斉藤 晋一(さいとう しんいち、1912年8月24日 - 1… 斉藤 晋一(さいとう しんいち、1912年8月24日 - 1985年10月6日)は、日本の経営者。住友ゴム工業3代目社長を務めた。新潟県栃尾市(現:長岡市)出身。 1936年に東京商科大学を卒業し、同年に住友電気工業に入社。1962年11月に取締役に就任し、1964年に常務、1969年5月に専務を経て、1971年5月に副社長に就任。1974年8月に住友ゴム工業社長に就任し、1980年3月に会長に就任。 1978年5月に藍綬褒章を受章。 1985年10月6日肝不全のために死去。73歳没。
水野 忠夫(みずの ただお、1912年(明治45年)6月21… 水野 忠夫(みずの ただお、1912年(明治45年)6月21日 - 1976年(昭和51年)3月6日)は、日本の実業家。三井製糖社長や、初代精糖工業会会長を務めた。 岐阜県出身。1937年東京商科大学(現一橋大学)卒業。台湾製糖入社後、1949年第一物産入社。砂糖部長などを務め、1965年国際連合砂糖会議日本政府代表顧問。1970年三井製糖専務。1972年三井製糖社長。1974年全日本精糖工業会会長。同年全日本精糖工業会と日本精糖工業会が合併した精糖工業会の会長に就任。1976年に死去し、正五位勲三等旭日中綬章を追贈された。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
後藤 達郎 (ごとう たつろう、1911年11月11日 - … 後藤 達郎 (ごとう たつろう、1911年11月11日 - 2020年7月10日)は、日本の実業家。ホテルオークラ社長・会長、日本ホテル協会会長を歴任。 愛知県渥美郡二川町(現豊橋市二川町)出身。1935年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。同年三井物産入社。大学予科時代には、文部省による東京商科大学予科および専門部廃止案に反対し籠城闘争を決行(籠城事件)。 庭野正之助(のちに日本鉱業社長)らとともに、警察に検挙され勾留されたが、商法の本間喜一教授や民法の常盤敏太教授の尽力で釈放された。 米国三井物産社長・会長、三井物産副社長等を経て、1977年新設ポストである、三井物産副会長に就任。 大成観光常勤顧問を経て、1981年大成観光代表取締役社長就任。
相川 泰吉(あいかわ たいきち、1911年10月2日 - 1… 相川 泰吉(あいかわ たいきち、1911年10月2日 - 1982年11月28日)は、日本の経営者。東京都出身。 旧制成蹊中学校を経て、1936年に東京商科大学を卒業し、後に三菱江戸川化学(のちの三菱ガス化学)に入社。取締役、1964年5月に常務、1970年5月に専務を経て、1973年11月に副社長に就任し、1975年5月に社長に昇格した。 1956年のメルボルンオリンピックと1964年の東京オリンピックで馬術チームの監督も務めた。第4回全日本学生馬術選手権大会で優勝。子・相川一成も成蹊学園出身の第32回全日本学生馬術選手権大会優勝者であり、親子2代の優勝が報道された。 1982年11月28日肺炎のために死去。
篠田 義雄(しのだ よしお、1911年9月10日 - 198… 篠田 義雄(しのだ よしお、1911年9月10日 - 1988年4月2日)は、日本の経営者。大阪商船三井船舶(現在の商船三井)社長、会長を務めた。岐阜県岐阜市出身。 1935年に東京商科大学を卒業し、同年に大阪商船(のちの大阪商船三井船舶)に入社。1964年4月に取締役に就任し、1967年5月に常務、1970年5月に専務を経て、1972年5月に副社長に就任し、1973年5月には社長に昇格。1976年6月に会長に就任し、1980年6月には相談役に就任。 1976年11月に藍綬褒章を受章し、1982年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1988年4月2日心不全のために死去。76歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
平岡 忠次郎(ひらおか ちゅうじろう、1911年(明治44年… 平岡 忠次郎(ひらおか ちゅうじろう、1911年(明治44年)8月17日 - 1989年(平成元年)6月20日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 埼玉県入間郡元加治村(現:入間市)で、所沢町の織物問屋浜田屋の二男として生まれる。1936年、東京商科大学を卒業した。 その後、平岡洋行主、富士汽船社長、所沢産業社長などを務めた。 戦後すぐに日本社会党に入党。所沢市議会議員に就任。1952年10月、第25回衆議院議員総選挙で埼玉県第二区から出馬して当選。その後、第31回総選挙まで連続7回の当選を果たした。この間、世界連邦日本国会委員会事務局長、世界連邦国会議員世界協会常任理事、日本社会党埼玉県連合会長、同党政策審議会副会長、同財務委員会副委員長、同代議士会副会長、同国際団体部長、同政審会大蔵部長、同税制部長、同中央執行委員、社会文化会館建設副委員長兼事務局長、首都圏開発副委員長などを務めた。
