田本 研造(たもと けんぞう、天保3年4月8日(1832年5… 田本 研造(たもと けんぞう、天保3年4月8日(1832年5月8日) - 大正元年(1912年)10月21日)は、現在の三重県熊野市神川町出身の写真家。別名は音無榕山(おとなしようざん)。 1832年(天保3年)4月8日に紀州牟婁郡神川村(現熊野市神川町)に生まれた。のちに別名音無榕山(おとなしようざん)と名乗っているが、「音無」は彼の郷里を流れる音無川(熊野川)にちなむものという。 医学を志して23歳の時に長崎に赴き、蘭方医吉雄圭斎(よしおけいさい)の門に入る。ここで医学や化学を学びつつ西洋科学の諸事情に触れ、1859年(安政6年)には長崎から箱館(函館)に移り住んだ。ところが、しばらくして右足に凍傷を負って脱疽となり、ロシア医師ゼレンスキーの手術により一命を取りとめるものの右足切断の悲運に遇う。
松本 暢(まつもと ちょう、1832年5月8日(天保3年4月… 松本 暢(まつもと ちょう、1832年5月8日(天保3年4月8日) - 1889年(明治22年))は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての医師・尊王攘夷派の志士。のちに壬生藩御典医・石崎家の婿養子となり石崎 誠庵(省菴)を名乗った。明治維新後は中央政府に出仕し、刑法官判事、東京株式取引所理事長などを務めた。 天保3年4月8日、下都賀郡富山村富田(現栃木市)に生まれる。松本新右衛門の次男で、幼名は新作。一度松本又作の養子となるが、後に実子出生により生家へ戻る。学問は水代村の鍋山休文に始め、ついで瀧山西谷に従学、その後藤森弘菴に私淑し、さらに水戸の藩医・本間玄長に医業を学ぶ。この頃より号を「省菴」と称した。
正阿弥 勝義(しょうあみ かつよし、天保3年3月28日(18… 正阿弥 勝義(しょうあみ かつよし、天保3年3月28日(1832年4月28日) - 明治41年(1908年)12月19日)は、明治時代に活躍した金工家。 天保3年(1832年)津山二階町に住む津山藩お抱えの彫金師・中川五右衛門勝継の三男として生まれる。幼名は淳蔵、通称は淳蔵、勝義は工名。幼い頃から父に彫金を学ぶ。江戸出府の方便として津山藩先手鉄砲隊小山家の継嗣となり、江戸の彫金家に弟子入りしようとするが果たせず、江戸から帰郷後養子関係を解消。その後、18歳で岡山藩御抱え彫金職人の名家・正阿弥家の婿養子となって、正阿弥家の9代目を継ぐ。養子入り後は、江戸幕府お抱えの彫金家・後藤家の門人で、自身も江戸幕府及び朝廷の御用職人を務めていた実兄・中川一匠や、その師・後藤一乗から手紙で下絵や脂型、或いは相互に作品を遣り取りして指導を受ける。
大木 喬任(おおき たかとう、1832年4月23日〈天保3年… 大木 喬任(おおき たかとう、1832年4月23日〈天保3年3月23日〉- 1899年〈明治32年〉9月26日)は、明治期の日本の官僚、政治家。通称を幡六[要説明]、民平[要説明]。 栄典は正二位勲一等伯爵。 肥前国佐賀藩の45石の藩士大木知喬の長男として赤松町(現在の佐賀市水ヶ江三丁目)に生まれる。天保13年(1842年)父、知喬が亡くなり、以降、母シカ子の手で育てられる。出身家の詳細については大木家を参照。 藩校の弘道館で学び、1850年(嘉永3年)副島種臣らと共に枝吉神陽の義祭同盟結成に参加。後に江藤新平や大隈重信らも加わり藩論を尊皇攘夷へと導くことを図るが果たせなかった。万延元年(1860年)藩校弘道館から選ばれて江戸遊学の途に上る。
