新志士、牧畜事業家。諱は孝俊。初め季澄と名乗る。維新後は牧畜・開墾事業を通じて公共に尽力し、没後に従六位を追贈された。 嘉永2年(1849年)12月10日、長府藩士桂助左衛門久澄の子として長府に生まれる。父は12代桂土左衛門(大江久澄)、母は原田則朗(金弥)の娘で、末子であった。幼少期は8歳で三吉幸之助・土生静馬に書画・読書を学び、11歳より山田易之助・井上源三郎に師事して小笠原流を修めた。12歳のとき、のちの大将乃木希典(当時は乃木無人)とともに菅文達に学び、漢籍の素養を身につけた。
斎藤 太郎(さいとう たろう、1849年2月13日(嘉永2年… 斎藤 太郎(さいとう たろう、1849年2月13日(嘉永2年1月20日) - 1922年(大正11年)7月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級、功二級。 周防山口藩領阿武郡椿郷東分村(山口県阿武郡椿郷東分村、椿東村、萩町を経て現萩市)出身。士族・斎藤喜作の長男として生まれ、1880年(明治13年)家督を相続する。1872年(明治5年)4月、陸軍歩兵少尉に任官する。1878年(明治11年)陸軍戸山学校に入学。以来累進し、日清戦争では第2軍兵站司令官として出征。のち歩兵第1連隊長に転じ、1897年(明治30年)10月、大佐に進む。1901年(明治34年)11月、陸軍少将に進級と同時に歩兵第14旅団長に補され日露戦争に出征し、第1師団と協同し203高地攻略で軍功を挙げ、その後も第3軍の主力部隊として戦った。
梶山 鼎介(かじやま ていすけ、1848年11月15日(嘉永… 梶山 鼎介(かじやま ていすけ、1848年11月15日(嘉永元年10月20日)- 1933年(昭和8年)3月25日)は、幕末の長府藩士、明治期の陸軍軍人・外交官・政治家。最終階級は陸軍歩兵中佐。衆議院議員。初名・喜代三郎。 長門国豊浦郡(現山口県下関市)で、長府藩士・梶山伴右衛門栄作の長男として生まれる。慶応元年2月14日(1865年3月11日)に長府藩報国隊が結成され斥候兼応接役となる。同年3月25日(4月20日)同志2名と長府藩保守派、藩目付役・林郡平を自宅で暗殺し、同年11月(12月-1966年1月)に捕縛され角島に流罪となった。その後、赦免され戊辰戦争で北陸の戦闘に報国隊軍監として従軍した。
武弘 宜路(たけひろ のぶみち、1848年6月25日(嘉永元… 武弘 宜路(たけひろ のぶみち、1848年6月25日(嘉永元年5月25日) - 1917年(大正6年)8月23日)は、日本の政治家、衆議院議員(3期)。 周防国都濃郡末武北村(のち山口県都濃郡花岡村、現・下松市)生まれ。長州藩士で農業を営む。漢、英、数、兵学を修め、1868年、陸軍に入り、1874年、大尉に進み、正七位に叙せられる。1877年、徴兵副使となり、西南戦争に参加する。翌年勲五等双光旭日章を授けられる。1881年、軍を退役し、村会議員、山口県会議員、所得税調査委員、徴兵参事員を務め、防長農工銀行、防長米同業組合各創立委員となる。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において山口4区から中央交渉会公認で立候補して初当選する。
沖原 光孚(おきはら こうふ、1848年4月6日〈嘉永元年3… 沖原 光孚(おきはら こうふ、1848年4月6日〈嘉永元年3月3日〉- 1931年〈昭和6年〉9月11日)は、明治から昭和初期の日本陸軍軍人、政治家、華族。最終階級は陸軍中将。男爵。 岩国藩士・松浦周蔵の四男として生まれ、沖原為蔵の養子となる。精義隊士として戊辰戦争に従軍。 1871年(明治4年)、陸軍中尉。御親兵第7番大隊付、第14番大隊付、東京鎮台第1大隊付などを経て、陸軍戸山学校に学ぶ。第8大隊付、歩兵第3連隊付、歩兵第2連隊中隊長などを歴任し、1877年(明治10年)3月から11月まで西南戦争に出征した。 別働第1旅団歩兵第1大隊長、歩兵第2連隊副官、歩兵第10連隊大隊長、近衛歩兵第1連隊大隊長、陸軍省人事局次長、総務局第4課長、人事課長、第2師団参謀長、陸軍教導団長などを歴任し、日清戦争には歩兵第13連隊長として出征した。