髙本 善四郎(たかもと ぜんしろう、1911年8月11日 -… 髙本 善四郎(たかもと ぜんしろう、1911年8月11日 - 2007年12月7日)は、日本の実業家、慈善活動家。ダイトロン創業者。 京都府舞鶴町(現舞鶴市)吉原地区生まれ。吉原尋常小学校、京都府立舞鶴中学校(現京都府立西舞鶴高等学校)卒業後、貿易に携わるため、東京商科大学(現一橋大学)専門部に進学し、1944年に卒業後商社に入る。 太平洋戦争中は中国大陸で従軍し、日本の降伏後大阪で個人事業を起業。東京通信工業の『テープコーダー』を扱い、1952年には大阪市北区に大都商事(現ダイトロン)を設立。 90歳で経営から引退後は、福祉や教育分野での慈善活動のため2001年に滋賀県にダイトロン福祉財団を設立、舞鶴市社会福祉協議会への寄付などを行った。
島村 道康(しまむら みちやす、1911年 <明治44年> … 島村 道康(しまむら みちやす、1911年 <明治44年> 4月28日 - 1989年 <平成元年> 2月19日)は、日本の経営者。位階は従四位。 なお名前については、音読みの「どうこう」と呼ばれることも多かった。 高知県高知市出身。1935年に東京商科大学本科を卒業し、同年4月に第一銀行に入行。1963年11月に取締役に就任し、1966年11月に常務。1968年から翌1969年にかけて起きた第一銀行と三菱銀行の合併騒動では、合併反対派の急先鋒として当時同行会長だった井上薫らに与し、合併を推進した頭取の長谷川重三郎と対立したため、長谷川の逆鱗に触れた島村は銀行を追い出され東亜ペイントに転出を余儀なくされた。
栖原 亮(すはら あきら、1911年 <明治44年> 3月1… 栖原 亮(すはら あきら、1911年 <明治44年> 3月11日 - 2000年 <平成12年> 7月30日)は、日本の経営者。本州製紙社長、会長を務めた。位階は従四位。 東京都出身。1934年に東京商科大学を卒業し、同年に王子製紙に入社。1949年8月に本州製紙に転じ、1960年11月に取締役に就任し、1963年11月に常務、1969年5月に専務、1970年11月に副社長を経て、1974年11月には社長に就任。1982年6月に会長に就任し、1990年6月から相談役を務めた。 1979年4月に藍綬褒章を受章し、1983年11月に勲二等瑞宝章を受章。 2000年7月30日肺炎のために死去。89歳没。
水野 衛夫(みずの もりお、1911年2月16日 - 198… 水野 衛夫(みずの もりお、1911年2月16日 - 1987年3月22日)は、日本の経営者。安田生命保険社長を務めた。 東京都出身。1922年に東京商科大学を卒業し、同年に安田銀行に入行。1959年5月に安田生命保険に転じ、常務、専務、副社長を経て、1969年に社長に就任した。 1974年10月に藍綬褒章を受章し、1981年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1987年3月22日、肺炎のために死去。76歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
島田 賢一(しまだ けんいち、1910年5月24日 - 19… 島田 賢一(しまだ けんいち、1910年5月24日 - 1978年2月20日)は、日本の実業家。チッソ代表取締役社長として、水俣病患者との交渉にあたった。 和歌山県田辺市出身。1934年、東京商科大学(現・一橋大学)卒業。同年、日本窒素肥料(現・チッソ)入社。1949年、日本窒素肥料水俣工場総務部長。同年、日本窒素肥料営業部長。1950年、新日本窒素肥料営業部長。1952年、第二営業部長。1955年、繊維部長。1956年、ミナロン営業部長。1959年、取締役。1963年、常務取締役。1967年11月、副社長。 1971年5月26日に開かれた株主総会は一株運動との対決で大きな騒動となり、チッソは世論の厳しい批判を浴びた。
戸崎 誠喜(とざき せいき、1910年(明治43年)3月18… 戸崎 誠喜(とざき せいき、1910年(明治43年)3月18日 - 2006年(平成18年)7月3日)は、日本の実業家、伊藤忠商事社長・会長を歴任。 1910年(明治43年)熊本市新町に末吉の長男として生まれる。1934年(昭和9年)東京商科大学(現 一橋大学)卒、伊藤忠商事へ入社。繊維製品担当として大阪船場で活動。1939年(昭和14年)オーストラリア駐在。1941年(昭和16年)8月帰国。1945年(昭和20年)ハノイ支店長代理。1947年(昭和22年)福岡支店。1948年(昭和23年)8月東京支店繊維課長、穀物部長代理、東京支店長代理。1952年(昭和27年)米国ポートランド駐在。 1954年(昭和29年)伊藤忠アメリカ社長兼ニューヨーク事務所長。
