末岡 圀孝(すえおか くにたか、1917年2月1日 - 19… 末岡 圀孝(すえおか くにたか、1917年2月1日 - 1998年11月)は、広島県出身のサッカー選手。 広島一中時代は、センターフォワード(CF)だった。早稲田大学理工学部に進学してア式蹴球部に所属、高橋英辰らが同期であり、1938年の全日本蹴球選手権大會(第18回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝メンバーに名を連ねている。また、1940年4月の全日本蹴球選手権大會(第20回天皇杯全日本サッカー選手権大会)では早大WMWのメンバーとして大会準優勝に貢献した。 また、大学在学中の1939年8月27日には関東州代表戦でサッカー日本代表として初出場。また、同年9月の日満華交歓競技大会および1940年6月の紀元二千六百年奉祝東亜競技大会に出場し、国際Aマッチ1試合を含む合計4試合に出場した。
加藤 巳一郎(かとう みいちろう、1917年1月23日 - … 加藤 巳一郎(かとう みいちろう、1917年1月23日 - 1995年6月2日)は、日本の実業家。中日新聞社代表取締役社長および会長、中日ドラゴンズ球団オーナー、共同通信社理事会長を歴任。 愛知県名古屋市西区出身。生涯にわたり中華人民共和国へ数十回の訪問を重ね、要人との交流も多数に及んだことで「中国通」として知られていた。 1917年(大正6年)、愛知県西春日井郡庄内村名塚(現在の名古屋市西区名塚町)で加藤憲一の長男として生まれる。祖父の加藤豊成は明治時代に自由民権運動の闘士として活動した人物であり、自由党で盟友関係に在った大島宇吉が新愛知新聞社を創業した時も出資者として名を連ねていた。 旧制愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校)を経て、1938年(昭和13年)に早稲田大学専門部政治経済科を卒業。
酒井 治彦(さかい はるひこ、1917年 - 1944年2月… 酒井 治彦(さかい はるひこ、1917年 - 1944年2月) は、日本の元アマチュア野球選手。佐賀県出身。 佐賀中学(現・佐賀県立佐賀西高等学校)を経て、1936年早稲田大学に入学、東京六大学リーグ戦でも投手として出場した。しかし早大卒業後応召され、1944年2月、南方諸島(正確な死没地、没月日は不明)で戦死した。享年26。 東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、同郷で、高校・大学の先輩である鶴崎俊篤と共に、彼の名前が刻まれている。
島岡 茂(しまおか しげる、1917年〈大正6年〉 - 20… 島岡 茂(しまおか しげる、1917年〈大正6年〉 - 2009年〈平成21年〉)は、日本のフランス語学者。早稲田大学名誉教授。 1942年、早稲田大学文学部卒。早稲田大学法学部助教授、教授。1988年、定年退任、名誉教授。
姜 明求(カン・ミョング、朝鮮語: 강명구、1917年 - … 姜 明求(カン・ミョング、朝鮮語: 강명구、1917年 - 2000年5月3日)は、大韓民国の建築家。元中央大学校建築科教授。 日本統治時代のソウル出身。以後渡日し1940年に早稲田高等工学校建築科卒業。1943年から1946年まで朝鮮住宅営団の設計部技師を務め、1946年より独立して設計事務所を設立した。1954年、渡米しニューヨークの建築会社で設計を務め、帰国し1955年に弘益大学校の講師を務め、1961年に助教授となった。1956年より大韓美術協会理事、1956年-1963年国展審査委員、1957年韓国建築家協会理事、1961年国会議事堂建設委員および大韓住宅営団住宅建設委員、1962年芸術家総連合会(1961)などを歴任し、1960年第3回国際造形会議に韓国代表として参加したこともある。
大沢 実(大澤 實、おおさわ みのる、1916年12月24日… 大沢 実(大澤 實、おおさわ みのる、1916年12月24日 - 1968年9月14日)は、日本の英文学者。早稲田大学教授。 埼玉県生まれ。早稲田大学英文科卒。同大学教授在職中に52歳で死去。ヴァージニア・ウルフを専門とした。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