鳥尾 小弥太(とりお こやた、弘化4年12月5日〈1848年… 鳥尾 小弥太(とりお こやた、弘化4年12月5日〈1848年1月10日〉- 明治38年〈1905年〉4月13日)は、日本の陸軍軍人、政治家。陸軍中将正二位勲一等子爵。諱は照光、のち敬高(孝)。幼名は一之助。通称は百太郎、鳳輔など。号は得庵居士、不識道人など。 弘化4年12月5日(1848年1月10日)、萩城下川島村に長州藩士(御蔵元付中間)・中村宇右衛門敬義の長男として生まれる。安政5年(1858年)に父とともに江戸へ移り、江川英龍に砲術を学ぶ。万延元年(1860年)に帰藩して家督を相続。文久3年(1863年)に奇兵隊に入隊。乱暴者なので、親から勘当され、自ら鳥尾と名を定めた。長州征伐や薩摩藩との折衝などの倒幕活動に従事した。
桂 太郎(かつら たろう、旧字体: 桂 太郞、1848年1月… 桂 太郎(かつら たろう、旧字体: 桂 太郞、1848年1月4日〈弘化4年11月28日〉- 1913年〈大正2年〉10月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。内閣総理大臣(第11代、13代、15代:第1次桂内閣、第2次桂内閣、第3次桂内閣)、台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第5代)、内務大臣(第18代)、文部大臣(第23代)、大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣、外務大臣(第17代)などを歴任。日露戦争時の内閣総理大臣で、西園寺公望と交互に総理職を務めた期間は「桂園時代」と呼ばれた。軍人としての階級は陸軍大将で、栄典は、従一位大勲位功三級公爵。「元老の一人であった」という説もある。元老の井上馨とは義理の親子の関係であり、児玉源太郎、川上操六とともに「明治陸軍の三羽烏」と称された[要出典]。
馬屋原 二郎(うまやばら / うまやはら / まやはら じろ… 馬屋原 二郎(うまやばら / うまやはら / まやはら じろう、弘化4年10月17日〈1847年11月24日〉 - 1915年〈大正4年〉11月3日)は、幕末の長州藩士、明治・大正期の裁判官・政治家。貴族院勅選議員。別名、小倉衛門介、小倉右衛門介・衛門太。 長門国阿武郡萩江向村(現山口県萩市)で長州藩士・馬屋原良蔵の二男として生まれる。同志と干城隊、御楯隊を組織して、馬関、三田尻に屯営し、下関戦争、第二次長州征討の小瀬川口の戦いなどに従軍し軍功を挙げた。 明治2年(1869年)留学願を提出し、明治3年(1870年)周布金槌(周布公平)、光田三郎(光妙寺三郎)と共に長州藩費留学生としてフランスに派遣され、ベルギーの大学で法学を学んだ。
飯田 俊徳(いいだ としのり、弘化4年6月25日〈1847年… 飯田 俊徳(いいだ としのり、弘化4年6月25日〈1847年8月5日〉 - 1923年〈大正12年〉8月27日)は、日本の鉄道の父といわれる井上勝らと共に、日本の鉄道敷設に努めた明治時代の官僚、技術者である。山口県萩市出身。元長州藩士。 萩藩大組飯田家の子として生まれた。はじめは吉次郎といった。 藩校明倫館に学んだ後、吉田松陰・大村益次郎らに師事する。1864年、高杉晋作率いる奇兵隊にも所属していた。 1867年(慶応3年)12月、藩命で長崎・米国・オランダへ留学した(この時飯田と共に派遣されたのが、松下村塾時代の同期生でもあった渡辺蒿蔵)。帰国後、工部省鉄道局に入局。 1877年(明治10年)、大阪停車場(現大阪駅)構内にて日本最初の鉄道技術者養成機関として設立された工技生養成所で教鞭を執り、多くの日本人技術者らを育て上げる。