南須原 静也(なすはら しずや、1910年 <明治43年> … 南須原 静也(なすはら しずや、1910年 <明治43年> 1月12日 - 1990年 <平成2年> 12月8日)は、日本の経営者。三井倉庫社長、会長を務めた。位階は従四位。 静岡県出身。1932年に東京商科大学を卒業し、同年に三井倉庫に入社。1960年5月に取締役に就任し、1995年5月に常務、1968年5月に専務を経て、1972年5月に社長に就任。1981年6月に会長を経て、1985年6月から相談役を務めた。 1974年11月に藍綬褒章を受章し、1980年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1990年12月8日急性呼吸不全のために死去。80歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
山下 秀明(やました ひであき、1910年(明治43年)1月… 山下 秀明(やました ひであき、1910年(明治43年)1月1日 - 1995年(平成7年)5月7日)は、日本の実業家。旭硝子(現AGC)社長や、同社会長、旭硝子財団理事長等を務めた。 長野県上伊那郡箕輪町生まれ。1932年東京商科大学(現一橋大学)附属商学専門部卒業、旭硝子入社。経理部長等を経て、1959年取締役に昇格。1967年常務取締役。1971年専務取締役。1973年社長。1981年会長。1987年取締役相談役。1989年旭硝子工業技術奨励会理事長。1990年から旭硝子財団理事長を務め、1992年にはブループラネット賞を創設した。ファインセラミックス技術研究組合理事長等も務めた。1995年5月7日、腎不全のため死去。
檜山 廣(ひやま ひろ、1909年(明治42年)12月18日… 檜山 廣(ひやま ひろ、1909年(明治42年)12月18日 - 2000年(平成12年)12月25日)は、日本の実業家である。丸紅の社長や会長を歴任し、同社中興の祖と言われる。国際派の論客でもあったが、ロッキード事件における中心人物のひとりとして有罪となった。 茨城県那珂郡那珂町(現在の那珂市)生まれ。旧制水戸中学校を経て、東京商科大学(現在の一橋大学)卒業。大学在学中は柔道部のエースであった。 大学を卒業した1932年(昭和7年)に大同貿易入社、1952年(昭和27年)に丸紅飯田(現在の丸紅)取締役、1957年(昭和32年)常務、専務、副社長を経て、1964年(昭和39年)に同社長、1975年(昭和50年)に丸紅会長、1976年(昭和51年)に同取締役相談役。
槇田 久生(まきた ひさお、1909年12月13日 - 19… 槇田 久生(まきた ひさお、1909年12月13日 - 1989年4月24日)は、日本の実業家。元日本鋼管社長・会長。
廣田 宗(ひろた そう、1909年(明治40年)10月20日… 廣田 宗(ひろた そう、1909年(明治40年)10月20日 - 1986年(昭和61年)11月29日)は、日本の実業家。小田急電鉄社長、日本民営鉄道協会会長等を務めた。 大分県出身。1932年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業後、三菱銀行入行。 四日市、熱田各支店長を経て、本店営業部長、審査第二部長、福岡支店長、取締役、審査第一部長を歴任。 1963年にその人格・識見を見込んだ小田急電鉄社長の安藤楢六が、当時の三菱銀行頭取だった宇佐美洵に懇請し、小田急グループに迎えられ、小田急百貨店専務に就任。 1964年、小田急電鉄に転じ取締役、翌年専務、1969年社長。 1981年には会長に退き、ホテル小田急社長を兼務した。
諸葛 義夫(もろくず よしお、1909年8月16日 - 19… 諸葛 義夫(もろくず よしお、1909年8月16日 - 1983年8月21日)は、日本の経営者。住友海上火災保険社長、会長を務めた。 東京都出身。1933年に東京商科大学本科を卒業し、同年に住友海上火災保険に入社。1960年6月に取締役に就任し、1965年6月に常務、1968年6月に専務を経て、1969年6月には社長に就任。1974年9月に会長を経て、1978年7月には相談役に就任。 1973年9月に藍綬褒章を受章し、1979年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1983年8月21日、急性心不全のために死去。74歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