加茂 正五(かも しょうご、1916年12月12日 - 19… 加茂 正五(かも しょうご、1916年12月12日 - 1977年9月14日)は、静岡県浜松市出身のサッカー選手。ポジションはFW(左ウイング)。 静岡県立浜松第一中学校(現・静岡県立浜松北高等学校)の在学中より実兄の加茂健とともにサッカーを初め、早稲田大学に入学後はア式蹴球部に所属。在学中の1936年にベルリンオリンピックのサッカー日本代表に選出され、1回戦のスウェーデン代表戦に出場。0-2の状況から、49分に川本泰三、62分には右近徳太郎の得点をアシストして試合を振り出しに戻し、チームの逆転勝利に貢献した。 また、在学中の1938年6月に開催された全日本蹴球選手権大會(第18回天皇杯全日本サッカー選手権大会)でチームの優勝に貢献した。
川合 辰雄(かわい たつお、1916年12月7日 - 201… 川合 辰雄(かわい たつお、1916年12月7日 - 2019年3月3日)は、日本の経営者。 山形県南陽市出身。1940年に早稲田大学理工学部電気工学科を卒業し、同年に九州水力電気に入社。 1942年4月に九州配電(のちの九州電力)に転じ、1971年5月に取締役に就任し、常務、副社長を経て、1983年6月に社長に就任した。1987年6月に会長に就任し、1997年7月から相談役を務めた。 1981年4月に藍綬褒章を受章し、1991年11月に勲一等瑞宝章を受章。 2019年3月3日誤嚥性肺炎のために死去。102歳没。
武田 考玄(たけだ こうげん、1916年12月1日 - 20… 武田 考玄(たけだ こうげん、1916年12月1日 - 2000年12月31日)は命理家・遁甲家、演出家。横浜市出身。本名:土屋達一郎。ライジングサン石油株式會社(後のシェル石油→昭和シェル石油)の創設者の1人と妾の間に5人兄妹の長男として生を受けた。旧制私立芝中学校、早稲田大学政治経済学部卒業。NETテレビ(日本教育テレビ)で演出を行なううちに、メークアップの研究が観相学へと結びついた。その後四柱推命などの運命学を中国の原書から研究し始め、本場中国の原書を元にした子平(四柱推命学)の日本への導入に努めた。通信講座などで門弟も多く、日本命理学会を主宰。実妹は舞踏家の花柳三弥、元女優の島崎雪子。
片岡 博国(かたおか ひろくに、1916年11月24日 - … 片岡 博国(かたおか ひろくに、1916年11月24日 - )は、元プロ野球選手。
村田 克己(むらた かつみ、1916年11月20日 - 没年… 村田 克己(むらた かつみ、1916年11月20日 - 没年不詳)は、日本の政治学者。 鹿児島県日置郡に生まれ、警察官吏の養子となる。1934年福岡県中学修猷館を経て、1938年5月早稲田大学専門部政治経済科を卒業し、河野一郎会頭の中央畜産会に就職、機関紙「畜産」編集部に勤務する。 1939年1月熊本西部第24部隊(輜重兵第6連隊)自動車中隊へ現役入営、1940年11月陸軍少尉となり、同年12月陸軍省兵務局防衛課に出頭を命ぜられ、陸軍中野学校乙種長期第3期学生を命ぜられる。1941年7月同校を退校し、陸軍中野学校学生隊付を命ぜられ、第3期丙種学生(将校学生)係長を命ぜられる。同年10月参謀本部付となる。
吉原 信之(よしはら のぶゆき、1916年11月5日 - 2… 吉原 信之(よしはら のぶゆき、1916年11月5日 - 2007年3月15日)は、日本の実業家。アパレルメーカー三陽商会の創業者。
中村 礼吉(なかむら れいきち、1916年10月16日 - … 中村 礼吉(なかむら れいきち、1916年10月16日 - 没年不明)は日本の元スピードスケート選手である。北海道苫小牧市出身。 早稲田大学専門部1年在学時の1936年ガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックで500m11位となった。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
石橋 弘(いしばし ひろし、大正5年(1916年)10月1日… 石橋 弘(いしばし ひろし、大正5年(1916年)10月1日 - )は日本の実業家、政治家。元境港市議会議員(副議長)。旧姓松井。医師松井功の実兄。境港造船(株)代表取締役石橋雄器のは婿養子。 鳥取県西伯郡淀江町(現米子市)出身。 昭和17年(1942年)早稲田大学商学部卒業。同年合名会社石橋造船鉄工所代表社員に就任。昭和18年(1943年)(株)石橋造船鉄工所代表取締役就任。昭和32年(1957年)境港造船(株)代表取締役就任。 尊敬する人物は西郷隆盛、上杉謙信。座右の銘は「百術は一誠にしかず」。趣味は旅行、カメラ、読書。住所は境港市岬町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
