細川 興治(ほそかわ おきはる、1890年(明治23年)7月… 細川 興治(ほそかわ おきはる、1890年(明治23年)7月30日 - 1977年(昭和52年)8月16日)は、明治末から昭和期の宮内官、華族(子爵)。貴族院議員。 清和源氏義季流谷田部細川家、細川興嗣(子爵)の長男として出生する。父の隠居に伴い1909年(明治42年)7月27日、家督を相続して子爵を襲爵した。1914年(大正3年)明治大学法学部を卒業し、さらに東京帝国大学法科大学で学んだ。1924年(大正13年)宮内省に出仕。宮内属、陵墓監、宮内事務官などを歴任した。 1946年(昭和21年)5月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
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鈴木 正吾(すずき しょうご、1890年(明治23年)6月3… 鈴木 正吾(すずき しょうご、1890年(明治23年)6月30日 – 1977年(昭和52年)6月1日)は、大正から昭和期の政治家・ジャーナリスト。衆議院議員、愛知県豊川市長。旧姓・渥美。 愛知県碧海郡志貴村(矢作町を経て現岡崎市)で渥美半五郎の三男として生まれた。1899年(明治32年)宝飯郡佐脇村下佐脇村(御津村、御津町を経て現豊川市)の鈴木金次郎家を相続。1907年(明治40年)学生団体・丁未倶楽部に加わり第一次護憲運動で反桂内閣として活動した。1914年(大正3年)明治大学政治科を卒業した。 卒業後は読売新聞記者を経て、雑誌『第三帝国』編集長、雑誌『大観』編集長などを務める。1915年(大正4年)2月から3月にかけて大隈伯後援会遊説部員として第12回衆議院議員総選挙で遊説を行った。
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三上 英夫(みかみ ひでお、1890年6月24日 - 198… 三上 英夫(みかみ ひでお、1890年6月24日 - 1982年11月6日)は、青森県出身の官僚、実業家。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
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押川 定秋(おしかわ さだあき、1890年(明治23年)5月… 押川 定秋(おしかわ さだあき、1890年(明治23年)5月17日 – 1951年(昭和26年)5月10日)は、日本の弁護士、衆議院議員(民主党)。 宮崎県児湯郡高鍋町出身。定澄の三男。独習にて普通学を修め、1914年、郷里高鍋を出て上京して苦学力行しつつ1917年(大正6年)、明治大学法科を卒業、同年弁護士を開業した。 東京府会議員、同市部会議長に選出された。また神奈川県農機具工業組合理事長、同農機具工業統制組合理事長、同農機具工業協同組合理事長を務めた。 1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。その他、細王舎工場合資会社代表社員を務めた。 宗教は神道。趣味は政治。 宮崎県児湯郡高鍋町、東京市小石川区同心町
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宋 鎮禹(そう ちんう、ソン・ジヌ、1890年5月8日 - … 宋 鎮禹(そう ちんう、ソン・ジヌ、1890年5月8日 - 1945年12月30日)は、朝鮮の独立運動家、政治家。本貫は新平宋氏。号は「古下」(コハ、고하)。 全羅南道潭陽郡に生まれる。1907年に金性洙とともに日本に留学し、1915年に明治大学を卒業後、帰国して私立中央学校校長に就任する。1919年の三・一独立運動に参加した容疑で、1年間投獄される。1921年から1924年まで東亜日報第3代社長、1927年から1937年まで第6代社長を務め、民族主義右派の立場で論陣を張った。1945年12月1日に第8代社長に就任した。 日本の敗戦を控えた1945年8月11日に、朝鮮総督府は京畿道知事を通じて、朝鮮における資本家及び地主勢力を代弁することができる宋鎮禹と接触し、「行政委員会」を構成してくれる事を要請した。
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吉田 安(よしだ あん、1890年〈明治23年〉2月21日 … 吉田 安(よしだ あん、1890年〈明治23年〉2月21日 - 1975年〈昭和50年〉3月21日)は、日本の政治家、弁護士。位階は従四位。勲等は勲三等旭日中綬章。 熊本県出身。1916年(大正5年)、明治大学専門部法律科卒業。司法官試補の後、弁護士となる。熊本県会議員、熊本市会議員、参事会員を務めた。第19回衆議院議員総選挙と第20回総選挙は立憲民政党で、第21回総選挙は無所属で立候補したが、いずれも落選している。1946年(昭和21年)の第22回総選挙において熊本県から立候補して衆議院議員に初当選。当選4回。日本進歩党、民主党、国民民主党、改進党、日本民主党などに所属し、役職を歴任。第1次吉田内閣で司法参与官、第3次吉田内閣で郵政政務次官などを務めた。
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恒松 於菟二(つねまつ おとじ、1890年(明治23年)2月… 恒松 於菟二(つねまつ おとじ、1890年(明治23年)2月15日 - 1970年(昭和45年)2月9日)は、大正から昭和期の地主、農林業指導者、政治家。衆議院議員、島根県会議長。 島根県安濃郡大田村(大田町を経て現大田市)で、恒松臺太郎の長男として生まれる。1914年(大正3年)明治大学政治経済科を卒業。1925年(大正14年)家督を相続し農業を営む。 1917年(大正6年)大田町農会長、安濃郡会議員に選出され、同議長、大田町助役も務めた。1923年(大正12年)島根県会議員に選出され、1926年(大正15年)から1934年(昭和9年)まで県会議長を務めた。その他、安濃郡農会長、島根県農会副会長、同会長、自作農創設維持審議会委員、島根県耕地協会代議員、同畜産組合連合会長、同養蚕組合連合会長、同養鶏組合連合会長、帝国農会評議員、中央畜産会理事会副会頭、中央農業会理事、初代島根県農業会長などに在任した。