安部井 磐根(あべい いわね、天保3年3月17日(1832年… 安部井 磐根(あべい いわね、天保3年3月17日(1832年4月17日) - 大正5年(1916年)11月19日)は、日本の武士(二本松藩士)、自由民権運動家、政治家。衆議院議員(大成会→憲政本党)。 二本松藩士安部井又之丞の子として生まれる。戊辰戦争の際には、奥羽諸藩の衆議所詰となり仙台や白石などを奔走したが、二本松城陥落の際に又之丞は自刃した。 戊辰戦争終結後、若松県に出仕し、少参事、典事を歴任したが、まもなくして辞職した。1874年(明治7年)、板垣退助らによって自由民権運動がおこると、これに呼応して一政社という政社を組織した。1878年(明治11年)、福島県会議員となり、議長に互選された。
城多 董(きた ただす、天保3年2月22日〈1832年3月2… 城多 董(きた ただす、天保3年2月22日〈1832年3月24日〉 - 1891年〈明治24年〉10月3日)は、幕末の尊王攘夷派志士として水口藩を尊王に導いた。多くの志士が明治維新後切り捨てられる中、草莽の志士の一人として活動し、元老院少書記などを歴任。 城多董は天保3年2月22日(1832年3月24日)に近江国甲賀郡牛飼村(現滋賀県甲賀市水口町牛飼)で農業の傍ら肥料商を営む木田平三郎の三男として誕生。幼名を木田市太郎と言い、長じて善兵衛と称し諱は士威と言った。後に図書、耐軒とも号すると共に、姓を木田から城多に改めた。尚、董の読みを「ただす(ス)」とする書籍も。木田家は六角氏一族の末と言われ、父平三郎は杉谷村(現甲賀市甲南町杉谷)の西浦家より入婿したが、平三郎の実父で董の祖父に当たる西浦九兵衛は近江天保一揆指導者の一人として、天保14年(1843年)董数え12歳の時に獄中死。
熊谷 孫六郎(くまがい まごろくろう、1832年3月22日(… 熊谷 孫六郎(くまがい まごろくろう、1832年3月22日(天保3年2月20日) - 1902年(明治35年)8月3日)は、明治時代の政治家。実業家。養蚕家。衆議院議員。官選初代岐阜市長。岐阜県会議長。 美濃国恵那郡付知村(岐阜県恵那郡付知村、付知町を経て現中津川市付知町)で、製糸業・熊谷孫六の息子として生まれた。和漢学を学ぶ。 岐阜県会議員、同常置委員、同副議長、同議長を歴任した。また、近隣町村と合併して人口不足を解消し私財を投じるなどして岐阜市の市制を実現し、同市の初代市長に就任した。 実業家としては資金貸与、濃南各会社社長、岐阜米糸取引所理事長、東京硝子、日本運輸各取締役を務めた。ほか、蚕業試験場を設立し蚕糸改良に尽力した。
海江田 信義(かいえだ のぶよし、1832年3月13日〈天保… 海江田 信義(かいえだ のぶよし、1832年3月13日〈天保3年2月11日〉 - 1906年〈明治39年〉10月27日)は、日本の政治家、官僚。通称は武次(たけじ)。幕末期は有村俊斎の名で活動した。雅号は黙声、静山、孤松。 天保3年(1832年)、薩摩藩士・有村仁左衛門の長男として高麗町に生まれた。幼名は太郎熊。11歳の時、島津斉興の茶頭に出仕して茶坊主となり、俊斎と称した。 はじめ東郷実明に示現流剣術を学び、次いで薬丸兼義に薬丸自顕流剣術を学んだ。薬丸自顕流の伝承では道場破りに来たものの大山綱良に敗れて入門したとなっているが、俊斎は当時わずか15歳であり、史実かどうかは不明。 嘉永2年(1849年)、薩摩藩の内紛(お由羅騒動)に巻き込まれた有村父子は一時藩を追われ家は貧困の極みに陥るが、嘉永4年(1851年)、新藩主・島津斉彬によって藩に復帰、このとき俊斉は西郷吉之助(のち西郷隆盛)、大久保正助(のち大久保利通)、伊地知龍右衛門(のち伊地知正治)、税所喜三左衛門(のち税所篤)、吉井仁左衛門(のち吉井友実)長沼嘉兵衛(早世)らと『近思録』を輪読する会、いわゆる「精忠組」を結成、幕政改革や日本の近代化を考えるようになった。
