植田 謙輔(うえだ けんすけ、1860年9月13日(万延元年… 植田 謙輔(うえだ けんすけ、1860年9月13日(万延元年7月28日) - 1927年(昭和2年)2月3日)は、日本の篤農家、政治家(山口県豊浦郡彦島村長)、実業家。彦島電気取締役。族籍は山口県平民。大彦島建設第一の功労者であった。 長門国彦島(現・山口県下関市)出身。植田藤左衛門の長男。第2代村長田代寅次郎に用いられて1890年、助役に就職し、1891年、第3代村長の要職に就いた。一意村治のために村長として約30年の永きにわたり心血を注いだ。 郡の町村長会副会長となり、種々な公的名誉職に関与した。自治功労者として表彰された。『彦島大観』で「彦島の元勲として崇敬すべき歴史的人物である。」と紹介されている。
井原 百介(いばら ひゃくすけ、1860年2月26日(安政7… 井原 百介(いばら ひゃくすけ、1860年2月26日(安政7年2月5日) - 1927年(昭和2年)12月15日)は、日本の農学者、政治家。衆議院議員(大阪府郡部選出、当選2回)。族籍は山口県士族。 長門国阿武郡萩町(現萩市)出身。山口県士族・井原勘兵衛の二男で、先代井原壽の養子となり家督を相続する。 1880年(明治13年)、駒場農学校農学科を卒業し、1883年(明治16年)には同校農芸化学科を卒業した。農商務省御用掛、山口中学校教諭、山口農学校校長、山口高等中学校教諭、宮城農学校校長、宮城県技師を歴任した。1898年(明治31年)より大阪府技師、大阪府立農学校校長を務めた。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
近藤 慶一(こんどう けいいち、1859年10月26日(安政… 近藤 慶一(こんどう けいいち、1859年10月26日(安政6年10月1日) - 1937年(昭和12年)3月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 山口県大島郡志佐出身。近藤清吉の子として生まれる。近藤家は庄屋を務めていた。1864年(元治元年)に寺子屋(永寿庵等悟和尚)へ入門。漢学などを学ぶ。1881年家督を相続する。 大島海員学校創設(1897年)および県立学校移行(1901年)に尽力する。沖浦区長、小松志佐村村会議員、山口県会議員、第6代同副議長(1903年から1904年)、第8代同議長(1904年から1907年)を務める。大島銀行頭取。朝鮮勧農株式会社、大島汽船(株)各取締役。
長岡 外史(ながおか がいし、1858年6月23日〈安政5年… 長岡 外史(ながおか がいし、1858年6月23日〈安政5年5月13日〉- 1933年〈昭和8年〉4月21日)は、明治、大正期の陸軍軍人、政治家。陸士旧2期・陸大1期。栄典は正三位勲一等功二級。最終階級は陸軍中将。 周防国都濃郡末武村(現:山口県下松市)出身。父は大庄屋・堀三右衛門で、徳山藩士・長岡南陽の養子。明倫館を経て、1878年(明治11年)、陸軍士官学校(旧2期)卒。1885年(明治18年)に陸軍大学校を一期生として卒業。 日清戦争では大島混成旅団の参謀、1897年(明治30年)には軍務局第2軍事課長を勤め、ドイツ派遣を経験する。1902年(明治35年)には陸軍少将となり、歩兵第9旅団長を務める。
山本 六彦(やまもと ろくひこ、1857年2月12日(安政4… 山本 六彦(やまもと ろくひこ、1857年2月12日(安政4年1月18日)- 1899年(明治32年)6月25日)は、日本の地主、政治家、衆議院議員(1期)。 周防国玖珂郡(山口県玖珂郡高森村、高森町、周東町を経て現岩国市)生まれ。農業を営む。第四大区第十小区戸長となり、1889年(明治22年)6月から1891年(明治24年)7月まで初代高森村長を務めた。 1895年、小田伴輔辞職に伴う衆議院山口5区の補欠選挙に立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1898年3月の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。1899年に死去した。
上田 実(實、うえだ みのる、1857年1月27日(安政4年… 上田 実(實、うえだ みのる、1857年1月27日(安政4年1月2日) - 1929年(昭和4年)4月8日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 周防国吉敷郡、のちの山口県吉敷郡大道村(現防府市)出身。漢学と政治経済学を学ぶ。戸長、協同会社赤間関支店長、大道村会議員、同村長、吉敷郡会議員、同参事会員、山口県会議員、同参事会員、所得税調査委員、学務委員、破産管財人、地方森林会議員となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において山口県郡部から立憲政友会公認で立候補して初当選した。1903年の第8回衆議院議員総選挙では政友倶楽部から出馬して再選。衆議院議員を2期務め、1904年の第9回衆議院議員総選挙は不出馬。