畠山 孝(はたけやま たかし、1916年 <大正5年> 9月… 畠山 孝(はたけやま たかし、1916年 <大正5年> 9月22日 - 1998年 <平成10年> 10月29日)は、宮城県議会議長(自由民主党)、唐桑町長。ボート競技(ローイング競技)の選手、指導者。オリンピアン。位階は従五位。 宮城県本吉郡唐桑町(現・気仙沼市)鮪立生まれ。旧制気仙沼中(現・宮城県気仙沼高等学校)、早稲田第二高等学院(現・早稲田大学高等学院・中学部)を経て1939年早稲田大学商学部を卒業。 早大在学中、1936年のベルリンオリンピックのかじ付きフォア(三番手)に出場、敗者復活戦で敗退した。前年の1935年の全日本エイト選手権では七番を漕ぎ優勝した。 大学卒業後も南満州鉄道に勤務の傍ら明治神宮大会に優勝。
横山 堅七(よこやま けんしち、1916年9月22日 - 生… 横山 堅七(よこやま けんしち、1916年9月22日 - 生没不明)は、日本のバスケットボール選手。1936年ベルリンオリンピックに出場した。 新潟県立新潟商業学校(現在の新潟県立新潟商業高等学校)に学び、強豪の籠球部(バスケットボール部)に所属した。早稲田大学に進み、バスケットボール部に所属。早稲田大学在学中、1936年ベルリンオリンピックに出場した。1938年には東洋選手権大会日本代表、1939年には来日したカナダのチーム(「ウェスターン軍」)と対戦した日本代表チームの一員となり、宗像卯一とともに年間最優秀選手に選ばれた。1940年には東亜競技大会の日本代表選手となる。 その後、日本鋼管に所属。
国東 文麿(くにさき ふみまろ、1916年9月10日 - 2… 国東 文麿(くにさき ふみまろ、1916年9月10日 - 2012年11月3日)は、日本の国文学者。早稲田大学名誉教授。 早稲田大学卒、早稲田大学商学部教授、1987年定年、同名誉教授。『今昔物語集』が専門。 1990年、勲四等瑞宝章を受章。2012年11月3日、老衰のため死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
山下 与志一(やました よしいち、1916年〈大正5年〉8月… 山下 与志一(やました よしいち、1916年〈大正5年〉8月27日 - 1991年〈平成3年〉12月3日)は、日本の脚本家。本名は山下 義一。 台湾・台中の出身。早稲田大学文学部英文科(昭和15年)卒。文学座演出部員や東宝脚本部員を経て、シナリオライターとなった。日本放送作家組合の幹事も務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
石川 悌二(いしかわ ていじ、1916年8月24日 - 19… 石川 悌二(いしかわ ていじ、1916年8月24日 - 1987年)は、日本の作家、文学・地理研究家。 台湾・台北生まれ、東京出身。1943年早稲田大学文学部国文科卒。1947年「魚紋」を発表して小説家を志し、1973年「近代作家の基礎的研究」を刊行。東京都公文書館主任調査員の傍ら、ライフワークとして「江戸東京坂道辞典」「東京の橋」などを執筆した。
小柳 富男(こやなぎ とみお、1916年(大正5年)8月2日… 小柳 富男(こやなぎ とみお、1916年(大正5年)8月2日 - 1971年(昭和46年)12月14日)は、日本の飛込競技選手。1936年ベルリンオリンピックに出場した。 1916年8月2日、福岡県に生まれる。大阪府立今宮中学校(現在の大阪府立今宮高等学校)を卒業し、早稲田大学に進学する。早稲田大学では競泳が一般的であった中で飛込競技の実力を大いに伸ばし、1935年8月6日にベルリンオリンピック飛込競技の日本代表となることが発表された。ベルリンオリンピックでは飛板飛込と高飛込の両方に出場し、飛板飛込で133.07点、高飛込で94.54点を獲得しいずれも8位となった。その後、1939年の日本選手権では高飛込で優勝、1940年の日本選手権では飛板飛込で優勝、1946年の日本選手権では再び高飛込で優勝した。