柴原 和(しばはら やわら、天保3年2月7日(1832年3月… 柴原 和(しばはら やわら、天保3年2月7日(1832年3月9日)- 明治38年(1905年)11月29日)は、幕末期播磨国龍野藩出身の志士。明治維新後は新政府に出仕して、初代の千葉県令や貴族院勅選議員などを務める。字は士節。幼名は宗吉、後に順治。雅号は靖盧・此木山。養子(甥)に翻訳家・弁護士の柴原亀二がいる。大槻磐渓、安井息軒、梁川星巌などに学ぶ。 龍野藩の下級武士柴原左五七の三男(6人兄弟)として生まれる。幼い頃に同藩士の梅原松之助の養子となるが、少壮気鋭の性格が養父の機嫌を損ねて離縁された。しかし、藩首脳はその才能を評価し、遊学を許されて江戸で大槻磐渓・安井息軒、京都で梁川星巌、大坂で落合雙石・後藤松陰、大和国で森田節斎に学んだ。
津田 出(つだ いずる、天保3年2月1日(1832年3月3日… 津田 出(つだ いずる、天保3年2月1日(1832年3月3日) - 明治38年(1905年)6月2日)は、幕末期から明治前期にかけて活躍した武士・官僚、陸軍軍人。官位は錦鶏間祗候陸軍少将従二位勲一等。通称は又太郎。号は芝山。 弟は初代和歌山県知事の正臣。 紀州藩士(300石)の津田信徳(三郎右衛門)の長男として現在の和歌山県和歌山市に生まれる。津田家は河内国交野郡津田城主楠木正儀の後裔であり、戦国期に紀州に移り、藩祖入国以前からの住人として、代々紀州藩に仕えていた。山林を多数所有する豪家でもあった。 蘭学・徂徠学を学び、藩の小姓業奥右筆組頭を勤めたが、幕末の藩内抗争に関係して幽閉される。 明治維新後に藩主徳川茂承より小姓頭・井田民男を介して和歌山藩大参事へと大抜擢される。
大岡 利右衛門(おおおか りえもん、天保3年1月4日(183… 大岡 利右衛門(おおおか りえもん、天保3年1月4日(1832年2月5日) - 大正元年(1912年))は、明治時代の農業家。米の品種改良を独力で行い、また苗の正条植えを普及させ、滋賀県の農業育成に努めた。緑綬褒章受章者。 大岡利右衛門は、天保3年1月4日(1832年2月5日)に近江国野洲郡比留田村(後の中里村、現滋賀県野洲市比留田)で大工を営む傍ら農業を行う、大岡宇八と妻浪の第三子として誕生した。利右衛門が育った近江湖南地域では少年時に近江天保一揆が起こり、米作りに生きる村人約4万人が自分達の生活を守るために命がけで立ちあがった。利右衛門は近江天保一揆で農民が立ち上がったことに、深く感動していたことが伝えられている。
石坂 周造(いしざか しゅうぞう、天保3年1月1日〈1832… 石坂 周造(いしざか しゅうぞう、天保3年1月1日〈1832年2月2日〉 - 明治36年〈1903年〉5月22日)は、幕末の志士。尊皇攘夷論者。明治期には石油産業の祖として知られる。幼名は源造、号は宗順(そうじゅん)。江戸では彦根藩脱藩浪士を自称していた。 信濃国水内郡桑名川村(現・長野県飯山市)に渡辺彦右衛門の次男として生まれとしている資料が多い。ただし、碑文には「両国生まれ」と記載されており。また、生前に出版された自伝「石坂翁小伝」には他のほとんどの資料と矛盾する以下の記述がある。 上記、石坂翁小伝の記述が正しければ複雑な出生と養子縁組を繰り返している事となる。一般的な資料には6歳で飯山の英岩寺に入門し、11歳で高源院に移り、その後江戸に出て石坂宗哲の養子となったとある。