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石角 春之助(いしずみ はるのすけ、1890年 - 1939… 石角 春之助(いしずみ はるのすけ、1890年 - 1939年7月31日)は、日本のルポルタージュ作家。別名を春洋。 京都府何鹿郡東八田村(現・綾部市)生まれ。1912年明治大学法学部卒業、報知新聞社入社、その後、横田千之助の秘書。法律の通俗書などを執筆、1923年の関東大震災後は浅草などの盛り場の話や底辺で生活する人たちを記録した。斎藤昌三、梅原北明など性風俗研究家と交際があった。
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趙 欣伯(ちょう きんはく、1890年〈清光緒16年〉 - … 趙 欣伯(ちょう きんはく、1890年〈清光緒16年〉 - 1951年7月20日)は、中華民国・満洲国の政治家・法学博士(刑法)。北京政府では奉天派と目され、後に満洲国や南京国民政府(汪兆銘政権)に参加した。 清末、禁衛軍で衛兵となる。その後、省立天津北洋大学で学んだ。辛亥革命後は北京文明新劇団で旦角(女形)を演じている。また、この頃に国民党に加入した。1913年(民国2年)に二次革命(第二革命)に参加したが、敗北したために大連に逃れる。劉笑痴と改名して、日本人への中国語教師をつとめた。 1915年(民国4年)、日本に留学する。1920年(民国9年/大正9年)、明治大学法科を卒業し、併せて法学士の称号を取得している。
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古屋 貞雄(ふるや さだお、1889年(明治22年)12月2… 古屋 貞雄(ふるや さだお、1889年(明治22年)12月20日 - 1976年(昭和51年)1月4日)は、日本の政治家、弁護士、社会運動家。 山梨県東山梨郡七里村下於曽(現・甲州市)出身。1919年、明治大学法科専門部特科卒業。山梨県で小作人組合を組織し、日本農民組合の役員となる。1921年、自由法曹団の弁護士となり、各地の労農運動を支援した。朝鮮や台湾でも弁護士活動を行った。 戦後、自由法曹団、日本社会党に参加。1952年10月、第25回衆議院議員総選挙に山梨県全県区から出馬して当選し、以後第27回総選挙まで連続3回の当選を果たした。 1955年には、古屋を団長とする国会議員訪朝団で北朝鮮を訪問し金日成と会見。
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太田 耕造(おおた こうぞう、1889年(明治22年)12月… 太田 耕造(おおた こうぞう、1889年(明治22年)12月15日 - 1981年(昭和56年)11月26日)は、日本の弁護士・政治家・教育者。亜細亜大学の実質的創立者の一人。 旧二本松藩の豪商・勢州屋八代長左衛門より分家し、金融機関の相生社(あいおいしゃ)結社に参画した太田貞郎の4男として福島県で生まれる。日本基督一致教会福島教会(現、日本基督教団福島教会)で洗礼を受け、キリスト教青年運動に従事。牧師を志し上京、聖学院神学校に入学するが、法律家・政治家に進むことを決意。東京中学卒業時に高等学校受験に失敗し、明治大学法学部を経て、第四高等学校、東京帝国大学法学部英法科を卒業し弁護士となる一方、民族主義運動に傾注。
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猪股 謙二郎(いのまた けんじろう、1889年〈明治22年〉… 猪股 謙二郎(いのまた けんじろう、1889年〈明治22年〉12月9日 - 1975年〈昭和50年〉6月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。初代本荘市(現:由利本荘市)長。 秋田県由利郡石沢村(本荘市を経て現由利本荘市)出身。旧制秋田県立本荘中学校(現在の秋田県立本荘高等学校)を経て、明治大学予科で学ぶ。帰郷後、営農し、石沢村議、同助役、同村長、由利郡会議員などを歴任した。1922年11月、秋田県会議員補欠選挙に由利郡選挙区から立候補して当選した。その後、1923年、1927年にも当選した。1930年2月に県議を辞職した。同年の第17回衆議院議員総選挙において秋田2区(当時)から立憲民政党公認で立候補して初当選。
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欧陽 予倩(おうよう よせん、1889年5月12日—1962… 欧陽 予倩(おうよう よせん、1889年5月12日—1962年9月21日)は、中華民国·中華人民共和国の劇作家、俳優。湖南省瀏陽県出身。 1889年5月12日、湖南省瀏陽県に生まれた。東京振武学校·明治大学·早稲田大学卒業。1907年日本滞在中に春柳社に加わる。辛亥革命後帰国し、引き続き春柳社に参加。春柳社解散後は、広東戯劇研究所(広州)、広西芸術館(桂林)などで演劇(話劇)活動を続ける。また京劇俳優としても活躍する。1920年代後半からは映画監督、脚本家としても活動した。 中華人民共和国建国後1950年4月、中央戯劇学院院長(逝去まで)。中国文学芸術界連合会副主席。中国戯劇家協会副主席。中国舞踏家協会主席。