松野 礀(まつの はざま / かん、英: Hazama Jo… 松野 礀(まつの はざま / かん、英: Hazama Johannes Matsuno、1847年4月21日〈弘化4年3月7日〉 - 1908年〈明治41年〉5月14日)は、日本の林学者、林学教育者。東京山林学校初代校長兼教授。旧長州藩臣。ドイツ留学を経て日本への山林科学・林学導入と人材養成の基礎作りに貢献した。配偶者はベルリン出身の松野クララ。 長門国美祢郡大田村(現・山口県美祢市美東町大田)にて,長州藩郷士大野徳右衞門の四男(第七子)として生まれる。幼名は常松。一時他家の養子となったが復籍、以後義兄の医師長松幹の家で育てられた。万延元年(1860年)まで、郷士羽仁藤左衛門より和漢学を習い、文久元年(1861年)より山口にて藩儒岡守節等に就いて漢学を修業する傍ら、義兄に倣って医業を志し、蘭方医坪井信友(二代信道)に就いて初めて蘭学を学んだ。
光妙寺 三郎(こうみょうじ さぶろう、弘化4年8月(1847… 光妙寺 三郎(こうみょうじ さぶろう、弘化4年8月(1847年) - 明治26年(1893年)9月26日)は、日本の外務官・検事・衆議院議員である。旧姓・末松。 周防国佐波郡三田尻村(現山口県防府市東三田尻)に浄土真宗本願寺派の惠日山光妙寺の和尚・半雲の三男として生まれた。 1865年、長州藩諸隊の一つ鴻城隊に入隊した。このころは三田、光田姓を名乗った。井上馨の書記役を務めた。1869年に横浜フランス語伝習所に入学し、1871年に長州藩藩費留学生としてフランスとベルギーに留学した。この間、同じくフランス留学した西園寺公望とパリで親友となった。1878年2月、日本人として初めてパリ大学から法学士証書を授与された。
正木 退蔵(まさき たいぞう、弘化3年10月24日(1846… 正木 退蔵(まさき たいぞう、弘化3年10月24日(1846年12月12日) - 1896年(明治29年)4月5日)は、明治時代の教育者、外交官。旧萩藩士で、維新後ロンドンに留学し、開成学校講師で化学を教えた。その後、同校留学生監督として再び渡英し、帰国後東京職工学校初代校長に就任、晩年は在ハワイ王国総領事を務めた。正五位勲六等。 弘化3年(1846年)10月24日、長門国萩城外土原村渡り口筋で、萩藩大組士正木治右衛門の三男として生まれた。間もなく佐伯丹下の養子となったが、後に正木姓に復した。 安政5年(1858年)松下村塾で数ヶ月間吉田松陰に学んだ後、毛利元徳小姓として長州正義派に与し、大村益次郎の三兵学科塾で蘭学、兵学、三田尻海軍学校で英学を学んだ。
飯田 俊助(いいだ としすけ、1846年9月30日(弘化3年… 飯田 俊助(いいだ としすけ、1846年9月30日(弘化3年8月10日) - 1914年(大正3年)3月23日)は、日本の陸軍軍人、華族。最終階級は陸軍中将。男爵。 長門国厚狭郡宇部村(現・山口県宇部市)生まれ。長州藩家老福原家家臣・飯田直規(勘右衛門)の四男として生まれる。幼名は益雄。幼少期に両親を失う。豊後国の広瀬青邨に漢学を学ぶが、下関戦争の報を聞き直ちに帰国、福原越後に従って国事に奔走。その後奇兵隊に入隊し第二次長州戦争・戊辰戦争に従軍した。 1873年(明治6年)2月、歩兵少尉に任官。1874年(明治7年)9月、歩兵中尉となり、西南戦争では歩兵第2連隊第一中隊長として田原坂の戦いに参加した。
山口 素臣(やまぐち もとおみ、1846年6月8日〈弘化3年… 山口 素臣(やまぐち もとおみ、1846年6月8日〈弘化3年5月15日〉- 1904年〈明治37年〉8月7日)は、日本の陸軍軍人。第5師団長、歩兵第3・10旅団長を歴任し数々の戦役に悉く従軍した事から「戦将中の戦将」と評された。階級は陸軍大将従二位勲一等功二級子爵。 山口藩士・山本芳の息子として萩に生まれ、同藩士・山口義惟の養子となる。戊辰戦争に奇兵隊嚮導役として従軍し北陸、奥羽を転戦。維新後は陸軍に仕官する。 明治3年(1870年)9月に大坂陸軍教導団第2教導隊に入り明治4年(1871年)4月、陸軍軍曹に任命される。同年中に少尉、中尉、大尉と累進し1873年(明治6年)10月より陸軍少佐。翌年1月、近衛歩兵第1連隊が創設されると第1大隊長に就任し、佐賀の乱に参戦。