橋岡 忠三郎(はしおか ちゅうざぶろう、1832年1月17日… 橋岡 忠三郎(はしおか ちゅうざぶろう、1832年1月17日(天保2年12月15日) - 1910年(明治43年)3月15日)は観世流シテ方の能役者にして橋岡家六世。名は雅茂、號は雅雪(がせつ)。岐阜県の出身。 美濃国近ノ島村で医師・藤井平兵衛(元徳)の二男として1831年(天保2年12月15日)に生まれ、20歳頃に能役者・橋岡泰次郎の養子となる。江戸時代の能役者は若年寄り配下として幕府の保護を受けていたが、維新後はその地位が失われ職を転じる者多数。忠三郎も代書屋をして生計を立てた。 観世清孝(1837-1888年)の時代、宗家困窮のため「観世流本面」が海外に流出しかけたところ、忠三郎が神戸で買い留め流派の面目を保つ。
狩野 旭峰(かのう きょくほう、1832年(天保3年) - … 狩野 旭峰(かのう きょくほう、1832年(天保3年) - 1925年(大正14年))は、日本の漢学者・漢詩人・ジャーナリスト。 出羽国秋田郡大館町に狩野与十郎長安の子として生まれた。本名は良貴、通称は徳蔵。狩野氏は、山形を本拠地とする最上氏が江戸幕府によって改易されたのち、久保田藩(本城は久保田城)の支城のあった大館の佐竹西家に仕えた。1849年(嘉永2年)、18歳で江戸に出て、塩谷宕陰に学び、以降5年のあいだ、古賀謹一郎、藤森弘庵、田口江村らに学んだ。のち、久保田藩江戸邸の学問所「日知館」の教授を務めた。 内務省に入った兄狩野良知の推挙で、明治7年(1874年)、遐邇新聞(現在の秋田魁新報)の創刊にかかわり、その編集長(のち主幹)となって明治初年の秋田言論界をリードした。
湖城 以正(こぐすく いせい、1832年 - 1891年)は… 湖城 以正(こぐすく いせい、1832年 - 1891年)は、主に琉球王国時代に活躍した、湖城流の唐手(現・空手)家である。通称は、湖城小(グヮー)。 湖城以正は、1832年(天保3年)、那覇の久米村に生まれた。蔡氏湖城家は代々唐手の大家を出す久米村の名門士族である。湖城家によれば、湖城以正は16歳の時、父・蔡昌偉とともに中国へ渡り、儒学の他、中国兵法も習得したとされる。以正は、とりわけ中国槍術、弓術を得意としたとされる。 中国武術は、イワァー(北京王宮の武官とも、冊封使付き侍従武官とも伝わる)に師事し、イワァーが城中勤務に忙殺されていたので、師に代わって師範代を務めたため帰国が遅れ、36歳の時帰国したという。
長尾 無墨(ながお むぼく、天保3年(1832年) - 明治… 長尾 無墨(ながお むぼく、天保3年(1832年) - 明治27年(1894年)11月3日)は、日本の南画家、教育者である。幼名は佐伝次、諱は冀北、通称は平右衛門、別号に天雁、張天梅、千里などがある。 『説諭要略』や『善光寺繁昌記』を書いたことでも有名。明治時代、中央で活動したにもかかわらず、写真や肖像画はこれまでに見つかっていない。 信濃国伊那郡高遠藩の藩士・宇夫形豊久の長男として高遠城下(現・長野県伊那市)に生まれる。高遠藩は学問が盛んだったことで知られているが、その高遠藩が育てた人材の一人である。学問を父と中村元恒に学び、詩文に長じ、特に絵画を得意とした。万延元年(1860年)に藩校・進徳館が開講すると、27歳でその大助教に迎えられた。