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平野 八郎(ひらの はちろう、1889年(明治22年)3月2… 平野 八郎(ひらの はちろう、1889年(明治22年)3月2日 - 1977年(昭和52年)8月1日)は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員、大分県大分郡由布川村長、同郡挾間村長、同郡挾間町長。 大分県大分郡朴木村(由布川村大字朴木、挾間村、挾間町を経て現由布市)で生まれる。明治大学専門部法律科で学んだ。その後、農業を営む。 1920年(大正9年)由布川村長に就任。道路整備、井路掘削、植林、学校施設の整備などに尽力し、1928年(昭和3年)に退任。1940年(昭和15年)由布川村長に再任され、1946年(昭和21年)まで在任した。その他、大分郡農会長、同町村長会長、方面委員大分郡支部長、大分県農業会理事、大分郡所得税調査委員なども務めた。
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前田 郁(まえだ いく、1889年(明治22年)2月4日 -… 前田 郁(まえだ いく、1889年(明治22年)2月4日 - 1965年(昭和40年)3月30日)は日本の政治家であり実業家。 鹿児島県肝属郡大根占町(後の錦江町)出身。明治大学政治経済学部卒業。第二次大戦後の1947年、衆議院議員に初当選し、以来当選3回。衆議院運輸委員長、第2次岸内閣運輸政務次官、日本自由党代議士会副会長等を歴任。また、実業家として東京時計製造株式会社専務取締役、東京遊覧乗合自動車株式会社取締役社長、東京ミシン株式会社取締役社長、東京観光バス社長、東京観光自動車社長などを務めた他、国際観光文化協会会長、日本有線放送連合会会長などの公職も務めた。 福島ヨネらと共にモーターボート競走法の制定に力を注ぎ、1951年(昭和26年)6月に成立。
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菊池 寛(きくち かん、旧字体: 菊池 寬、1888年〈明治… 菊池 寛(きくち かん、旧字体: 菊池 寬、1888年〈明治21年〉12月26日 - 1948年〈昭和23年〉3月6日)は、日本の小説家、劇作家、ジャーナリスト。本名の読みは「きくち ひろし」。実業家としても文藝春秋社を興し、芥川賞、直木賞、菊池寛賞の創設に携わった。帝国芸術院会員。 生家は高松藩の儒学者の家柄。幼少期より旺盛な読書家であった。京大英文科卒。芥川龍之介などの『新思潮』に参加。 著作に『屋上の狂人』(1916年)、『父帰る』(1917年)などの戯曲のほか、『忠直卿行状記』(1918年)、『藤十郎の恋』(1919年)(のち脚色)などの小説がある。人生観や思想を基盤とした明快な主題を打ち出した、いわゆるテーマ小説が特徴である。
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難波 清人(なんば きよと、1888年(明治21年)8月28… 難波 清人(なんば きよと、1888年(明治21年)8月28日 - 1940年(昭和15年)10月11日)は、日本の政治家、新聞記者。 岡山県上道郡平井村(現・岡山市)出身。中学時代は柔道で鍛えていて喧嘩っ早く、岡山中学校、関西中学校、金川中学校を喧嘩で退校処分となり、最終的には京都の中学校に進んだ。1913年、明治大学法律科卒業。中外商業新報(現日本経済新聞)経済市場部長、金川中学校理事長などを経て、1926年の土居通憲辞職に伴う補欠選挙で犬養毅の支援を受けて衆院議員に当選。昭和会や立憲政友会に所属。 1927年(昭和2年)、清瀬一郎を殴打するなど議会乱闘事件に関与したとして公務執行妨害、傷害の容疑で起訴。
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後藤 守一(ごとう しゅいち、1888年(明治21年)8月1… 後藤 守一(ごとう しゅいち、1888年(明治21年)8月10日 - 1960年(昭和35年)7月30日)は、大正期から昭和期にかけての日本の考古学者。明治大学名誉教授。 神奈川県三浦郡田越村(現・逗子市)生まれ(鎌倉市生まれや、静岡県生まれとする資料もある)。沼津中学(現・静岡県立沼津東高等学校)、静岡師範学校を経て、東京高等師範学校地歴科を卒業。 1917年(大正6年)3月から1918年(大正7年)7月まで静岡県立静岡中学校で地歴の教諭を務めた後、1921年(大正10年)(1918年とする資料もある)から1940年(昭和15年)まで帝室博物館に勤務し、監査官を担当した。1927年(昭和2年)には博物館視察のためにヨーロッパに派遣された。
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小河 虎彦(おがわ とらひこ、1888年〈明治21年〉4月1… 小河 虎彦(おがわ とらひこ、1888年〈明治21年〉4月1日 - 1975年〈昭和50年〉5月8日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・合屋。 大分県速見郡日出村(現日出町)で、合屋家次の二男として生まれ、弁護士・小河源一の養子となる。1911年(明治44年)明治大学法律科卒。司法官試補となり、弁護士の業務に従事する。山口地方裁判所所属弁護士会会長、山口県議となる。 1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙において山口2区から立憲民政党公認で立候補したが落選した。1934年(昭和9年)の山口2区の補欠選挙で民政党公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務めた。1936年(昭和11年)第19回総選挙で落選した。
