高瀬 荘太郎(たかせ そうたろう、旧字体:髙瀨莊太郎 189… 高瀬 荘太郎(たかせ そうたろう、旧字体:髙瀨莊太郎 1892年3月9日 - 1966年9月4日)は会計学者、政治家。正三位勲一等瑞宝章。
一橋大学:2,087人
高瀬 荘太郎(たかせ そうたろう、旧字体:髙瀨莊太郎 189… 高瀬 荘太郎(たかせ そうたろう、旧字体:髙瀨莊太郎 1892年3月9日 - 1966年9月4日)は会計学者、政治家。正三位勲一等瑞宝章。
上田 辰之助(うえだ たつのすけ、1892年2月2日 - 1… 上田 辰之助(うえだ たつのすけ、1892年2月2日 - 1956年10月13日)は、日本の経済学者、思想史家。一橋大学名誉教授。日本学士院会員。ペンシルベニア大学博士。正三位勲一等瑞宝章、イタリア王国コンメンダトーリ・コローナ・イタリヤ受章。 東京市日本橋小網町出身。実家は上田回漕店。東京府立第一中学校(現東京都立日比谷高等学校)を経て、1914年に東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業。1916年、同校専攻部貿易科を卒業し同校講師に就任。1917年には教授に昇格。1918年からペンシルベニア大学に留学して海運論を研究。1920年、ペンシルベニア大学博士(Ph.D.)。一橋では上田貞次郎教授に師事した。
柏尾 誠一郎(かしお せいいちろう、1892年〈明治25年〉… 柏尾 誠一郎(かしお せいいちろう、1892年〈明治25年〉1月2日 - 1962年〈昭和37年〉12月16日)は、大阪府出身の男子テニス選手。1920年のアントワープ五輪において、テニスの男子ダブルスで熊谷一弥とペアを組み、日本人のスポーツ選手として史上初のオリンピック・メダルを獲得した選手として知られている。 1892年、大阪府に生まれる。旧制大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)を経て、1913年に東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。後にテニスの国際舞台でも活躍した清水善造は、柏尾と同じ東京高等商業学校庭球部のライバルであった。 大学卒業後三井物産に入社し、上海、ニューヨーク、リヨンの駐在員として働いたのち、横浜支店生糸部総務掛として勤務。
新海 英一(しんかい えいいち、1892年 - 1986年)… 新海 英一(しんかい えいいち、1892年 - 1986年)は、日本の経営者。古河鉱業社長、会長、日本鉱業協会会長などを務めた。 山梨県中巨摩郡玉幡村出身。1915年に東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、同年に古河合名会社に入社。 1946年に追放指定された岡田完二郎に代わり古河鉱業代表取締役社長に就任。1954年北海道開発審議会委員。1958年経済審議会臨時委員。1959年水質審議会委員。 日本鉱業協会会長なども務め、1961年に古河鉱業代表取締役会長に就任した。1962年に鉱業審議会が発足すると会長に就任した。同年藍綬褒章受章。 1964年雇用審議会委員。1966年産炭地域振興事業団(のちの地域振興整備公団)理事長、経済審議会委員。
2代 木村 浅七(淺七、きむら あさしち、1891年(明治2… 2代 木村 浅七(淺七、きむら あさしち、1891年(明治24年)11月10日 - 1982年(昭和57年)3月3日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、栃木県足利市長。幼名・保之助。 栃木県足利郡足利町助戸(現足利市助戸)で、木村国三郎、タキ夫妻の二男として生まれる。1898年(明治31年)祖父浅七の養子となる。1913年(大正2年)東京高等商業学校を卒業した。 1914年(大正3年)家業の輸出絹織物製造販売業に従事。1915年(大正14年)市場調査のためオーストラリア、インドなどに渡航。1916年(大正5年)祖父の死去に伴い2代浅七を襲名した。木村工場を引き継いで事業を拡大。明治紡績監査役、野沢屋輸出店監査役、両毛整織監査役、日本輸出人造織物工業組合連合会監事、足利輸出絹組合理事、人絹織物工業組合理事、足利銀行取締役、桐生機械工業取締役などを務めた。
三宅 亮一(みやけ りょういち、1891年9月29日 - 1… 三宅 亮一(みやけ りょういち、1891年9月29日 - 1979年7月14日)は、日本の経営者、銀行家。常陽銀行頭取を務めた。東京都出身。 1914年に東京高等商業学校を卒業。 川崎銀行での勤務を経て、後に常盤銀行(のちの常陽銀行)に転じ、1929年に取締役に就任し、1935年に常務、1948年に専務を経て、1948年10月に副頭取に就任し、1958年6月には頭取に昇格。1967年11月には会長に就任。 その他、茨城県商工会議所連合会会長、茨城県商工経済会会長、茨城文化団体連合会会長なども務めた。 1979年7月14日冠硬化症のために死去。87歳没。