国司 仙吉(くにし せんきち、1846年(弘化9年) - 1… 国司 仙吉(くにし せんきち、1846年(弘化9年) - 1915年(大正4年)12月25日)は、幕末の長州藩士、明治期の官僚。秋田県権令。他の通称・千吉郎、号・水門。 長門国萩城下で長州藩士・国司右内、まし夫妻の息子として生まれた。安政4年(1857年)春、松下村塾に入り、安政5年(1858年)吉田松陰の野山再獄まで指導を受ける。文久3年(1863年)若殿様御前詰、元治2年(1865年)御小姓役となる。また、干城隊に入り、その後御楯隊に転じ、改組された整武隊に慶応3年(1867年)まで在籍した。慶応4年2月(1868年)、御蔵元順番検使役に任ぜられ、以後会計局検使、大坂検使役、会計局権大属などを歴任。
小倉 甚吉(おぐら じんきち、1846年(弘化3年5月) -… 小倉 甚吉(おぐら じんきち、1846年(弘化3年5月) - 1911年(明治44年)3月9日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 周防国熊毛郡島田村(のち山口県熊毛郡島田村、周南町、光町を経て現・光市)生まれ。萩明倫館で学ぶ。熊毛郡御用掛、島田村会議員、同副議長、山口県会議員、所得税調査委員、徴兵参事員となる。 1893年9月、曽禰荒助の辞職による山口4区の補欠選挙に立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1894年の第3回衆議院議員総選挙は不出馬。1911年に死去した。
青木 住真(あおき すみね/すみまさ、弘化3年(1846年)… 青木 住真(あおき すみね/すみまさ、弘化3年(1846年)– 昭和3年(1928年)3月17日)は、長州藩出身の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。海軍の水路(測量)事業の草創期に参加し、水路部初期の功労者として知られる。春日丸の艦長を務めた。名は住眞とも。 周防国佐波郡、のちの山口県佐波郡佐波村(現防府市)に安政2年(または弘化3年(1846年))に生まれる。長州藩の船舶・水軍を管理運用し海上警備や輸送を担った船手組の出身である。父は長州藩士・青木住衛(三郎兵衛)。 維新後は海軍に入り、明治3年(1870年)5月の日英共同測量の一員となった。水路事業の拡充が進む中、明治5年(1872年)に水路局が廃止され水路寮が置かれると、創設期の中核要員として青木(ほか中村雄飛・五藤国幹ら)が挙げられ、長州藩から推薦され長崎で研修を受けた伝習生であり、北海道測量にも参加した有能の士である青木は明治6年9月から測量課長を務めた。
本間 源三郎(ほんま げんざぶろう、1846年(弘化3年1月… 本間 源三郎(ほんま げんざぶろう、1846年(弘化3年1月) - 1908年(明治41年)7月9日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 周防国吉敷郡嘉川村(のち山口県吉敷郡嘉川村、現・山口市)生まれ。嘉川村戸長、同村長、山口県会議員、吉敷郡会議員、同参事会員、同議長となる。また、山口県農会名誉会員、同幹事、同代表者となった。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において山口1区から国民協会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙は不出馬。1908年に死去した。
井上 省三(いのうえ せいぞう、弘化2年10月15日〈184… 井上 省三(いのうえ せいぞう、弘化2年10月15日〈1845年11月14日〉 - 1886年〈明治19年〉12月14日)は、日本の実業家、技術者。明治時代初期の官吏。「日本の毛織物工業の父」と呼ばれた。 1845年11月14日(弘化2年10月15日)に厚狭郡宇津井村(現下関市)の庄屋である伯野家に次男として生まれ、同郡厚狭村(現山陽小野田市)の厚狭毛利家の家臣である井上家の養子となる。山口兵学校で蘭学を学び、奇兵隊隊長として倒幕に参加、1869年(明治2年)に木戸孝允と出会う。翌年に上京し、半年後に北白川宮能久親王に随行しドイツのベルリンへ留学。 当初は兵学を目的としていたが、殖産興業に変更し織物工場にて製絨技術を学ぶ。