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深水 吉毅(ふかみ よしたけ、1888年2月10日 - 19… 深水 吉毅(ふかみ よしたけ、1888年2月10日 - 1952年10月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 熊本県出身。1912年明治大学専門部法律科科卒。農業を営み、葦北郡農会長、熊本県農会議員、同県会議員、同議長、水俣町長、水俣銀行頭取となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では熊本2区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本自由党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。1951年追放解除。追放解除の翌年に死去した。
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金 炳魯(キム・ビョンノ、1888年1月27日(旧暦1887… 金 炳魯(キム・ビョンノ、1888年1月27日(旧暦1887年12月15日) - 1964年1月13日)は、韓国の独立運動家・弁護士・政治家。大韓民国初代大法院長。許憲・李仁と並んで、日本統治下での三大民族弁護士のひとりとして名を馳せた。本貫は蔚山金氏。号は街人(カイン)。 全羅北道淳昌郡の郷班の家に生まれる。 父の金相熹は漢城府の司諫院に正三品で仕官していたため、祖父から儒学の薫陶を受けた。1904年には全羅南道潭陽の日新學校で西洋人宣教師から算術や西洋史などの新学問を学び、1905年の乙巳条約をきっかけに、崔益鉉のもとを訪ねて義兵闘争に参加した。1906年に金性洙の昌興學校に入学し、留学を決意、1910年に渡日し、明治大学法学部(夜間部)に入学、1912年に明治大学高等研究科の3年次に編入し、1915年に卒業した。
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斎藤 巌(さいとう いわお、1887年(明治20年)12月2… 斎藤 巌(さいとう いわお、1887年(明治20年)12月22日 - 1934年(昭和9年)2月5日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 熊本県合志郡合志村(現在の合志市)出身。1909年(明治42年)に明治大学法科を卒業した後、長崎市で九州日の出新聞記者となり、1911年(明治45年)に弁護士を開業した。 長崎県会議員、同副議長を経て、1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。また長崎市会議員も兼ねた。
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唐橋 在知(からはし ありとも、 1887年〈明治20年〉9… 唐橋 在知(からはし ありとも、 1887年〈明治20年〉9月18日 - 1973年〈昭和48年〉7月30日)は、日本の神職、華族(子爵)。正四位。殿掌、掌典。 1887年、貴族院子爵議員・唐橋在正の次男として生まれる。 明治大学政経科卒業。1931年、父・在正の隠居に伴い子爵を襲爵し、華族制度廃止まで爵位を保有した。 また、神職を務め、霊山神社の宮司に就任した[要出典]。 出典が無い限り、霞会館 1996a, pp. 455–456を参照した。
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伊達 徳次郎(だて とくじろう、1887年〈明治20年〉8月… 伊達 徳次郎(だて とくじろう、1887年〈明治20年〉8月20日 - 1959年〈昭和34年〉1月9日)は、大正から昭和時代の政治家。警察官。埼玉県川越市長。 千葉県安房郡北条村(北条町、館山北条町を経て、現館山市北条)に生まれる。伊達博・せいの六男で生家は仙台藩伊達家の末裔。1907年(明治40年)明治大学法学科を卒業し、1921年(大正10年)埼玉県高等課長、浦和署長、茨城県特高課長、再び浦和署長を歴任した。 埼玉県の商工課長を経て、1933年(昭和8年)川口町助役となる。1935年(昭和10年)には川越市長の橋本定五郎に請われ同市助役に就任。下水道整備を進めた。1939年(昭和14年)同市長となり、田面沢村の合併、都市計画事業などに尽力した。
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長野 国助(ながの くにすけ 1887年(明治20年)6月1… 長野 国助(ながの くにすけ 1887年(明治20年)6月11日 – 1971年(昭和46年)4月12日)は、日本の弁護士。第3代日本弁護士連合会会長。 1887年、現在の愛媛県今治市生まれ。1912年、明治大学を卒業。1918年、弁護士登録。1921年、自由法曹団の結成に参加。1952年、第3代日本弁護士連合会会長に就任。1964年、学校法人明治大学理事長に就任。 全国人権擁護委員連合会会長も務めるなど、人権擁護活動においても功績を残す。また、裁判官任命諮問委員会委員、国際弁護士団の首席弁護士、日本国際法律家連絡協会会長、日ソ交流協会理事長、日朝協会会長なども務めた。1971年、死去。83歳。