大岡 育造(おおおか いくぞう、1856年7月4日〈安政3年… 大岡 育造(おおおか いくぞう、1856年7月4日〈安政3年6月3日〉- 1928年〈昭和3年〉1月26日)は、明治・大正期の弁護士・政治家。号は硯海。 医師大岡尚斎の長男として、長門国豊浦郡小串村(現:山口県下関市)に生まれた。1873年(明治6年)、長崎医学校(現:長崎大学医学部)に入ったが、翌年廃校となった為、上京して大井憲太郎らの講法学舎で法律を学んだ。司法省法学校に通ったとの記事は、裏付けを欠くとも言う。 1880年(明治13年)12月、代言人(現在の弁護士)の資格を取り、講法学舎の幹事になった。沼間守一に兄事して、1881年(明治14年)、板垣退助らの自由党に入党した。また、共立学校の幹事に転じ、1882年(明治15年)、校長になった。
磯部 孝一(いそべ こういち、1854年(安政元年3月) -… 磯部 孝一(いそべ こういち、1854年(安政元年3月) - 1936年(昭和11年)12月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 長門国大津郡三隅村(のち山口県大津郡三隅町、現・長門市)生まれ。農業を営み、山口県会議員、同常置委員、防長農工銀行創立委員となる。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において山口2区から立憲自由党公認で立候補したが落選。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙では自治党から立候補したが落選。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では国民協会から立候補したが落選。1898年3月の第5回衆議院議員総選挙では国民協会から立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙は不出馬。
江木 千之(えぎ かずゆき、1853年5月21日〈嘉永6年4… 江木 千之(えぎ かずゆき、1853年5月21日〈嘉永6年4月14日〉- 1932年〈昭和7年〉8月23日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の文部・内務官僚、政治家。号は狂塢。 文部省普通学務局長、内務省県治局長、茨城・栃木・愛知・広島各県知事、貴族院議員、文部大臣、皇典講究所長、全国神職会長、枢密顧問官を歴任した。 周防国岩国藩出身。岩国藩士・江木仙左衛門俊敬の長男として生まれる(幼名・吉太郎)。1870年(明治3年)、藩命により大阪開成所で外国語を学び、翌年より開拓使仮学校、大学南校、工部省工学寮などに学ぶ。1874年(明治7年)に文部省に出仕し、会計局副長、視学官、参事官、普通学務局長を歴任。
硲 俊聡(俊聰、はざま しゅんそう、1853年1月24日(嘉… 硲 俊聡(俊聰、はざま しゅんそう、1853年1月24日(嘉永5年12月15日) - 1931年(昭和6年)8月30日)は、明治から昭和初期の教育者、政治家。衆議院議員、第5代・10代山口県会議長、山口県玖珂郡伊陸村長、同郡神代村長。旧姓・村岡、旧名・米村平之進。 周防国玖珂郡神代村原(山口県玖珂郡神代村、由宇町を経て現岩国市)で、村岡伝左衛門の三男として生まれる。兄に村岡柳太郎。 米村家の養子となるが、その後、伊陸村の硲家の養子となる。幼くして学問を好み、藩儒の東沢瀉に学び、和漢学を修めた。戊辰戦争では精義隊に入隊し中央隊長として奥羽に出征した。 大阪開成所(のち大阪英語学校)で仏蘭西学を学び、1878年(明治11年)官立大阪師範学校を卒業した。
植田 治作(うえだ じさく、1853年(嘉永6年) - 19… 植田 治作(うえだ じさく、1853年(嘉永6年) - 1925年(大正14年))は、日本の篤農家、政治家(山口県豊浦郡会議員、同郡彦島村会議員)、実業家。 長門国彦島西山(現・山口県下関市)出身。植田甚之丞の嫡子。1889年、町村制が実施されると推されて村会議員となり30余年間その公職にあって村政に参与し、その間には郡会議員となり信用組合・漁業組合の理事及び各種の名誉職に挙げられた。 1915年11月、彦島村長より、1919年10月、山口県知事より村治功労者として同年10月には彦島町長より1922年4月、豊浦郡長より自治功労者として表彰され、里人の手によって頌徳碑が建設された。 貧困な家を復興すると同時に全身熱血を注いで部落の青年を薫陶し、常に誠意をもって不言実行した。
荒川 邦蔵(あらかわ くにぞう、嘉永5年4月18日〈1852… 荒川 邦蔵(あらかわ くにぞう、嘉永5年4月18日〈1852年6月5日〉 - 1903年〈明治36年〉10月11日)は、明治時代の官僚、政治家。内務省などで務め、福井県知事も務めた。 長州藩領の長門国大津郡向津具村(現・山口県長門市)出身。諸官を経て、1892年11月16日に牧野伸顕の後をついで、内務省衛生局長から福井県知事に任ぜられた。荒川は県知事として、濃尾地震の被害による道路などの修復に県から全額支出させた。また、県内の女子の就学を奨励した。1897年4月6日まで務めた。 1898年、内務省県治局長に任ぜられるがまもなく辞任。その後帝国党の組織に尽力した。1903年10月11日に病死し、同日に位を一級進めて正四位に叙される。