清水 善造(しみず ぜんぞう、1891年(明治24年)3月2… 清水 善造(しみず ぜんぞう、1891年(明治24年)3月25日 - 1977年(昭和52年)4月12日)は、群馬県西群馬郡箕輪村(現・高崎市箕郷町)出身の男子テニス選手。 日本人初のウィンブルドン出場者でありベスト4に進出した。全米選手権でもベスト8入りしている。 元俳優の清水善三、関西学院大学教育学部教授の藤木大三らは、清水の孫にあたる。 群馬県立高崎中学校(現:群馬県立高崎高等学校)に進学。東京高等商業学校(現:一橋大学)を卒業後、1912年に三井物産に入社、カルカッタ(インド)、ニューヨーク(アメリカ合衆国)へに駐在員として在任した。テニス選手として国際大会に出場したのはこの期間である。
佐伯 卯四郎(さえき うしろう、1891年〈明治24年〉2月… 佐伯 卯四郎(さえき うしろう、1891年〈明治24年〉2月1日 - 1972年〈昭和47年〉1月12日)は、日本の実業家・政治家。日本陶器社長や、中部経済連合会会長、参議院議員等を務めた。 東京市牛込区矢来町3番地(現東京都新宿区矢来町)で、佐伯成允、満佐の4男として生まれた。東京市立愛日尋常高等小学校(現新宿区立愛日小学校)を経て、1908年3月、私立早稲田中学校(現早稲田中学校・高等学校)を卒業した。 1912年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。1914年森村組入社。1934年日本陶器取締役。1939年日本陶器常務取締役。1942年日本陶器専務取締役。1946年日本陶器取締役社長。1947年第1回参議院議員通常選挙愛知県選挙区当選(補欠、任期3年)。
六代 正田 文右衛門(ろくだい しょうだ ぶんえもん、前名・… 六代 正田 文右衛門(ろくだい しょうだ ぶんえもん、前名・敏一郎、1890年〈明治23年〉12月9日 - 1973年〈昭和48年〉7月25日)は、日本の実業家、醤油醸造家(亀甲正醸造元)。正田醤油、館林航器各社長。日本醤油協会会長。日本栄養食料(現日本農産工業)監査役。館林町会議員、群馬県公安委員。上皇后美智子の生家正田家の本家筋の出身で、大叔父にあたる。 1890年(明治23年)群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)に、5代・正田文右衛門の長男として生まれる。1909年(明治42年)、東京府立第一中学校卒業。1914年(大正3年)、東京高等商業学校卒業。 1917年(大正6年)正田醤油専務取締役に就任。
加々美 武夫(かがみ たけお、明治23年(1890年)8月9… 加々美 武夫(かがみ たけお、明治23年(1890年)8月9日 - 昭和11年(1936年)9月18日)は、日本の官吏および政治家である。第8代大阪市長。従五位。
川村 音次郎(かわむら おとじろう、1890年7月15日 -… 川村 音次郎(かわむら おとじろう、1890年7月15日 - 1973年2月12日)は、日本の実業家。キリンビール代表取締役社長や、同社代表取締役会長を務め、在任中ビール業界トップシェアを実現した。 東京・深川(現在の東京都江東区深川)生まれ。東京府第三中学校(現東京都立両国高等学校)を経て、1915年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部卒業。剣道部出身。 卒業後三菱合資会社入社。1935年三菱商事ロンドン支店長。1942年三菱商事産業部長。 1943年岩崎小弥太の意向による人事で、キリンビール専務取締役に転じる。1951年からはキリンビールで取締役社長を務め、1954年には朝日麦酒、日本麦酒を抜きビール業界トップシェアを実現。
鈴木 三郎助(すずき さぶろうすけ、1890年6月23日 -… 鈴木 三郎助(すずき さぶろうすけ、1890年6月23日 - 1973年6月19日)は、日本の実業家。鈴木商店(現味の素)創業者二代目鈴木三郎助の長男で、同社代表取締役社長や、京浜急行電鉄代表取締役社長を務めた。 神奈川県三浦郡葉山町出身。1907年(明治40年)に京華商業学校(現京華商業高等学校)卒業後、東京高等商業学校(現一橋大学)に進学。第一ホテル創業者の土屋計左右は、同郷かつ東京高等商業学校の同窓で親しく、のちに鈴木家持株会社鈴木三栄の常務理事に就任した。 1908年(明治41年)、父親が池田菊苗が発明した化学調味料の製造権を取得。家族でネーミングを考えた結果、三郎(当時3代目襲名前)が提案した「味の元」が選ばれた。
下出 義雄(しもいで よしお、1890年(明治23年)5月1… 下出 義雄(しもいで よしお、1890年(明治23年)5月12日 - 1958年(昭和33年)1月20日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の実業家・教育者・政治家。実業家で貴族院議員も務めた下出民義の長男。父の事業を継ぎ名古屋財界にて活動し、大同製鋼(現・大同特殊鋼)社長や名古屋証券取引所理事長などを務める。事業界での活動の傍ら学校経営にも携わったほか、1942年(昭和17年)から1期のみ衆議院議員も務めた。 下出義雄は1890年(明治23年)5月12日、下出民義の長男として大阪市に生まれた。母あいは、父民義とともに大阪市の石炭商社に参加していた大阪安治川の石炭商西井直次郎の妹である。父民義は1889年に大阪から愛知県へと移り、名古屋市近郊の熱田町にて石炭商として開業していたが、母は郷里の大阪へと帰って義雄を出産した。