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趙 素昻(チョ・ソアン、1887年旧暦4月10日 - 195… 趙 素昻(チョ・ソアン、1887年旧暦4月10日 - 1958年9月10日)は、朝鮮の独立運動家、政治家、法学者、政治思想家。第2代韓国国会議員。京畿道坡州出身。本貫は咸安趙氏。本名は趙 鏞殷(チョ・ヨンウン)。字は敬仲、素昻は号である。 生六臣(朝鮮語版)の趙旅の17世孫で、共に独立運動家である趙鏞夏は兄、趙鏞周、趙鏞漢、趙時元(元国会議員、本名・趙鏞元)は弟、趙鏞済は妹。独立運動家の趙時済と趙仁済は息子。 両班の家系に生まれる。1902年に成均館に入学し、同年に申采浩などと声討文を作って李夏栄などに抗議した。1904年に成均館を修了後、大韓帝国皇室派遣留学生として来日し、東京府立第一中学校に入学した。
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木村 尚一(きむら しょういち、1887年〈明治20年〉- … 木村 尚一(きむら しょういち、1887年〈明治20年〉- 1972年〈昭和47年〉2月14日)は、日本の実業家・大蔵官僚。 1887年、和歌山県出身。1908年、明治大学法科卒業。高等文官試験行政科に合格し、大蔵省に入省。 大蔵省専売局参事、村井銀行理事、極東鉱業常務、中島工業監査役、大阪府理事、京都市電気局長等を歴任。 1934年、桜麦酒社長に就任。着任後1年足らずで経営を再建。1943年の大日本麦酒との合併に伴い、常務に就任。1948年の日本麦酒酒造組合設立時には副会長に就任。その他、日本工業倶楽部役員、日本青年連盟理事、サッポロビール監査役、文化放送理事などを務めた。晩年は漢詩に傾倒した。
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根岸 耕一(ねぎし こういち、1886年11月 - 1933… 根岸 耕一(ねぎし こういち、1886年11月 - 1933年11月2日)は、日本の実業家、映画製作者である。日本活動写真(現在の日活)で本社支配人、向島撮影所長、常務取締役を歴任した。日活向島撮影所で初めて「監督制度」を敷いた人物である。 1886年(明治19年)11月、埼玉県に生まれる。 旧制埼玉県立熊谷中学校を卒業後、東京に出て、旧制・明治大学商科を卒業する。 1919年(大正8年)、ヨーロッパ諸国、アメリカ合衆国の映画産業を視察する。もともと羊毛事業に関わり、3年間をアメリカで過ごした。 帰国後間もない1923年(大正12年)2月、日本活動写真社長の藤田謙一の推挙により、満36歳で取締役支配人に就任する。
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小平 重吉(こだいら じゅうきち、1886年9月10日 - … 小平 重吉(こだいら じゅうきち、1886年9月10日 - 1960年4月3日)は、栃木県出身の日本の政治家、実業家。 1886年(明治19年)9月10日、栃木県下都賀郡石橋町(現下野市)に生まれる。栃木県立宇都宮農学校(のち栃木県立宇都宮農業高等学校、現在の栃木県立宇都宮白楊高等学校)卒業、明治大学予科を中退。1927年(昭和2年)の栃木県会議員選に立候補し当選し3期務める。1930年からは6年間は石橋町長も兼任した。 1937年(昭和12年)には第20回衆議院議員総選挙に立候補し当選。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)では推薦に漏れ落選した。1947年(昭和22年)4月に初代公選栃木県知事に当選。
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鬼丸 義斎(鬼丸 義齋、おにまる ぎさい、1886年〈明治1… 鬼丸 義斎(鬼丸 義齋、おにまる ぎさい、1886年〈明治19年〉9月5日 – 1954年〈昭和29年〉11月13日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)。弁護士。「義斉」または「義齊」と表記される場合がある。 大分県に出生。愛知県巡査となり、やがて警部補にまで昇任したが、上司と衝突して辞職した。その後明治大学法科に入学。1919年に大学を首席で卒業した後は、弁護士事務所を開業した。1933年には名古屋弁護士会長に選出されている。大森製陶所会長にもなった。 1928年の第16回衆議院議員総選挙に立憲民政党で愛知1区から出馬し、当選を果たして1期務めた。 戦後は1947年の第1回参議院議員通常選挙に全国区から出馬、当選。
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宮本 知遠(みやもと ちとお、1886年〈明治19年〉8月3… 宮本 知遠(みやもと ちとお、1886年〈明治19年〉8月30日 - 1918年〈大正7年〉12月4日)は、日本の政治家。東京府北豊島郡板橋町長。 東京府・宮本頼三の長男。高等師範学校附属小学、中学を経て明治大学商科に学ぶ。水車業、精米業を営む。 1911年、推されて板橋町収入役に挙げられる。1911年10月に板橋町長に就任し、1916年4月に退職する。1917年8月に板橋町長に就任し、1918年12月に退職する。 信仰は仏教。趣味は音楽。愛読書は政治経済書。住所は東京府北豊島郡板橋町大字下板橋。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
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小野 謙一(おの けんいち、1886年(明治19年)8月23… 小野 謙一(おの けんいち、1886年(明治19年)8月23日 - 1963年(昭和38年)1月12日)は、日本の政治家、新聞記者。衆議院議員。 青森県中津軽郡、のちの弘前市出身。明治大学卒業後、新聞記者となり、北辰日報を経て、1907年(明治40年)やまと新聞に入り、政治部長となる。更に、太平洋通信社に転じ、主幹を務めた。1937年(昭和12年)に衆議院議員に当選。東方会、時局同志会、翼賛議員同盟に所属。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けたが落選した。戦後、公職追放となる。1951年(昭和26年)追放解除。1963年(昭和38年)1月12日死去。
