角田 正喬(つのだ まさたか、1877年〈明治10年〉10月… 角田 正喬(つのだ まさたか、1877年〈明治10年〉10月18日 - 没年不詳)は、大正から昭和戦前期にかけての日本の実業家である。主として電気事業に関与し、名古屋電灯やその後身東邦電力で常務を務めた。群馬県出身。 角田正喬は、1877年(明治10年)10月18日、角田徳太郎の長男として生まれた。出生地は群馬県利根郡沼須村(のちの利南村、現・沼田市)。上京して慶應義塾大学部に学び、1903年(明治36年)5月理財科を卒業した。卒業後はまず横浜の石川商会に入るが、翌1904年(明治37年)8月、大阪の商社日本綿花へと転じる。1905年(明治38年)8月からは同社上海支店勤務となった。 1910年(明治43年)に日本綿花を退職し帰国。
丘 球學(おか きゅうがく、旧姓:山田、1877年10月17… 丘 球學(おか きゅうがく、旧姓:山田、1877年10月17日 - 1953年10月14日)は、愛知県出身の日本の曹洞宗の僧侶。 明治10年(1877年)10月17日、愛知県碧海郡筒針村(現・岡崎市)山田栄助の三男として生まれる。1891年、静岡県磐田郡井通村(現・磐田市)の正医寺住職榑松賢童に就いて出家得度。可睡斎で修行し西有穆山・丘宗潭に師事して後を継ぐ。 1902年(明治35年)に曹洞宗大学林(現・駒澤大学)を卒業、1915年(大正4年)に修禅寺38世住職・安泰寺住職を継ぐ。 曹洞宗大学林副学監、永平寺後堂、總持寺西堂、ソウル博文寺住職を歴任し、1947年(昭和22年)に帰国後、永平寺西堂、永平寺東京別院監院、永平寺副貫首となる。
立花 俊道(たちばな しゅんどう、1877年10月17日 -… 立花 俊道(たちばな しゅんどう、1877年10月17日 - 1955年4月2日)は、日本の仏教学者、哲学博士。曹洞宗の僧侶。第14代駒澤大学学長、学監。号は天眞。 佐賀県杵島郡南有明村(現・白石町)生まれ。東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)で修学。1905年(明治36年)曹洞宗大学(現・駒澤大学)卒業。宗門海外留学生としてセイロン(現スリランカ)に渡り、コロンボ市ピデョーダヤ・カレッジ(ピヂョノダヤ・カレッジ)でパーリ語や梵語(サンスクリット)、原始仏教を学ぶ。1919年(大正8年)インドシナ、タイ、ビルマなどを経て英国オックスフォード大学に留学。1922年、同大学にて哲学博士号を取得(研究成果は1926年「The Ethics of Buddhism」として出版)し帰国。
福井 直秋(ふくい なおあき、1877年10月17日 - 1… 福井 直秋(ふくい なおあき、1877年10月17日 - 1963年12月12日)は、日本の作曲家、教育者。富山県中新川郡上市町出身。帝国音楽学校校長、武蔵野音楽大学創設者であり初代学長。 富山県中新川郡宮川村(現上市町)浄誓寺住職・福井智拓の五男として誕生。1899年に東京音楽学校へ進学し授業補助をしていた瀧廉太郎と出会う。声楽指導法や歌曲集編纂に尽力する。歌曲、器楽曲の創作に意欲を燃やして約1000曲の音楽作品を遺した。1904年長野師範学校教諭、1928年に第一次帝国音楽学校校長に就任。同年辞任し同校生徒らと共に、翌1929年に武蔵野音楽大学の前身である武蔵野音楽学校を創設し移籍する。1949年に新制大学の武蔵野音楽大学の初代学長に就任した。
中島 守利(なかしま もりとし、1877年(明治10年)10… 中島 守利(なかしま もりとし、1877年(明治10年)10月15日 - 1952年(昭和27年)1月28日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、東京府南葛飾郡新宿町長。 東京府南葛飾郡新宿町(現東京都葛飾区新宿)で、農業・中島藤左衛門の長男として生まれる。5歳で勝鹿小学校(現在の葛飾区立新宿小学校)に入学し、13歳で同高等小学校を卒業。独学で学問を修め、17歳で新宿郵便局長に就任。その後、新宿町長、東京府会議員、同参事会員、同郡部会副議長、同農会議員、同教育会議員などを歴任。 1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で東京府第十五区から立憲政友会所属で出馬して当選。その後、第18回総選挙まで連続5回の当選を果たしたが、1928年、京成電車疑獄事件に連座。
松本 烝治(まつもと じょうじ、明治10年(1877年)10… 松本 烝治(まつもと じょうじ、明治10年(1877年)10月14日 - 昭和29年(1954年)10月8日)は、日本の商法学者(憲法学者ではない)。東京府士族。法学博士。戦後、憲法草案(松本試案)を作成したことで知られる。
