大熊 氏廣(おおくま うじひろ、1856年7月14日(安政3… 大熊 氏廣(おおくま うじひろ、1856年7月14日(安政3年6月13日) - 1934年(昭和9年)3月20日)は、日本の彫刻家。日本初の西洋式銅像とされる靖国神社の大村益次郎像で知られる。 鳩ヶ谷宿近くの武蔵国足立郡中居村八幡木(現埼玉県川口市八幡木)で農家の次男として生まれた。兄・徳太郎は後に篤農家として知られた人物である。 幼少時から絵が得意で、後に洋画を学んだ。1876年(明治9年)に開校した工部美術学校の彫刻科に入学し、イタリア人教師ラグーザのもとで学んだ。1882年に首席で卒業し、翌年、有栖川宮邸(J.コンドル設計)の建築彫刻を担当、1884年に工部省に入り、皇居(明治宮殿)造営などに関わった。
北川 貞彦(きたがわ さだひこ、1856年7月6日(安政3年… 北川 貞彦(きたがわ さだひこ、1856年7月6日(安政3年6月5日)- 1903年(明治36年)11月8日)は、代言人(弁護士)、自由民権運動家、民権結社「発陽社」社長。憲法草案『日本憲法見込案』の起草者。 安政3年6月5日(1856年7月6日)、土佐藩士(四人扶持切符15石)・北川貞詮(忠蔵)の次男として、高知城下に生まれる。幼名は「熊治」。 初め藩校・致道館、廃藩置県以降は共立学舎英学校に学ぶ。東京に遊学して、明治9年(1876年)、代言人(弁護士)の免許を取得した。 自由民権運動に身を投じ、明治10年(1877年)、「立志社」の下部組織として民権結社「発陽社」(跡地・高知県高知市天神町14)を興す。
大岡 育造(おおおか いくぞう、1856年7月4日〈安政3年… 大岡 育造(おおおか いくぞう、1856年7月4日〈安政3年6月3日〉- 1928年〈昭和3年〉1月26日)は、明治・大正期の弁護士・政治家。号は硯海。 医師大岡尚斎の長男として、長門国豊浦郡小串村(現:山口県下関市)に生まれた。1873年(明治6年)、長崎医学校(現:長崎大学医学部)に入ったが、翌年廃校となった為、上京して大井憲太郎らの講法学舎で法律を学んだ。司法省法学校に通ったとの記事は、裏付けを欠くとも言う。 1880年(明治13年)12月、代言人(現在の弁護士)の資格を取り、講法学舎の幹事になった。沼間守一に兄事して、1881年(明治14年)、板垣退助らの自由党に入党した。また、共立学校の幹事に転じ、1882年(明治15年)、校長になった。
大田 信一(だいた しんいち、1856年6月28日(安政3年… 大田 信一(だいた しんいち、1856年6月28日(安政3年5月26日)– 1918年(大正7年)11月18日)は、明治・大正期の地主、政治家。衆議院議員、和歌山県海草郡巽村長。 紀伊国名草郡重根村(和歌山県名草郡巽村、海草郡巽村を経て現海南市)で素封家・大田善之助の長男として生まれた。 1888年(明治21年)2月、和歌山県会議員に当選し、1890年(明治23年)9月に退職。1889年(明治22年)初代巽村会議員に選出された。1893年(明治26年)5月、巽村長に就任し、1894年(明治27年)6月に辞職。同年9月の第4回衆議院議員総選挙で和歌山県第一区から出馬して当選。1898年(明治31年)3月の第5回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
藤野 政高(ふじの まさたか、1856年6月27日(安政3年… 藤野 政高(ふじの まさたか、1856年6月27日(安政3年5月25日) - 1915年(大正4年)6月30日)は日本の政治家。衆議院議員、海南新聞社長。 1856年(安政3年5月25日)、伊予松山藩士の子として生まれる。藩校明教館に学び、のち上京して法律学舎で法律を修め、代言人の資格を取得する。1878年(明治11年)に帰郷し、長屋忠明らが主宰する自由民権結社・公共社に加入、愛媛県下における民権運動の中心として活躍する。1886年(明治19年)に愛媛県会議員に当選し、1887年(明治20年)に三大事件建白者の総代として上京するが、保安条例に抵触して東京から強制退去させられる。1890年(明治23年)に第1回衆議院議員総選挙に立候補して当選、以後3期に渡って代議士を務めるが、資金難のため1894年(明治27年)9月の総選挙には出馬しなかった。
南 直一郎(みなみ なおいちろう、1856年6月27日〈安政… 南 直一郎(みなみ なおいちろう、1856年6月27日〈安政3年5月25日〉 - 1893年〈明治26年〉9月24日)は、日本の政治家。鳥取県西伯郡余子村長(3代)。鳥取県会議員。 伯耆国会見郡高松村(鳥取県西伯郡余子村、現・境港市高松町)出身。高松村庄屋・南直四郎の息子。1879年から親に代わって戸長をつとめる。また県会議員、郡役所書記もつとめる。1892年2月、余子村長に就任、1893年9月に退任する。 村長在任中には竹内村の荒山黎斎宅に役場を移す。竹内教場焼失を機に新校舎建築を果たし、竹内・中野二教場を統一する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