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矢野 庄太郎(やの しょうたろう、1886年〈明治19年〉1… 矢野 庄太郎(やの しょうたろう、1886年〈明治19年〉1月10日 - 1949年〈昭和24年〉6月21日)は、日本の政治家。大蔵大臣。 愛媛県三豊郡桑山村(現・香川県三豊市)に農家の長男として生まれる。教員養成所を出て地元で代用教員を務めた後上京、1907年明治大学法科を卒業する。苦学しながら努力し、在学中に高等文官試験にパスしている。 1911年内務省に入省。台湾総督府書記官、香川県警察部警務課長、同県木田郡長を務めた後、官僚としての前途に行き詰まりを感じ、実業界に転ずるべく1918年に内務省を退職、同年広島の「勝光山窯業」を買収し代表取締役に就任した。 1930年、第17回衆議院議員総選挙に立憲民政党公認で旧香川2区から立候補し初当選する。
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田 汝弼(でん じょひつ、1886年〈光緒12年〉 – 19… 田 汝弼(でん じょひつ、1886年〈光緒12年〉 – 1944年2月10日)は、中華民国・蒙古聯合自治政府(蒙古自治邦)の官僚。父は安徽派の政治家・官僚である田応璜。 1902年(光緒28年)、山西大学堂を卒業。まもなく日本へ留学し、1907年(光緒33年/明治40年)7月23日に明治大学経緯学堂第4回普通科卒業生となる。次いで盛岡高等農林学校農学科に入り、1912年(明治45年)3月30日に同学科選科を修了した。帰国後は山西省農事試験場場長や広済水利公司協理をつとめている。 1938年、田汝弼は晋北自治政府で民生庁厚生科科長に任命され、まもなく財政庁長兼民生庁長に抜擢された。翌1939年9月1日、蒙古聯盟・察南・晋北の3自治政府が合併して張家口に蒙古聯合自治政府が成立する。
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近藤 民雄(こんどう たみお、1885年(明治18年)11月… 近藤 民雄(こんどう たみお、1885年(明治18年)11月30日 - 1967年(昭和42年)7月20日)は、日本の商法学者。
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双川 喜一(ふたがわ きいち、1885年(明治18年)11月… 双川 喜一(ふたがわ きいち、1885年(明治18年)11月 - 1966年(昭和41年)7月12日[要出典])は、日本の警察官僚である。号は一真斎。 千葉県出身。双川兼吉の四男として生まれる。1908年(明治41年)、明治大学本科英語法科を卒業。文官高等試験行政科試験に備えるために東京外国語学校夜学英語専修科にも通った。1912年(大正元年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務省に入省したが内務省に移り、1913年(大正2年)、愛知県警部に任官。 香川県警察部長、大分県警察部長、滋賀県警察部長、新潟県警察部長を歴任した。1933年(昭和8年)7月31日、休職新潟県書記官を依願免本官となり退官した。
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中谷 秀(なかたに しゅう、1885年(明治18年)8月29… 中谷 秀(なかたに しゅう、1885年(明治18年)8月29日 - 1973年(昭和48年)9月11日)は、日本の内務官僚。官選鳥取県知事。 島根県那賀郡渡津村(江津町を経て現江津市)出身。中谷初十郎の四男として生まれる。1913年(大正2年)に明治大学法科を卒業し、高等文官試験に合格。愛媛県属、愛媛県理事官、山口県理事官、長崎県理事官、奈良県警察部長、富山県警察部長、石川県内務部長、岩手県内務部長、愛知県内務部長などを歴任。1934年(昭和9年)に第28代鳥取県知事に就任し、室戸台風復興に尽力した。1936年(昭和11年)、退官。退官後は出雲電気株式会社専務、同副社長に就任した。のち全国購買販売組合連合会専務理事、農村科学研究所所長、日本澱粉株式会社監査役、東洋組網工業株式会社顧問、大隈鉄工所株式会社顧問を務めた。
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藤沢 衛彦(ふじさわ もりひこ、1885年8月2日 - 19… 藤沢 衛彦(ふじさわ もりひこ、1885年8月2日 - 1967年5月7日)は、日本の小説家、民俗学者、児童文学研究者。 明治18年(1885年)8月2日、東京生(埼玉県、福島県の説もあり)。 1907年明治大学卒業、藤沢 紫浪の筆名で通俗小説などを刊行する。1914年日本伝説学会を設立し、1917年から『日本伝説叢書』13巻を編纂、1921年より『日本歌謡叢書』を編纂、1926年から1927年まで雑誌『伝説』を刊行。 1922年、日本童話学会を創設。1926年童話作家協会、日本風俗史研究会を設立。 1932年より明治大学に新設された専門部文科で教授に就き、風俗史・伝説学などを講じた。1946年社会科、新聞科専任となり、1958年定年退職。