秋草 篤二(あきくさ とくじ、1909年〈明治42年〉7月7… 秋草 篤二(あきくさ とくじ、1909年〈明治42年〉7月7日 - 2001年〈平成13年〉11月22日)は、日本の逓信官僚、実業家。日本電信電話公社総裁。 群馬県山田郡矢場川村(現・栃木県足利市)に生まれる。旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)を経て、1934年(昭和9年)に東京商科大学(現・一橋大学)を卒業。卒業後、日本無線電信に入る。 戦後逓信省に入り、1947年(昭和22年)総務局監理課長。1949年(昭和24年)AT&T留学、電気通信省経理局会計課長となる。1952年(昭和27年)日本電信電話公社が発足すると同社に移り、資材部長、経理局長、理事、総務理事を経て1965年(昭和40年)副総裁。
尾本 信平(おもと しんぺい、明治41年(1908年)10月… 尾本 信平(おもと しんぺい、明治41年(1908年)10月17日 - 平成11年(1999年)4月19日)は、三井金属(現・三井金属鉱業)社長・会長・名誉相談役。位階は従三位。
関 好美(せき よしとみ、1908年6月19日 - 1996… 関 好美(せき よしとみ、1908年6月19日 - 1996年3月7日)は、日本の経営者。明治生命保険社長、会長を務めた。 徳島県出身。1931年に東京商科大学本科を卒業し、同年に明治生命保険に入社した。1953年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1967年に社長に就任し、1974年4月には会長に就任した。1979年7月から相談役を務めた。 1971年8月に生命保険協会会長に就任し、相談役も務めた。 1971年に藍綬褒章を受章した。 1996年3月7日、肺炎のために神奈川県鎌倉市の病院で死去。87歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
山田 栄一(やまだ えいいち、1908年5月10日 - 19… 山田 栄一(やまだ えいいち、1908年5月10日 - 1995年1月10日)は、第三代シチズン時計社長(1946年 - 1981年)。静岡市出身。旧姓鈴木。 1908年、横浜に生まれる[要出典]。静岡県立静岡中学校を経て、1931年、東京商科大学卒業。同年、三井生命入社、1937年、シチズン時計入社、1941年、シチズン時計取締役、1944年、シチズン時計常務取締役、1945年、シチズン時計専務取締役、1946年、シチズン時計代表取締役社長。1968年、藍綬褒章受章、1978年、勲三等旭日中綬章受章、1981年、シチズン時計会長。1986年、シチズン時計取締役相談役、1987年、シチズン時計相談役。
中川 英造(なかがわ えいぞう、1908年(明治41年)3月… 中川 英造(なかがわ えいぞう、1908年(明治41年)3月23日 - 1999年(平成11年)10月14日)は、日本の実業家。朝日新聞社で業務部門を歩み、代表取締役専務を経てテレビ朝日第7代社長。広島県出身。 1930年(昭和5年)東京商科大学(現一橋大学)本科卒業後、東京朝日新聞社入社。大学時代は、漕艇部に所属し、のちに日本漕艇協会(現日本ローイング協会)の顧問なども務めた。 庶務、販売、会計各部長、業務局次長、経理総務などを歴任。1959年(昭和34年)2月には、新設の北海道支社の初代支社長となり、翌年取締役となる。1963年の村山事件の折には、矢島八洲夫、横田武夫らともに辞表を提出し、業務関係の役員不在という異常事態に陥るが、村山長挙が社長を辞任したことで同事件は収束し復職した。
大橋 貞雄(おおはし さだお、1908年3月13日 - 20… 大橋 貞雄(おおはし さだお、1908年3月13日 - 2009年3月28日 )は、日本の経営者。共同印刷社長、会長を務めた。 東京都出身。1930年に東京商科大学を卒業し、同年に帝国教育会出版部に入社。1944年に国民図書刊行会に転じ、1947年に東京インキ社長に就任。1957年5月には共同印刷社長に就任。1977年8月に会長に就任し、1988年6月に取締役兼名誉会長に就任し、1990年6月から相談役兼名誉会長を務めた。 1968年10月に藍綬褒章を受章し、1978年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 2009年3月28日、老衰のために死去。101歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