児玉 源太郎(こだま げんたろう、旧字体: 兒玉 源太郞、1… 児玉 源太郎(こだま げんたろう、旧字体: 兒玉 源太郞、1852年4月14日〈嘉永5年閏2月25日〉- 1906年〈明治39年〉7月23日)は、明治時代の日本の陸軍軍人、政治家。日露戦争において満洲軍総参謀長を務め、勝利に貢献した。階級は陸軍大将、栄典は正二位勲一等功一級子爵。 嘉永5年(1852年)閏2月25日、周防国都濃郡徳山の本丁で、長州藩の支藩・徳山藩の上士(馬廻役、100石。)児玉半九郎忠硯の長男として生まれる。当時、児玉家には長女の久子と次女の信子がいるのみで、児玉源太郎が初めての男子であったため、彼の誕生に家族一同は大いに喜んだ。児玉が生まれた時に父・半九郎は向かいの家に住む友人で漢学者の島田蕃根の家に赴き、四、五人で詩文に興じていたが、家人が慌ただしくやって来て男子誕生を告げたため、半九郎は歓喜して直ちに島田家から帰宅し、祝杯を挙げた。
寺内 正毅(てらうち まさたけ、旧字体: 寺內 正毅、185… 寺内 正毅(てらうち まさたけ、旧字体: 寺內 正毅、1852年3月25日〈嘉永5年閏2月5日〉 - 1919年〈大正8年〉11月3日)は、明治・大正期の日本の陸軍軍人、政治家。軍人としての階級は元帥陸軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功一級。爵位は伯爵。 書の雅号は桜圃、魯庵。「ビリケン宰相」の異名を持つ。 陸軍大臣(第7代)、外務大臣臨時兼任(第2次桂内閣・寺内内閣)、韓国統監(第3代)、朝鮮総督(初代)、内閣総理大臣(第18代)、大蔵大臣(第19代)などを歴任した。 明治から大正にかけて陸軍軍人として活躍し、第1次桂内閣では児玉源太郎の後任として陸軍大臣に就任した。以来、第1次西園寺内閣や第2次桂内閣でも陸軍大臣を務めた。
瀧川 辨三(たきがわ べんぞう、嘉永4年11月21日(185… 瀧川 辨三(たきがわ べんぞう、嘉永4年11月21日(1851年12月13日) - 大正14年(1925年)1月12日)は、日本の実業家、政治家。 1884年、神戸で興したマッチ製造会社(精燧社)が成功、精燧社は数々の会社を吸収して東洋燐寸株式会社と改名し、辨三は「日本のマッチ王」と呼ばれるようになる。神戸のガス・水道・電気・築港などの公共事業にも参画した。神戸商工会議所会頭、貴族院多額納税者議員(1915年1月21日 - 1918年9月28日)などを歴任し1925年没。享年75。 嘉永4年(1851年)11月21日長府藩士瀧川清の二男として生まれた(戸籍では兵庫県平民)。幼名は百十郎、通称は武熊。
真鍋 斌(まなべ あきら/さかり、1851年3月7日(嘉永4… 真鍋 斌(まなべ あきら/さかり、1851年3月7日(嘉永4年2月5日)- 1918年12月14日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。幼名・熊槌。 長門国阿武郡萩城下(現山口県萩市)で長州藩中士・真鍋安信の長男として生まれる。明倫館で学び、1866年、干城隊に入隊。1870年、大坂兵部省屯所に入営し、1871年、陸軍青年学舎を卒業。陸軍教導団出仕を経て、1872年、陸軍少尉任官。以後、陸軍兵学寮付、陸軍省第1局第3課などを経て、1877年4月から10月まで西南戦争に出征した。 陸軍省第1局第3課長心得、総務局武学課長、同局第3課長心得、同課長、歩兵第3連隊長、第1軍事課長、第4師団参謀長、第1軍事課長、総務局人事課長などを歴任し、1897年7月、陸軍少将に進級。
坂田 昌熾(さかた まさあき / まさたる、1851年(嘉永… 坂田 昌熾(さかた まさあき / まさたる、1851年(嘉永4年1月)- 1908年(明治41年)3月30日)は、幕末の長州藩奇兵隊士、明治期の海軍軍人・政治家。衆議院議員。最終階級は海軍少佐。通称・次郎。号・琴所。 周防国熊毛郡伊保庄南村(山口県熊毛郡伊保庄南村、阿月村を経て現柳井市阿月)で、長州藩寄組で阿月領主浦氏の家臣の家に生まれた。赤禰武人、岡村熊七らに学んだ。奇兵隊に所属し四境戦争に従軍した。 明治維新後、大阪、東京で英語を学んだ。1874年(明治7年)1月、海軍に出仕し海軍少尉補に任官。神風連の乱・萩の乱の鎮定、西南戦争に従軍した。 以後、水路部測量班長、軍事部勤務、参謀本部海軍部第1局員、艦隊対戦演習取調委員、大演習審判官陪従、兵器部次長、横須賀軍港司令官副官、軍法会議判士長、迅鯨艦副長、鳳翔艦長、海軍造兵廠火薬科長などを歴任。
堅田 少輔(かただ しょうすけ、嘉永3年10月26日(185… 堅田 少輔(かただ しょうすけ、嘉永3年10月26日(1850年11月29日)- 大正8年(1919年)11月29日)は、幕末の長州藩士、明治から大正初期の教育者、政治家。長州藩家老、衆議院議員、山口県都濃郡湯野村長。旧姓・高洲。諱・信義、親正。通称・健助、大和、少輔。 長門国阿武郡萩平安古(山口県阿武郡萩町を経て現萩市平安古)で、長州藩寄組士・高洲平七元忠の五男として生まれた。嘉永4年(1851年)同藩寄組士筆頭・堅田安房謹恪の婿養子となり家督を相続した。 慶応元年(1865年)5月、八幡隊総管に就任。慶応2年(1866年)6月)、第二次長州征討で芸州口から豊前小倉に転戦した。慶応3年(1867年)、鋭武隊総管となる。