樺山 可也(かばやま かなり、1877年(明治9年)10月1… 樺山 可也(かばやま かなり、1877年(明治9年)10月14日 - 1932年(昭和7年)10月27日)は、日本の海軍軍人(最終階級は海軍少将)、政治家(鹿児島市長)。族籍は鹿児島県士族。元フィギュアスケート選手・八木沼純子の曾祖父。 鹿児島県薩摩郡藺牟田村(現・薩摩川内市祁答院町藺牟田)出身。医者の次男である。1877年、父が西南戦争に西郷軍の軍医として出征、戦死した。可也は貧しい少年時代を送った。教科書を買う金がなかったため友達から借りて書き写し勉強した。 1898年12月、海軍兵学校(26期)を卒業し、1900年1月、海軍少尉任官。「大和」航海長などを経て、日露戦争に「和泉」分隊長として出征し、同砲術長となった。
3代 阿由葉 勝作(あゆば かつさく、1877年(明治10年… 3代 阿由葉 勝作(あゆば かつさく、1877年(明治10年)10月13日 - 1952年(昭和27年)8月19日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(3期)。幼名は長之助。 2代阿由葉勝作の長男として栃木県足利郡利保村(北郷村を経て現足利市利保町)で生まれる。1894年(明治27年)7月、家督を相続する。慶應義塾に学び、農業を営む傍ら、北郷村長、同村会議員、栃木県会議員、同参事会員、同議長を歴任する。実業家としては東海銀行、足利瓦斯各取締役、野洲新聞社長、東野鉄道取締役、宇都宮常設家畜市場取締役、宇都宮米券倉庫監査役、第二特許織物取締役を歴任する。 1920年(大正9年)5月の第14回衆議院議員総選挙では栃木県第6区から憲政会所属で出馬し当選。
貝谷 真孜(眞孜、かいたに しんし、1877年(明治10年)… 貝谷 真孜(眞孜、かいたに しんし、1877年(明治10年)10月12日 - 1937年(昭和12年)11月2日)は、日本の技術者、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・野田。 郡長、税務署長、細川家顧問などを務めた熊本県人・野田慶幸の三男として生まれる。1900年(明治33年)貝谷弥三の養子となり、その長女・多美と結婚し貝谷に改姓。 小学校を卒業後に上京し、1899年(明治32年)7月、東京鉄道学校鉄道建設科を卒業し、鉄道作業局建設部、東京市土木技手、熊本県飽託郡道路組合嘱託、同県水力電気調査助手、天草郡吏員を歴任。 1905年(明治38年)4月、三池炭鉱に入社し、工手長心得、工手長、鉱務技士心得、鉱務技士、建築技師、庶務事務員などを務め、1926年(大正15年)10月に退職した。
飯沼 剛一(いいぬま ごういち、1877年10月9日 - 1… 飯沼 剛一(いいぬま ごういち、1877年10月9日 - 1960年1月11日)は、日本の実業家。大正海上火災保険会長や、東亜火災海上保険社長を務めた。 兵庫県出身。1902年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業、三井物産入社。三井物産台北支店長兼南洋協会台湾支部幹事を経て、1918年新設された大正海上火災保険の支配人に就任。1921年大正海上火災取締役支配人。1928年大正海上火災保険専務。1935年から大正海上火災保険会長として、戦時体制下での統合などを進めた。1940年東亜火災海上保険社長。1941年新設された日本損害保険協会の理事に就任。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
伊良子 清白(いらこ せいはく、1877年〈明治10年〉10… 伊良子 清白(いらこ せいはく、1877年〈明治10年〉10月4日 - 1946年〈昭和21年〉1月10日)は、日本の詩人。本名、暉造(てるぞう)。もともと筆名を「すずしろのや」と称し、後に清白と改めた。 医業のかたわら詩を書き、詩集『孔雀船』を出版し河井醉茗、横瀬夜雨と並ぶ文庫派の代表的詩人。 鳥取県八上郡曳田村大字曳田(八頭郡を経て、現在は鳥取市河原町曳田)に、伊良子政治とツネの長男として出生。父政治は医師で、郡家町大門の医師だった岡田道叔の次男だが、1875年(明治8年)7月に曳田村にいた伊良子春郊の長女つねと結婚し、伊良子の姓を名乗った。母つねは、清白が生まれて満1歳にもならない、1878年(明治11年)9月5日に死去した。
福田 五郎(ふくだ ごろう、1877年(明治10年)10月3… 福田 五郎(ふくだ ごろう、1877年(明治10年)10月3日 - 1931年(昭和6年)6月23日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、検事。 佐賀市出身。兄は佐賀商業会議所会頭となった福田慶太郎。1905年(明治38年)、京都帝国大学法科大学卒業。司法官試補から福岡地方裁判所判事、小倉区裁判所判事、熊本区裁判所検事、熊本地方裁判所検事、福岡地方裁判所検事、仙台区裁判所検事、神戸区裁判所検事兼神戸地方裁判所検事を歴任した。1919年(大正8年)、官を辞し、海運業を営んだ。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、3回の当選を重ねた。その間、濱口内閣で逓信参与官を務めた。