鵜飼 節郎(うかい せつろう、1856年6月21日〈安政3年… 鵜飼 節郎(うかい せつろう、1856年6月21日〈安政3年5月19日〉 - 1931年〈昭和6年〉9月5日)は、日本の政治家、衆議院議員(立憲政友会)。 盛岡藩士の子として盛岡に生まれた。藩校で学んだ後、上京して法学・経済学を学んだ。1877年(明治10年)、西南戦争が起こると同志を率いて上京し、警部補・新撰旅団小隊長心得に任命された。その後自由民権運動に参加し、自由党東北常備委員として党勢の拡張に尽力した。1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙に、自由党から岩手県第4区で立候補したが落選した。 1902年(明治35年)、第7回総選挙に立憲政友会から岩手県郡部選挙区で立候補し、当選。
大森 鍾一(おおもり しょういち、1856年6月16日〈安政… 大森 鍾一(おおもり しょういち、1856年6月16日〈安政3年5月14日〉- 1927年〈昭和2年〉3月3日)は、日本の内務官僚、政治家。貴族院議員、枢密顧問官、皇太后宮大夫、男爵。 幕臣、駿府与力・大森直正(水野忠邦家臣森川源左衛門の男)と先代鯛次郎直由の娘である銀の長男として生まれる。幼名は鍾一郎、後に諱の直興を名乗る。静岡学校、名古屋学校を経て、明治5年10月(1872年11月)に林欽次塾に入り、後に中退。 1873年(明治6年)4月、明治政府に出仕し陸軍造兵司・一等附属となる。司法省、法制局、太政官を経て、1878年(明治11年)10月、内務省に移り四等属に任官。以後、内務権大書記官、兼戸籍局長、内務卿官房長心得、内務大臣秘書官(山縣有朋大臣)、内務書記官・総務局文書課長兼勤、県治局長、兼警保局長などを歴任した。
藤田 隆三郎(ふじた たかさぶろう、1856年6月4日(安政… 藤田 隆三郎(ふじた たかさぶろう、1856年6月4日(安政3年5月2日) - 1930年(昭和5年)12月27日)は、日本の法律家。東京大学法学部卒業(1878年)。英吉利法律学校(中央大学の前身)の創立者の一人。名古屋控訴院長、中京法律専門学校初代校長等を務めた。位階および勲等は正三位・勲二等。父は宇和島藩士・藤田敏興。 宇和島藩伊達家に代々仕える中堅武士の家に生まれ、早くに母をコレラで亡くし、父と兄は藩の仕事のため宇和島を離れていたため、姉と二人で暮らし、藩内演武場に設けられた英蘭学稽古場で三瀬周三に英語を学んだほか、山鹿流の兵学も学ぶ。 維新後、本格的に英語を習うため1869年に父に連れられ大阪に出て、大阪運上所長だった同郷出身の土居通夫を介して英国領事館通訳の蔡慎吾宅に寄寓し、同じく通訳官であったウィリアム・ジョージ・アストンから英語を習いはじめ、アストンの東京英国公使館転勤に伴って上京。
南 清(みなみ きよし、1856年6月3日(安政3年5月1日… 南 清(みなみ きよし、1856年6月3日(安政3年5月1日)-1904年(明治37年)1月3日)は日本の鉄道技術者および鉄道会社経営者。山陽鉄道、筑豊興業鉄道、播但鉄道などにおいて技師長・技術顧問・顧問技師を務める。また、阪鶴鉄道、唐津興業鉄道社長、鉄道協会(大阪)副会長を務める。 1856年(安政3年)、福島県会津に生まれる。父は会津藩士・南舎人(保定)、母は河原善左衛門の妹・竹子。南家は家禄100石で、長兄・三郎は戊辰戦争で討死、次兄・保は捕らえられたが赦され生還した。 上京し慶應義塾を経て工部省測量司の測量学校第2期生(有給見習)として入学し、師長コリン・マクヴェイン他から測量の理論と実務を学ぶ。
綾浪 徳太郎(あやなみとくたろう、1856年6月3日(安政3… 綾浪 徳太郎(あやなみとくたろう、1856年6月3日(安政3年5月1日) - 1901年(明治34年)7月12日)は、陸奥国津軽郡(現在の青森県南津軽郡藤崎町)出身で高砂部屋に所属した力士。本名は高木 徳太郎。6代追手風。174cm、90kg。最高位は東関脇。 入門までは郷里にいて、主に農業や力仕事(蔵米の運搬)をしていた。怪力ぶりが惜しいと勧められ高砂部屋に入る。1880年5月に二枚目格付出で初土俵(序ノ口)。1886年1月に入幕を果たす。新入幕で2代目劔山をいきなり倒すなど6勝1敗2預の好成績を挙げた。1891年には関脇に昇進し連続4場所務めたが、1892年6月限り引退、追手風を襲名した。無類の怪力で知られ、巡業や花相撲で五斗俵を一度に8俵持ち上げ、土俵を一周する余興を行った。
11代 橋本 平左衛門(はしもと へいざえもん、1856年5… 11代 橋本 平左衛門(はしもと へいざえもん、1856年5月27日(安政3年4月24日)- 1920年(大正9年)10月18日)は、明治から大正前期の酒造家、政治家。衆議院議員、秋田県河辺郡和田村長。旧姓・後藤。幼名・庄五郎。 出羽国雄勝郡湯沢町(秋田県雄勝郡湯沢町を経て現湯沢市)で、素封家・後藤伊八の三男として生まれた。和漢学を修めた。1876年(明治9年)1月、河辺郡和田村坂本(和田町、河辺町を経て現秋田市河辺和田)の酒造家・10代橋本平左衛門の婿養子となる。1879年(明治12年)2月、養父の死去に伴い家督を相続し11代平左衛門を襲名した。酒造業を営むが、明治末頃、火災で設備が全焼したため廃業した。