井上 正一(いのうえ せいいち、1850年4月7日(嘉永3年… 井上 正一(いのうえ せいいち、1850年4月7日(嘉永3年2月25日) - 1936年(昭和11年)10月3日)は、日本の法学者、衆議院議員、大審院判事。 長門国大津郡伊上村(山口県大津郡菱海村、油谷町を経て現在の山口県長門市油谷伊上)生まれ。1866年の四境戦争に際して長州藩諸隊の一つ鐘秀隊に加わり、芸州口と石州口を転戦。その後許可を得て隊を離れ、萩明倫館と山口文学寮で学ぶ。維新後に単身上京して箕作麟祥の下でフランス学を修めた。1870年開成学校に入った後、長州藩の貢進生に選ばれ、大学南校を経て1875年に司法省法学校を卒業。同年秋にフランスに留学し、法学博士の学位を取得。1881年に帰国するとただちに司法省雇となり、開校間もない明治法律学校(のちの明治大学)にも講師として迎えられた。
安倍 慎太郎(あべ しんたろう、1850年(嘉永3年)- 1… 安倍 慎太郎(あべ しんたろう、1850年(嘉永3年)- 1882年(明治15年)10月10日)は、日本の政治家。 1850年、安倍英任の長男として長門国大津郡蔵小田村(現:山口県長門市油谷蔵小田)に生まれ、安倍家中興の祖と評される。安倍家は江戸時代に大庄屋を務め、酒と醤油の醸造を営む大地主であり、地元の名門として知られた豪家である。慎太郎は明治12年(1879年)の第1回山口県議会議員選挙に当選、中央政界入りを狙うも明治15年(1882年)10月10日に32歳で死去した。 安倍慎太郎には直系が育たなかったため、妹のタメが郡内で名門として知られる椋木(むくのき)家から彪助を婿養子に迎える。彪助はタメとの間に一人息子・安倍寛を儲けた。
宇佐川 一正(うさがわ かずまさ、1849年12月24日〈嘉… 宇佐川 一正(うさがわ かずまさ、1849年12月24日〈嘉永2年11月10日〉- 1927年〈昭和2年〉11月10日)は、明治から昭和初期の日本陸軍の軍人、政治家、華族。最終階級は陸軍中将。貴族院男爵議員。 長州藩士・藤村太郎右衛門の四男として生まれ、宇佐川久平の養子となる。伏水教導隊に入り、下士官試補、権曹長、曹長と昇進し、1874年(明治7年)6月、陸軍戸山学校を卒業し、翌月、歩兵少尉に任官。以後、歩兵第14連隊付となり、1877年(明治10年)2月、西南戦争に出征した。歩兵第24連隊大隊副官、歩兵第1旅団参謀、同副官、近衛歩兵第1旅団副官、第1師団参謀、歩兵第17連隊付、監軍部副官、近衛師団参謀などを歴任し、日清戦争には第1軍参謀として出征し、田村怡与造の後任として同軍参謀副長となった。
梶山 鼎介(かじやま ていすけ、1848年11月15日(嘉永… 梶山 鼎介(かじやま ていすけ、1848年11月15日(嘉永元年10月20日)- 1933年(昭和8年)3月25日)は、幕末の長府藩士、明治期の陸軍軍人・外交官・政治家。最終階級は陸軍歩兵中佐。衆議院議員。初名・喜代三郎。 長門国豊浦郡(現山口県下関市)で、長府藩士・梶山伴右衛門栄作の長男として生まれる。慶応元年2月14日(1865年3月11日)に長府藩報国隊が結成され斥候兼応接役となる。同年3月25日(4月20日)同志2名と長府藩保守派、藩目付役・林郡平を自宅で暗殺し、同年11月(12月-1966年1月)に捕縛され角島に流罪となった。その後、赦免され戊辰戦争で北陸の戦闘に報国隊軍監として従軍した。
武弘 宜路(たけひろ のぶみち、1848年6月25日(嘉永元… 武弘 宜路(たけひろ のぶみち、1848年6月25日(嘉永元年5月25日) - 1917年(大正6年)8月23日)は、日本の政治家、衆議院議員(3期)。 周防国都濃郡末武北村(のち山口県都濃郡花岡村、現・下松市)生まれ。長州藩士で農業を営む。漢、英、数、兵学を修め、1868年、陸軍に入り、1874年、大尉に進み、正七位に叙せられる。1877年、徴兵副使となり、西南戦争に参加する。翌年勲五等双光旭日章を授けられる。1881年、軍を退役し、村会議員、山口県会議員、所得税調査委員、徴兵参事員を務め、防長農工銀行、防長米同業組合各創立委員となる。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において山口4区から中央交渉会公認で立候補して初当選する。
沖原 光孚(おきはら こうふ、1848年4月6日〈嘉永元年3… 沖原 光孚(おきはら こうふ、1848年4月6日〈嘉永元年3月3日〉- 1931年〈昭和6年〉9月11日)は、明治から昭和初期の日本陸軍軍人、政治家、華族。最終階級は陸軍中将。男爵。 岩国藩士・松浦周蔵の四男として生まれ、沖原為蔵の養子となる。精義隊士として戊辰戦争に従軍。 1871年(明治4年)、陸軍中尉。御親兵第7番大隊付、第14番大隊付、東京鎮台第1大隊付などを経て、陸軍戸山学校に学ぶ。第8大隊付、歩兵第3連隊付、歩兵第2連隊中隊長などを歴任し、1877年(明治10年)3月から11月まで西南戦争に出征した。 別働第1旅団歩兵第1大隊長、歩兵第2連隊副官、歩兵第10連隊大隊長、近衛歩兵第1連隊大隊長、陸軍省人事局次長、総務局第4課長、人事課長、第2師団参謀長、陸軍教導団長などを歴任し、日清戦争には歩兵第13連隊長として出征した。
鳥尾 小弥太(とりお こやた、弘化4年12月5日〈1848年… 鳥尾 小弥太(とりお こやた、弘化4年12月5日〈1848年1月10日〉- 明治38年〈1905年〉4月13日)は、日本の陸軍軍人、政治家。陸軍中将正二位勲一等子爵。諱は照光、のち敬高(孝)。幼名は一之助。通称は百太郎、鳳輔など。号は得庵居士、不識道人など。 弘化4年12月5日(1848年1月10日)、萩城下川島村に長州藩士(御蔵元付中間)・中村宇右衛門敬義の長男として生まれる。安政5年(1858年)に父とともに江戸へ移り、江川英龍に砲術を学ぶ。万延元年(1860年)に帰藩して家督を相続。文久3年(1863年)に奇兵隊に入隊。乱暴者なので、親から勘当され、自ら鳥尾と名を定めた。長州征伐や薩摩藩との折衝などの倒幕活動に従事した。
