高橋 慶彦(たかはし よしひこ、1957年3月13日 - )… 高橋 慶彦(たかはし よしひこ、1957年3月13日 - )は、日本の元プロ野球選手(内野手、外野手)、野球指導者・解説者・評論家。現在のマネジメント契約は日本電波制作社。Youtube「よしひこチャンネル」の運営・制作は株式会社A Holdings。娘は声優・モデルの高橋雛子。 NPBにおける連続試合安打記録保持者(33試合)。 1957年、北海道芦別市にあった旧三井鉱山の炭坑街で生まれた。父・慶喜は宮城県玉造郡鳴子町(現・大崎市)出身で、実業団のクロスカントリースキー選手であった。現役時代は全日本スキー選手権大会で入賞歴もある。慶喜の芝浦工業大学スキー部監督就任に伴い、4歳の時に東京都清瀬市に移り住んだ。
道原 裕幸(みちはら ひろゆき、旧名:博幸、1949年5月3… 道原 裕幸(みちはら ひろゆき、旧名:博幸、1949年5月30日 - )は、山口県柳井市出身の元プロ野球選手(捕手、右投右打)・コーチ、解説者。 山口県桜ケ丘高校では2年上に河村健一郎、2年下に長州力がいた。捕手として2年次の1966年に秋季中国大会県予選で準決勝に進出するが、豊浦高に敗退。3年次の1967年夏は県大会準々決勝でまたも豊浦高に敗れ、甲子園には出場できなかった。 高校卒業後は芝浦工業大学に進学し、東都大学野球リーグでは3年次の1970年春季リーグに優勝。1年上の三塁手・伊原春樹と共にクリーンアップを打ち、リーグ通算79試合出場、264打数75安打、打率.284、8本塁打、32打点。
伊原 春樹(いはら はるき、1949年1月18日 - )は、… 伊原 春樹(いはら はるき、1949年1月18日 - )は、広島県甲奴郡上下町(現・府中市)生まれ出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 1971年から1973年の登録名は「伊原 春植」(いはら しゅんしょく)。 ニックネームは「ハル」。 6人兄弟の次男で女4人、男2人の4番目であった。 上下中学校卒業後、1964年に北川工業高校へ進学。古葉竹識の実弟である古葉福生監督の指導を受け、3年次の1966年夏の甲子園県予選では4番打者・三塁手として活躍。福山工との準決勝で本塁打を放ち決勝に進出するが、広島商の山本和行に完封を喫し、甲子園出場を逸する。 高校卒業後は1967年に芝浦工業大学へ進学し、東都大学野球リーグでは在学中2度の優勝を経験。
河村 健一郎(かわむら けんいちろう、1948年2月26日 … 河村 健一郎(かわむら けんいちろう、1948年2月26日 - )は、山口県柳井市出身の元プロ野球選手(捕手、内野手)・コーチ、解説者・評論家。 桜ケ丘高校では、3年次の1964年に秋季中国大会準々決勝に進むが、広島商に敗れ甲子園には届かなかった。 高校卒業後は1965年に芝浦工業大学へ進学し、道原裕幸は高校・大学の2年後輩となる。東都大学リーグでは3年次の1968年、左腕エース池田善吾とバッテリーを組んで秋季リーグに優勝。リーグ通算45試合出場、124打数32安打、打率.258、0本塁打、11打点。大学同期に豊田憲司、片岡新之介(中退)がいる。 大学卒業後は1969年に日本石油へ入社し、1970年の都市対抗では奥江英幸らとバッテリーを組み準々決勝に進むが、三菱重工神戸に敗退。
柳 俊之(やなぎ としゆき、1947年12月12日 - 20… 柳 俊之(やなぎ としゆき、1947年12月12日 - 2025年10月19日)は、北海道出身のアマチュア野球選手(投手)。 岩見沢東高校を卒業した後、上京し、芝浦工業大学に入学する。同期に豊田憲司、片岡旭、河村健一郎、1学年下に伊原春植がいた。大学卒業後は電電北海道に入社する。一時期は若松勉とともにプレーしていた。同チームのエースとして、1971年の第42回都市対抗野球大会の初出場にも貢献した。 1971年のドラフト会議で西鉄ライオンズから2位指名を受けたがこれを拒否。その後も、社会人野球でプレーし、第45回都市対抗野球大会では、大昭和製紙北海道の補強選手として、出場し、初優勝に貢献した。また、橋戸賞も受賞した。
片岡 新之介(かたおか しんのすけ、1947年11月5日 -… 片岡 新之介(かたおか しんのすけ、1947年11月5日 - )は、広島県福山市生まれ、岡山県出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。