勝又 豊次郎(かつまた とよじろう、1916年8月1日 - … 勝又 豊次郎(かつまた とよじろう、1916年8月1日 - 1993年4月3日)は、日本の経営者。勝又自動車社長、会長を務めた。千葉県匝瑳郡須賀村(現在の匝瑳市)出身。 1940年に早稲田大学専門部政経科を卒業し、同年にゴム統制会に入社。 1942年7月に勝又商店(のちの勝又自動車)常務に就任し、1943年11月には社長に昇格。1955年にトヨタ自動車販売社長であった神谷正太郎の誘いを受け、トヨタ自動車系のディーラーとなり、千葉トヨペット、カローラ店2店、オート店2店、ビスタ店2店の計8社を率いる全国でも有数の勝又グループを育て上げた。1977年から1991年までに千葉経済同友会代表幹事を務め、幕張メッセ建設の調整役を務めるなど地元千葉経済界のリーダー的存在として活躍した。
大谷 米一(おおたに よねいち、1916年6月1日 - 19… 大谷 米一(おおたに よねいち、1916年6月1日 - 1995年5月9日)は、日本の経営者。ニューオータニ社長、会長を務めた。大谷米太郎の三男として生まれ、叔父の大谷竹次郎の養子となった。長男は大谷和彦。 東京都出身。1939年に早稲田大学商学部を卒業。 1961年にニューオータニ取締役に就任し、副社長を経て、1973年5月には社長に就任し、1993年6月には会長に就任。 1987年11月には勲二等瑞宝章を受章。 1995年5月9日肺癌のために死去。78歳没。 日本中央競馬会(JRA)に登録していた馬主でもあり、勝負服の柄は桃、青袖、冠名には「キオイ」を用いた。主な所有馬にはオープン特別戦2勝のキオイドリームがいる。
福岡 隆(ふくおか たかし、1916年6月1日 - 2002… 福岡 隆(ふくおか たかし、1916年6月1日 - 2002年4月9日)は、日本の速記者・評論家。 広島県因島に生まれる。小学三年で父を亡くす。1929年上京して簿記学校で速記を学び、英語の学校を卒業。早稲田大学文学通信教育部修了。海軍学校暗号科を卒業した。田鎖綱紀の知遇を得る。1959年から9年間、松本清張の専属速記者となる。谷崎潤一郎の速記もした。日本速記協会副理事長。 2002年4月9日、脳梗塞のため死去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
西尾 孝(にしお たかし、1916年大正5年5月28日(日)… 西尾 孝(にしお たかし、1916年大正5年5月28日(日) - )は、日本の英語講師。早稲田大学教授、代々木ゼミナール英語科講師などを歴任。「実戦英語水準表」シリーズ(日本英語教育協会〈旺文社の関連団体〉)に代表される、数多くの大学受験英語参考書などを著した。1970年代から1980年代の受験英語界の代表的人物の一人。『英検教本』なども著した。また永く旺文社の大学受験ラジオ講座の講師をつとめた。 吾妻書房刊の雑誌「イングリッシュ・コンパニオン」責任編集者であった。
中村 英雄(なかむら ひでお、1916年(大正5年)5月1日… 中村 英雄(なかむら ひでお、1916年(大正5年)5月1日 - 1988年(昭和63年)10月22日)は、日本のドイツ文学者。 広島県広島市に広崎英雄として生まれ、両親が離婚して父の中村姓を名のる。三歳で天津に移る。1941年早稲田大学文学部独文科卒、小林正樹らとシナリオ「われ征かん」を執筆したのち入隊、陸軍予備少尉となり南鳥島で敗戦を迎える。舟木重信を師とあおぎ、同人誌に小説を書く。1946年早大附属早稲田第一高等学校専任講師。1949年日本共産党に入る。早大理工学部専任講師、51年助教授、52年文学部助教授、教授、1987年定年退任、名誉教授。左翼的学者として行動した。
亀川 正東(かめかわ しょうとう、1916年4月22日 ‐ … 亀川 正東(かめかわ しょうとう、1916年4月22日 ‐ 2018年1月13日)は、日本の英米文学者、文筆家、琉球大学名誉教授。 沖縄県平良市生まれ。1940年早大高等師範学校英文科卒、東京中野高等無線学校英語教官。 1946年宮古男子高等学校教官。1947年宮古英語教員養成所長。1948年宮古女子高等学校教官。1949年沖縄文教学校教官。50年琉球大学英語部助教授、コロラド大学大学院。 1953年琉球政府文教審議員、59年琉球政府中央教育委員。60年琉球大学文理学部教授、法文学部教授。 1975年中華民国・中華学術院より「沖縄の英学、米国文学におけるクリティシズムについて」で文学博士。 1981年定年退官、名誉教授。