桂 太郎(かつら たろう、旧字体: 桂 太郞、1848年1月… 桂 太郎(かつら たろう、旧字体: 桂 太郞、1848年1月4日〈弘化4年11月28日〉- 1913年〈大正2年〉10月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。内閣総理大臣(第11代、13代、15代:第1次桂内閣、第2次桂内閣、第3次桂内閣)、台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第5代)、内務大臣(第18代)、文部大臣(第23代)、大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣、外務大臣(第17代)などを歴任。日露戦争時の内閣総理大臣で、西園寺公望と交互に総理職を務めた期間は「桂園時代」と呼ばれた。軍人としての階級は陸軍大将で、栄典は、従一位大勲位功三級公爵。「元老の一人であった」という説もある。元老の井上馨とは義理の親子の関係であり、児玉源太郎、川上操六とともに「明治陸軍の三羽烏」と称された[要出典]。
馬屋原 二郎(うまやばら / うまやはら / まやはら じろ… 馬屋原 二郎(うまやばら / うまやはら / まやはら じろう、弘化4年10月17日〈1847年11月24日〉 - 1915年〈大正4年〉11月3日)は、幕末の長州藩士、明治・大正期の裁判官・政治家。貴族院勅選議員。別名、小倉衛門介、小倉右衛門介・衛門太。 長門国阿武郡萩江向村(現山口県萩市)で長州藩士・馬屋原良蔵の二男として生まれる。同志と干城隊、御楯隊を組織して、馬関、三田尻に屯営し、下関戦争、第二次長州征討の小瀬川口の戦いなどに従軍し軍功を挙げた。 明治2年(1869年)留学願を提出し、明治3年(1870年)周布金槌(周布公平)、光田三郎(光妙寺三郎)と共に長州藩費留学生としてフランスに派遣され、ベルギーの大学で法学を学んだ。
光妙寺 三郎(こうみょうじ さぶろう、弘化4年8月(1847… 光妙寺 三郎(こうみょうじ さぶろう、弘化4年8月(1847年) - 明治26年(1893年)9月26日)は、日本の外務官・検事・衆議院議員である。旧姓・末松。 周防国佐波郡三田尻村(現山口県防府市東三田尻)に浄土真宗本願寺派の惠日山光妙寺の和尚・半雲の三男として生まれた。 1865年、長州藩諸隊の一つ鴻城隊に入隊した。このころは三田、光田姓を名乗った。井上馨の書記役を務めた。1869年に横浜フランス語伝習所に入学し、1871年に長州藩藩費留学生としてフランスとベルギーに留学した。この間、同じくフランス留学した西園寺公望とパリで親友となった。1878年2月、日本人として初めてパリ大学から法学士証書を授与された。
小倉 甚吉(おぐら じんきち、1846年(弘化3年5月) -… 小倉 甚吉(おぐら じんきち、1846年(弘化3年5月) - 1911年(明治44年)3月9日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 周防国熊毛郡島田村(のち山口県熊毛郡島田村、周南町、光町を経て現・光市)生まれ。萩明倫館で学ぶ。熊毛郡御用掛、島田村会議員、同副議長、山口県会議員、所得税調査委員、徴兵参事員となる。 1893年9月、曽禰荒助の辞職による山口4区の補欠選挙に立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1894年の第3回衆議院議員総選挙は不出馬。1911年に死去した。
本間 源三郎(ほんま げんざぶろう、1846年(弘化3年1月… 本間 源三郎(ほんま げんざぶろう、1846年(弘化3年1月) - 1908年(明治41年)7月9日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 周防国吉敷郡嘉川村(のち山口県吉敷郡嘉川村、現・山口市)生まれ。嘉川村戸長、同村長、山口県会議員、吉敷郡会議員、同参事会員、同議長となる。また、山口県農会名誉会員、同幹事、同代表者となった。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において山口1区から国民協会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙は不出馬。1908年に死去した。
木梨 精一郎(きなし せいいちろう、弘化2年9月9日(184… 木梨 精一郎(きなし せいいちろう、弘化2年9月9日(1845年10月9日) - 明治43年(1910年)4月26日)は、日本の内務官僚、陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍歩兵中佐。男爵、錦鶏間祗候。別名を恒準、号は宮圃。 長州藩士・木梨彦右衛門(大組、63石)の嫡男として生まれる。戊辰戦争には、東海道鎮撫総督参謀や東征大総督府参謀補助、奥羽鎮撫総督参謀、仙台追討総軍監を歴任し、戦後、軍功により永世賞典450石を受けた。 長州藩兵第1大隊長を経て明治4年(1871年)に上京、兵部省に出仕して兵部少丞となる。明治5年(1872年)の陸軍省創設後は陸軍少丞となるが、明治6年(1873年)8月、依願免本官となり位階の返上をした。