常世 長胤(とこよ ながたね、天保3年〈1832年〉 - 1… 常世 長胤(とこよ ながたね、天保3年〈1832年〉 - 1886年〈明治19年〉3月19日)は江戸末期の国学者・明治期の神祇官。平田門に学ぶ。『神教組織物語』などの著作がある。 上総国木更津に生まれたというが、異説もある。その後、下野国壬生に住む。1866年(慶応2年)、平田鐵胤の没後門人となる。1872年(明治5年)5月、宣教使十二等出仕から東京都港区芝大門鎮座の芝大神宮祠官に異動。1872年(明治5年)11月、芝大神宮祠官から教部省十等出仕に異動。その後は、神宮教山形県本部長となるが、管長の田中頼庸と対立し辞職、1875年(明治8年)、静岡県権中属(明治11年に辞官)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
桂川 甫策(かつらがわ ほさく、天保3年(1832年) - … 桂川 甫策(かつらがわ ほさく、天保3年(1832年) - 明治23年(1890年)10月19日)は、幕末から明治の洋学者・医師・化学者。 桂川甫賢の次男で、蘭学の家として知られる桂川家の8代目。幼名辰次郎(達次郎)後に甫策。本姓は中原、諱は国幹(くにもと)。字は和春。号は淳斎。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
菊地 新学(きくち しんがく、天保3年(1832年) - 大… 菊地 新学(きくち しんがく、天保3年(1832年) - 大正4年(1915年)4月17日)は、明治時代の写真師。菊地常右衛門の子。同じく写真師の菊地宥清の父。オリエンタル写真工業の社長を務めた菊地東陽の祖父。昭和期の実業家の菊地友雄の曽祖父。北海道旭川で最初の写真館を開業し、日露戦争に従軍した写真師中鉢直綱の祖父。 出羽国天童に生まれる。江戸で写真術を学び、明治元年(1868年)山形初の写真館を開く。技量を磨くため同8年(1875年)に再び上京。横山松三郎や清水東谷に師事。翌年の同9年(1876年)から山形県令の三島通庸の命を受け、画家の高橋由一と共に県下の近代化促進事業を撮影。日本における土木・建築記録写真の先駆者となった。
飯田 年平(いいだ としひら、文政3年8月6日〈1820年9… 飯田 年平(いいだ としひら、文政3年8月6日〈1820年9月12日〉 - 1886年〈明治19年〉6月26日)は、因幡国鳥取藩国学方、国学者である。 因幡国気多郡寺内町(現・鳥取県鳥取市)の加知弥神社祠官飯田秀雄の次男として生まれる。 秀雄が本居大平の門人であったため、年平も大平に従学、さらに加納諸平にも学んだ。その好学を鳥取藩主池田慶徳に認められ、万延元年(1860年)3月、士班に列して鳥取藩国学方雇となる。挙兵に失敗した天誅組の三枝蓊を屋敷に匿った。明治維新後は、まず史官となり、次いで神祗大史となる。その後、神祇大録・式部大属兼中掌典・神宮神嘗祭奉幣使・式部寮御用掛准奏任官などを歴任。 明治19年(1886年)6月26日、死去の際に従六位に叙された。
武谷 祐之(たけや ゆうし(「すけゆき」との記載もあり)、文… 武谷 祐之(たけや ゆうし(「すけゆき」との記載もあり)、文政3年4月2日〈1820年5月13日〉 - 明治27年(1894年)2月1日)は、江戸時代、明治時代の医学者(蘭方医)。福岡藩藩医。号は椋亭、澧蘭、鷗洲、三餘学人。字(あざな)は元吉。 蘭方医武谷元立の長男として、筑前国鞍手郡高野村(現・福岡県宮若市)に生まれる。月形鷦窠、天保7年(1836年)広瀬淡窓に儒学を学び、天保14年(1843年)大坂に出て、緒方洪庵の適塾に入り西洋医学、蘭学を修めた。弘化3年(1846年)種痘書『接痘瑣言』を翻訳した。 嘉永元年(1848年)福岡に帰り、郡の頭取医として、モーニッケがもたらした痘苗を入手し、藩内において種痘を実施した。