原田 文也(はらた ぶんや、1916年〈大正5年〉4月18日… 原田 文也(はらた ぶんや、1916年〈大正5年〉4月18日 - 2000年〈平成12年〉12月12日)は、昭和から平成初期の政治家。長野県茅野市長。 長野県諏訪郡玉川村(現茅野市)で、原田浜三郎、なか の二男として生まれた。早稲田大学商学部聴講生(講義録)修了。1932年(昭和7年)伊勢丹に入社し、その後、2年間兵役に就いた。1940年(昭和15年)日立航空機に移り、1945年(昭和20年)玉川村役場に入り、1852年(昭和27年)収入役に就任。1955年(昭和30年)合併で茅野町収入役となる。茅野市発足後、1958年(昭和33年)収入役、1963年(昭和38年)助役となる。1967年(昭和42年)に退職し、東洋精機興業に入社し事業部副部長に就任。
齊藤 了英(さいとう りょうえい、1916年(大正5年)4月… 齊藤 了英(さいとう りょうえい、1916年(大正5年)4月17日 - 1996年(平成8年)3月30日)は、日本の実業家。大昭和製紙(現・日本製紙)名誉会長。「東海の暴れん坊」の異名をとった。大昭和製紙創立者斉藤知一郎の長男。 齊藤知一郎の長男として静岡県に生まれた。 静岡県立沼津中学校を経て、1938年(昭和13年)に早稲田大学専門部商科、1941年(昭和16年)に日本大学専門部法科をそれぞれ卒業(旧制大学専門部は、旧制専門学校に相当)。父・知一郎が創業した大昭和製紙(現・日本製紙)に入社。取締役・専務・副社長を歴任。1961年(昭和36年)父の死後、2代目社長に就任。 1980年(昭和55年)から1981年(昭和56年)にかけて大昭和は過剰投資、過剰在庫、過剰借り入れにより経営危機に陥った。
高橋 英辰(たかはし ひでとき、1916年4月11日 - 2… 高橋 英辰(たかはし ひでとき、1916年4月11日 - 2000年2月5日)は、福島県福島市出身のサッカー選手、サッカー指導者。サッカー日本代表監督を務め、2009年に日本サッカー殿堂入りした。 刈谷町立亀城小学校(現・刈谷市立亀城小学校)4年の時にサッカーをはじめ、愛知県刈谷中学校(現:愛知県立刈谷高等学校)から早稲田高等学院を経て、早稲田大学に入学。在学中はア式蹴球部に所属した。 1936年(昭和11年)のベルリンオリンピックの日本代表は、当時日本最強だった早稲田のメンバーを中心に構成されたが、在学中の1940年に開催予定の東京オリンピックは幻となった。大学卒業後の1941年(昭和16年)に日立製作所サッカー部に入り、同年の明治神宮競技大会において実業団の部で準優勝を飾った。
大西 鐵之祐(おおにし てつのすけ、1916年4月7日 - … 大西 鐵之祐(おおにし てつのすけ、1916年4月7日 - 1995年9月19日)は、元早稲田大学教授。大西鉄之祐とも。元ラグビー日本代表監督・早稲田大学ラグビー部監督。奈良・郡山中学、早稲田大学卒業。奈良県奈良市出身。 早大選手時代のポジションはフランカー。卒業後は東芝に就職するも兵役に就き終戦を迎える。戦後、早大職員から教授へ。後に早大ラグビー部監督に就任する。兄の栄造も早大の選手・監督だった。 1950年度シーズンより早大監督に就任。以後5シーズン監督を務め、1950年、1952年、1953年の各年度において東西学生ラグビーフットボール対抗王座決定戦に勝利し、『全国制覇』をもたらした。また、この第1期監督時代に優勝時に「荒ぶる」を歌唱する伝統が始まった。
大西鐡之祐(おおにしてつのすけ、1916年4月7日 - 19… 大西鐡之祐(おおにしてつのすけ、1916年4月7日 - 1995年9月19日)は元早稲田大学教授。元ラグビー日本代表監督・早稲田大学ラグビー部監督。奈良・郡山中学、早稲田大学卒業。奈良県奈良市出身。
水藤 春夫(みずとう はるお、1916年4月1日 - 199… 水藤 春夫(みずとう はるお、1916年4月1日 - 1991年)は、日本の児童文学者、児童文学研究者。 岡山県生まれ。1939年早稲田大学文学部卒業、中央公論社に入社、児童出版研究課員。48年退社。早大在学中から早大童話会に属し、岡本良雄、町本広、鈴木隆らとともに児童文学の創作、研究を行う。坪田譲治に師事し、「びわの実学校」同人。赤い鳥文学賞選考委員。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