君塚 省三(きみづか / きみつか せいぞう、1856年5月… 君塚 省三(きみづか / きみつか せいぞう、1856年5月26日(安政3年4月23日)- 1906年(明治39年)5月20日)は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、千葉県会議長、千葉県夷隅郡総野村長。幼名・道太郎。 上総国夷隅郡芳賀村(千葉県夷隅郡芳賀村、総野村芳賀、勝浦町を経て現勝浦市芳賀)で、農業・君塚勘解由左衛門芳高(のち傳に改名)の長男として生まれた。1874年(明治7年)自ら省三に改名。大喜多の私塾・大泉堂で学び、その後、大多喜藩校・明善校で漢学を修めた。 1875年(明治8年)第6大区第1小区副戸長に就任した。1879年(明治12年)以文会の結成に参画し、1881年(明治14年)自由党が結党されるとこれに加わった。
大池 忠助(おおいけ ちゅうすけ、1856年5月24日(安政… 大池 忠助(おおいけ ちゅうすけ、1856年5月24日(安政3年4月21日)- 1930年(昭和5年)2月2日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 対馬国下県郡、のちの長崎県下県郡厳原町(現対馬市厳原町)で生まれる。1875年(明治8年)朝鮮慶尚道釜山に永住目的で渡航した。 旅館業から始めて、回漕業、用達業、不動産業と事業を拡大して財産を築いた。釜山電燈社長、釜山軌道取締役、釜山商業会議所会頭、釜山水産社長、釜山海産物組合長、釜山産業取締役、釜山繁栄会会長、亀浦銀行取締役などを務めた。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙で長崎県対馬選挙区から無所属で出馬し、早川鉄冶、浦瀬済之の有力候補と激しい選挙戦を戦い、浦瀬と2票差で当選した。
瀬川 昌耆(せがわ まさとし、安政3年4月17日〈1856年… 瀬川 昌耆(せがわ まさとし、安政3年4月17日〈1856年5月20日〉- 1920年(大正9年)12月21日)は、日本の医学者、小児科医。医学博士。瀬川小児病院初代院長。
四宮 有信(しのみや ゆうしん、1856年5月19日(安政3… 四宮 有信(しのみや ゆうしん、1856年5月19日(安政3年4月16日) - 1903年(明治36年)12月12日)は、日本の政治家、衆議院議員(4期)。 下総国印旛郡新橋村(のち千葉県印旛郡富里村→富里町→富里市)出身。鹿山中学校(現・千葉県立佐倉高等学校)で学び、後に漢籍を学ぶ。農業を営み、学務委員、七栄村(現・富里市)外十二ヶ村戸長、印旛郡徴兵参事員、千葉県会議員となる。また、房総馬車会社を経営した。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において千葉2区から立憲改進党公認で立候補して初当選する。以来1898年8月の第6回衆議院議員総選挙まで連続4回当選した。1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。
秋保 親兼(あきほ ちかかね、1856年(安政3年)5月13… 秋保 親兼(あきほ ちかかね、1856年(安政3年)5月13日 - 1915年(大正4年)5月29日)は出羽国田川郡鶴岡(現・山形県鶴岡市)出身の政治家、衆議院議員(2期)、済急社監査役、庄内煙草社長である。 1856年(安政3年)5月13日、庄内藩士・伴弥平の3男として生まれる。その後、庄内藩校致道館で学ぶ。 1872年(明治5年)、松ヶ岡開墾に参加。1880年(明治13年)、済急社(現・荘内銀行)の設立に関わる。 1889年(明治22年)、鶴岡町会議員就任。西田川郡会議員、山形県会議員に就任。1894年(明治27年)9月1日、第4回衆議院議員総選挙(旧山形3区・立憲革新党公認・2119票獲得)初当選。
川俣 英夫(かわまた ひでお、1856年5月11日〈安政3年… 川俣 英夫(かわまた ひでお、1856年5月11日〈安政3年4月8日〉 - 1924年〈大正13年〉1月23日)は、現在の栃木県那須烏山市出身の医師、教育者。 1856年4月下野国烏山藩に生まれる。14歳のとき、烏山藩学校に入門。横浜の高島学校、修文館を経て東京英語学校(後の東京大学予備門)に入学。帝国大学医学部別科、東亜医学校をへて1880年(明治13年)東京府医学開業試験に合格し、郷里にて開業する。烏山町町議会議員、烏山町長を歴任する。医師として万民公平の観点から、貧困者の積極的治療を行う傍ら、地域教育の重要性を真摯に考え、県立中学校の設立を栃木県に誓願するも、却下されてしまう。その後、私財を投じて私立烏山学館(後の私立烏山中学校をへて、栃木県立烏山中学校から、現在の栃木県立烏山高等学校の前身)を設立。
高橋 順太郎(たかはし じゅんたろう、安政3年3月28日(1… 高橋 順太郎(たかはし じゅんたろう、安政3年3月28日(1856年5月2日) - 大正9年(1920年)6月4日)は明治・大正期の、医師、医学博士、薬理学者。東京帝国大学医科大学、初代薬物学教授。医術開業試験医員、日本薬局方調査委員、理学文書目録委員会委員、東京帝国大学評議委員などをつとめた。正三位勲一等瑞宝章。通称:順太郎、諱:信之(もりゆき)。石川県金沢市出身。著作に「河豚之毒」「肝油ノ効果ヲ論ス」「『ファゴール』二就テ」など 安政3年3月28日(1856年5月2日)、加賀藩知行御算用者小頭高橋荘兵衛(110石・通称:荘兵衛、諱:作善)・石橋鈴(御算用者:石橋良蔵・長女)の嫡男として、金澤勘解由町(金沢市瓢箪町)に生まれる。