小林 躋造(こばやし せいぞう、1877年〈明治10年〉10… 小林 躋造(こばやし せいぞう、1877年〈明治10年〉10月1日 - 1962年〈昭和37年〉7月4日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。 広島県広島市出身。福山誠之館中学、修道学校(現:修道中学校・高等学校)、旧制私立海軍予備校を経て海軍兵学校第26期入校。入校時成績順位62名中第4位、卒業時成績順位59名中第3位。海軍次官、連合艦隊司令長官、台湾総督、翼賛政治会総裁、小磯内閣の国務大臣などを歴任した。 一部の書籍で同郷の加藤友三郎元帥・内閣総理大臣の甥と記載されているが、加藤の兄弟姉妹に小林の縁故者はおらず、加藤との姻戚関係はないことが強く推定される。弟は早川幹夫中将、義弟(妹の夫)は新見政一中将。
沼波 瓊音(ぬなみ けいおん、1877年10月1日 - 19… 沼波 瓊音(ぬなみ けいおん、1877年10月1日 - 1927年7月19日)は、明治・大正期の国文学者・俳人・右翼。本名は武夫(たけお)。名古屋市出身。
鈴木 辰三郎(すずき たつさぶろう、1877年(明治10年)… 鈴木 辰三郎(すずき たつさぶろう、1877年(明治10年)10月1日 - 1952年(昭和27年)1月6日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(2期)。福島県平市長。 のちの福島県磐前郡夏井村(石城郡夏井村、平市を経て現いわき市)に生まれる。夏井村会議員、石城郡会議員、同参事会員を経て福島県会議員に当選。ついで同参事会員となったほか、磐城実業銀行、磐城建物各専務取締役、磐城国産工業、磐城片倉製糸各取締役、磐城海岸軌道、磐城林業各重役を歴任した。 1932年(昭和7年)2月の第18回衆議院議員総選挙では福島県第3区から立憲政友会所属で出馬し当選。つづく第19回衆議院議員総選挙でも当選し、衆議院議員を通算2期務めた。
鳴海 文四郎(なるみ ぶんしろう、1877年(明治10年)1… 鳴海 文四郎(なるみ ぶんしろう、1877年(明治10年)10月1日 - 1933年(昭和8年)2月28日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家、醸造家。鳴海醸造店第4代当主。衆議院議員(2期)。幼名は明治郎。 青森県南津軽郡黒石町(現黒石市)出身。同郡浅瀬石村(現黒石市)の鳴海久兵衛家の分家で屋号は久〇(きゅうまる)といい、中町で1808年(文化5年)から代々酒造業を営んだ。江戸時代は稲村屋を名乗っていた。別家・鳴海理兵衛の長男として生まれ、のち3代鳴海文四郎の養嗣子となった。 黒石町会議員などを経て、1917年(大正6年)4月の第13回衆議院議員総選挙では青森県郡部から立憲政友会所属で出馬し当選。
石 鎮衡(ソク・ジンヒョン、1877年10月-1946年)は… 石 鎮衡(ソク・ジンヒョン、1877年10月-1946年)は、大韓帝国・日本統治時代の朝鮮の法学者、政治家、官僚。全羅南道・忠清南道知事。正四位勲三等。本貫は忠州石氏。 朝鮮王国京畿道に生まれる。日本に留学し、1902年に和仏法律学校(現・法政大学)を卒業する。卒業後、朝鮮に帰国し、法官養成所・京城専修学校などで法律学の教官に就任する。 1906年、梅謙次郎の韓国政府法律顧問への就任にともない、その通訳及び不動産法調査会の調査委員に就任する。 韓国併合後は全羅南道参与官などを経て、1924年に忠清南道知事(-1926年)、1926年に全羅南道知事(-1929年)に就任し、1929年に退官する。 その後、東洋拓殖監事、北鮮酒造社長などを歴任した。
浅野 四郎(あさの しろう、1877年10月 - 1955年… 浅野 四郎(あさの しろう、1877年10月 - 1955年)は、日本の撮影技師。日本人で初めて活動写真(映画)を撮影した人物である。 小西写真店は1897年(明治30年)10月に、イギリスのバクスター・アンド・レイ社より撮影機を輸入した。本機械は輸入販売する為に仕入れたものだったが、使用方法を知らなかったため、うっかり発表することも出来なかった。そこで小西に命じられて機械の試験撮影を頼まれたのが、小西の店員で当時20歳の浅野だった。試行錯誤の末、撮影・現像に成功し、12月31日に日本橋の光景を写した『日本橋の鉄道馬車』を完成させ、日本人が撮った最初の映画となった。 その後、浅草観音境内で老婆が鳩に豆を撒く姿を写した『浅草観音』、『上野の汽車』『品川の海岸』など風景を写したものを撮り、1898年(明治31年)には劇的シチュエーションを持つ『化け地蔵』『死人の蘇生』といった小編を撮影している。