富原 薫(とみはら かおる、1916年3月20日 - 201… 富原 薫(とみはら かおる、1916年3月20日 - 2015年5月15日)は、日本の経営者。北海道放送社長、会長を務めた。北海道旭川市出身。 1939年に早稲田大学専門部法科を中退し、同年に満蒙学校を卒業。1941年に小樽新聞社に入社後、全道の新聞社統合により1942年11月に北海道新聞社に移籍し、政経記者として活躍。1945年には内閣記者会詰めとして憲法審議を担当。1951年12月に北海道放送に転じ、1956年の日ソ和平交渉の際には民間放送代表特派員の一人として鳩山一郎首相の随行団に参加した。1967年に取締役、1970年に常務、1978年に専務、1979年に副社長を経て、1984年に社長に就任。
川越 政則(かわごえ まさのり、1916年2月20日 - 1… 川越 政則(かわごえ まさのり、1916年2月20日 - 1998年9月6日)は、日本のジャーナリスト、新聞経営者、郷土史家。南日本新聞社社長を務めた。 鹿児島県鹿児島市出身。1939年に早稲田大学法学部法律学科を卒業。佐世保海軍経理部調達係での勤務を経て、1943年4月に鹿児島日報社、後の南日本新聞社に入社し、1961年12月に取締役に就任し、1962年12月に常務、1968年3月に鹿児島テレビ放送専務を経て、1972年11月から1981年12月までに南日本新聞社社長を務めた。 1986年4月に勲三等瑞宝章を受章した。 郷土史家、民芸品収集家としても知られ、鹿児島県文化財専門委員等も務めた。著書に『南日本文化史』『南日本風土記』『鹿児島の旅』『鹿児島県史概説』『鹿児島民芸風土記』『鹿児島の美 南日本民芸図説』『焼酎文化図譜』など。
風間 栄一(かざま えいいち、1916年2月19日 - 20… 風間 栄一(かざま えいいち、1916年2月19日 - 2001年5月8日)は、新潟県出身のアマチュアレスリング選手。日本レスリング界の第一人者として知られる。 1933年、新潟商業学校(現在の新潟県立新潟商業高等学校)から早稲田大学に進み、第1回全日本選手権でライト級を制覇した。 1936年ベルリンオリンピックにも出場してフリースタイル・ライト級で5位入賞を果たす。1938年には全日本学生選抜チームを率いてアメリカに遠征し、12戦全勝の記録を残した。 日本国内でも、2階級(66キロ級、72キロ級)に渡り全日本選手権で10度の優勝を達成し、1950年までの間不敗を維持するなど、日本のアマチュアレスリング創成期をけん引した選手であった。
小林 正樹(こばやし まさき、1916年2月14日 - 19… 小林 正樹(こばやし まさき、1916年2月14日 - 1996年10月4日)は、日本の映画監督。 北海道小樽区(現・小樽市)に会社員の息子として生まれる。女優の田中絹代は又従弟に当たる。旧制小樽中学校(現在の北海道小樽潮陵高等学校)を経て早稲田大学文学部哲学科に進学。早大では東洋美術を専攻し、会津八一に師事する。在学中に田中絹代に誘われて映画『桑の實は紅い』(清水宏監督)のロケ現場に1ヶ月参加する。1941年(昭和16年)早稲田大学卒業。卒業論文は「室生寺建立年代の研究」。 同年に松竹大船撮影所助監督部に入社する。同期には野村芳太郎がいた。入社試験に際しては、親しい間柄であった田中絹代に紹介を頼んだが、「映画界は実力がなければ通用しない」と諭され、田中の縁者であることを隠し通したという。
熊野 紀一(くまの のりかず、1916年2月11日 - 20… 熊野 紀一(くまの のりかず、1916年2月11日 - 2006年3月19日)は、日本の経営者。山口県山口市出身。 1939年に早稲田大学文学部を卒業し、1945年に京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)に入社。1970年11月から1985年6月までに宝塚音楽学校校長と1982年6月から1997年6月までに逸翁美術館館長を務めた。 2006年3月19日大腸がんのために死去。90歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
浜森 辰雄(はまもり たつお、1916年2月9日 - 200… 浜森 辰雄(はまもり たつお、1916年2月9日 - 2009年9月4日)は、日本の政治家。北海道稚内市出身。第4代 - 第11代北海道稚内市長(1959年 - 1991年)。 1939年札幌商業学校、1941年早稲田大学政治経済学部(旧制)卒業。 北海道議会議員(日本社会党会派)を経て、1959年稚内市長に初当選。以後連続8期務め、稚内の天皇とまで称された。1983年に7月にソビエト連邦を初訪し、両国のパイプ役として活躍。同年12月には、ソ連対外友好・文化交流団体連合会より友好促進記章を贈られた。また同年9月の大韓航空機撃墜事件では、遺族対策や報道陣対応でこの年は多忙を極めた。1991年に9選を目指すも落選。