一ノ矢 藤太郎(いちのや とうたろう、1856年4月29日(… 一ノ矢 藤太郎(いちのや とうたろう、1856年4月29日(安政3年3月25日) - 1923年(大正12年)2月15日)は、青森県南津軽郡田舎館村出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は福士 藤太郎。最高位は大関。現役時代の体格は178cm、95kg。 角界の革命児と謳われた初代高砂に入門し、1880年(明治13年)5月場所序ノ口。序ノ口から7場所目となる1883年(明治16年)5月場所で入幕を果たす。彼の入幕以降2026年3月場所時点まで143年間、青森県出身の幕内力士(現在は錦富士が平幕に在位)が不在だった場所は一度もない。幕下二段目から十両を一気に飛び越しての昇進であり、期待の大きさをうかがわせる。
梶野 甚之助(かじの じんのすけ、1856年4月29日(安政… 梶野 甚之助(かじの じんのすけ、1856年4月29日(安政3年3月25日)- 1942年(昭和17年)8月5日)は、日本の自動車実業家である。名は仁之助とも表記される。 相模の津久井郡に生まれる。幼年期に実父との死別により、醤油製造業の家系の養子となりその丁稚となった。明治維新後は横浜の灯台局に勤務し、1879年(明治12年)に同地蓬莱町(現在は中区に所在)に二輪車製造工場を設置し、木製の前輪駆動自転車やその三輪車の製造を始めた。その後は事業の拡大により、同地高島(現在は西区に所在)に自動車製造工場を移転し、現在の自動車とほぼ同じ鉄製及びタイヤを使用した安全型の自動車の製造を始める。 1895年(明治28年)には前述の自動車が電信用のものに採用され、同年に開催された第4回内国勧業博覧会に梶野が製造した自動車が出品され受賞する。
市田 兵七(いちた/いちだ ひょうしち、1856年4月29日… 市田 兵七(いちた/いちだ ひょうしち、1856年4月29日(安政3年3月25日) - 1914年(大正3年)5月29日)は、明治時代の政治家、銀行家。衆議院議員(2期)。 陸奥弘前藩領津軽郡木作新田(青森県西津軽郡木造町を経て現つがる市)に生まれる。近江国神崎郡市田村(滋賀県神崎郡竜田村、北五個荘村、五個荘町を経て現東近江市)を本拠とした市田家の子孫。1885年(明治18年)西津軽郡会議員に当選し、議長代行者を務める。1891年(明治24年)には青森県会議員となり、1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙では工藤行幹の急死に伴う補欠選挙で当選した。第10回総選挙でも憲政本党の非公認で出馬し当選。
河上 謹一(かわかみ きんいち、安政3年3月23日(1856… 河上 謹一(かわかみ きんいち、安政3年3月23日(1856年4月27日) - 1945年(昭和20年)7月31日)は、戦前日本の外交官、実業家。岩国藩出身。東京大学法科大学第一期卒生。農商務省・文部省書記、東京商業学校校長、上海総領事、アメリカ合衆国領事、外務省通商局長、日本銀行理事、住友本店理事、南満洲鉄道監事。 安政3年(1856年)3月23日岩国藩士河上毅の長男として生まれた。慶応元年(1865年)藩校養老館に入学、後に敬義社で東沢瀉にも学んだ。明治3年(1870年)10月藩唯一の貢進生に抜擢され、東京に出て大学南校に入学、1878年(明治11年)6月東京大学法科大学を卒業し、日本初の法学士となった。
高鍋 篤郎(たかなべ とくろう、1856年4月25日(安政3… 高鍋 篤郎(たかなべ とくろう、1856年4月25日(安政3年3月21日)- 1920年(大正9年)11月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 淡路国津名郡、のちの兵庫県津名郡広石村(五色町を経て現洲本市)で生まれた。漁業に従事する。兵庫県会議員、同常置委員となる。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において兵庫県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選。衆議院議員を1期務めた。1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。大浦事件で1916年に懲役2か月、執行猶予3年、追徴金300円の判決を受けた。これにより大礼記念章を褫奪された。1920年死去。
高橋 五郎(たかはし ごろう、1856年4月24日(安政3年… 高橋 五郎(たかはし ごろう、1856年4月24日(安政3年3月20日) - 1935年9月7日)は、明治時代から昭和初期の翻訳家、啓蒙的英文学者、英語学者、言語学者、評論家、教育者である。 聖書の翻訳や英語教育を行い、立教大学、早稲田大学、駒澤大学で教授を歴任した。 1856年(安政3年)に越後国柏崎の庄屋の家に生まれる。本名は吾良である。1868年、群馬県高崎に行き、竜門寺で市川左近に漢学や仏学を学ぶ。1871年より牧野再竜、高崎藩校の田中毛野に学ぶ。 1873年に洋学を学ぶために上京し、緒方塾で緒方惟孝(緒方城次郎、緒方洪庵の三男)に学び、植村正久と知り合いになる。1875年(明治8年)に横浜へ行き、植村の紹介でアメリカ・オランダ改革派教会の宣教師S・R・ブラウンのブラウン塾で英学と英語、仏語、独語を習った。