武田 敬孝(たけだ ゆきたか、文政3年2月4日〈1820年3… 武田 敬孝(たけだ ゆきたか、文政3年2月4日〈1820年3月17日〉 - 1886年〈明治19年〉2月7日)は、幕末の儒学者。明治時代の官吏。胆沢県権知事。通称は亀五郎。雅号に韜軒、熟軒、天経、伯佐。 大洲藩儒御旗組小頭武田敬忠、新谷藩医久岡氏の女三保子の長男として、伊予国伊予郡中村(愛媛県伊予郡北山崎村を経て現伊予市)に生まれる。大洲藩校で常磐井厳戈に、経史や詩文を山田東海に学んだ。1839年(天保10年)父に代勤して江戸在番の機会を得、大橋訥庵の教えを受け尊王思想を抱くようになる。 学識を認められ足軽小頭から藩主の侍講に登用され、藩校明倫堂教授となり、執政顧問を兼ねた。幕末は尊王諸藩との連携に尽力した。
大野 規周(おおの のりちか、文政3年1月28日〈1820年… 大野 規周(おおの のりちか、文政3年1月28日〈1820年3月12日〉 - 1886年〈明治19年〉10月5日)は江戸時代後期の時計師、造幣寮技師。江戸神田で家業の時計師を営み、幕末福井藩に召し抱えられ、幕府海軍の下オランダに留学し、帰国後大阪造幣寮で技官を務めた。 文政3年(1820年)1月28日、江戸神田松枝町の時計師大野家に生まれた。祖父弥五郎規貞、父弥三郎規行も時計師で、伊能忠敬に測量器具を提供したことで知られる。弘化2年(1845年)父規行が死去し、家督を継いだ。嘉永2年(1849年)横山町三丁目玉屋吉次郎の測量器具の引札が残っている。 安政2年(1855年)明道館を作った福井藩に召し抱えられて本所中之郷の下屋敷に住み、ゲベール銃等の製作を行った。
岡松 甕谷(おかまつ おうこく(子孫は「ようこく」と呼び慣わ… 岡松 甕谷(おかまつ おうこく(子孫は「ようこく」と呼び慣わす)、文政3年1月14日(1820年2月27日) - 明治28年(1895年)2月18日)は幕末、明治時代の漢学者。名は辰。字は君盈。通称は辰五、後に伊助。諡号は文靖先生。号は故郷上徳丸村より大野川対岸の百堂村(大分市種具)山麓の谷に由来するという。 帆足万里に漢学を学び、熊本藩や明治政府の下で法制に携わり、晩年は東京大学や府下の中学で教鞭を取った。漢文に巧みなだけでなく、洋学にも心得があり、オランダ語、英語を解した。 文政3年(1820年)1月14日、豊後国大分郡高田手永上徳丸村(大分県大分市丸亀)に、岡松数右衛門真友の次男として生まれた。
藤本 幸平(ふじもと こうへい、1820年1月26日〈文政2… 藤本 幸平(ふじもと こうへい、1820年1月26日〈文政2年12月11日〉 - 1916年〈大正5年〉12月23日)は江戸時代末期から明治時代の実業家。両国橋 (徳島市)の創建者。 徳島県美馬郡重清村(現・美馬市)に生まれる。 1872年(明治5年)、徳島市街に流れる新町川の両岸(現・両国橋 (徳島市))の街の賑わいにもかかわらず、渡船場もなく、橋がなかったことに着目し、徳島県の許可を得て渡し舟を開業する。しかし、両岸には道もない葦原であったため、利用者は1日20人程度と少なかった。そこで、1877年(明治10年)に自己資本で両岸に道路を完成させたことから利用者が増加、船場町濱側に住宅を建設した。