相京 光雄(あいきょう みつお、1908年1月3日 - 19… 相京 光雄(あいきょう みつお、1908年1月3日 - 1984年4月29日)は、日本の経営者。神奈川県横浜市出身。 1932年に東京商科大学本科を卒業し、同年4月に三菱鉱業に入社。1957年5月に三菱金属鉱業取締役に就任し、1959年8月に常務を経て、1963年5月に副社長に就任し、1967年5月には社長に昇格した。1973年5月に三菱鉱業セメント会長に就任し、1977年6月から相談役を務めた。日本鉱業協会会長も務めた。 1969年10月に藍綬褒章を受章し、1979年4月に勲一等瑞宝章を受章。 1984年4月29日急性心不全のために死去。76歳没。
磯野 計蔵(いその けいぞう、1907年(明治40年)9月2… 磯野 計蔵(いその けいぞう、1907年(明治40年)9月29日 - 1966年(昭和41年)6月27日)は、日本の実業家、登山家。元明治屋代表取締役社長。元日本商品学会顧問。 東京出身。磯野長蔵の長男。1931年、東京商科大学(現一橋大学)卒業。同大学山岳部出身で、在学中冬の鹿島槍ヶ岳登頂に成功。1933年からイギリスで商社実務研修を受け、ウォルター・ウェストンと交流を持った。明治屋取締役を経て、1944年、明治屋取締役副社長。1950年、日本商品学会顧問。1959年、明治屋代表取締役社長、キリンビール監査役。1966年6月27日、膀胱癌のため慶應義塾大学病院で死去。 1987年、磯野文庫創設。
玉置 実(實、たまき みのる、1907年(明治40年)9月1… 玉置 実(實、たまき みのる、1907年(明治40年)9月12日 – 没年不詳)は、昭和期の商工官僚、実業家、弁護士、政治家。衆議院議員。 香川県小豆郡草壁村(草壁町、内海町草壁本町を経て現小豆島町)で生まれる。1931年(昭和6年)10月、高等試験行政科試験に合格。1932年(昭和7年)東京商科大学を卒業した。 横浜専門学校(現神奈川大学)教授、大倉高等商業学校(現東京経済大学)講師を務めた。三菱商事勤務を経て、1937年(昭和12年)企画院事務官に任官。同調査官を経て、1938年(昭和13年)商工事務官に転じた。以後、物価局事務官、近畿地方総監府副参事官、内務省調査局第一課長、商工省賠償実施局第一課長などを歴任。
中村 盛太郎(なかむら もりたろう、1907年9月6日 - … 中村 盛太郎(なかむら もりたろう、1907年9月6日 - 没年不明)は、日本の経営者。山之内製薬社長、会長を務めた。 東京都出身。1928年に東京商科大学商学専門部を卒業し、同年4月に住友銀行に入行。1962年5月に山之内製薬に転じ、同年8月に常務に就任し、1968年8月に副社長を経て、1974年8月には社長に就任した。1977年3月に会長を経て、1980年3月には相談役に就任。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
田部 文一郎(たなべ ぶんいちろう、1907年(明治40年)… 田部 文一郎(たなべ ぶんいちろう、1907年(明治40年)9月5日 - 2002年(平成14年)2月7日)は、日本の実業家。三菱商事社長・会長、日本商工会議所副会頭。 広島県広島市出身。名前は文一郎だが男女9人兄弟姉妹の四番目。一郎・二郎・三郎の繰り返しで文一郎となった。実家は中級の燃料商で、当時から広島ガスや三菱商事などとも石炭で取引があった。両親はサラリーマンが嫌いで息子はみな商売人となるよう教育した。父親はさほど仕事に熱心でなく、よく仕事を休んでいたという。広島市立本川小学校6年の頃から集金をやらされたが子供の集金に取引先はお金を払わず。子供ながら絶対商売人にはなりたくないと強く願い、他の男兄弟はみな商業学校に行った中で一人だけ広島県立一中(現・広島国泰寺高校)へ進学した。
渡辺 文蔵(わたなべ ぶんぞう、1907年5月20日 - 2… 渡辺 文蔵(わたなべ ぶんぞう、1907年5月20日 - 2002年11月4日)は日本の実業家。味の素社長を1973年から8年務めた。敬虔なクリスチャンとしても知られ東京女子大学理事長などを務めた。食品産業功労賞。
末吉 俊雄(すえよし としお、1907年(明治40年)2月1… 末吉 俊雄(すえよし としお、1907年(明治40年)2月13日 - 1977年(昭和52年)1月24日)は、日本の実業家。三井東圧化学(現三井化学)社長や、日本硫安工業協会会(現日本肥料アンモニア協会)会長を務めた。 1930年東京商科大学(現一橋大学)卒業、三井鉱山入社。1931年三池窒素工業入社。1937年東洋高圧工業入社。東洋高圧工業営業課長等を経て、1947年東洋高圧工業取締役に昇格。1955年東洋高圧工業常務取締役。1957年東洋高圧工業専務取締役。1963年東洋高圧工業取締役副社長。1970年三井東圧化学取締役社長。1973年三井石油開発取締役。1974年日本硫安工業協会会長。日本原子力産業会議理事等も務めた。