和田 維四郎(わだ つなしろう、安政3年3月17日(1856… 和田 維四郎(わだ つなしろう、安政3年3月17日(1856年4月21日) - 大正9年(1920年)12月20日)は、日本の鉱物学者、書誌学者、貴族院議員。号は雲村。 若狭国(現在の福井県)で小浜藩士和田耘甫の三男として生まれる。幼名は猪三太、または三吉。 明治3年(1870年)旧暦10月に小浜藩の貢進生として満14歳で上京し、大学南校に入学。明治5年(1872年)に大学南校が廃止されると和田は第一大学区第一番中学に入学し、ドイツ語コースを選択する。明治6年(1873年)に第一大学区第一番中学は開成学校と改称し、ドイツ語コースは鉱山学科となり、和田はカール・アウグスト・シェンクに鉱物学を学ぶ。
川田 龍吉(かわだ りょうきち、1856年4月18日(安政3… 川田 龍吉(かわだ りょうきち、1856年4月18日(安政3年3月14日) - 1951年(昭和26年)2月9日)は日本の実業家。男爵。「男爵いも」の名称の由来となった人物として知られる。 土佐藩士・川田小一郎(後の日本銀行総裁、男爵)と妻・美津の長男として、1856年(安政3年)土佐郡杓田村(後の高知市元町)に生まれる。英米系医学を教える慶應義塾医学所(後の慶應義塾大学医学部)に入塾するが一年たらずで中退。1877年(明治10年)から7年間、英国スコットランドに留学、グラスゴー大学で船舶機械技術を学ぶ。造船業の盛んな同地で実地修行すると共に、イギリス式の農業にも触れる。 帰国後、三菱製鉄所や日本郵船を経て1893年(明治26年)横浜船渠会社取締役となり、1897年(明治30年)社長に就任。
三浦 得一郎(みうら とくいちろう、安政3年3月10日〈18… 三浦 得一郎(みうら とくいちろう、安政3年3月10日〈1856年4月14日〉 - 1934年〈昭和9年〉3月14日)は、日本の衆議院議員(憲政会)、陸軍副参政官。陸軍軍医監(少将相当官)。 日向国臼杵郡恒富村(現在の宮崎県延岡市)出身。延岡藩校医学館、鹿児島医学校、長崎医学校を経て、陸軍軍医学校を卒業。1883年(明治15年)、陸軍軍医試補に任官し、陸軍軍医補、陸軍二等軍医、陸軍一等軍医と昇進していった。1894年(明治27年)、日清戦争にあたって病院船神祐丸の院長を務めた。1907年(明治40年)12月8日、軍医監に任命された。その間、福岡衛戍病院院長、丸亀衛戍病院院長、医務局衛生課長、関東都督府陸軍軍医部長、第三師団軍医部長を歴任した。
岡崎 藤吉(おかざき とうきち、1856年4月11日(安政3… 岡崎 藤吉(おかざき とうきち、1856年4月11日(安政3年3月7日) - 1927年(昭和2年)11月26日)は、明治、大正期の実業家、企業経営者。海運業を基盤として、銀行業や保険業を生業に、明治、大正期に神戸において財閥を形成した。中堅の阪神財閥の一つである岡崎財閥の創業者。神戸財界の雄と呼ばれた。 佐賀藩士、石丸六太夫の次男として肥前国佐賀で生まれ、幼少の頃より藩校弘道館内における15歳以下の藩士の子弟を教育した蒙養舎で学問を修めた。明治維新後に上京し、開成学校(共に後の東京大学)を経て、(旧)東京大学を卒業後に、兵庫県庁に通訳係として勤務した。1884年(明治17年)藤吉が28歳の時、元土佐藩士で、かつて飾磨県参事を務め、1877年(明治10年)8月、姫路に第三十八国立銀行が設立された際の4人の発起人の内の1人であり、嗣子のいなかった岡崎真鶴に婿養子として迎えられ、岡崎家の一員となった。
須田 利信(すだ としのぶ、1856年4月10日(安政3年3… 須田 利信(すだ としのぶ、1856年4月10日(安政3年3月6日)- 1925年(大正14年)5月25日)は、明治時代から大正時代の造船技師(工学博士)、実業家。日本郵船の副社長を務めた。位階および勲等は従五位・勲三等。 日向国都城で、薩摩藩島津氏一族である都城島津家の家臣の須田利昌の三男として生まれる。1870年12月分家する。1873年から勧学義塾で学び、1874年に工学寮付属学校に入学し、1875年に工学寮に進学した。1881年に工部大学校を卒業し、工部省の技手となる。のち神戸川崎工場分局に移り技師となり、1884年、農商務省管船局を経て、日本郵船に入社する。 1888年、船舶の発注のためにイギリスに渡り、造船所で監督をしながら造船学を研究した。
道重 信教(みちしげ しんきょう、1856年4月8日(安政3… 道重 信教(みちしげ しんきょう、1856年4月8日(安政3年3月4日) - 1934年(昭和9年)1月29日)は、日本の仏教学者・浄土宗僧侶。浄土宗学本校(佛教大学の前身)教授や大本山増上寺法主などを歴任した。 安政3年(1856年)3月4日、長門国厚狭郡宇部村(現在の山口県宇部市)の農家、道重十次郎の五男として生まれる。 1879年に京都知恩院内の浄土宗大教校に入学。1885年に宇部松月庵の住職となる。 1896年に上京して浄土宗学本校教授となる傍ら、曹洞宗大学、早稲田大学、慶應義塾大学、東京女子高等師範学校などで仏教学を講じた。 1900年、増上寺山内に仏学院を創設して仏教を講じ、徳富蘇峰・寺内正毅らもその門を叩いた。