大野順末(おおの じゅんまつ、1877年(明治10年)10月… 大野順末(おおの じゅんまつ、1877年(明治10年)10月 - 1954年(昭和29年)10月)は、日本の実業家、政治家。 初代大泊町町長、樺太銀行専務取締役。 石川県江沼郡瀬越村(現在の加賀市大聖寺瀬越町)出身。1877年(明治10年)10月本谷惣次郞の四男として生まれる。 1897年(明治30年)大阪高等商業学校を卒業した後北海道に渡り、小樽の板谷商船に入社する。数年後適齢と共に陸軍に入隊し、満期後も再役して陸軍二等主計となる。 1906年(明治39年)に樺太へ渡島して商界に従事する。米穀雑貨酒造業を営み豊原に支店を構える。1911年(明治44年)に小樽に本店を設ける。 樺太銀行専務取締役に就任。
五味 均平(ごみ きんぺい、1877年10月 - 1924年… 五味 均平(ごみ きんぺい、1877年10月 - 1924年4月14日)は、日本の官僚。 長野県諏訪郡境村小六(現富士見町)に生まれ、第三高等学校から東京帝国大学法科大学を1906年卒業。高等官行政科1908年(明治41年)合格。1907年宮内省入省、御料局配属・帝室会計審査官補から、宗秩寮・図書寮・諸陵寮・帝室林野局事務官兼宮内事務官・法制局参事官を歴任。従四位勲四等。 東京市本郷区(現東京都文京区)駒込曙町の自邸で病気療養中の1924年4月14日午前0時10分死去。享年48。墓所は護国寺共葬墓地。自著等の蔵書の一部は、没後の1929年に早稲田大学が購入、現在同図書館が保有している。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
竹下 儀造(たけした ぎぞう、1877年〈明治10年〉10月… 竹下 儀造(たけした ぎぞう、1877年〈明治10年〉10月 - 1947年〈昭和22年〉12月26日 )は、日本の醸造家、政治家、島根県多額納税者。前名・蔵利(くらとし)。政治家竹下登(元首相)は孫。漫画家影木栄貴、ミュージシャンDAIGOなどは玄孫にあたる。 島根県飯石郡掛合村(現・雲南市掛合町)出身。竹下荘太郎の三男。のちに先代竹下儀造の養子となり1905年、家督を相続した。酒造業、工業を営み、島根県多額納税者に列する。掛合村農会会長、村会議員を務めた。1947年12月26日、死去。法名は法蔵院釋普照居士。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。住所は島根県飯石郡掛合村(現・雲南市掛合町)。
蘆田 伊人(あしだ これと、1877年(明治10年)9月28… 蘆田 伊人(あしだ これと、1877年(明治10年)9月28日 - 1960年(昭和35年)6月6日)は、明治から昭和にかけて活動した日本の歴史地理学者。旧福井藩士家に生まれ、早稲田大学卒業後、東京帝国大学史料編纂掛に所属、次いで越前松平家等華族諸家や帝国学士院の委嘱により歴史調査に携わった。『大日本地誌大系』『大日本読史地図』の編纂や、明治大学蔵蘆田文庫などで知られる。 1877年(明治10年)9月28日、石川県管下越前国足羽郡福井日ノ出下町(旧新屋敷、現・福井県福井市日之出)に、石川県第三師範学校(後の福井師範学校)漢学教授蘆田碩と福井藩士有沢権四郎娘岩子の間の長男に生まれた。1882年(明治15年)9月旭小学校に入学、1891年(明治24年)に福井県尋常中学校(現・福井県立藤島高等学校)に進んだ。
鈴木 清寿(すずき きよひさ、1877年〈明治10年〉9月2… 鈴木 清寿(すずき きよひさ、1877年〈明治10年〉9月28日 - 1937年〈昭和12年〉10月18日)は、大正から昭和時代戦前の政治家。神奈川県平塚市長。 平塚で質屋を営む鈴木春蔵の長男として生まれる。平塚小学校、東京大成学館を経て、東京法律専門学校を卒業後に帰郷した。日露戦争開戦の年に中郡役所書記となり、ついで1918年(大正7年)から同14年まで神奈川県庁地方課勤務となる。 1925年(大正14年)9月、平塚町助役、1927年(昭和2年)3月に同町長代理を経て、1929年(昭和4年)6月、22代町長に就任した。1932年(昭和7年)4月に平塚市が市制施行すると市長代理を経て、同年8月に初代市長に就任し、翌年病気により退任した。
兼坂 隆(かねさか たかし、1877年(明治10年)9月25… 兼坂 隆(かねさか たかし、1877年(明治10年)9月25日 - 1961年(昭和29年)12月16日)は、日本の海軍軍人。海兵27期。海大甲種10期。最終階級は海軍中将。号は三州。 千葉県出身。八雲艦長、横須賀海兵団長、砲術学校長、大要司令官などを歴任。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
一條 成美(いちじょう せいび/なるみ、男性、1877年9月… 一條 成美(いちじょう せいび/なるみ、男性、1877年9月25日 - 1911年3月16日)は、明治時代の日本の画家。