椎名 時四郎(しいな ときしろう、1907年1月19日 - … 椎名 時四郎(しいな ときしろう、1907年1月19日 - 2007年12月3日)は、日本の実業家。栃木県出身。元住友商事副会長。 1924年(大正13年)、旧制栃木県立栃木中学校(現 栃木県立栃木高等学校)修了。東京商科大学(現 一橋大学)卒業。元住友商事副会長。1973年(昭和48年)、(財)日本ラグビーフットボール協会会長に就任。1979年(昭和54年)、同 名誉会長に就任。1995年(平成7年)、同 名誉相談役に就任。 2007年12月3日、肺炎により100歳で死去。
越田 覚造(こしだ かくぞう、1907年〈明治40年〉1月4… 越田 覚造(こしだ かくぞう、1907年〈明治40年〉1月4日 - 没年不明)は、日本の実業家。日本端子元社長。ラジオ関東(現・アール・エフ・ラジオ日本)元社長。富士観光元社長。農林大臣を務めた河野一郎や参議院議長を務めた河野謙三は義兄にあたる。 富山県出身。越田覚二の長男として生まれる。1930年(昭和5年)東京商科大学を卒業後、昭和肥料に入社。1945年(昭和20年)日本肥料四日市工場総務部長となり、1948年(昭和23年)東海硫安工業取締役四日市工場長に就任。 1951年(昭和26年)本社営業部長に転じ、1958年(昭和33年)7月監査員を兼任し、1962年(昭和37年)10月日本端子社長、1963年(昭和38年)6月ラジオ関東副社長に選任される。
14代 渡辺 甚吉(渡邊、わたなべ じんきち、1906年(明… 14代 渡辺 甚吉(渡邊、わたなべ じんきち、1906年(明治39年)11月26日 - 1972年(昭和47年)5月25日)は、昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、参議院議員。旧名は村吉。12代渡辺甚吉の孫。 岐阜県岐阜市松屋町で、岐阜貯蓄銀行(現十六銀行)頭取で実業家の13代渡辺甚吉、八重の長男として生まれた。 暁星中学校(現暁星中学校・高等学校)を経て、1930年(昭和5年)東京商科大学(現一橋大学)を卒業し、同年3月から1931年(昭和6年)1月まで欧米各国を視察した。大学在学中に父が死去し家督を相続して14代甚吉を襲名した。 帰国後、有隣生命保険社長、浩栄社社長、北海興業社長、築地電気社長、明徳自動車代表、岐阜信託取締役、岐阜貯蓄銀行取締役などに就任した。
土屋 尹直(つちや ただなお、1906年(明治39年)5月1… 土屋 尹直(つちや ただなお、1906年(明治39年)5月13日- 1979年(昭和54年)9月24日)は、昭和期の実業家、宮内官、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・堤、旧名・忠雄。 華族・堤雄長の三男として生まれ、子爵・土屋正直の養子となる(剱沢小屋雪崩事故で正直の嫡男土屋秀直が死亡した事による)。1938年(昭和13年)12月28日、尹直と改名した。養父の死去に伴い、1939年(昭和14年)1月16日に子爵を襲爵した。 1930年(昭和5年)、東京商科大学を卒業し、三井物産本社に入社。以後、三輪銀行常任監査役、同頭取、式部官兼主猟官、兼内大臣秘書官などを務めた。 1945年(昭和20年)10月25日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
西川 昌夫(にしかわ まさお、1906年(明治39年)2月1… 西川 昌夫(にしかわ まさお、1906年(明治39年)2月16日 - 1992年(平成4年)4月21日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 山梨県出身。1929年(昭和4年)東京商科大学を卒業した。 西川製糸常務取締役、西川工業専務取締役、東京紡績専務取締役、高木製糸専務取締役、花輪製糸専務取締役、昭和町議会議員(2期)、東京府製糸業組合副組合長、全国製糸業組合連合会評議員、昭和町農業会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で東京都地方区から日本自由党公認で出馬して当選し(補欠、任期3年)、参議院議員に1期在任した。 その他、西川工業代表取締役、西川総業会長、東亜産業専務取締役、多摩川製作所社長、東京復興産業代表取締役、南州肥料監査役、東京商工会議所議員、三多摩工業連合会長、立川専門学校(のち東京都立立川短期大学)理事、日本獣医畜産専門学校(現日本獣医生命科学大学)理事、昭島農業協同組合長、東京都全国共済農業協同組合連合会副会長、東京都経済農業協同組合連合会理事などを務めた。
