山本 有二(やまもと ゆうじ、1952年〈昭和27年〉5月1… 山本 有二(やまもと ゆうじ、1952年〈昭和27年〉5月11日 - )は、日本の政治家、弁護士。 衆議院議員(11期)、農林水産大臣(59代)、再チャレンジ担当大臣兼内閣府特命担当大臣(金融)(第1次安倍内閣)、財務副大臣(第1次小泉第2次改造内閣・第2次小泉内閣)、法務総括政務次官(小渕第2次改造内閣)、自治政務次官(第1次橋本内閣)、衆議院予算委員長、同懲罰委員長、同法務委員長、同経済産業委員長、高知県議会議員(1期)、自由民主党財務委員長、同ITS推進・道路調査会長、同経理局長、同道路調査会長、同高知県支部連合会会長、同国会対策副委員長、同建設部会長などを歴任。 高知県高岡郡越知町出身。
細川 律夫(ほそかわ りつお、1943年〈昭和18年〉8月8… 細川 律夫(ほそかわ りつお、1943年〈昭和18年〉8月8日 - )は、日本の政治家、弁護士。 厚生労働大臣(第13代)、厚生労働副大臣(鳩山由紀夫内閣・菅直人内閣)、衆議院決算行政監視委員長、同環境委員長、衆議院議員(7期)、第89代裁判官弾劾裁判所長、民主党国会対策委員長代理などを歴任した。 高知県吾川郡吾北村(のちの高知県吾川郡いの町)出身。高知学芸高等学校を経て、1966年、明治大学法学部を卒業。卒業後、司法試験に合格し、1974年に弁護士登録(埼玉弁護士会)。1981年、越谷総合法律事務所を開設。大森勧銀事件の被告人の弁護を手がけ、冤罪を晴らし逆転無罪を勝ち取った。 その後、2回連続で総選挙に立候補するが落選。
浅井 和子(あさい かずこ、1941年7月20日 - )は、… 浅井 和子(あさい かずこ、1941年7月20日 - )は、日本の弁護士、外交官。民間人初の駐ガーナ兼シエラレオネ兼リベリア特命全権大使や、アフリカ協会顧問、土佐高校理事等を務めた。 東京都に生まれ、高知県で育つ。旧姓中谷。中谷貞頼元衆議院議員は父。中谷元元防衛大臣は甥。土佐高等学校を経て、1964年国際基督教大学卒業した翌年に結婚、3人の子供と授かり、家庭と両立しつつ、並行して弁護士の資格を取り、1972年第一東京弁護士会弁護士登録。2000年ブラッドフォード大学平和研究大学院修了、修士。司法研修所の同期からの要請で、2002年から民間人としては初となる駐ガーナ兼シエラレオネ兼リベリア特命全権大使を務めた。
岡村 勲(おかむら いさお、1929年4月27日 - 202… 岡村 勲(おかむら いさお、1929年4月27日 - 2025年2月24日)は、日本の弁護士。日本弁護士連合会副会長や全国犯罪被害者の会(あすの会)代表幹事を歴任。 高知県出身。一橋大学経済学部卒業後、一橋大学大学院法学研究科修士課程修了、法学修士。田中誠二ゼミ出身。1956年に旧司法試験に合格。1959年以降弁護士として活動し、第一東京弁護士会会長や日本弁護士連合会副会長、法務省法制審議会委員を歴任。1988年に発生した上海列車事故では日本弁護団団長を務めた。 1997年10月、自身の妻が、山一證券問題に際して逆恨みした男性によって殺害された(岡村勲弁護士夫人殺害事件)。これによって、岡村は犯罪被害者の遺族となり、犯罪被害者の権利向上活動に携わるようになる。
伴 正一(ばん しょういち、1924年1月1日 - 2001… 伴 正一(ばん しょういち、1924年1月1日 - 2001年5月26日)は、日本の弁護士、外交官。1972年から1977年まで第2代青年海外協力隊事務局長を務め、青年海外協力隊事業の立ち上げに尽力した。 1924年1月1日、香川県丸亀市に生まれる。父親は、税務署に勤務する官吏。1936年、(旧制)土佐中学校に入学。 1938年、海軍経理学校へ入学(33期)。卒業後、霜月に配属され、同艦艇でマリアナ沖海戦にも参戦した。1945年6月、内海海軍航空隊に異動。8月15日の終戦は、出張中の大分市で迎えた。 1946年、第二復員省を辞し、東京大学に入学。1948年、高等文官試験司法科に合格。大学卒業後、弁護士として活動を始める。
小林為太郎(こばやし ためたろう、1908年4月10日 - … 小林為太郎(こばやし ためたろう、1908年4月10日 - 1985年11月12日)は、日本の弁護士である。 高知県幡多郡下川口村大津(現在の土佐清水市)出身。旧姓・上岡為太郎。長男は元・タレント漫才師の上岡龍太郎。映画監督の小林聖太郎、兄弟お笑いコンビのミキは孫に当たる。 1908年(明治41年)4月10日、上岡岩吉、マサノの三男として出生。高等小学校卒業後、しばらく村の三等郵便局に勤務するが、18歳までサツマイモを作ったり、テングサをとったりイカ釣りをしていた。その間、独学で小学校教員資格試験を三度受験する。 1926年(大正15年)3月、働きながら勉学する決心をして高知市に出る。キリスト教系団体によって運営されていた『学生労働会』に入り、牛乳配達をしながら自学する。
北川 貞彦(きたがわ さだひこ、1856年7月6日(安政3年… 北川 貞彦(きたがわ さだひこ、1856年7月6日(安政3年6月5日)- 1903年(明治36年)11月8日)は、代言人(弁護士)、自由民権運動家、民権結社「発陽社」社長。憲法草案『日本憲法見込案』の起草者。 安政3年6月5日(1856年7月6日)、土佐藩士(四人扶持切符15石)・北川貞詮(忠蔵)の次男として、高知城下に生まれる。幼名は「熊治」。 初め藩校・致道館、廃藩置県以降は共立学舎英学校に学ぶ。東京に遊学して、明治9年(1876年)、代言人(弁護士)の免許を取得した。 自由民権運動に身を投じ、明治10年(1877年)、「立志社」の下部組織として民権結社「発陽社」(跡地・高知県高知市天神町14)を興す。