北村 耕造(きたむら こうぞう、1877年(明治10年)9月… 北村 耕造(きたむら こうぞう、1877年(明治10年)9月25日- 1939年(昭和14年)6月27日)は、日本の建築家。宮中顧問官。 京都で、代々近衛家の家臣をつとめる家に生まれる。 1903年(明治36年)に東京帝国大学建築学科を卒業。同期の卒業生には佐野利器、佐藤功一、大熊喜邦、田辺淳吉らがおり、同期の集名「どんぶり会」の一人。 卒業後は建築請負業清水満之助商店本店(現・清水建設)に入社。在籍中には海外の建築界を視察するために一年間の長期出張を命ぜられた。 1913年(大正2年)に清水組大阪支店長を歴任したのち、1917年(大正6年)に清水組を退社。今度は財団法人理化学研究所建設工事主任技師へと転じた。
伍堂 卓雄(ごどう たくお、1877年(明治10年)9月23… 伍堂 卓雄(ごどう たくお、1877年(明治10年)9月23日 - 1956年(昭和31年)4月7日)は、日本の政治家、実業家、海軍造兵中将。東京府士族。正三位。工学博士。
柴田 桂太(しばた けいた、1877年〈明治10年〉9月20… 柴田 桂太(しばた けいた、1877年〈明治10年〉9月20日 - 1949年〈昭和24年〉11月19日)は、日本の植物生理学者・生化学者・微生物化学者。薬学者・柴田承桂の長男。弟に化学者柴田雄次がいる。薬学者・柴田承二(文化功労者)の父。 東京府出身。1899年に東京帝国大学理科大学植物学科を卒業後、第一高等学校・東北帝国大学などで教鞭をとった後、1910年に母校講師となり、直後にドイツに留学してヴィルヘルム・ペッファーに師事した。1912年に帰国して助教授となると、日本で最初の植物生理学・生化学の講座を開いた。1918年、植物界におけるフラボン体の研究で学士院恩賜賞を受賞、同年教授に昇進する。
篠田 次助 (1877年9月17日 - 没年不詳) は、日本… 篠田 次助 (1877年9月17日 - 没年不詳) は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 この項目は、軍事上の人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:軍事、プロジェクト:軍事史/Portal:軍事)。
鈴木 安孝(すずき やすたか、1877年(明治10年)9月1… 鈴木 安孝(すずき やすたか、1877年(明治10年)9月15日 - 1955年(昭和30年)2月27日)は、日本の政治家、法律家。衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)、秋田市長(第8代)を務めた。 宮城県出身。1903年(明治36年)に和仏法律学校(現法政大学)法律科を卒業すると秋田地方裁判所判事に任官され、4年後に秋田県で弁護士を開業。1913年(大正2年)に 秋田市会議員に当選(以後6期当選)して政界入りし、その後1919年(大正8年)には秋田県会議員に当選(以後3期当選)して1927年(昭和2年)に県会議長に就任。翌1928年の総選挙に立憲政友会公認で出馬し衆院議員に当選、通算3期務めた。
山崎 今朝弥(やまざき けさや、旧漢字表記:山崎 今朝彌、1… 山崎 今朝弥(やまざき けさや、旧漢字表記:山崎 今朝彌、1877年9月15日 - 1954年7月29日)は、明治・大正・昭和期の弁護士である。社会主義者の事件を多く扱った。 1877年、現在の長野県岡谷市(旧・諏訪郡川岸村)出身。上京後、明治法律学校(現・明治大学)に学び、1901年卒業。同年第1回判事検事登用試験に合格(弁護士試験にも合格)、司法官試補となり甲府区裁判所詰となるも翌年依願免官し、1903年渡米。赤羽一、岩佐作太郎、幸徳秋水らと知り合った。 1907年に帰国し、東京弁護士会に入会して弁護士となった。 1913年、合同法律事務所の先駆けとなる東京法律事務所を設立。1916年、平民法律所開設。
宮本 雄一郎(みやもと ゆういちろう、1877年(明治10年… 宮本 雄一郎(みやもと ゆういちろう、1877年(明治10年)9月12日 - 1945年(昭和20年)5月7日)は、大正から昭和時代戦前の政治家。衆議院議員。静岡県会議長。静岡県小笠郡朝比奈村長。前名は熊太郎。 静岡県城東郡、のちの朝比奈村(小笠郡朝比奈村、浜岡町を経て現御前崎市)に生まれる。1898年(明治31年)宮本庄平の婿養子となり熊太郎から雄一郎に改名した。 1907年(明治40年)朝比奈村会議員に選ばれ、以後同村助役、村長と1942年(昭和17年)まで33年間に渡り村政を担当し、河川改修、砂防、郡道、県道の新設などに尽くした。 1901年(明治34年)小笠郡農会農事巡回教師、小笠郡農会長、1924年(大正13年)静岡茶業組合理事を歴任し茶業を振興した。