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許 憲(ホ・ホン、きょ けん、1885年7月22日 – 19… 許 憲(ホ・ホン、きょ けん、1885年7月22日 – 1951年8月16日)は、朝鮮の政治家、弁護士、独立運動家。 朝鮮王朝時代の咸鏡北道明川郡に生まれる。普成専門学校を経て、日本の明治大学法学部を卒業し、1907年には大韓帝国の弁護士試験に合格した。 1919年の三・一独立運動では、抗日派の代表的な弁護士として活躍した。その後は、朝鮮共産党の創党に参加し、コミンテルンの承認を得るために送られた曺奉岩が1928年2月に上海で日本の領事館警察に逮捕された事に伴い、京城地方裁判所において無償で彼の弁護を担当した。光州学生事件後のデモに関与して逮捕され、弁護士資格を剥奪、1943年には禁止されていた海外の短波放送を聴取した廉で逮捕され、1945年8月の解放まで収監された。
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長田 秀雄(ながた ひでお、1885年(明治18年)5月13… 長田 秀雄(ながた ひでお、1885年(明治18年)5月13日 - 1949年(昭和24年)5月5日)は、詩人、小説家、劇作家。 東京出身。獨協中学校卒業後、明治大学にて学ぶ。『明星』の詩人として北原白秋、木下杢太郎らとともに活躍。パンの会、『スバル』にも参加。最初の戯曲「歓楽の鬼」が自由劇場で上演され、以後劇作家として活躍、新劇運動に加わった。1920年(大正9年)には大作「大仏開眼」を発表、以後多くの歌舞伎劇の史劇を書く。1939年築地小劇場が会社組織となるに際して代表取締役。新協劇団(第一次)の代表者にも就任。1936年(昭和11年)には、井上正夫が立ち上げた井上演劇道場にも参加した。 1940年(昭和15年)8月20日、警視庁特高第一課は長田を呼び出し、社会主義思想を基調とした新協劇団を自発的に解散するように強要した。
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上村 盛治(うえむら せいじ、1885年〈明治18年〉5月1… 上村 盛治(うえむら せいじ、1885年〈明治18年〉5月1日 - 1946年〈昭和21年〉4月9日)は、日本の政治家。尼崎市長(官選第2代)。 兵庫県川辺郡立花村大字東難波の大地主の家に生まれる。父は1883年(明治16年)から1903年まで県会議員を務めた上村文三郎(立憲改進党)。 明治大学(旧制大学)法学部卒業、大阪新報(のちに都新聞と合併)記者や立花村会、尼崎市会、兵庫県会の議員を経て、1922年(大正11年)6月23日、尼崎市長に就任。全国で最年少市長だった。1928年(昭和3年)1月22日まで務めた。 任期中に、尼崎市への県立中学校(旧制)設置の要望が高まったため、1916年(大正5年)に県に陳情したが財政難を理由に拒否されたため、上村が中心となり市立で中学校を建設する市民運動を始めた。
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ジョージ・マサ (George Masa として知られた飯塚… ジョージ・マサ (George Masa として知られた飯塚正治(本名:遠藤章二)、1885年4月6日 - 1933年6月21日)は、日本で生まれアメリカで活躍した実業家。大判カメラ写真家、山岳写真家。グレートスモーキー山脈の国立公園指定に尽力したことで知られる。東京都出身。 東京の地主、高橋家の次男として生まれる。母は出産後、死去。幼少期に静岡市の弁護士遠藤靖の養子となった。1903年(明治36年)、静岡県立静岡中学校卒業。静岡中学在学中は、明治35年に校内で作られた親睦グループ両道倶楽部で活動した。倶楽部内で野球の腕を上げると野球部に入部するなど、両道倶楽部は静中野球部の選手育成の苗圃の役割も果たしていた。
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濃畑 三郎(のうはた さぶろう、1885年(明治18年)2月… 濃畑 三郎(のうはた さぶろう、1885年(明治18年)2月22日 - 1943年(昭和18年))は、日本の実業家、政治家。 宮市大丸(現在の大和)常務取締役、みくに新聞社社長、福井県会議員を務めた。 北海道朝田庄次郎の三男として福井県坂井郡三国町(現在の坂井市)に生まれ、その後先代・安吉の養子となる。濃畑家は三国町で金銀箔も扱う紙問屋・四日市屋で、「四の三(しのさん)」と呼ばれていた。『茶の本』『東洋の理想』等の著書で知られる日本美学界の泰斗・岡倉天心の母・この(旧姓:濃畑(野畑))とも関係があったという。 1922年(大正11年)、家督を相続する。明治大学修業、内務省勤務を経て福井県会議員や宮市大丸常務取締役を歴任した。
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阿南 常一(あなみ つねいち、1885年 - 1958年)は… 阿南 常一(あなみ つねいち、1885年 - 1958年)は日本のジャーナリスト。後藤新平の秘書役的立場で都市計画法令の制定、都市計画機構の創設などに努力を傾注した。都市計画の啓蒙普及に40年にわたって献身した。 大分県山香町に生まれる。若くして大阪に出て、次いで同郷の政治家元田肇を頼って上京し、その下で修業を積む。 1909年、明治大学卒業。1912年、東京市水道課(現在の東京都水道局)に就職し、村山貯水池の土地買収では地元民との折衝に尽力する。その後、東京通信社を経て、1916年1月に報知新聞社の記者となる。 日本の近代都市計画が制度化されるのは、1918年(大正7年)、内務大臣後藤新平が都市計画調査の予算を付け、内務省に都市計画課が誕生、都市計画調査会が設置され、翌1919年に旧都市計画法と市街地建築物法が公布されてからである。