野田 真吉(のだ しんきち、1916年1月28日 - 199… 野田 真吉(のだ しんきち、1916年1月28日 - 1993年11月22日)は、日本のドキュメンタリー映画監督・評論家、詩人。本名は、亘 真吉(わたり しんきち)。野田 眞吉表記もある。 息子に、映像民俗学者で駒沢女子大学教授の亘純吉、キャメラマン・映画プロデューサー・オフィスエムエイピー(野田の映像作品のビデオ等を販売している)代表の亘真幸(亘眞幸)。息子たちは、野田の制作映画にスタッフとして参加もしている。 父は南宗派の画家の野田青石。宇宙機エンジニアの野田篤司は青石の曾孫であり、遠縁にあたる。 1916年(大正5年)1月28日生まれ。愛媛県八幡浜市矢野町出身。 1937年、早稲田大学文学部仏文科卒業。
玉川 敏雄(たまがわ としお、1916年1月26日 - 19… 玉川 敏雄(たまがわ としお、1916年1月26日 - 1994年9月13日)は、日本の経営者。東北電力社長、会長を務めた。山形県山形市出身。 1938年に早稲田大学専門部商科を卒業し、1944年に東北配電(のちの東北電力)に入社。1974年に取締役に就任し、1977年に常務、1979年に副社長を経て、1983年6月に社長に就任。1987年6月に会長に就任し、1993年には取締役相談役に就任。1983年から1993年までに東北経済連合会会長を務めた。 1984年に藍綬褒章を受章し、1991年に勲一等瑞宝章を受章。 1994年9月13日肺癌のために仙台市の病院で死去。78歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
韓 泰淵(ハン・テヨン、朝鮮語: 한태연、1916年1月5日… 韓 泰淵(ハン・テヨン、朝鮮語: 한태연、1916年1月5日 - 2010年9月20日)は、大韓民国の法学者、大学教授、政治家、ジャーナリスト。第6・9・10代韓国国会議員。 本貫は清州韓氏。号は栗山(ユルサン、율산)。キリスト教徒。 咸鏡南道永興郡出身。早稲田大学法学部卒。高等文官試験行政科合格。成均館大学校、ソウル大学校法科大学、東国大学校、漢陽大学校、東亜大学校大学院で教授を務めたほか、ソウル新聞主筆、韓国憲法学会会長などを務めた。1963年の第6代総選挙で初当選以降、1973年から1980年までは維新政友会所属の第9・10代国会議員を務めた。1972年の朴正煕大統領時代には葛奉根らと共に維新憲法の制定に参加した。
高田 ユリ(たかだ ユリ、1916年1月2日 - 2003年… 高田 ユリ(たかだ ユリ、1916年1月2日 - 2003年12月24日)は消費者運動の先駆者。主婦連合会元会長(1989-1991)。 1916年1月2日、新潟県佐渡郡相川町に生まれる。両親とも佐渡島で小学校教諭をしていた。1919年、父母とともに上京。1937年共立女子薬学専門学校卒(後の共立薬科大学)卒。1942年同校助教授。1943年12月29日朝日新聞社の高田靖彦と結婚。東京・市ヶ谷の砂土原町に住居を構える。1950年8月夫晴彦の勧めで奥むめお会長に会う。同年10月主婦連に日用品審査部が新設され、専門委員となる。その後、各地の生活センターの先駆けとなった主婦連日用品試験室主任として、科学的なデータをもとに商品テストを担当するようになった。
山本 博愛(やまもと ひろちか、1916年 - 没年不明)は… 山本 博愛(やまもと ひろちか、1916年 - 没年不明)は、東京都出身のプロ野球選手(三塁手、遊撃手)。
加賀谷 力司(かがや りきじ、1916年〈大正5年〉– 20… 加賀谷 力司(かがや りきじ、1916年〈大正5年〉– 2002年〈平成14年〉)は、日本の政治家・実業家。 林業、建設業を営む企業の経営に携わるとともに、地元秋田県を中心に、戦後日本の地域社会や林業振興・緑化推進に長年にわたって継続的な影響を与えた人物として知られる。 1916年に秋田県五城目町に生まれる。父・加賀谷直治は秋田県議会副議長を務めた政治家であり、加賀谷家は地域において代々公職と産業に携わってきた。秋田県立秋田高等学校、そして早稲田大学で教育を受けたのち、地元に戻り、木材・造林・建設業を中心とする家業を継承。企業経営と地域の活性化を通じて、地域の復興と発展に尽力した。 1951年(昭和26年)に五城目町議会議員に初当選、1956年には町議会議長に就任し、翌1957年より町長を務めた。