喜多 又蔵(きた またぞう、1877年(明治10年)9月11… 喜多 又蔵(きた またぞう、1877年(明治10年)9月11日 - 1932年(昭和7年)1月31日)は、日本の実業家。日本綿花(現双日)社長や、鈴政式織機社長を務めた。 奈良県南葛城郡葛城村(現御所市)字鳥井戸で、金剛山下の酒屋喜多長七郎の三男として生まれる。1894年に市立大阪商業学校(現大阪市立大学)を卒業し、成瀬隆蔵校長の紹介で日本綿花(現双日)に入社。田中市兵衛の知遇を得て、ムンバイ支店長、本店支配人、常務取締役を経て、1917年から社長を務め、東洋棉花(現豊田通商)の児玉一造と仕手で争いを繰り広げた。1919年には第一次世界大戦のパリ講和会議全権大使隨員を務め勲三等に叙された。1920年鈴政式織機(現エンシュウ)社長。
片山 正夫(かたやま まさお、1877年9月11日 - 19… 片山 正夫(かたやま まさお、1877年9月11日 - 1961年6月11日)は、日本の物理化学者。東北帝国大学理科大学教授。開成中学校校長(第9代)。 岡山県都窪郡茶屋町(現・倉敷市茶屋)に生まれる。一高を経て、1900年(明治33年)、東京帝国大学理科大学化学科を卒業。1902年東京高等工業学校(現・東京工業大学)電気化学科教授となる。1905年秋から1909年初めにかけてスイスとドイツに留学。チューリッヒ工科大学のリヒャルト・ローレンツ(英語版)のもとで電気化学を研究し、可逆電池の起電力がギブスの自由エネルギーであることを明らかにした。ついでベルリン大学のW. ネルンストのもとでボーデンシュタイン(英語版)とともに二酸化窒素および硫酸の解離平衡を研究した。
亀井 喜一郎(かめい きいちろう、1877年(明治10年)9… 亀井 喜一郎(かめい きいちろう、1877年(明治10年)9月11日 - 1935年(昭和10年)8月2日)は、日本の銀行家。函館製綿監査役。函館貯蓄銀行支配人・同行取締役。族籍は北海道平民。評論家亀井勝一郎の父。 北海道・工藤嘉七の叔父。1906年、先代亀井ミヤの入夫となり、家督を相続した。東京専門学校(現・早稲田大学)邦語行政科卒業。函館貯蓄銀行支配人をつとめ、1919年に辞任する。北海道函館市元町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
森竹 邦彦(もりたけ くにひこ、1877年9月9日 - 没年… 森竹 邦彦(もりたけ くにひこ、1877年9月9日 - 没年不詳)は、日本の実業家。森竹商店経営者、京新聯合会(現・銀座通連合会)初代会長。銀座繁栄の立役者で、銀座通連合会共通商品券の発行等を進めた。 1877年9月9日、機械金物商と熱海にて植林事業を営み公共の為尽くした森竹五郎の長男として生まれる。 慶應義塾、立教大学で学ぶ。その後、横浜にて機械商の見習いを務める。 1898年、英国マンチェスター工業学校(Manchester Technical School、現・マンチェスター大学)で学び、帰国後、家業に従事し、森竹商店の経営者を務める。 森竹商店は、小売りもしていたが、東京市営の水道敷設工事に使用する材料一般を請け負い、水道局へ納入していた。
谷津 直秀(やつ なおひで、1877年9月8日 - 1947… 谷津 直秀(やつ なおひで、1877年9月8日 - 1947年10月2日)は、日本の動物学者。日本の動物生態研究の礎を築いた人物。Ph.D.(コロンビア大学)。東京帝国大学名誉教授。 東京で生まれる。その後、親と共に北海道に渡り、北海英語学校で学ぶ。1894年(明治27年)尋常中学共立学校卒業。1897年(明治30年)第一高等学校 (旧制)卒業。1900年(明治33年)東京帝国大学理科大学を卒業後、浅羽靖の援助によりアメリカ・コロンビア大学のE・B・ウィルソン(英語版)のもとで実験形態学の研究を行い、Ph.D.(博士号)の学位を得た。1907年(明治40年)に帰国し、東京帝国大学理科大学講師を嘱託され、1910年(明治43年)には同助教授となった。
野々村 戒三(ののむら かいぞう、1877年(明治10年)9… 野々村 戒三(ののむら かいぞう、1877年(明治10年)9月7日 - 1973年(昭和48年)11月21日)は、日本の歴史学者、能楽研究者。号は「蘆舟」、「芥叟」。クリスチャンであった。 1877年、大分県生まれ。父・野々村卓二は塩谷宕陰の門人で、母は三浦梅園の玄孫に当たる。1896年、立教学校(現・立教大学)卒業。その後、東京帝国大学文学部史学科に進み、西洋中世史を専攻した。1901年(明治34年)に東京帝国大学を卒業。 卒業後は立教中学校の教員として勤務。中学校長の元田作之進の依頼で自宅を謡の稽古場として貸すこととなり、能との関わりを持つこととなる。その稽古場で教えていた師匠は池内信嘉であった。