豊田 憲司(とよた けんじ、1947年8月1日 - )は、広… 豊田 憲司(とよた けんじ、1947年8月1日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
池田 善吾(いけだ ぜんご、1946年 - )は、福岡県出身… 池田 善吾(いけだ ぜんご、1946年 - )は、福岡県出身の元アマチュア野球選手(投手)日本で初めてキューバを抑えた投手。 博多工業高等学校では、同期にエース橋本孝志がおり、主に一塁手として起用される。投手としても1963年秋季九州大会決勝で日南高に完封勝ちを記録している。1964年春の選抜に出場。2回戦で池永正明を擁する下関商を降し準決勝まで進出するが、尾道商の小川邦和に0-4で完封負け。しかし同年6月の新潟国体では、決勝で尾道商を降し初優勝。同年夏は県予選準々決勝で、末永吉幸のいた小倉工に日没引き分け再試合の末に敗退。1学年下に遊撃手の倉田晃がいる。 芝浦工業大学に進学。東都大学野球リーグでは、エースとして1968年秋季リーグで7年振りに優勝。
大倉 英貴(おおくら ひでたか、1944年7月1日 - )は… 大倉 英貴(おおくら ひでたか、1944年7月1日 - )は日本の元プロ野球選手(内野手)。
切通 猛(きりとおし たけし、1944年4月21日 - 20… 切通 猛(きりとおし たけし、1944年4月21日 - 2015年6月15日)は、兵庫県姫路市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ。 姫路南高では明治大学時代に杉下茂とバッテリーを組んだ安藤邦夫監督の指導を受け、3年次の1963年に4番・左翼手として夏の甲子園兵庫大会決勝に進出するが、市西宮高に5-6で惜敗し甲子園出場を逸する。2年後輩の黒田正宏は、切通が凄い筋肉で打球をポンポン飛ばしていたのを見て、一流になるにはあのぐらいの筋力がないといけないのかと思い、足腰を徹底的に鍛えた。切通は黒田に「何でもええから走っとけ」とアドバイスし、黒田が野球人生で最初に影響を受けた人になった。 高校卒業後は1964年に芝浦工業大学へ進学し、田部輝男監督の指導を受ける。
鈴木 宣之(すずき のぶゆき、1942年12月8日 - )は… 鈴木 宣之(すずき のぶゆき、1942年12月8日 - )は、日本の実業家、作家、アマチュア野球指導者。愛知県名古屋市熱田区出身。東海中学校・高等学校、芝浦工業大学工学部二部卒業。 高校在学中は外野手として野球部で活動。3年生のとき、夏の愛知県大会ベスト4進出。大学卒業後は、東京都品川区西中延の伯父の会社に勤務。1970年、愛知県西春日井郡にて実兄の世話で、機械部品製造の自営を始める。 イチローの実父で、イチローの個人事務所「オフィス・イチロー」の代表も務める。イチローの父親であることから、「チチロー」と呼ばれることもある。また、元ファッションモデルの鈴木来海は孫に当たる。 イチローが小学校の3年生の時から中学に入るまで、学校から帰宅して日が沈むまで毎日、野球の練習に付き添い、また練習後は毎晩イチロー選手の足の裏をマッサージをしていた。
茅野 智行(ちの ともゆき、1941年10月24日 - )は… 茅野 智行(ちの ともゆき、1941年10月24日 - )は、北海道函館市出身の元プロ野球選手(内野手)。 北海高等学校では1959年にエース荻野一雄を擁し、夏の甲子園南北海道予選決勝に進出するが、苫小牧東高に10回裏サヨナラ負け。卒業後は芝浦工業大学へ入学。東都大学リーグでは1961年秋季にリーグ初優勝を経験。同季の最高殊勲選手であった岩下光一が卒業した後の正遊撃手となり、1963年秋季リーグでは打率.389で首位打者を獲得、全試合連続安打や無失策も記録した。ベストナイン(遊撃手)2回選出。 1964年に西鉄ライオンズに入団。同年はトニー・ロイの控えながら、遊撃手として13試合に先発出場する。
岩下 光一(いわした こういち、1940年3月4日 - )は… 岩下 光一(いわした こういち、1940年3月4日 - )は、宮崎県宮崎市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者。