田島 正雄(たじま まさお、1890年(明治23年)5月8日… 田島 正雄(たじま まさお、1890年(明治23年)5月8日 - 1962年(昭和37年)8月17日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。大阪商船副社長、大阪商工会議所会頭、貴族院勅選議員。 奈良県添上郡奈良町角振新屋町11番地(現奈良市)で、田島基光の五男として生まれる。1913年(大正2年)7月、東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業した。 卒業後、宇治川電気に入社した。語学の才があり勧誘を受け、1916年(大正5)12月に大阪商船に転じた。あふりか丸事務員、ロンドン在勤員、ケープタウン在勤員、ニューヨーク支店長を務め、1937年(昭和12年)1月、本社遠洋課長に就任した。1939年(昭和14年)1月、取締役に昇進し、専務取締役を経て、1944年(昭和19年)11月、副社長に就任した。
矢崎 邦次(やさき くにじ、1890年 <明治23年> 2月… 矢崎 邦次(やさき くにじ、1890年 <明治23年> 2月28日 - 1977年 <昭和52年> 1月23日)は、日本の経営者。長野県伊那市出身。位階は正五位。 1916年に東京高等商業学校を卒業し、同年に第一銀行に入行。1941年7月に取締役に就任し、1945年3月に澁澤倉庫専務を経て、1949年5月には社長に就任。1956年5月から1958年5月までに会長を務めた。 1971年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1977年心臓発作のために死去。87歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
相馬 確郎(そうま かくろう、旧姓・亀山、1890年(明治2… 相馬 確郎(そうま かくろう、旧姓・亀山、1890年(明治23年)2月 - 没年不明)は、日本の実業家、地家主。相馬商事相談役。北海道銀行、函館貯蓄銀行、北日本製紙各取締役。北海道拓殖銀行、棒二森屋、相馬商店各監査役。 岐阜県・亀山顕造の三男。亀山恭平の弟。1912年、東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。2代相馬哲平の養子となり、1919年、分家した。銀行、会社の重役だった。 また確郎は、戦後の相馬家事業グループにおいて指導者的存在だった。宗教は曹洞宗。趣味は碁。住所は函館市大町、同市曙町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
野村 与曽市(のむら よそいち、1889年(明治22年)10… 野村 与曽市(のむら よそいち、1889年(明治22年)10月15日 - 1975年(昭和50年)1月12日)は、日本の実業家。電気化学工業社長や日本カーバイド工業会会長、電気化学協会会長等を歴任し、カーバイド石灰窒素工業の発展に尽力した。 滋賀県愛知郡東押立村大字大沢生まれ。東押立尋常高等小学校を経て、1909年東京府立第四中学校(現東京都立戸山高等学校)卒業。1913年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業、北海カーバイド工場入社。1915年電気化学工業青海工場長。1936年電気化学工業常務取締役。1946年電気化学工業専務取締役・特別管理人。1949年電気化学工業代表取締役副社長。1951年電気化学工業代表取締役社長。
伊藤 謙二(いとう けんじ、1889年6月5日 - 1970… 伊藤 謙二(いとう けんじ、1889年6月5日 - 1970年1月27日)は、日本の銀行家。第9代日本興業銀行総裁や、初代復興金融金庫理事長を務めた。 新潟県北魚沼郡小出町(のちの魚沼市)出身。1915年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。日本興業銀行入行後、証券課長や大阪支店長、副総裁等を歴任した。日本の降伏後、1946年に第9代総裁に昇格すると、復興金融部の創設を行い復興特別融資を開始した。1947年には復興金融金庫の初代理事長に就任し、戦後復興期の日本再建にあたった。1949年日遭製鋼会長。