漢那 憲和(かんな けんわ、1877年(明治10年)9月6日… 漢那 憲和(かんな けんわ、1877年(明治10年)9月6日 - 1950年(昭和25年)7月29日)は、日本の海軍軍人、政治家。衆議院議員、平沼内閣内務政務次官。最終階級は海軍少将。海軍兵学校27期卒。沖縄県出身。 大正年間に当時の皇太子(昭和天皇)の欧州遊学の際、御召艦「香取」の艦長を務めた事で知られる。退役後は地元の沖縄県から選出され、衆議院議員となった。戦前最後の沖縄県選出議員の一人である。 1877年(明治10年)、漢那憲慎・オトの長男として琉球国那覇西村(現・沖縄県那覇市西)に生まれる。先祖は福州との貿易に従事していた。 1892年(明治25年)、沖縄県尋常中学校(後の沖縄県立第一中学校、現在の沖縄県立首里高等学校)に入学。
高崎 三重郎(たかさき さんじゅうろう、1877年〈明治10… 高崎 三重郎(たかさき さんじゅうろう、1877年〈明治10年〉9月4日 - 1958年〈昭和33年〉11月11日)は、明治時代後期から昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 茨城県行方郡、のちの麻生町(現行方市)出身。高崎新蔵の長男として生まれ、1894年(明治27年)7月に祖父三郎右衛門の後を受け家督を相続する。農業を営む。 麻生町会議員、行方郡会議員、同郡教育会副会長、麻生町労務委員、茨城県農工銀行監査役、佐原興業銀行取締役を歴任した。 1911年(明治44年)には茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1918年(大正7年)9月28日まで1期務めた。
桐谷 洗鱗(きりや せんりん、1877年9月1日 ‐ 193… 桐谷 洗鱗(きりや せんりん、1877年9月1日 ‐ 1932年7月19日)は、明治時代の口絵画家、大正時代から昭和時代にかけての日本画家、版画家。仏画の権威として活躍したが、急逝した。 富岡永洗及び橋本雅邦の門人。新潟県三島郡宮本町(現・長岡市)に生まれる。本名は長之助。深見和久太の四男であったが桐谷姓を継いだ。20歳の時に上京、永洗に師事している。永洗が没した時、その夭折を惜しむ記事を投稿している。 その後、雅邦に就いて東京美術学校日本画家選科を卒業し、1907年に文展に入選。翌年から京都、奈良の寺院をめぐり、1909年、「訪古画帖」を作る。仏教画の方に進み始めた。この間、京都の「日出新聞」に挿絵を描く。
近藤 豊吉(こんどう とよきち、1877年(明治10年)9月… 近藤 豊吉(こんどう とよきち、1877年(明治10年)9月1日 - 1930年(昭和5年)4月15日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 愛媛県桑村郡、後の周桑郡吉岡村(現西条市)で農家・近藤保太郎、フサ夫妻の三男として生まれる。父の事業の失敗で家産が傾き、家族総出で行商などを営む。1897年11月、歩兵第22連隊に入隊し、1898年10月、台湾守備隊に編入され渡台。1900年に除隊となるが、内野辰次郎中隊長の勧めで憲兵隊に志願するも馬術訓練中の事故で骨折し、その後の経過が思わしくないため、同年11月に後備役免除となった。 その後、北海道空知郡滝川村江部乙に移住していた兄・桝太郎の勧めで、1901年、母、妹と共に江部乙に移転。
根津 千治(ねず せんじ、1877年9月 - ?)は日本の数… 根津 千治(ねず せんじ、1877年9月 - ?)は日本の数学者、大学講師。雑誌「數學研究」「數學倶樂部」の刊行などを行った。明治大学講師理学士。また、中央大学、錦城中学校教授。 新潟県の平民に生まれ、1898年に第一高等学校第二部理科を卒業した。第一高等学校では、水泳部だった。1901年、東京帝国大学理科大学数学科を卒業し、東京帝国大学大学院で理学士として代数学を専攻した。一学年上に刈屋他人次郎がいた。 1902年頃、京都帝国大学で、理工大学の講師を嘱託された。1908年頃、教員免許を獲得。1911年、(同級生であった)福原統五郎の記念で、有志の理学士を代表し理科大学にクリストッフェルの論文を2冊送った。
井上 達三(いのうえ たつぞう、1877年〈明治10年〉8月… 井上 達三(いのうえ たつぞう、1877年〈明治10年〉8月29日 - 1950年〈昭和25年〉7月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 井上成美海軍大将の実兄。妻は荒城二郎海軍中将(海兵29期、米内光政海軍大将とクラスメートかつ親友)の妹。井上達三の家族関係については、井上成美#親族を参照。 本記事の出典は、特記ない限り、井上成美伝記刊行会編著 『井上成美』 井上成美伝記刊行会、1982年(昭和57年)、17-19頁。 宮城県仙台に生まれる。小学校時代は山梨勝之進海軍大将と同級。 東北学院を経て、陸軍士官学校に進んだ。士官候補生(士候)11期、1899年(明治32年)11月卒業。陸軍砲兵少尉に任官。