木梨 精一郎(きなし せいいちろう、弘化2年9月9日(184… 木梨 精一郎(きなし せいいちろう、弘化2年9月9日(1845年10月9日) - 明治43年(1910年)4月26日)は、日本の内務官僚、陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍歩兵中佐。男爵、錦鶏間祗候。別名を恒準、号は宮圃。 長州藩士・木梨彦右衛門(大組、63石)の嫡男として生まれる。戊辰戦争には、東海道鎮撫総督参謀や東征大総督府参謀補助、奥羽鎮撫総督参謀、仙台追討総軍監を歴任し、戦後、軍功により永世賞典450石を受けた。 長州藩兵第1大隊長を経て明治4年(1871年)に上京、兵部省に出仕して兵部少丞となる。明治5年(1872年)の陸軍省創設後は陸軍少丞となるが、明治6年(1873年)8月、依願免本官となり位階の返上をした。
佐久間 左馬太(さくま さまた、1844年11月19日〈天保… 佐久間 左馬太(さくま さまた、1844年11月19日〈天保15年10月10日〉- 1915年〈大正4年〉8月5日)は、明治期の日本の陸軍軍人。栄典は正二位勲一等伯爵。台湾総督・東京衛戍総督・近衛師団長等を歴任し、最終階級は陸軍大将に昇る。台湾・花蓮の佐久間神社(現在は廃社)の祭神。 長州藩士・岡村孫七の次男として生まれ、佐久間竹之丞の養子となる。奇兵隊に入隊し、大村益次郎の元で西洋兵学を学ぶ。 1866年(慶応2年)、第二次長州征伐の時には長州藩諸隊の亀山隊大隊長として芸州口に従軍した。戊辰戦争では棚倉、二本松、会津を転戦。維新後陸軍軍人となり、1872年(明治5年)には陸軍大尉・西海鎮台付に任命される。
山田 顕義(やまだ あきよし、旧字体: 山田 顯義、1844… 山田 顕義(やまだ あきよし、旧字体: 山田 顯義、1844年11月18日〈天保15年10月9日〉- 1892年〈明治25年〉11月11日)は、日本の政治家、陸軍軍人。諱は顕孝(あきたか)、のちに、顕義に改めた。通称は市之允(いちのじょう)。号に養浩斎、狂痴、韓峰山人、不抜、空斎など。別名は山田 空斎(やまだ くうさい)。陸軍中将。正二位勲一等伯爵。 明治維新期の軍人として新政府に貢献するとともに、新日本の設立者として、近代日本の法典編纂に尽力したことから法典伯の異名を持つ。日本法律学校を創立するうえで評議員の一人として特に関わり、日本大学の学祖とされる。 吉田松陰が営む松下村塾に最年少の14歳で入門、最後の門下生となる。
大谷 靖(おおたに / おおや やすし、弘化元年9月14日〈… 大谷 靖(おおたに / おおや やすし、弘化元年9月14日〈1844年10月25日〉 - 1930年〈昭和5年〉3月6日)は、明治から昭和初期の内務官僚、政治家。貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。位階および勲等は正三位、勲二等。 周防国玖珂郡岩国城下錦見(山口県玖珂郡岩国町を経て現岩国市)で、岩国藩士・大谷権左衛門の長男として生まれる。文武を修め、1871年(明治4年)福岡県に出仕。福岡県権典事、大蔵権少丞、太政官少書記官、大蔵少書記官、大蔵権大書記官、内務権大書記官、内務省会計局長、同庶務局長、社寺局長心得、内務書記官・造神宮副使などを歴任した。 1914年(大正3年)に退官後は済生会理事長を務めた。
岡沢 精(おかざわ くわし、1844年8月20日〈弘化元年7… 岡沢 精(おかざわ くわし、1844年8月20日〈弘化元年7月7日〉- 1908年〈明治41年〉12月12日)は、日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、華族。正二位勲一等功二級子爵。 長州藩士岡沢甚内の子として萩に生まれる。1862年(文久2年)以降は江戸の長州藩邸に滞在しながら京都を往来し、文久の政変に巻き込まれたこともあった。大村益次郎の塾に学んだ後は尊皇攘夷運動に携わる。南国隊を組織し戊辰戦争に従軍した。 維新後は陸軍に進み、1870年(明治3年)10月に大坂第2教導隊に入営。1871年(明治4年)2月に四等軍曹、4月に御親兵大隊長、6月3日には陸軍准中尉となり、さらに同年中には中尉・大尉・少佐と昇任した。