飯島 権蔵(いいじま ごんぞう、1889年6月3日 - 19… 飯島 権蔵(いいじま ごんぞう、1889年6月3日 - 1974年9月6日)は、日本の教育者。川崎市立女子商業学校(後の川崎市立幸高等学校の前身のひとつ)校長、松本商業学校校長、松商学園短期大学(後の松本大学松商短期大学部)初代学長などを歴任した。 群馬県に生まれ、前橋中学校に学ぶ。1912年に神戸高等商業学校専攻部を卒業し、1914年には東京高等商業学校(後の一橋大学の前身のひとつ)専攻部銀行科を卒業して、商社に勤務した。 後に、教育界に転じ、大阪市立西区商業学校などを経て、1944年に川崎市立女子商業学校校長となった。その後、東京高商の同窓であった糸魚川祐三郎の要請を受け、1947年に松本商業学校第5代校長となり、戦後の混乱期における学制改革への対処と経営の立て直しにあたった。
太田 哲三(おおた てつぞう、1889年(明治22年)5月8… 太田 哲三(おおた てつぞう、1889年(明治22年)5月8日 - 1970年(昭和45年)7月4日)は日本の会計学者、公認会計士。一橋大学名誉教授、元・中央大学教授。商学博士(一橋大学)。監査法人太田哲三事務所(EY新日本有限責任監査法人の前身)の創設者で、日本公認会計士協会の初代会長。実業界では長浜ゴム工業(のちの三菱樹脂)社長を2年間務め、その後は三菱化成(三菱ケミカルホールディングスの前身)監査役を最晩年まで務めた。従三位・勲二等瑞宝章。 弟子に番場嘉一郎(一橋大学名誉教授)・黒澤清(横浜国立大学名誉教授)・岩田巌(元一橋大学教授)・不破貞春(元明治大学教授)・飯野利夫(一橋大名誉教授)・山邊六郎(元横浜国立大学教授)・井上達雄(中央大学名誉教授)・新井益太郎(成蹊学園名誉理事、成蹊大学名誉教授)・関口重之(元青山学院大学教授)等がいる。
森川 葵村(もりかわ きそん、 1889年(明治22年)3月… 森川 葵村(もりかわ きそん、 1889年(明治22年)3月8日 - 1979年(昭和54年)8月1日)は、大正・昭和期の日本の詩人、実業家。本名は森川 勝次。 東京市下谷区入谷町(現・東京都台東区)に生まれる。旧制京北中学校在学中、同窓の飯田蛇笏らと交流を深める。1910年に東京高等商業学校(のちの一橋大学)本科を卒業し、引き続いて在籍した同専攻部計理科を1912年に卒業した。 在学中、三木露風一派の詩人として活躍し、三井物産に入社後、朝鮮火薬銃砲常務取締役、同社専務取締役、帝国火薬工業営業部長、日本油脂営業部長等を歴任した。 57歳で秋田県の寒村に疎開後詩作を再開し、第二次世界大戦後は北洋火薬(のちの日本化薬)社長などを務めた。
近藤 荒樹 (こんどう あらき、明治22年(1889年)3月… 近藤 荒樹 (こんどう あらき、明治22年(1889年)3月6日 - 昭和61年(1986年)6月11日)は日本の実業家、相場師。元近藤商事会長。「丸ビル将軍」、「金融王」などと呼ばれた。
尹 白南(いん はくなん、1888年11月7日 - 1954… 尹 白南(いん はくなん、1888年11月7日 - 1954年9月29日)は、日本統治時代の朝鮮・大韓民国の俳優、脚本家、映画監督、小説家、ジャーナリスト、演劇演出家。本名は尹 教重。本貫は坡平尹氏。 李氏朝鮮忠清南道公州府出身。大韓帝国国費留学生として早稲田大学に入学したのち、東京高等商業学校(現一橋大学)に移り、同校を卒業した。日韓併合後毎日新報記者となり、のち俳優、映画製作などに携わるようになる。1930年に東亜日報に朝鮮初の大衆小説「大盜傳」を連載し人気を博す。1931年には劇芸術研究会を創立し新劇場運動の先駆者としての役割を果たした。1937年満州国に移住し、歴史小説を執筆。日本の降伏後帰国し、朝鮮映画建設本部本部長兼代表委員長に就任。
木島 義夫(きじま よしお、1888年11月2日 - 197… 木島 義夫(きじま よしお、1888年11月2日 - 1979年12月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。参議院議員(3期)。 千葉県出身。1914年、東京高等商業学校専攻部(現一橋大学)卒。卒業後は長柄村長、千葉県議を経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙で千葉県から立候補して当選。翌1947年、公職追放となる(衆議院議員を1期務める)。追放解除後の1960年の参院補選で千葉県選挙区から自由民主党公認で立候補して当選。参議院議員を3期務めた。この間、参議院法務委員長、北海道開発庁政務次官などを歴任する。このほか千葉郊外自動車(のちの千葉中央バス)や東洋バスを設立。東洋交通、東洋観光、東洋バス、長平不動産の各社長も務めた。
徳重 伍介(とくしげ ごすけ、1888年11月 - 終戦直後… 徳重 伍介(とくしげ ごすけ、1888年11月 - 終戦直後没)は、日本、満洲国の教育者。 徳重義一の五男として、福岡県に生まれる。1906年福岡県立中学修猷館を経て、1912年東京高等商業学校専攻部貿易科を卒業。 1913年大阪市立大阪甲種商業学校教諭兼大阪高等商業学校講師となり、山口高等商業学校教授を経て、満洲国立大学哈爾濱学院教授に就任。1942年12月大連高等商業学校校長に就任。