川合 道雄(かわい みちお、1916年- )は、日本近代文学… 川合 道雄(かわい みちお、1916年- )は、日本近代文学・文化研究者、編集者。 京都府生まれ。川合信水(山月)の次男。早稲田大学文学部国文学科卒。博文館編集局、高校等に勤務の後、早稲田大学文学部非常勤講師。1977年国士舘短期大学教授、国士舘大学文学部教授、89年退職。早稲田大学国文学会名誉会員。
鈴木 二郎(すずき じろう、1916年 - 2008年)は、… 鈴木 二郎(すずき じろう、1916年 - 2008年)は、日本の社会人類学者、東京都立大学 (1949-2011)名誉教授。 早稲田大学文学部で学び、卒業。東京都立大学教授を務めた。1980年に東京都立大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は東京造形大学学長を務めた。また、創価大学特任教授。1997年に退任。人権・平和運動に注力した。
高安 朝正(たかやす ちょうせい、大正5年(1916年)-昭… 高安 朝正(たかやす ちょうせい、大正5年(1916年)-昭和21年(1946年))は、琉球王国第二尚氏王統の分家士族である高安殿内の十四世。第二尚氏王朝 17代国王 尚灝の玄孫。筆頭格御殿あった伊江御殿十四世 伊江朝助(男爵)とは再従兄弟にあたる。早稲田大学の文学部を卒業後、朝日新聞社の記者として活躍するが、30歳の若さで早世した。妻の俊子は高嶺御殿十一世高嶺朝教の孫であり、神山政良、尚八重子(19代国王であった尚泰の王女)の姪にあたる。 1916年、首里市当蔵にて生まれる。後の妻 俊子とは当蔵にて幼馴染であった。 早稲田大学の文学部に在学の際には、東京都中野区上ノ原町にて、伊江朝忠、伊江朝顕、徳田安周らと下宿をしていた。
巖谷 大四(いわや だいし、1915年12月30日 - 20… 巖谷 大四(いわや だいし、1915年12月30日 - 2006年9月6日)は、日本の文芸評論家。 童話作家・巖谷小波の四男として東京に生まれる。早稲田大学英文科卒。卒業後、菊池寛の世話により社団法人日本文藝家協会書記となる。 戦時中日本文学報国会で事務をとる。1945年の終戦後、高見順の誘いで鎌倉文庫の編集者となる。1949年秋に鎌倉文庫がつぶれ、1950年1月に河出書房に入社して「現代日本小説大系」の編集者となる。1950-56年『文藝』編集長。『週刊読書人』編集長を務め、1965年から文筆活動に入る。 父の評伝『波の跫音』がある。1989年勲三等瑞宝章受章、1991年大衆文学研究賞受賞。墓所は多磨霊園。
大久保 政賢(おおくぼ まさかた、1915年 <大正4年> … 大久保 政賢(おおくぼ まさかた、1915年 <大正4年> 12月23日 - 2000年 <平成12年> 7月1日)は、日本の経営者。新潟県西蒲原郡巻町(現・新潟市西蒲区)出身。位階は従五位。 1939年に早稲田大学商学部を卒業。日本郵船での勤務を経て、1960年に新潟臨港海陸運送(のちのリンコーコーポレーション)常務に就任し、1965年に副社長を経て、1971年には社長に就任。1986年6月から会長を務めた。 その一方で、新潟テレビ21初代社長、会長、新潟商工会議所会頭なども歴任。 1981年に藍綬褒章を受章し、1987年に勲三等旭日中綬章を受章。 2000年7月1日急性腎不全のために新潟市の病院で死去。
宗像 卯一(むなかた ういち、1915年(大正4年)11月2… 宗像 卯一(むなかた ういち、1915年(大正4年)11月26日 - 生没不明)は、日本のバスケットボール選手。早稲田大学在学中に、1936年ベルリンオリンピックに出場した。 1930年、広島県から満洲(関東州)・大連の大連一中に転校。体操の時間にサッカーを行っていたところ、宮畑虎彦教諭に見いだされ、1931年にバスケットボール部に入部した。 早稲田大学に進学し、バスケットボール部に所属。1936年ベルリンオリンピックに出場した。同時期、早稲田大学バスケットボール部には横山堅七がおり、宗像とともにベルリン五輪、東洋選手権大会(1938年)、東亜競技大会(1940年)で日本代表選手に選出されている。