山田 顕義(やまだ あきよし、旧字体: 山田 顯義、1844… 山田 顕義(やまだ あきよし、旧字体: 山田 顯義、1844年11月18日〈天保15年10月9日〉- 1892年〈明治25年〉11月11日)は、日本の政治家、陸軍軍人。諱は顕孝(あきたか)、のちに、顕義に改めた。通称は市之允(いちのじょう)。号に養浩斎、狂痴、韓峰山人、不抜、空斎など。別名は山田 空斎(やまだ くうさい)。陸軍中将。正二位勲一等伯爵。 明治維新期の軍人として新政府に貢献するとともに、新日本の設立者として、近代日本の法典編纂に尽力したことから法典伯の異名を持つ。日本法律学校を創立するうえで評議員の一人として特に関わり、日本大学の学祖とされる。 吉田松陰が営む松下村塾に最年少の14歳で入門、最後の門下生となる。
大谷 靖(おおたに / おおや やすし、弘化元年9月14日〈… 大谷 靖(おおたに / おおや やすし、弘化元年9月14日〈1844年10月25日〉 - 1930年〈昭和5年〉3月6日)は、明治から昭和初期の内務官僚、政治家。貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。位階および勲等は正三位、勲二等。 周防国玖珂郡岩国城下錦見(山口県玖珂郡岩国町を経て現岩国市)で、岩国藩士・大谷権左衛門の長男として生まれる。文武を修め、1871年(明治4年)福岡県に出仕。福岡県権典事、大蔵権少丞、太政官少書記官、大蔵少書記官、大蔵権大書記官、内務権大書記官、内務省会計局長、同庶務局長、社寺局長心得、内務書記官・造神宮副使などを歴任した。 1914年(大正3年)に退官後は済生会理事長を務めた。
品川 弥二郎(しながわ やじろう、旧字体: 品川 彌二郞、天… 品川 弥二郎(しながわ やじろう、旧字体: 品川 彌二郞、天保14年閏9月29日〈1843年11月20日〉- 明治33年〈1900年〉2月26日)は、日本の官僚・政治家。栄典は正二位勲一等子爵。名は省吾、弥吉。号は扇洲。別称に橋本八郎、松本清熊などがある。 天保14年(1843年)、長州藩の足軽・品川弥市右衛門と池田六左衛門の長女・まつの長男として生まれた。安政5年(1858年)、松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受けるが、安政6年(1859年)に安政の大獄で松陰が刑死すると、高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、英国公使館焼き討ちなどを実行している。元治元年(1864年)の禁門の変では八幡隊長として参戦し、のちに太田市之進、山田顕義らと御楯隊を組織した。
古谷 新作(ふるや しんさく、1843年10月8日(天保14… 古谷 新作(ふるや しんさく、1843年10月8日(天保14年9月15日) - 1921年(大正10年)5月1日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(3期)。 周防国佐波郡植松村(のち華城村、現・防府市)に生まれる。漢籍を学ぶ。剣術と砲術を修め、さらに西洋兵学を学ぶ。1868年藩の砲兵隊長、花陽丸砲艦司令として乗り組み、蝦夷地に派遣される。1869年藩の砲兵塾舎長、兵学寮助教を命じられ、1871年山口県一番砲隊少尉となるが、翌年、解散となる。1974年陸軍武庫司十等出仕となり、翌年陸軍十等出仕となる。1876年陸軍上等監護となるが、病気のため辞職する。 陸軍を辞職した後は佐波郡大区代議人、山口県会議員、同副議長、同常置委員、同議長となる。
内海 忠勝(うつみ ただかつ、1843年9月12日〈天保14… 内海 忠勝(うつみ ただかつ、1843年9月12日〈天保14年8月19日〉- 1905年〈明治38年〉1月20日)は、日本の武士、官僚、政治家。内務大臣(第16代)、長崎県令、三重県令、兵庫県知事(第9代)、長野県知事(第2代)、神奈川県知事(第3代)、大阪府知事(第8代)、京都府知事(第8代)、会計検査院長、貴族院議員などを歴任。吉田治助の四男。長州藩士である。従三位勲三等、死後に従二位勲一等旭日大綬章。男爵。 周防国吉敷郡吉敷村(現在の山口県山口市)出身。長州藩士として禁門の変に参加。維新後新政府に登用され、岩倉使節団に大使随行員として参加。地方官として長崎、三重、兵庫、長野、神奈川、大阪、京都の各県令・知事を歴任。
有地 品之允(ありち しなのじょう、1843年4月14日〈天… 有地 品之允(ありち しなのじょう、1843年4月14日〈天保14年3月15日〉- 1919年〈大正8年〉1月17日)は、日本の陸軍軍人、海軍軍人、華族、政治家。貴族院議員、第2代連合艦隊司令長官。爵位は男爵。最終階級は海軍中将。別名は信政。 長州藩士で武術指南役を務め、禄高1千石の大身である有地信敏(通称は藤馬)の長男として生まれる。戊辰戦争では干城隊士として奥羽に出陣した。 明治2年(1869年)から同4年(1871年)まで欧州へ出張して普仏戦争を視察。帰国後に陸軍少佐、御親兵6番大隊長となり、同年から明治6年(1873年)まで侍従を務める。同年に海軍に転じ、海軍少佐となって提督府分課に勤務。