小村 俊一(こむら しゅんいち、1888年9月30日 - 1… 小村 俊一(こむら しゅんいち、1888年9月30日 - 1958年3月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 宮崎県出身。東京高等商業学校で学ぶ。飫肥町議、南那珂郡議、宮崎県議、南那珂郡十六ヶ町村電気組合議員、飫肥町信用組合長、南那珂郡林産物同業組合長、日南市森林組合長、斗南新聞、南明館各(株)社長となる 1930年の第17回衆議院議員総選挙において宮崎県全県区から立憲民政党公認で立候補して当選し、衆議院議員を1期務めた。1932年の第18回衆議院議員総選挙で落選し、1936年の第19回衆議院議員総選挙でも落選した。1958年死去。
三宅 哲一郎(みやけ てついちろう、1888年〈明治21年〉… 三宅 哲一郎(みやけ てついちろう、1888年〈明治21年〉9月11日 - 1979年〈昭和54年〉1月23日)は、日本の外交官。駐チリ公使。 和歌山県出身。神戸高等商業学校(現在の神戸大学)を経て、1911年(明治44年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業した。1914年(大正3年)、外交官及領事官試験に合格。領事官補・関東都督府事務官、領事、公使館三等書記官、外務事務官・参事官、外務書記官・条約局第三課長、公使館二等書記官、同一等書記官などを歴任し、その間、スウェーデン、オランダに勤務した。バタヴィア総領事時代には、横浜正金銀行に学校設立を働きかけたり、シムラ会商に政府代表として参加し、イギリス、インドと通商問題の交渉を行うなどした。
勝田 信(かつた しん、1888年 <明治21年> 8月29… 勝田 信(かつた しん、1888年 <明治21年> 8月29日 - 1989年 <平成元年> 9月16日)は、日本の経営者、銀行家。鹿児島銀行頭取を務めた。位階は従五位。 東京都出身。1911年に東京高等商業学校専攻部銀行科を卒業し、同年に日本銀行に入行。1944年2月に鹿児島興業銀行(のちの鹿児島銀行)頭取に就任し、1960年5月には相談役に退いた。鹿児島商工会議所会頭も務めた。 1956年5月に黄綬褒章を受章し、1965年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1989年9月16日、心不全のために死去。101歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
小島 三郎(こじま さぶろう、1888年〈明治21年〉8月2… 小島 三郎(こじま さぶろう、1888年〈明治21年〉8月21日 - 1962年〈昭和37年〉9月9日)は、日本の医師。学位は、医学博士。東京帝国大学教授、国立予防衛生学研究所長を歴任。岐阜県各務原市出身。
村田 三郎(むらた さぶろう、1888年5月16日 - 19… 村田 三郎(むらた さぶろう、1888年5月16日 - 1968年以降没)は福岡県出身の実業家。田中鉱山の社員を経て流山鉄道の社長及び会長を務めた。義兄に中大路氏道。 福岡県、後の小倉市で1888年(明治21年)5月16日に村田政之助の三男として生まれる。1914年(大正3年)に東京高等商業学校(後の一橋大学)を卒業すると、東京市京橋区北紺屋町(中央区八重洲)の田中本店に入社した。三郎は千澤専助の四女・経子を妻とし、義父の千澤が1896年(明治29年)に創設した下谷銀行及び東洋貯蓄銀行の取締役にも1920年(大正9年)就任している。社長・田中長兵衛のもと最盛期には国内鉄需要の過半数を生産した釜石製鉄所にも不景気の波が押し寄せ、1920年3月には戦後恐慌が発生。
中村 清太郎(なかむら せいたろう、1888年4月30日 -… 中村 清太郎(なかむら せいたろう、1888年4月30日 - 1967年12月20日)は、日本の登山家、山岳画家。 川端玉章、岡田三郎助、藤島武二に師事した。 東京府浅草区出身。東京府立第三中学校(現東京都立両国高等学校)を経て、1911年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。実業家の加賀正太郎は中学・高商の同級生で友人。 近代登山の黎明期に北アルプスなどに登り、小島烏水らと赤石山脈の初縦走を行うなどした。針ノ木岳の命名者、クモマツマキチョウの発見者でもある。 また、本郷絵画研究所で絵画を学び、1936年には足立源一郎らと日本山岳画協会を設立した。1950年日本山岳会名誉会員。 晩年は日本登山史の執筆を行っていたが、1965年、図書館への行き帰りの際、タクシーに撥ねられ断筆となり、1967年に阿佐ヶ谷の自宅で死去した。
風戸 元愛(かざと もとちか、1888年(明治21年)4月2… 風戸 元愛(かざと もとちか、1888年(明治21年)4月20日 - 1975年(昭和50年)9月22日)は、日本の政治家。元茨城県水戸市長(2期)。 千葉県出身。東京商科大学卒業。茨城県農工銀行頭取を経て、水戸市会議員になり、議長に就任する。議長在職中の1946年、市会から水戸市長に推され、就任する。翌1947年の市長選挙に立候補し、当選する。しかし、同年公職追放となり、半年で市長の座を追われることになった。