浅井 虎夫(あさい とらお、1877年〈明治10年〉8月23… 浅井 虎夫(あさい とらお、1877年〈明治10年〉8月23日 - 1928年〈昭和3年〉12月1日)は、日本の歴史学者。専門は中国法制史、日中関係史。 1877年(明治10年)、兵庫県神戸に生まれた。1896年、兵庫県尋常中学校を卒業し、熊本の第五高等学校に入学。1899年、東京帝国大学文科大学漢学科史部に入学。大学では東洋史の市村瓚次郎、国史の星野恒、経済史の内田銀蔵、法制史の宮崎道三郎らから学び、1902年(明治35年)に卒業。同大学大学院に進学した。 1905年、台湾総督府に設置された臨時台湾旧慣調査会の嘱託となり、『清国行政法』の編纂に従事。1915年(大正4年)、『清国行政法』完成と同時に調査会を辞職し、帰郷した。
奥村 千太郎(おくむら せんたろう、1877年8月23日 -… 奥村 千太郎(おくむら せんたろう、1877年8月23日 - 1954年5月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 滋賀県出身。1897年、東京専門学校政治経済科卒。大阪朝日新聞記者、同客員となる。中国に渡り、天津取引所常務取締役、天津信託(株)取締役、天津商業会議所評議員となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において滋賀4区から無所属で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1954年に死去した。
鈴木 久五郎(すずき きゅうごろう、1877年〈明治10年〉… 鈴木 久五郎(すずき きゅうごろう、1877年〈明治10年〉8月22日 - 1943年〈昭和18年〉8月16日)は、日本の株式相場師、政治家。衆議院議員(群馬県高崎市選出、当選1回)。通称「鈴久」。族籍は東京府平民。 埼玉県北葛飾郡八丁目村(現在の埼玉県春日部市八丁目)に生まれる。鈴木庄五郎の二男。東京専門学校(現在の早稲田大学)に学ぶ。 実兄の7代目兵右衛門が1897年(明治30年)、埼玉県南埼玉郡越ヶ谷町(現在の埼玉県越谷市)に鈴木銀行を設立し、1903年(明治36年)同銀行草加支店長となった。 海外の経済状態の視察中、香港から急遽帰国して株の買占めに着手し、日露戦争中に株売買で大儲けをし成金鈴木と話題を呼ぶ。
鳥潟 隆三(とりかた りゅうぞう、1877年明治10年)8月… 鳥潟 隆三(とりかた りゅうぞう、1877年明治10年)8月20日- 1952年(昭和27年)2月19日) 。医学博士。日本の生理学者。明治-昭和時代の外科医学者・免疫学者。 1877年、北海道函館市生まれ。幼名は隆一。その後、6歳まで父・鳥潟精一の故郷秋田県大館市花岡で過ごした。鳥潟家は慶長年間のころから続く旧家で、花岡村の肝煎を代々務める家柄であった。 6歳まで花岡で育ったのち、大分県で病院長だった叔父鳥潟恒吉・サイ夫妻の許で大分県立大分中学校を卒業。恒吉夫人が甥・息子らを引率して上京し、旧制第一高等学校に進学、卒業に当たり、狩野亨吉の勧めで京都帝国大学医科大学に入った。1904年、恩賜の銀時計を授与されて同大学医科大学を卒業した。
田中 不二(たなか ふじ、1877年(明治10年)8月20日… 田中 不二(たなか ふじ、1877年(明治10年)8月20日 - 1922年(大正11年)11月19日)は、日本の機械工学者。 東京出身。兄はカーバイド工業を開拓した藤山常一である。 1894年(明治27年)に田中林太郎の養子となった。正則尋常中学校、第一高等学校工科を経て、1901年(明治34年)に東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業した。同年7月に同学科の講師となった。同年11月に田中林太郎の娘の芳子と結婚した。 1902年(明治35年)に助教授となった。1904年(明治37年)に機械工学第一講座分担を命じられ、1906年に初の日本語による機械設計の教科書『機械設計及製圖』を同僚の内丸最一郎と共著で出版した。
石塚 三郎(いしづか さぶろう、明治10年(1877年)8月… 石塚 三郎(いしづか さぶろう、明治10年(1877年)8月15日 - 昭和33年(1958年)11月23日)は、日本の政治家・歯学者。衆議院議員(2期)。新潟県平民。 西武グループの総帥堤義明の祖父にあたる。 新潟県蒲原郡、のちの北蒲原郡安田村(安田町を経て現阿賀野市保田)に生まれた。地元の小学校に通いながら、父親が仕えている山林地主の旗野家(『大日本地名辞書』の編者で日本歴史地理学の先達、早稲田大学教授文学博士吉田東伍の生家)に奉公し、吉田東伍の実兄旗野餘太郎から英語、漢文、測量法などを学んだ。 1893年旗野餘太郎の命により医師の資格取得を目指して上京。神田猿楽町の大成学館国語伝習所の事務見習いとして働きながら学んだ。