寺島 秋介(てらしま あきすけ / てらじま あきすけ / … 寺島 秋介(てらしま あきすけ / てらじま あきすけ / てらじま しゅうすけ、1842年11月17日(天保13年10月15日)- 1910年(明治43年)7月30日)は、日本の官僚・政治家。諱・直方、通称・秀之助。 周防国熊毛郡原村(現周南市)で長州藩士・寺島太次郎直一、沢夫妻の長男として生まれる。下関戦争、禁門の変に参加した。 慶応4年1月12日(1868年2月6日)浪華隊隊長に就任。同年2月27日(3月20日)東征大総督・有栖川宮熾仁親王の副参謀を命ぜられ江戸に下り、上野戦争では団子坂口の諸藩兵の総指揮を担当した。同年7月2日(8月19日)奥羽鎮撫総督九条道孝の参謀に任じられ奥州を転戦し、明治元年11月1日(1868年12月14日)京都に帰還した。
野村 素介(のむら もとすけ、1842年6月26日(天保13… 野村 素介(のむら もとすけ、1842年6月26日(天保13年5月18日)- 1927年(昭和2年)12月23日)は、幕末から昭和初期にかけての日本の武士(長州藩士)、官僚、政治家、書家。正二位勲一等 男爵。幼名は範輔、字は絢夫、号は右仲、素軒。 1842年(天保13年)5月18日に長州藩士 有地留之助の次男として周防国吉敷郡長野村(現在の山口県山口市)に生まれる。はじめ、萩の藩校明倫館で学ぶ。1859年(安政6年)4月、江戸へ行き、長州藩上屋敷内の有備館で学ぶ。さらに儒学者 塩谷宕陰から漢籍・経書・歴史を、書家 小島成斎から書道を学ぶ。1862年(文久2年)に帰国して明倫館舎長となる。 1863年(文久3年)10月に同じく長州藩士 野村正名の養子となり、1866年(慶応2年)2月、家督を継ぐ。
松本 鼎(まつもと かなえ、1839年5月27日(天保10年… 松本 鼎(まつもと かなえ、1839年5月27日(天保10年4月15日) - 1907年(明治40年)10月20日)は、幕末の長州藩士、明治期の内務官僚・政治家。和歌山県知事、衆議院議員、貴族院議員、元老院議官、男爵。通称・鼎造。 周防国、現在の山口県防府市三田尻出身。生家は農家で仏門に入る。松下村塾に入り吉田松陰に学んだ。還俗し長州藩士となり、禁門の変に従軍し、敗戦後、御楯隊に加わった。第二次長州征伐、戊辰戦争に従軍。明治元年12月(1869年1 - 2月)、箱館府監事に就任。 明治4年2月28日(1871年4月17日)、大阪府大属となり、権典事、典事、権参事、小書記官、大書記官と昇進した。1878年8月、熊本県大書記官に転じ、さらに和歌山県大書記官を務めた。
山縣 有朋(やまがた ありとも、新字体:山県 有朋、1838… 山縣 有朋(やまがた ありとも、新字体:山県 有朋、1838年6月14日〈天保9年閏4月22日〉- 1922年〈大正11年〉2月1日)は、日本の政治家・軍人。最終階級・称号は元帥陸軍大将。位階・勲等・功級・爵位は従一位大勲位功一級公爵。 内務卿(第9代)、内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)を歴任した。 幼名辰之助、通称は小助、1864年以降は狂介・小輔・狂助・狂輔。変名として萩原鹿之助の名も用いた。1871年以降に有朋の諱を称した。号は1871年まで素狂、以降は無隣庵主、含雪。 長州藩の蔵元付仲間だった下級武士の家に生まれ、学問と槍の稽古に励んだ。
堀 真五郎(ほり しんごろう、天保9年閏4月11日〈1838… 堀 真五郎(ほり しんごろう、天保9年閏4月11日〈1838年6月3日〉 - 1913年〈大正2年〉10月25日)は、幕末の長州藩の志士で、明治時代の大審院判事、貴族院勅選議員。諱は義彦。変名は有田又四郎。姓は藤原とも。号は水石・風民・白鷺夫・斜石。 天保9年(1838年)4月11日、長門国阿武郡萩町において、妙玖寺の臣・堀文左衛門松園の子として生まれる。年少の頃から軍談を好んで、功名心旺盛だったため、脱藩して各国の志士達、特に久坂玄瑞・高杉晋作らと交友を深めて尊皇攘夷活動に加わった。文久2年(1862年)11月に高杉晋作らの英国公使館焼き討ち事件にも参加し、文久3年(1863年)に八幡隊が結成されると初代総管に就任した。
吉富 簡一(よしとみ かんいち、旧名: 吉富 藤兵衛(よしと… 吉富 簡一(よしとみ かんいち、旧名: 吉富 藤兵衛(よしとみ とうべえ)、天保9年1月19日(1838年2月13日) - 大正3年(1914年)1月18日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代の実業家、政治家。幼名は美之助。 周防国矢原村(現・山口県山口市湯田)の裕福な豪農・庄屋に生まれ、井上聞多(後の井上馨)の幼馴染でもあり、尊王攘夷運動及び倒幕運動に参加。農民ではあるが大地主として裕福だった吉富は高杉晋作の奇兵隊に資金提供する他、鴻城軍(長州藩諸隊)を組織し井上を総裁に据える。 明治維新後は長州閥の一員として活動。木戸孝允に認められて明治3年(1870年)に上京して官吏となり士族に列せられ吉富簡一と改名するが、翌明治4年(1871年)に廃藩置県のあおりで長州藩への多額の貸し付けが焦付き、家計の立て直しの為に山口県に帰る。