岩手 嘉雄(いわて よしお、1888年〈明治21年〉3月 -… 岩手 嘉雄(いわて よしお、1888年〈明治21年〉3月 - 1947年〈昭和22年〉8月26日)は、日本の外交官。駐コロンビア公使。 東京府において元津和野藩士で、下総御料牧場職員を務めていた岩手厚雄の子として生まれる。早逝した父の前妻は同藩の国学者である石河正養の二女。 1913年(大正2年)、東京高等商業学校(現在の一橋大学)専攻科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。領事官補、外交官補としてアメリカ合衆国に赴任した。公使館三等書記官、領事、外務事務官、総領事、外務書記官・文書課長・翻訳課長、在カナダ日本国公使館一等書記官、ホノルル総領事、イタリア大使館参事官を歴任。1934年(昭和9年)から駐コロンビア公使を務めた。
加賀 正太郎(かが しょうたろう、1888年(明治21年)1… 加賀 正太郎(かが しょうたろう、1888年(明治21年)1月17日 - 1954年(昭和29年)8月8日)は、日本の資産家、実業家。加賀証券社長。大阪府多額納税者。 1888年、大阪市東区今橋生まれ。加賀市太郎の長男。加賀家は大阪目抜きの場所、高麗橋通りにあり、大阪屈指の資産家として、又著名の旧家として遠近に知られた。12歳の時に父親が亡くなり、船場にあった江戸時代から続く実家の繊維業・米穀仲買業・両替商「富商加賀商店」を継ぐ。 ヨーロッパに渡り、日英博覧会やキューガーデンの見学、アルプス山脈ユングフラウ登頂を行った。 東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)を経て、1911年、東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。
松嶋 鹿夫(まつしま しかお、1888年1月16日 - 19… 松嶋 鹿夫(まつしま しかお、1888年1月16日 - 1968年11月28日)は、日本の外交官。外務次官や終戦連絡中央事務局次長、貴族院議員等を務めた。
村井 倉松(むらい くらまつ、1888年〈明治21年〉1月1… 村井 倉松(むらい くらまつ、1888年〈明治21年〉1月10日 - 1953年〈昭和28年〉10月23日)は、日本の政治家。青森県八戸市の8代目市長。 青森県上北郡百石村(百石町→おいらせ町の前身)に生まれる。青森県立第二中学校(現青森県立八戸高等学校)、京北中学校を経て、1911年(明治44年)に東京高等商業学校(一橋大学の前身)卒業、東亜同文書院教授。 1913年(大正2年)に東亜同文書院教授を退任。1914年(大正3年)高等文官試験外交科(外交官及領事館試験)に合格し、同年在長春領事官補、高等官七等となる。 在ホノルル領事官補を経て、1918年(大正7年)在ニューヨーク領事官補。1919年(大正8年)在中国外交官補。
井内 彦四郎(いうち ひこしろう、1888年(明治21年)1… 井内 彦四郎(いうち ひこしろう、1888年(明治21年)1月4日 - 1969年(昭和44年)11月6日)は、日本の実業家。近畿日本鉄道(近鉄)の前身である大阪電気軌道(大軌)に入社し、その子会社の参宮急行電鉄(参急)専務取締役を務め、同社の路線規模拡大の先導役となった。高知県出身。 高知県安芸市(当時は安芸郡安芸町)、三菱財閥創始者である岩崎弥太郎を輩出した街で生まれた井内は、明治39年に県立第三中学校(後の安芸高校)を卒業、東京高等商業学校(後の一橋大学)に進学後、岩崎弥太郎の従弟である豊川良平から三菱系列へ入社することを推薦された。しかし、「三菱は既に組織が整っており、私のような鈍才がいってもやる事はない。
坂根 準三(さかね じゅんぞう、1888年〈明治21年〉1月… 坂根 準三(さかね じゅんぞう、1888年〈明治21年〉1月 - 1945年〈昭和20年〉10月10日)は、日本の外交官。駐コロンビア公使。 東京府出身。1913年(大正2年)、高等文官試験に合格し、1915年(大正4年)に東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業した。1917年(大正6年)、外交官及領事官試験に合格し、イギリスに領事官補として赴任した。リヴァプール領事、外務事務官・通商局監理課勤務兼特許局事務官、通商局第二課長兼農林書記官、アントウェルペン領事などを歴任。1927年(昭和2年)、漢口総領事となり、のち青島総領事に転じた。1935年(昭和10年)休職となるが、1937年(昭和12年)に復職し、サンパウロ総領事となった。
飯島 幡司(いいじま まんじ、1888年 - 1987年)は… 飯島 幡司(いいじま まんじ、1888年 - 1987年)は日本の経済学者、実業家。神戸高等商業学校(現神戸大学)教授、 大阪鐵工所専務、朝日放送社長、関西経済連合会会長を歴任。ローマ法王庁聖グレゴリオ勲章、イタリア共和国グランデウフィチアレ勲章受章。