吉村 寿雄(よしむら かずお、1906年 - 1986年1月… 吉村 寿雄(よしむら かずお、1906年 - 1986年1月1日)は日本の実業家。元富士ゼロックス社長・会長。
川又 克二(かわまた かつじ、1905年(明治38年)3月1… 川又 克二(かわまた かつじ、1905年(明治38年)3月1日 - 1986年(昭和61年)3月29日)は日本の実業家。日産自動車中興の祖として知られ、同社の社長や会長、日本自動車工業会初代会長、経団連副会長、日経連副会長などを歴任した。 茨城県東茨城郡上大野村大字吉沼(現在の水戸市吉沼町)に生まれる。川又家は、昔はこの集落の庄屋のような家柄だった。明治になって子供がいなかったので、旧水戸藩士の田辺家から養女を迎えた。これが母錦(きん)である。母が17歳のとき、同じ土地の丹下という家から父の操(みさお)が養子にきた。父は水戸の専売局の太子出張所に勤める一役人にすぎず、いわば半農半勤の家計だったので、母は慣れない農事に精を出しながら、しだいに田畑を手放していかざるをえなかった。
川村 勝巳(かわむら かつみ、1905年3月1日 - 199… 川村 勝巳(かわむら かつみ、1905年3月1日 - 1999年3月11日)は、日本の経営者。大日本インキ化学工業社長を務めた。 栃木県出身。1929年に東京商科大学を卒業。三井物産での勤務を経て、1937年に大日本インキ化学工業取締役に就任し、1944年に常務、1950年に専務を経て、1958年4月には社長に就任し、1978年6月までに務めた。1969年に日本経営者団体連盟会長にも就任。 1967年3月に藍綬褒章を受章し、1982年5月に勲二等瑞宝章を受章。 1999年3月11日心不全のために死去。94歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
福田 久雄(ふくだ ひさお、1905年1月3日 - 1984… 福田 久雄(ふくだ ひさお、1905年1月3日 - 1984年2月16日)は、日本の経営者。大阪商船三井船舶(現在の商船三井)社長を務めた。徳島県出身。 1925年に東京商科大学専門部を卒業し、同年に大阪商船に入社した。 1953年5月に取締役に就任し、1957年11月に専務、1959年5月に副社長を経て、1967年5月に社長に就任。1972年5月に会長、1975年5月に取締役相談役を経て、1976年6月には相談役に就任。 1973年11月に藍綬褒章を受章し、1975年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1984年2月16日肺炎のために死去。79歳没。
花岡 彌六(はなおか やろく、1904年 <明治37年> 1… 花岡 彌六(はなおか やろく、1904年 <明治37年> 11月18日 - 1986年 <昭和61年> 9月5日)は、日本の実業家。電気化学工業(現・デンカ)代表取締役社長を務めた。位階は正四位。 長野県諏訪郡湊村(現・岡谷市)出身。旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、東京商科大学(現・一橋大学)卒業。1929年に藤原銀次郎の紹介で電気化学工業(現・デンカ)に入社、1955年同社取締役、1958年同社常務取締役を経て、1970年同社代表取締役社長。1980年アセチレンブラック事業の強化を目的にデンカシンガポール設立。1981年代表取締役社長退任。 1970年藍綬褒章、1980年勲二等旭日重光章受勲。
北條 秀一(北条、ほうじょう しゅういち / ひでいち、19… 北條 秀一(北条、ほうじょう しゅういち / ひでいち、1904年(明治37年)5月31日 - 1992年(平成4年)8月23日)は、日本の実業家、政治家、郷土史家。引揚者団体全国連合会理事長、参議院議員(1期)、衆議院議員(1期)、日本国有鉄道顧問。 兵庫県城崎郡竹野村(現豊岡市竹野町竹野)の宮大工の家に生まれる。竹野小学校を経て、1924年神戸商業学校を卒業し、東京商科大学(現一橋大学)予科に入学。大学では自治組織の一橋会総務理事を務めたが、1929年に大山郁夫へ献金を行ったとして逮捕された。1930年大学卒業。同年南満洲鉄道に入社。1932年、満鉄調査部経済調査会に配属される。参与兼総務課長を経て、理事に就任。
瀬木 博政(せき ひろまさ、1904年3月30日 - 200… 瀬木 博政(せき ひろまさ、1904年3月30日 - 2002年9月18日)は日本の実業家、博報堂代表取締役名誉会長。東京都出身。
由井 敢(ゆい いさむ、1904年(明治37年)3月20日 … 由井 敢(ゆい いさむ、1904年(明治37年)3月20日 - 1985年(昭和60年)5月16日)は、日本の実業家。住友電気工業副社長。 製紙王藤原銀次郎の妻禄子の兄の孫。 鳥取県西伯郡境町(現在の境港市)出身。由井哲三の長男。 1924年(大正13年)、東京商科大学(現在の一橋大学)附属商学専門部を卒業。住友電気工業入社。 1946年(昭和21年)、東京支店長に就任。1947年(昭和22年)、取締役に挙げられた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