山尾 庸三(やまお ようぞう、1837年11月5日〈天保8年… 山尾 庸三(やまお ようぞう、1837年11月5日〈天保8年10月8日〉- 1917年〈大正6年〉12月22日)は、日本の政治家。子爵。 長州藩重臣で寄組繁沢氏の給領地庄屋であった山尾忠治郎の二男。周防国吉敷郡二島村(現:山口県山口市秋穂二島)出身。木戸幸一(太平洋戦争時の昭和天皇側近)の外祖父(長女の寿栄が木戸の母)に当たる。 萩藩寄組である繁沢石見に経理の才を認められ奉公(陪臣)に上がる。1852年(嘉永5年)、江戸に赴き、同郷の桂小五郎に師事し、その後江川塾の門弟となる。 1861年(文久元年)、幕府の船・亀田丸に乗船し、アムール川流域を査察。帰国後は箱館に滞在して武田斐三郎に師事した。1862年(文久2年)、英国公使館焼き討ち事件に参加したほか、塙忠宝を伊藤博文とふたりで暗殺した。
磯部 十蔵(十藏、いそべ じゅうぞう、1837年8月28日(… 磯部 十蔵(十藏、いそべ じゅうぞう、1837年8月28日(天保8年7月28日)- 1905年(明治38年)5月24日)は、幕末の徳山藩士、明治期の政治家・農業指導者。衆議院議員。 周防国都濃郡河内村出合(山口県都濃郡河内村、久保村を経て現下松市)で生まれた。文学、武術を学んだ。幕末、国事に奔走。徳山藩山崎隊司令官、同藩新隊招募掛兼政府御用掛を務めた。 1879年(明治12年)山口県会議員に選出された。県下の公共事業の推進に尽力。1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(山口県第4区、無所属)で初当選。同年9月の第4回総選挙(山口県第4区、無所属)でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
井上 馨(いのうえ かおる、1836年1月16日〈天保6年1… 井上 馨(いのうえ かおる、1836年1月16日〈天保6年11月28日〉- 1915年〈大正4年〉9月1日)は、日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。 長州藩の藩主側近から尊王攘夷運動に参加し、イギリスへの密航をきっかけに開国論者となり、長州藩における倒幕運動の中心人物として活動した。太政官制時代に外務卿、参議などを歴任し、長州閥の重要人物となった。第1次伊藤内閣成立により外務卿改め外務大臣を務め、「鹿鳴館外交」を展開し不平等条約改正に臨み、黒田内閣で農商務大臣、第2次伊藤内閣で内務大臣、第3次伊藤内閣では大蔵大臣など要職を歴任、元老の一人として政財界に多大な影響を与えた。 幼名は勇吉、通称は初め文之輔だったが、長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(ぶんた)に改名した。
長松 幹(ながまつ つかさ / みき、1834年2月9日〈天… 長松 幹(ながまつ つかさ / みき、1834年2月9日〈天保5年1月1日〉 - 1903年〈明治36年〉7月16日)は、幕末の長州藩士、明治期の歴史学者・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、男爵、錦鶏間祗候。諱・文仲、字・子固。通称・大蔵、文助、文輔。号・秋琴。 周防国吉敷郡矢原村(現山口市矢原)で医者・長松玄厚の長男として生まれる。大田稲香の指導を受け、嘉永6年(1853年)京都に遊学し、山本読書室に入り山本亡羊から本草学を学ぶ。安政5年(1858年)以降、久坂玄瑞らと国事に奔走。元治元年(1864年)帰藩し右筆に登用され、その後、儒役雇、雇医員を経て、編輯局で尊王事績の編集に従事。鴻城隊に加わり、戊辰戦争中は軍中日誌を担当した。
木戸 孝允(きど たかよし/きど こういん、天保4年6月26… 木戸 孝允(きど たかよし/きど こういん、天保4年6月26日〈1833年8月11日〉- 明治10年〈1877年〉5月26日)は、日本の幕末の長州藩士、勤王志士、明治時代初期の政治家。雅号は松菊、木圭、広寒、猫堂、老梅書屋、竿鈴(干令)。明治維新の元勲として、大久保利通、西郷隆盛とともに維新の三傑の一人に数えられる。幕末期には桂 小五郎(かつら こごろう)の名で活躍した。 長州藩出身。同藩藩医和田家の生まれだが、7歳で同藩藩士桂家の養子となる。1852年には江戸に留学して斎藤弥九郎の道場で剣術を学び、また洋式の砲術や兵術、造船術、蘭学などを学んだ。 1858年の安政の大獄以降、薩摩藩、水戸藩、越前藩、会津藩など諸藩の尊王攘夷の志士たちと広く交わるようになり、周布政之助・久坂玄瑞・高杉晋作らと結び、藩の尊王攘夷派における指導者的立場となった。
伊藤 房次郎(いとう ふさじろう、1831年8月12日〈天保… 伊藤 房次郎(いとう ふさじろう、1831年8月12日〈天保2年7月5日〉 - 1907年〈明治40年〉2月3日)は、日本の実業家・地方政治家。山口県赤間関市(現・下関市)の初代市長。慶長から代々薬種商を営む亀屋伊藤家の当主。 下関市成立期において公職・要職を歴任。商業活動、地方自治、商工会、社会事業など、老舗の家業運営と並行し多方面で活動。地域社会の行政・経済に広く携わった人物である。 伊藤房次郎は、山口県出身。山口市中市古熊・河野善九郎の次男。伊藤源左衛門の養子となり、薬種商の老舗「亀屋喜三郎商店」の家督を相続。当家は鎌倉時代の嘉禎年間に、祖先が長門國目代として京都から下向したことに始まり、慶長から薬舗を開業したと伝わる亀屋伊藤家である 1863年(文久3年)攘夷の令にあたり、赤間関在番所の用務を任命される。
平岡 秀夫 は、日本の政治家、大蔵官僚、弁護士。