小藤 文次郎(ことう ぶんじろう、安政3年3月4日〔1856… 小藤 文次郎(ことう ぶんじろう、安政3年3月4日〔1856年4月8日〕 - 昭和10年〔1935年〕3月8日)は、日本の地球科学者。地質学、岩石学、鉱物学、火山学、地震学など、幅広く活躍した。ドイツ地理学を日本に導入し日本の地質学や地形学の揺籃期に活躍・貢献をした。また、多くの学生を育てた。 石見国(現在の島根県)津和野生まれ。藩校の養老館で漢学や蘭学を学ぶ。1870年、15歳の時、藩から大学南校(のちの開成学校、東京大学)に貢進生として上京し、英語、理学を修め卒業する。1877年(明治10年)、創立されたばかりの東京大学理学部地質学および採鉱学科に進学し、1879年(明治12年)東京帝国大学理学部地質学および採鉱学科の最初の卒業生。
山本 達雄(やまもと たつお、1856年4月7日〈安政3年3… 山本 達雄(やまもと たつお、1856年4月7日〈安政3年3月3日〉- 1947年〈昭和22年〉11月12日)は、明治後期から戦前昭和期の日本の銀行家・政治家。43歳で第5代日本銀行総裁に就任後、政界に転じて貴族院議員、日本勧業銀行総裁、大蔵大臣・農商務大臣・内務大臣・立憲民政党の最高顧問を歴任した。政界の長老的存在。 位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。号は竹渓。 豊後国臼杵藩士・山本確の次男として現在の大分県臼杵市に生まれる。藩校学古館に学び文武に秀で13歳で宗家の養嗣子となるが、実家・養家ともに貧しく、内職で家計を支えた。更に廃藩置県が追い討ちをかけることとなる。17歳で大阪に出て3年間小学校教師をしながら学資を稼ぎ、東京に出て慶應義塾で福澤諭吉に学ぶが、月謝を払うことが出来なかったため慶應義塾で学んだ期間は短かった。
田村 惟昌(たむら これまさ、1856年4月6日(安政3年3… 田村 惟昌(たむら これまさ、1856年4月6日(安政3年3月2日)- 1926年(大正15年)7月30日)は、明治から大正時代の政治家。新聞経営者。衆議院議員(4期)。 越中国新川郡、のちの富山県下新川郡経田村(現魚津市)の濱名家に生まれ、のち伯父の田村家の養子となる。富山藩儒・岡田呉陽の門に入り学んだ。1874年(明治7年)新川県第三大区副区長、1875年(明治8年)9月、学区取締を経て、1878年(明治11年)新川郡書記に就任する。1881年(明治14年)3月、有志と共に協同会を組織し同会長となり政治活動に奔走する。ついで富山県会議員に当選し、同常置委員、副議長などを歴任した。ほか、富山日報社社長を務めた。
倉石 源造(くらいし げんぞう、1856年4月6日〈安政3年… 倉石 源造(くらいし げんぞう、1856年4月6日〈安政3年3月2日〉 - 1921年〈大正10年〉5月13日)は、日本の政治家。新潟県高田市長。 越後国頸城郡高田城下中小町に生まれる。漢学を修め、柏崎県立学校に入学したが、父の死により退学した。のち神奈川県の小学校の教員となったが、短期間で辞め、逓信属となった。その後、帰郷し洋品店を開き、1895年に家督を相続、同年行われた高田町会議員選挙に立候補して当選する。翌1896年に高田町長に就任、1908年まで務めた。この間、高田町外七ヶ村組合立高等小学校組合長、高田町尚武会長、高田町外四ヶ村組合立高田高等小学校組合長を歴任し、師範学校(高田師範学校)の設置、第十三師団に誘致に尽力した。
大淵 龍太郎(おおふち りゅうたろう、1856年4月3日(安… 大淵 龍太郎(おおふち りゅうたろう、1856年4月3日(安政3年2月28日) - 1923年(大正12年)9月25日)は、日本の政治家、弁護士。 安政3年、柳河藩士大淵清吾の長男として、筑後国三潴郡蒲池村(現在の福岡県柳川市)で出生。 明治法律学校に学び、福岡県十等警部、熊本始審裁判所書記などを経て熊本区裁監督判事となり、後に弁護士となる。 政治家としては、衆議院議員を2期務めた(熊本県郡部、第7 ・9帝国議会)。 実業家としては、熊本軽便鉄道(のち大日本軌道熊本支社)の設立に甲州財閥の雨宮敬次郎と共に携わり大日本軌道の取締役を務めた。また、熊本軌道(のち熊本市電百貫線)社長や1915年に開通した御船鉄道の取締役なども務めた。
松下 哲成(まつした てつなり、安政3年2月22日(1856… 松下 哲成(まつした てつなり、安政3年2月22日(1856年3月28日) - 昭和3年(1928年)1月18日)は日本の実業家、政治家。鳥取県西伯郡境町長、境町会議員、郡会副議長、境町学務委員。伯州境港の豪商。 境町に生まれた。吉三郎の四男。幼名を虎之助と称す。夙に算数の術に長ず。 年甫二十五歳の時、厳君の許容を得、資を分つて同町に分家を創立し鉄石油商を開始した。 日本海上火災保険等の代理商を営むほか、ニューヨークスタンダード石油等の販売商として手広く商いに励み、その傍ら政治にも関心をもった。 若くして町会議員に立ち、町長就任時には郡会副議長の要職にあった。 大正3年(1914年)町の将来的発展と貨客の便を図るため、境駅を現在地に移し、お台場までの中心道路新設改修を計画、一部竣工させた。
新井 章吾(あらい しょうご、安政3年2月22日(1856年… 新井 章吾(あらい しょうご、安政3年2月22日(1856年3月28日)- 明治39年(1906年)10月16日)は、明治前期の政治家。衆議院議員として通算7期。位階および勲等は従四位・勲四等。 自由党幹部として活躍した。 下野国都賀郡吹上村(現在の栃木県栃木市吹上町)の豪農の家に生まれる。吹上藩の藩校日就館で学んだ後、壬生の育英舎で英学を学んだ。明治10年(1877年)、吹上村の戸長になる。 明治13年(1880年)以後、自由民権運動に参加して自由党に加入、郷里を中心に運動の興隆に努め、明治15年(1882年)に栃木県会議員となる。翌年、官吏侮辱罪・集会条例違反で5か月間収監され、更に大阪事件に関与して朝鮮渡航部隊の責任者となったことから捕らえられて重懲役9年の判決を受ける。
