山本 貴三郎(やまもと きさぶろう、1846年12月20日(… 山本 貴三郎(やまもと きさぶろう、1846年12月20日(弘化3年11月3日)- 1899年(明治32年)12月22日)は、幕末の佐賀藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 肥前国高来郡、のちの長崎県北高来郡諫早町(現諫早市)で生まれた。郷校で学び、その後、熊本に遊学し漢学、武術を修めた。16歳で帰郷し、佐賀藩の選抜生となり長崎の江戸町英学校で学び、さらに何礼之に師事し英学を修めた。 1868年(慶応4年)戊辰戦争が開戦すると、副島種臣らと長崎に赴き、振遠隊として長崎、島原、大村から隊員を募り、その後、秋田に向かい新政府軍に加わった。 その後、官途には就かず天草、肥前松島、平戸などで採炭事業を営む。
品川 忠道(しながわ ただみち、天保11年12月19日〈18… 品川 忠道(しながわ ただみち、天保11年12月19日〈1841年1月11日〉 - 1891年〈明治24年〉2月18日)は、江戸時代のオランダ語通訳、幕臣。明治時代の官僚。通称・英輔。 肥前国長崎で品川権左衛門の子として生まれる。兄の品川九十九は大村藩の御用商人で、義理の兄弟に石鹸工場創業の吉村又作(現在のマリンフード創業者)、甥に平野富二がいる。同族のオランダ通詞の品川徳三郎の養子となる。オランダ語をはじめ英語も習得していたため、ペリーの浦賀来港により幕臣に抜擢され、横浜で通弁となる。安政6年(1859年)に幕府が各国と通商条約を締結する際通弁を務めた。また通弁のかたわら横浜で洋学教授を行った。
何 礼之(何 禮之、が のりゆき/れいし、天保11年7月13… 何 礼之(何 禮之、が のりゆき/れいし、天保11年7月13日(1840年8月10日) - 大正12年(1923年)3月2日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した日本の翻訳家、幕臣、官僚、裁判官、教育者、唐通事。通称は礼之助。姓は「か」ではなく「が」と読む。 英語稽古所学頭を務めたほか、長崎で創設した塾は、塾生が300名を越え、維新後に活躍する多くの英才を輩出したが、その実績は幕末蘭学における緒方洪庵の適塾、伊東玄朴の象先堂、佐倉の順天堂と対比すべく、同じ英学においては福澤諭吉の慶應義塾に匹敵するものであった。開成所(現・東京大学)教授も務め、大阪洋学校(現・京都大学)の創設者でもある。
楠本 正隆(くすもと まさたか、1838年4月14日〈天保9… 楠本 正隆(くすもと まさたか、1838年4月14日〈天保9年3月20日〉- 1902年〈明治35年〉2月7日)は、肥前大村藩の武士、明治期の政治家。男爵。大久保利通の腹心として知られた。 肥前大村藩士・楠本直右衛門正式(60石)の長男として玖島城下の岩船に生まれる。藩校・五教館の監察、頭取を務めた。中老として尊攘倒幕運動で活躍し、渡辺昇ら「大村藩勤王三十七士」の一人として知られる。 1868年(明治元年)、徴士として新政府に出仕。長崎府判事兼九州鎮撫使参謀助役をつとめ、1870年(明治3年)8月)に外務権大丞、1872年(明治5年)5月に外務大丞を経て、同年5月24日に新潟県令として就任する。
西 成度(にし なりのり / なりたき / しげのり、183… 西 成度(にし なりのり / なりたき / しげのり、1835年7月17日(天保6年6月22日)- 1891年(明治24年)4月5日)は、幕末の阿蘭陀通詞・幕臣・静岡藩士、明治期の司法官。大審院長、東京控訴院長。通称・吉十郎、幼名・松十郎。 肥前国長崎平戸町(現長崎市江戸町)で西家第11代・阿蘭陀通詞の西吉兵衛成量、登美夫妻の長男として生まれる。天保10年8月7日(1839年9月14日)数え5歳で稽古通詞を申し付けられる。以後、小通詞末席、小通詞並、小通詞助、小通詞と昇進。嘉永3年9月(1850年10月)幕府より阿蘭陀通詞に英和辞典編纂の命が下され、『エゲレス語辞書和解』(未完)の編纂者の一人となる。
太田 資政(おおた すけまさ、1835年5月15日(天保6年… 太田 資政(おおた すけまさ、1835年5月15日(天保6年4月18日) - 1895年(明治28年)4月11日)は、幕末の通訳(長崎の唐通事)、外交官、武士(幕臣)。明治時代の官僚。通称は源三郎、諱は資政、号は耕煙。 肥前国(現在の長崎県)長崎で、代々唐通事の太田家に生まれる。その祖は徳川氏で、南洋各国を周遊していたが、長崎に落ち着いたという。いつからか太田氏を名乗る。幼少にして中国語を学び、通詞となる。安政6年(1859年)の横浜開港時に横浜に派遣され、30俵格の御家人となり通訳に従事した。万延元年(1860年)、新設された神奈川奉行所の役人として、唐通詞ほか2名、オランダ通詞6名とともに支配翻訳方となる。
十九 貞衛(つづ さだえ、1830年(文政13年)1月4日 … 十九 貞衛(つづ さだえ、1830年(文政13年)1月4日 - 1892年12月2日)は、江戸時代幕末から明治時代の武士、軍人、勤皇家。 肥前国大村藩士の稲垣主計の三男として大村に生まれる。通称は巳之助。諱は勝見。幼くして同藩の十九采記俊彬の養子となる。尊王を唱え、大村藩三十七士の1人として数えられ、藩の用人となり勤皇に導いた。戊辰戦争では東北に従軍し、参謀から大隊長となり、賞典禄八石を賜る。1871年、藩の歩兵中隊長に任じられ、熊本鎮台の副官となった。翌年官を退いた。東京に移り、小石川区小日向武島町の自宅で死去。享年63歳。1912年、従五位を追贈された。墓所は池上本門寺。