井ノ上 正盛(いのうえ まさもり、1973年5月11日 - … 井ノ上 正盛(いのうえ まさもり、1973年5月11日 - 2003年11月29日)は、日本の外交官。イラク日本人外交官射殺事件で殉職した。位階勲等は従七位旭日双光章。熊本大学法学部卒業。学位は学士(法学)。 小学生時代から少林寺流空手道錬心舘に親しむ。熊本大学法学部法律学科に入学し、在学中に、外務省専門職員採用試験に合格。大学卒業後、1996年に外務省へ入省し、中近東アフリカ局中近東第一課を皮切りに在シリア大使館(含 語学研修)、在チュニジア大使館、在ヨルダン大使館兼イラク大使館員歴任後、在イラク大使館三等書記官となる。 三等書記官として赴任したイラクにおいて、2003年11月29日、奥克彦参事官(殉職により大使へ特進)とともにイラク戦争後の復興支援活動などの職務を遂行のため、同大使館現地職員ジョルジース・スライマーン・ズーラの運転する車に乗車しティクリート近郊を軽防弾車で移動していたところ、何者かの銃撃を受けて殉職(イラク日本人外交官射殺事件)した。
井川原 賢(いがわはら まさる、1960年〈昭和35年〉9月… 井川原 賢(いがわはら まさる、1960年〈昭和35年〉9月7日 - )は、日本の外交官。 アジア大洋州局中国・モンゴル第一課地域調整官、在青島総領事などを経て、2023年10月から駐モンゴル大使を務める。 宮崎県えびの市出身。宮崎県立小林高等学校を卒業。
黒木 雅文(くろき まさふみ、1951年(昭和26年) - … 黒木 雅文(くろき まさふみ、1951年(昭和26年) - )は、日本の外交官、国際公務員。駐セルビア特命全権大使、外務省参与等を経て、アジア海賊対策地域協力協定情報共有センター事務局長。 宮崎県出身。ラ・サール中学校・高等学校を経て、一橋大学法学部を卒業し、1974年(昭和49年)4月外務省に入省する。外務省では対外経済協力部門を歩み、経済協力局調査計画課長、経済協力局審議官等を経て、平成14年8月より経済産業省大臣官房審議官(貿易経済協力局担当)を務めた。独立行政法人国際協力機構(JICA)理事兼財団法人日本国際協力システム理事を経て、2009年8月26日から2013年2月23日までカンボジア駐箚特命全権大使。
二見 甚郷(ふたみ じんごう、1888年10月16日 - 1… 二見 甚郷(ふたみ じんごう、1888年10月16日 - 1968年11月17日)は、日本の政治家、外交官。宮崎県知事(公選第3代)。宮崎市長(第9代)。衆議院議員(1期)。参議院議員(1期)。 宮崎県東諸県郡高岡町(現宮崎市)出身。宮崎県立宮崎中学校、第七高等学校造士館(現在の鹿児島大学)を経て、1915年東京帝国大学法学部政治学科卒。同年外交官及領事官試験に合格し外務省に入省、1923年退官。1928年に衆議院議員に当選。1933年には在郷軍人の国家主義団体である明倫会を結成し宣伝部長に就任。1941年駐タイ公使を経て、1945年宮崎市長となる。1947年の公選制となっての最初の県知事選では、得票数1位となるも法定得票数に届かず、安中忠雄との決選投票となるが、投票直前に公職追放された。
川越 茂(かわごえ しげる、1881年〈明治14年〉1月14… 川越 茂(かわごえ しげる、1881年〈明治14年〉1月14日 - 1969年〈昭和44年〉12月10日)は、日本の外交官。 宮崎県北那珂郡赤江村(現宮崎市)で、衆議院議員を務めた川越進の長男として生まれる。宮崎県立宮崎中学校、第七高等学校、東京帝国大学法学部を卒業後外務省に入省。亜細亜局第3課長、吉林総領事を経て、青島総領事(1929年)、満洲国参事官(1932年)、広東総領事(1933年)、天津総領事(1934年)を歴任。 1936年(昭和11年)5月、駐華大使に就任。同年9月から12月まで国民政府との国交調整のため、南京総領事須磨弥吉郎と共に国民政府の外交部長張群、政務次長徐謨、亜州司長高宗武らと交渉を重ねたが、日本陸軍諜報機関の妨害工作により決裂した。
小村 俊三郎(こむら しゅんざぶろう、 明治3年9月3日(1… 小村 俊三郎(こむら しゅんざぶろう、 明治3年9月3日(1870年9月27日) - 1933年(昭和8年)4月12日)は、日本の外交官、大正・昭和期に言論界で活躍した記者。同時代日本の中国通の第一人者といわれる。中国通の先輩として「小ム俊」の名は知られていた。 小村寿太郎の又従弟である。年少の時に上京し、島田重礼の家塾に学び、続いて小村寿太郎の家に下宿しながら東京高等師範学校に学んだ。学校の教育方針を横議したため退学処分をうけた。1897年(明治30年)3月に高等師範学校から中退した後、私費留学生として北京に派遣した。専ら中国語を修め、袁世凱に招聘され、訳官として勤務の傍ら中国研究に従った。北清事変の際には、日本派遣隊の嘱託となって、青木宣純中佐の下に時文を書く仕事に当たり軍政を助け活躍した。
小村 寿太郎(こむら じゅたろう、旧字体: 小村 壽太郞、1… 小村 寿太郎(こむら じゅたろう、旧字体: 小村 壽太郞、1855年10月26日〈安政2年9月16日〉- 1911年〈明治44年〉11月26日)は、日本の外交官、政治家。外務大臣、貴族院議員(侯爵終身)などを務めた。イギリス・アメリカ・ロシア・清国・朝鮮(韓国)の公使・大使を務め、特に2度の外相時代には日英同盟の締結、日露戦争後のポーツマス条約の締結、条約改正の完成(関税自主権の完全回復。治外法権は陸奥宗光が改正)などの業績をのこし、近代日本外交を体現した人物として知られる。特に外相在任は通算7年4カ月と、史上二番目に長い(史上最長は内田康哉で通算7年5カ月)。爵位は侯爵。 小村寿太郎は、安政2年(1855年)9月16日、日向国飫肥藩の藩士・小村寛(寛平)(1830 - 1900)と梅(梅子)(? - 1901)の長男として生まれた。