加藤 藤太郎(かとう ふじたろう、1887年10月28日 -… 加藤 藤太郎(かとう ふじたろう、1887年10月28日 - 1987年10月5日)は、日本の実業家。神崎製紙創始者。元王子製紙副社長。 香川県三野郡桑山村(現 三豊市豊中町)出身。旧制香川県立三豊中学校、東京高等商業学校(現 一橋大学)卒業。 1910年(明治43年)東京高等商業学校卒業後、王子製紙に入社。藤原銀次郎社長等の知遇を受けて、1938年(昭和13年)常務就任の後、在職37年にして、1946年(昭和21年)2月、副社長に昇任。戦後、進駐軍の指示で財閥解体になり、同年12月、副社長を10ヶ月で退任。退職金も支払われなかった。 1948年(昭和23年)藤原銀次郎から同社神崎工場の再建を託され、神崎製紙を創設、初代社長に就任。
天羽 英二(あもう えいじ、1887年〈明治20年〉8月19… 天羽 英二(あもう えいじ、1887年〈明治20年〉8月19日 - 1968年〈昭和43年〉7月31日)は、日本の外交官。 日独伊三国同盟締結時(1940年〈昭和15年〉9月25日)は駐イタリア特命全権大使。三国同盟に反対の立場の天羽は三国同盟締結直前(1940年〈昭和15年〉9月6日)に松岡外相によってイタリア特命全権大使の任を解かれ(いわゆる松岡旋風人事)、後任の駐イタリア特命全権大使として堀切善兵衛が選ばれた(1940年〈昭和15年〉9月30日に正式任命)。外務次官(近衞文麿内閣)や情報局総裁(東條英機内閣)を務め、戦後A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監され公職追放となった(のちに解除)。1945年(昭和20年)12月にA級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監された天羽は遂に起訴されることなく3年後の1948年(昭和23年)12月に釈放された。
犬丸 徹三(いぬまる てつぞう、1887年〈明治20年〉6月… 犬丸 徹三(いぬまる てつぞう、1887年〈明治20年〉6月8日 - 1981年〈昭和56年〉4月9日)は、日本の実業家。元帝国ホテル社長。元日本ホテル協会会長。元東京モノレール社長。 元帝国ホテル社長犬丸一郎の父。 石川県能美郡根上村字福島(現能美市)に生まれた。父・犬丸六右衛門、母・いその長男。 小松の芦城小学校高等科、旧制小松中学校(現・小松高校)を経て東京高商(現・一橋大学)に入学。 1908年文部省が専門部廃止の方針を明らかにしたため、全学生がこれに猛反対し商科大学昇進を叫んで同盟休校敢行にまで発展した事件が起きた。犬丸は級友に選出され、ストライキ指導者の一人として校長に直接談判したり、文部省へ押しかけ大臣に面会を要請してひかなかった。
熊崎 恭(くまさき きょう、1887年4月 - 1923年1… 熊崎 恭(くまさき きょう、1887年4月 - 1923年10月2日)は、明治時代の日本の外交官。元在ニューヨーク総領事。 父は外交官の熊崎寛良で大蔵省葉煙草専売所長等を務めた。弟の熊崎武良は哲学者で早稲田大学教授を務めた。本籍地は東京府東京市麻布区本村町(現元麻布・南麻布)。父が在リヨン在勤中に同地で生まれ、リヨンの小学校を経て、神田の旧制中学校に途中入学し、1908年(明治41年)東京高等商業学校(現一橋大学)卒業、専攻部進学。ボート部出身。 1期下の酒匂秀一(のちに駐ポートランド大使)や大島堅造(のちに住友本社取締役)とは、英語教師のフレデリック・イーストレイクや、高商時代のドイツ語教師だったリヒャルト・ハイゼの家に遊びに行くなど親しかった。
酒匂 秀一(さかわ しゅういち、1887年(明治20年)2月… 酒匂 秀一(さかわ しゅういち、1887年(明治20年)2月2日 - 1949年(昭和24年)7月23日)は、日本の外交官。ロシア通として知られ、南洋協会理事長等を務めた。 1909年に東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、同校専攻部に進学。同期の大島堅造(のちに住友本社取締役)や1期上の熊崎恭(のちにニューヨーク総領事)とは英語教師のフレデリック・イーストレイクや、高商時代のドイツ語教師だったリヒャルト・ハイゼの家に遊びに行くなど親しかった。 駐ポーランド特命全権大使在任中、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻を前に、1939年(昭和14年)1月ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラー総統とポーランド外務大臣ユゼフ・ベック大佐の直接会談を実現。