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櫻田 清芽(さくらだ きよめ、1885年(明治18年) - … 櫻田 清芽(さくらだ きよめ、1885年(明治18年) - 1958年(昭和33年)12月31日)は、大正から昭和時代前期の政治家。青森県弘前市長。 青森県津軽郡弘前植田町(中津軽郡弘前植田町を経て現:弘前市植田町)に生まれる。弘前中学校を卒業後、明治大学予科に学ぶ。帰郷後は教員などを経て、1910年(明治43年)陸奥日報社に入社し、編集長、弘前新聞主筆兼社長を歴任する。 その間、弘前市会議員を26年、青森県会議員を20年務め、1951年(昭和26年)4月、弘前市長に就任した。中津軽郡11箇村との合併などを実現し、1955年(昭和30年)4月に満期退官。その後は、1957年(昭和32年)より県公安委員長を務めたが、任期中に急逝した。
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小野寺 章(おのでら あきら、1884年(明治17年)12月… 小野寺 章(おのでら あきら、1884年(明治17年)12月10日 - 1935年(昭和10年)2月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、実業家、弁護士。 岩手県東磐井郡黄海村(藤沢町を経て現一関市)に小野寺治平の二男として生まれる。1909年(明治42年)、明治大学を卒業。卒業後は「刑法研究会」をおこして、研究調査に励んだ。1913年(大正2年)、弁護士試験に合格し、法律事務所を開いた。また日本林産株式会社を創業して取締役に就任し、さらに京浜窯業株式会社の監査役も兼ねた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回・第18回と当選を重ねた。その間、東北振興会幹事として、昭和東北大凶作や昭和三陸地震の救済に尽力した。
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森田 政義(もりた まさよし、明治17年(1884年)9月2… 森田 政義(もりた まさよし、明治17年(1884年)9月29日 - 昭和14年(1939年)3月21日)は、日本の弁護士、政治家。元衆議院議員(立憲政友会)。大阪府平民。実業家・タレント大屋政子の父。 熊本県の森田實政の弟。 大正3年(1914年)明治大学法科を卒業。弁護士試験合格。大正9年(1920年)分家する。大正13年(1924年)から衆議院議員を6期務め、立憲政友会総務となった。昭和4年(1929年)12月、選挙法違反により衆議院議員を退職。翌昭和5年(1930年)の第17回総選挙で復帰。昭和12年(1937年)の第20回総選挙で落選するが、翌昭和13年(1938年)同じ選挙区の西尾末広が議会から除名されたため、繰り上げ当選となる。
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谷原 公(たにはら いさお、1884年(明治17年)9月2日… 谷原 公(たにはら いさお、1884年(明治17年)9月2日 - 1982年(昭和57年)11月6日)は、日本の政治家、弁護士。 徳島県海部郡、のちの川上村(海南町を経て現海陽町)出身。1914年、明治大学法科卒業。小学校校長、川上村長、徳島県会議員等を経て、1924年5月の第15回衆議院議員総選挙において徳島3区(小選挙区制)から政友本党公認で立候補して初当選。以来1945年12月までの間、徳島1区(1928年の第16回衆議院議員総選挙から)から衆議院議員に4期当選。衆議院懲罰委員長を歴任した。所属は立憲民政党を経て、1945年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選。
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水久保 甚作(みずくぼ じんさく、1884年(明治17年)6… 水久保 甚作(みずくぼ じんさく、1884年(明治17年)6月11日 - 1973年(昭和48年)3月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 宮崎県北諸県郡五十市村(現・都城市)出身。水久保源助の長男。明治大学法学部卒業。1907年裁判所書記登用試験を通り同職を経て岩川郡、都城税務署庶務課長となる。税務代理士を始め1907年、都城市会議員となり、同市農会総代、同所得調査委員、1928年に衆議院議員に当選(立憲政友会、当選2回)。1947年、第1回参議院議員通常選挙で当選して参議院議員(全国区、3年議員)になり、参院郵政委員長となった。また、都城市農会総代、都市計画委員、都城新聞社副社長なども務めた。
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方 宗鰲(ほう そうごう、1884年 – 1951年)は、清… 方 宗鰲(ほう そうごう、1884年 – 1951年)は、清末民初の教育者・経済学者・官僚・政治家。別号は少峯または少峰。主に経済学者として活動する一方で、中華民国臨時政府と南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会で各職を歴任した。 清末の1903年(光緒29年)に日本へ留学し、東京同文書院を卒業した。帰国後は故郷の普寧県で師範速成学校を創立している。1908年(光緒34年)に官費留学生として日本へ再び留学し、山口高等商業学校を卒業。1914年(民国3年・大正3年)に明治大学商科を卒業した。なお、来日中には進歩党東京支部政務部長をつとめており、雑誌『国家及国家学』に寄稿している。 帰国後は北京の各大学で教鞭をとり、北京中国大学教務長兼商学系主任、朝陽大学教授、北京大学法学院教授を歴任し、経済学の論文を各雑誌に都度都度寄稿している。
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