持田 直(もちだ ちょく、1856年3月26日(安政3年2月… 持田 直(もちだ ちょく、1856年3月26日(安政3年2月20日)- 1937年(昭和12年)11月3日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員、埼玉県児玉郡本庄町長。 武蔵国児玉郡本庄宿(のちの埼玉県児玉郡本庄町、現:本庄市)で、商家・持田市平の第四子として生まれる。書を僧・純道に、経史詩文を矢口謙斎について学ぶ。1875年、熊谷県立暢発学校師範学科を卒業。改進学校(現:本庄市立旭小学校)長、埼玉県教育会員を務めた。 1887年、公証人試験に合格。埼玉県会議員、同常置委員、児玉郡参事会員、本庄町会議員、同町長などを歴任。埼玉県庁の熊谷移転を主張した。 1898年3月、第5回衆議院議員総選挙で埼玉県第五区から自由党所属で出馬して当選。
千田 軍之助(せんだ ぐんのすけ、安政3年2月11日(185… 千田 軍之助(せんだ ぐんのすけ、安政3年2月11日(1856年3月17日) – 大正3年(1914年)3月2日)は、衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会)、ジャーナリスト。 紀伊国那賀郡南志野村(現在の和歌山県紀の川市)の郷士の家に生まれた。1874年(明治7年)、副戸長となり、第三大区第二小区会議所に勤務した。1876年(明治9年)、地租改正にあたって県令神山郡廉に地価の不当を訴えたが、容れられなかったため副戸長を辞した。その後、児玉庄右衛門(児玉仲児の父)らとともに自由民権運動を展開したため、投獄された。これに対し数百の民衆が彼らを奪還しようと蜂起したため、神山は大阪鎮台に出兵を乞う事態となった(粉河騒動)。
神谷 傳兵衛(かみや でんべえ、安政3年2月11日(1856… 神谷 傳兵衛(かみや でんべえ、安政3年2月11日(1856年3月17日) - 大正11年(1922年)4月24日)は、三河国幡豆郡松木島村(現在の愛知県西尾市一色町松木島)出身の実業家。神谷 伝兵衛とも表記される。 東京都台東区浅草の洋酒バーの神谷バー、茨城県牛久市のワイン醸造所のシャトーカミヤの創設者。旭製薬社長のほか、神谷醸造、日本製粉、九州炭鉱汽船、三河鉄道、東洋遊園地などの役員を務めた。 幼名は松太郎。実子はなく、養女のぶ(神谷桂助長女)の婿養子の神谷(旧姓:小林)伝蔵(傳藏とも表記される)が2世神谷傳兵衛を名乗る。 安政3年2月11日(1856年3月17日)、三河国松木島村の名主の六男として生まれた。
斎藤 孝治(さいとう こうじ、1856年3月10日(安政3年… 斎藤 孝治(さいとう こうじ、1856年3月10日(安政3年2月4日) - 1917年(大正6年)8月22日)は、日本の弁護士、公証人、東京府会議員。 古河藩士・斎藤三平の子として江戸駒込の藩邸で生まれた。1872年に上京して儒者亀田鶯谷の塾で学んだ。1875年警視庁巡査となり、西南戦争に従軍。戦後、北畠道龍・矢代操らの講法学舎に入ったが、1881年、明治法律学校(明治大学の前身)の開校にあたって幹事として庶務にあたり、また一学生として法学を修め、同校最初の卒業生の一人となった。 1882年に代言人試験に合格し、秩父事件や野口男三郎事件などで弁護活動に従事。日本弁護士協会の創設に参画し、1898年には副会長となった。
丹羽 藤吉郎(にわ とうきちろう、1856年3月8日(安政3… 丹羽 藤吉郎(にわ とうきちろう、1856年3月8日(安政3年2月2日)- 1930年(昭和5年)3月12日)は、日本の薬学者である。 佐賀藩士だった丹羽与左衛門の次男として生まれる。佐賀藩校を経て、廃藩置県により1871年(明治4年)に大学校に入学し、当時お雇い外国人として来日していたドイツ人のヤーコプ・カデルリー(カドリーとも、1827年 - 1874年)からドイツ語を学んだ。その後同学校は東京帝国大学(現在の東京大学)に名称変更し、1873年(明治6年)に初めドイツ語学科に入学にし、フグ毒に関する研究に携わる田原良純らが所属した製薬学科に移る。この頃に同じくお雇い外国人として来日していたドイツ人のアレクサンダー・ランガルトに師事し、製薬化学の研究に携わった。
鈴木 儀左衛門(儀左衞門、すずき ぎざえもん、1856年3月… 鈴木 儀左衛門(儀左衞門、すずき ぎざえもん、1856年3月4日(安政3年1月28日)- 1933年(昭和8年)8月6日)は、明治から昭和初期の農業経営者、教育者、実業家、政治家。衆議院議員、千葉県会議長、千葉県海上郡嚶鳴村長。 下総国夷隅郡琴田村(千葉県夷隅郡琴田村、嚶鳴村琴田、海上町 を経て現旭市琴田)で、農業、先代・鈴木儀左衛門の長男として生まれた。安中藩儒・伊藤桂次郎に師事し漢籍を修めた。 1872年(明治5年)大区選挙人に就任。1876年(明治9年)地租改正で苦しむ村民の先頭に立ち、地租等級の改訂を誓願する減租運動を10年有余にわたって継続し、ついに改定を実現した。また自由党の板倉中、西村甚右衛門らと交際し、1890年(明治23年)自由党系の政治結社・興東倶楽部を結成した。