金井 滋直(かない しげなお、1887年〈明治20年〉2月1… 金井 滋直(かない しげなお、1887年〈明治20年〉2月1日 - 1979年〈昭和54年〉12月3日)は、日本の実業家。興国人絹パルプ社長を務めた。 埼玉県大里郡大寄村(のちの深谷市)生まれ。旧制群馬県立前橋中学校(のちの群馬県立前橋高等学校)を経て、1911年東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業、東洋生命保険入社。同社業務部長、同社総務部長を経て、1931年同社常務。1936年日本曹達常務。1937年日曹人絹パルプ常務。1941年興国人絹パルプ(のちの興人)社長。1946年山陽パルプ発起人。同年同社取締役。1949年マードック賞受賞。1953年矢野恒太記念会理事。1955年経済審議会委員。
大島 堅造(おおしま けんぞう、1887年〈明治20年〉1月… 大島 堅造(おおしま けんぞう、1887年〈明治20年〉1月11日 - 1971年〈昭和46年〉11月24日)は、日本の実業家。住友銀行専務、住友本社取締役、経済評論家。 群馬県太田市大島町出身。東京府立一中に学ぶ。1909年(明治42年)東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。 同年住友銀行に入行。1917年(大正6年)ニューヨーク支店長代理となる。1923年(大正12年)本店外国課長。1925年(大正14年)本店支配人。1932年(昭和7年)常務取締役。1943年(昭和18年)専務取締役。1944年(昭和19年)まで同取締役、1945年(昭和20年)まで同監査役を務めた。1943年(昭和18年)から1947年(昭和22年)まで住友本社監事を務めた。
白石 喜太郎(しらいし きたろう、1887年(明治20年)1… 白石 喜太郎(しらいし きたろう、1887年(明治20年)1月7日 - 1945年(昭和20年)7月28日)は、高知県出身の日本の実業家、計理士、渋沢栄一、敬三に仕え、渋沢同族株式会社の専務取締役になどを歴任した。 1887年(明治20年)、先代喜太郎と丑の長男として高知県安芸郡田野村(現・田野町)に生まれる。1896年(明治29年)先代喜太郎が病没、家督相続し又喜を改め襲名。1905年(明治38年)、高知県立中学海南学校を卒業後、官立東京高等商業学校(高等商業学校を改称、東京高商、現・一橋大学)に入学。渋沢事務所の八十島親徳に保証人を依頼。在学中は、休暇の前後に八十島を訪問し、種々教えを受ける。
亀山 恭平(かめやま きょうへい、1887年(明治20年)1… 亀山 恭平(かめやま きょうへい、1887年(明治20年)1月 - 没年不明)は、日本の銀行家。日本勧業銀行地方顧問。族籍は岐阜県士族。 岐阜県士族・亀山顕造の二男。1908年、家督を相続した。1910年、東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。濃飛農工銀行支配人、取締頭取等を歴職。宗教は神道。住所は岐阜県岐阜市神田町二丁目、同市八ッ寺町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
二宮 丁三(にのみや ていぞう、1887年 - 1951年)… 二宮 丁三(にのみや ていぞう、1887年 - 1951年)は、日本の商学者。第3代兵庫県立神戸高等商業学校校長や、同校が大学に昇格して設立された兵庫県立神戸商科大学の学長事務取扱を経て、初代共立女子大学学長を務めた。 群馬県出身。群馬県立前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)を経て、1911年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1914年同校専攻部商工経営科卒業。1926年から2年間文部省在外研究員としてイギリスに留学し、山口高等商業学校教授兼山口市参事会員を経て、1941年兵庫県立神戸高等商業学校校長。同年叙正四位。令名高く、1948年には兵庫県立神戸商科大学学長事務取扱を兼務した。同年に退官後は、共立女子専門学校校長を経て、共立女子大学学長を務め、1951年に病気のため退任した。
河盛 安之介(かわもり やすのすけ、1886年〈明治19年〉… 河盛 安之介(かわもり やすのすけ、1886年〈明治19年〉10月29日 - 1976年〈昭和51年〉7月24日)は、昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。大阪府堺市長(第9代〈官選〉、第13代〈公選〉)。堺市「100万都市(政令指定都市)」生みの親。 竹内権兵衛の三男として茨城県に生まれ、のち河盛又三郎の養子となる。1909年(明治42年)東京高等商業学校本科を卒業し、のち専攻部を修業する。1921年(大正10年)広島県呉市に合資会社河盛商店を創業し業務執行社員を務める。翌年の1922年(大正11年)には有限責任堺興業信用組合を創立し組合長理事となった。ほか、堺醤油製造合資会社業務担当社員などを経て、河又醤油社長、南海土地建物取締役、河盛商店監査役、大醤(河又醤油とイヅミイチ(大阪府貝塚市)が合同で設立)初代社長などを歴任した。