森 泰吉郎(もり たいきちろう、1904年〈明治37年〉3月… 森 泰吉郎(もり たいきちろう、1904年〈明治37年〉3月1日 - 1993年〈平成5年〉1月30日)は、日本の実業家、経営史学者。森ビルおよび森トラスト・ホールディングスの創業者。学者として横浜市立大学で商学部長・教授などを務めたが、学長選挙に出馬した結果学内抗争に巻き込まれ、地方公務員法の兼業禁止違反として退職した。 東京府東京市芝区南佐久間町(現・港区西新橋)に生まれる。実父磯次郎は、米屋·貸家業を営む森竹次郎·リウの養子だった。幼少期は病弱だったため、人情深い大家だった両親に大事に育てられたという。大倉高等商業学校(現東京経済大学)を経て、旧制東京商科大学(現一橋大学)に進んだ。賀川豊彦の『死線を越えて』やマクシム・ゴーリキーの『母』に感動し、一方で自分が不労所得を得る地主階級である事に懊悩したが、大学で上田貞次郎の「企業者は公共社会への貢献を使命としている」という所説に接してアイデンティティーの確立に大きな影響を受けたという。
三宅 孝雄(みやけ たかお、1903年 <明治36年> 11… 三宅 孝雄(みやけ たかお、1903年 <明治36年> 11月13日 - 1978年 <昭和53年> 4月11日)は、日本の経営者。安藤建設社長を務めた。位階は正五位。 山口県出身。1924年に東京商科大学専門部を卒業し、同年に日本綿花に入社。1955年5月に取締役に就任し、1958年に常務、1959年に専務、1960年11月に副社長を経て、1964年12月に安藤建設専務に就任し、1965年5月に副社長を経て、1969年10月から1976年6月までに社長を務めた。 1974年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1978年4月11日尿毒症のために死去。74歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
飯田 道彦(いいだ みちひこ、1903年11月3日 - 19… 飯田 道彦(いいだ みちひこ、1903年11月3日 - 1967年12月19日)は、日本の経営者。日動火災海上保険元社長。神奈川県出身。 1928年に東京商科大学を卒業し、同年に日動火災海上保険に入社。 1950年に取締役に就任し、1953年に常務を経て、1954年から1961年までに社長を務めた。 1967年12月19日腹膜炎のために死去。64歳没。
西村 二郎(にしむら じろう、1903年10月28日 - 1… 西村 二郎(にしむら じろう、1903年10月28日 - 1999年12月30日)は、日本の経営者。新潟日報社社長を務めた。 東京都出身。1928年に東京商科大学を卒業。電通、同盟通信社での勤務を経て、1944年に新潟日報社取締役に就任し、1950年に社長に就任。1967年に会長に就任し、1980年9月に相談役を経て、1984年4月には顧問に就任。 1974年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1999年12月30日肺炎のために死去。96歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
水上 達三(みずかみ たつぞう、1903年〈明治36年〉10… 水上 達三(みずかみ たつぞう、1903年〈明治36年〉10月15日 - 1989年〈平成元年〉6月16日)は、日本の実業家。 山梨県北巨摩郡清哲村字青木(現・韮崎市)に農業水上勘三郎・千鶴夫妻の五男として生まれる。水上家は江戸時代、庄屋を務めた家系という。国文学者の清水泰は実兄。 旧制甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)を経て、1928年東京商科大学(現一橋大学)卒。大学の同期には三井物産副社長や東レ副社長等を務めた町田栄次郎、三菱地所社長を務めた伊藤達二、松下電器理事を務めた乗松健二、第一電工社長等を務めた松原美義がいる。 1928年三井物産入社。高崎派出所駐在員を命ぜられ、以後6年間を同地で過ごす。
正田 英三郎(しょうだ ひでさぶろう、1903年9月21日 … 正田 英三郎(しょうだ ひでさぶろう、1903年9月21日 - 1999年6月18日)は日本の実業家。群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)出身。