黒崎 彰(くろさき あきら、1937年(昭和12年)1月10… 黒崎 彰(くろさき あきら、1937年(昭和12年)1月10日 - 2019年(令和元年)5月14日)は、日本版画界を代表する版画家の1人。京都精華大学名誉教授。浮世絵の伝統木版画技法を用い、現代木版画世界から、紙という素材そのものを生かし造形するペーパーワークまで、幅広い作品を生み出す。版画史研究家、版画教育家 としても広く活躍。 「洋画と日本画の概念・範疇差を認めず、いずれも「ペインティング」とすべき」「聾唖者は世界共通(没母国性・没地域性)の手話言語を使用すべき」など独自な主張を持っていることでも知られている。 1960年代後半、現代木版画の旗手として華々しく登場。浮世絵が完成させた精緻な刷技術を駆使して抽象的な形象の世界を万華鏡の様に展開していった黒崎彰は、「ほぼ10年ごとにその作風を変容していった」。
津田 耕(つだ こう、1923年 - 2003年)は、日本の… 津田 耕(つだ こう、1923年 - 2003年)は、日本の版画家。元日本宣伝美術会会員。 大阪府岸和田市生まれ。旧制岸和田中学校卒業後、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)に学ぶ。 1952年に積水化学に入社し、宣伝部に所属する。1959年、アートハウスを設立する。1974年にはスタジオパレットを、1997年にシーディーシーを、それぞれ設立した。 2002年に、BSデジタルラジオ320chJFN1 BSジャズギャラリーにて「津田耕ジャズの世界」の放送が開催された。 2003年12月に死去。
徳吉 英雄(とくよし ひでお、1921年10月25日 - 1… 徳吉 英雄(とくよし ひでお、1921年10月25日 - 1958年9月21日)は、日本の画家。1946年(昭和21年)から1948年(昭和23年)にかけて倉吉で民藝の同人誌『意匠』を発行。同時期に、鳥取中部の芸術団体「砂丘社」の機関誌『砂丘』復刊に尽力した。 1921年(大正10年)生まれ。1934年(昭和9年)倉吉中学(現倉吉東高校)に入学し、中井金三に教わる。京都高等工藝学校(現京都工芸繊維大学)図案科に進学。卒業後は、鉄道本省に勤める。兵役を経て敗戦後は倉吉に戻る。 1946年(昭和21年)、私家版として同人誌『意匠』を発行する。『意匠』は郷土の工藝を育み向上させることを意図した雑誌であり、第1号から第4号まで発行された。
向井 久万(むかい くま、1908年(明治41年)12月14… 向井 久万(むかい くま、1908年(明治41年)12月14日 - 1987年(昭和62年)1月20日)は、日本画家。創画会会員。 大阪府泉南郡上之郷(現・泉佐野市)生まれ。1929年(昭和4年)、京都高等工芸学校図案科卒業。妻も同じく日本画家の広田多津。 1941年(昭和16年)、「男子生まる」を文展に出品して特選を受賞。 1948年(昭和23年)、創造美術を結成。この後、西山翠嶂に師事、裸婦像と花鳥画に才能を発揮した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
伊谷 賢蔵(いだに けんぞう、明治35年(1902年)2月2… 伊谷 賢蔵(いだに けんぞう、明治35年(1902年)2月23日 - 昭和45年(1970年)3月27日)は、鳥取県鳥取市出身の洋画家、書家。人類学者・霊長類学者の伊谷純一郎は息子。 伊谷平蔵の二男として、鳥取市川端に生まれる。 大正13年(1924年)京都高等工芸(現京都工芸繊維大学)を卒業後、同校研究室と関西美術院で洋画の研究に専念し、そのころ黒田重太郎に師事した。 大正14年(1925年)春陽会、翌年二科展に入選し、以後、昭和18年(1943年)の二科展解散まで出品を続け、その間に二科会員となった。 昭和14年(1939年)に従軍画家として北支戦線に派遣され、翌年から華北交通嘱託として計6回中国を訪問。
川上 貞夫(かわかみ さだお、1897年(明治30年)7月2… 川上 貞夫(かわかみ さだお、1897年(明治30年)7月23日 - 1977年(昭和52年)7月31日)は、教育者、画家、考古学者である。 元鳥取県文化財専門員、元鳥取文化財協会理事。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
伊藤 孝之(いとう たかし、明治27年(1894年)- 昭和… 伊藤 孝之(いとう たかし、明治27年(1894年)- 昭和57年(1982年)5月9日)は、大正時代から昭和時代にかけての浮世絵師、版画家。 結城素明及び鏑木清方の門人。本名は伊藤孝。孝之と号す。静岡県長上郡蒲(かば)村下(現・浜松市中央区子安町)に伊藤蒲邨(文久2年(1862年)-昭和14年(1939年))の二男三女の次男として生まれる。祖父は伊藤平六といい、孝之も一時期、平六という印を使用している。大正2年(1913年)、19歳の時、県立浜松中学校(現・浜松北高校)を卒業。中学校では水野以文が指導する美術グループに入って小学校において研究会を開いていた。卒業後、京都に赴き、まず京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科に入学、以降3年間、日本画を竹内栖鳳に学び、油彩画を都鳥英喜に学んでいたが、後に中退している。