高橋 直治(たかはし なおじ、1856年3月4日(安政3年1… 高橋 直治(たかはし なおじ、1856年3月4日(安政3年1月28日) - 1926年(大正15年)2月18日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。 越後国刈羽郡石地村(現・柏崎市)で高橋喜惣八の長男として生まれる。1875年(明治8年)小樽に渡り荒物商の店員となる。1878年(明治11年)に独立し合羽荒物雑貨商を開業し、さらに米穀海産委託問屋、味噌醤油製造、石炭販売、精米所、回漕業を営んだ。1896年(明治29年)弟・喜蔵と共に高橋合名会社を組織し代表社員に就任。事業を米雑穀業に転換した。第一次世界大戦により日本からヨーロッパへ菜豆類の輸出が急増した際に、大量の大豆を貯蔵し直輸出を行い、日本やロンドン市場を左右するほどの影響を与えたことから「小豆将軍」と称された。
河合 浩蔵(かわい こうぞう、1856年2月29日〈安政3年… 河合 浩蔵(かわい こうぞう、1856年2月29日〈安政3年1月24日〉 - 1934年〈昭和9年〉10月6日)は主に明治・大正期に活躍した建築家。建築学会の前身造家学会の設立に尽力した。ドイツ留学より帰国後、司法省建築主任として現法務省の建設に携わる。その後関西を中心に活動し、ドイツ風の小寺家は重要文化財となっている。 武州東葛飾郡(埼玉県)に生まれ、江戸・本所(東京都墨田区)で幕臣の子として育つ。工部大学校造家学科でジョサイア・コンドルに建築を学び、1882年(明治15年)卒業(4期生、同期に中村達太郎、新家孝正、鳥居菊助)、工部省営繕局に入る。皇居造営事務局御用掛を務める。皇居正門に掛かる迫持造徳利型欄干付の石橋(二重橋)の外観意匠を構造設計の久米民之助と共に担当した。
片桐 清治(かたぎり せいじ、安政3年1月17日〈1856年… 片桐 清治(かたぎり せいじ、安政3年1月17日〈1856年2月22日〉 - 1928年〈昭和3年〉1月21日)は日本の牧師で、日本組合基督教会の東北地方の重鎮として活躍する。 安政3年1月17日(1856年2月22日)仙台藩伊達家の陪臣片桐英之助の子として、水沢に生まれる。一の関師範伝習所を卒業して、小学校の教員として働いている時、1879年夏、友人で同志社英学校の学生であった山崎為徳によりキリスト教に接する。 1880年(明治13年)より友人山崎為徳の招きで同志社英学校邦語学科に入学する。在学中、病気療養中の山崎の看病を続ける。1881年(明治14年)5月1日同志社教会においてM・L・ゴードン宣教師から洗礼を受ける。
向坂 弘(さきさか ひろむ、1856年2月15日(安政3年1… 向坂 弘(さきさか ひろむ、1856年2月15日(安政3年1月10日) - 1925年(大正14年)4月24日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 出雲国松江(現在の島根県松江市)出身。松江藩藩校の修道館で学び、1874年(明治7年)より小学校教員を務めた。1881年(明治14年)より代言人の職に従事し、松江弁護士会副会長、同会長を歴任した。1889年(明治22年)、松江市会議員となり、議長に選ばれた。1898年(明治31年)、島根県会議員に選ばれ、同参事会員も務めた。 1903年(明治36年)、第8回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第9回、第10回でも再選された。
松村 任三(まつむら じんぞう、1856年2月14日〔安政3… 松村 任三(まつむら じんぞう、1856年2月14日〔安政3年1月9日〕- 1928年5月4日)は、日本の植物学者。 東京帝国大学理学部植物学教室教授、附属小石川植物園の初代園長。多くの植物標本を採取しソメイヨシノやワサビなど150種以上の植物に学名を付け、それまでの本草学と近代の植物学の橋渡しをした。また、植物の分類のための植物解剖(形態)学という新しい学問を広めた。門下生に牧野富太郎がいる。だが次第に牧野を憎むようになり、講師であった牧野の免職をたびたび画策した。位階勲等は正三位勲一等。現在の茨城県高萩市出身。同市にあるかやぶきの生家は2012年12月10日の火災によって全焼した。 松村の著作の多くは植物学に関するものであるが、幼少から四書五経をそらんじたといわれるなど国文学・言語学の素養もあり、晩年にはその方面の著作も残している。
平瀬 作五郎(ひらせ さくごろう、安政3年1月7日(1856… 平瀬 作五郎(ひらせ さくごろう、安政3年1月7日(1856年2月12日) - 大正14年(1925年)1月4日)は、明治・大正期の植物学者。 1856年、福井市日之出町にて、福井藩士平瀬儀作の長男として生まれる。1872年、福井藩中学校(現・福井県立藤島高等学校)に入学、加賀野井成是に油絵を学ぶ。卒業後、同校の中進業生図画教授助手を拝命。1873年、山田成章の写実派油絵を学ぶために上京。 1875年、東京での油絵留学から帰郷し、岐阜県の中学・遷喬館(現・岐阜県立岐阜高等学校)に図画教員として就職した。1887年に退職するまでの13 年の教員生活の間に、図画教科書として『画学初歩』、『用器画法』、『図画指要』、『小学用器画法』を出版するなど、製図・図画の教育や普及への貢献も顕著である。