青山 延寿(あおやま のぶとし、1820年(文政3年) - … 青山 延寿(あおやま のぶとし、1820年(文政3年) - 1906年(明治39年)11月)は水戸藩士で儒学者・史学者。藩校である弘道館の教授頭取代理、彰考館権総裁代役を務めた。字は季卿、通称は量四郎、鉄槍・鉄槍斎と号した。婦人運動家・山川菊栄の外祖父。 1820年(文政3年)、水戸藩士・青山延于の四男(末子)として水戸城下田見小路(現在の水戸市北見町)に生まれる。長じて父に従い江戸に滞在し、古賀侗庵のもとで学んだ。その後水戸弘道館に出仕し、1843年(天保14年)には訓導となった。1846年(弘化3年)には安政の大獄で永蟄居となった主君・徳川斉昭の雪冤を訴えるため紀州侯に上書を提出することを計画し、これが露見したため免職となった。
新居 守村(あらい もりむら、文化5年8月15日〈1808年… 新居 守村(あらい もりむら、文化5年8月15日〈1808年10月4日〉 - 1893年〈明治26年〉4月19日)は、江戸時代後期から明治時代に活動した国学者、神道家。通称に又左衛門・又太郎。 文化5年(1808年)、上野国甘楽郡高瀬村(現・群馬県富岡市)に生まれる。新居家は小幡信真の感状を伝える旧家で、小幡藩御用達を勤める家柄だった。父は休兵衛秋住。 父の影響もあり文政5年(1822年)15歳の時に狂歌の社中に入った。浅草庵の黒川春村に教えを受ける。春村死後はその養子・真頼が上野国桐生出身だったこともあり彼と親しく交流した。 国学に志し賀茂真淵・本居宣長の著作を精読する。文政12年(1829年)に大和へ旅行した際、本居春庭(宣長の子)に教えを受けるため伊勢松阪を訪れるが、春庭は前年に死去しており果たせなかった。
原口 針水(はらぐち しんすい、文化5年8月3日〈1808年… 原口 針水(はらぐち しんすい、文化5年8月3日〈1808年9月22日〉 - 1893年〈明治26年〉6月12日)は、幕末から明治時代の浄土真宗の僧である。 肥後の山鹿郡内田村(現在の熊本県山鹿市)光照寺の密道の子として生まれ、幼年期から筑前の博多にある万行寺の住職だった曇龍の門人となる。後に彼から真宗学を学んだが、その後の1862年(文久2年)には本願寺の命令によりキリシタンの隆盛地だった長崎へ赴き、1863年(文久3年)には宣教師のチャニング・ウィリアムズ(立教大学創設者)とグイド・フルベッキからキリスト教の教義を学んだ。 しかし明治維新後の1872年(明治5年)に大教院の教導職にあたったことで、自身が学んだ経験のあるキリスト教を排撃する。
岩谷 九十老(いわや くじゅうろう、1808年7月21日(文… 岩谷 九十老(いわや くじゅうろう、1808年7月21日(文化5年6月28日) - 1895年(明治28年)3月12日)は、江戸時代後期-明治時代の公共事業家。石見国安濃郡川合村(現在の島根県大田市)の豪農。名は善九郎、善右衛門。 1808年7月21日(文化5年6月28日)、岩谷孝兵衛、もんの第七子として生まれる。もんの乳の出が悪く、小作農に預けられ、板の間に蓆を敷いて寝たり、麦飯さえ食べられず、芋飯を食べて育つという幼児期を過ごす。家に帰ってからも使用人と同じく働きながら、近所の医師土江三圭の下で読書・習字を習う。孝兵衛は九十老に家督を継ぐ器量があると見定め、学問をさせたと見られる。また、土江の塾で貝原益軒や太宰春台の本を読み、実用的な学問を学ぶ。
13代 木村 庄之助(じゅうさんだい きむら しょうのすけ、… 13代 木村 庄之助(じゅうさんだい きむら しょうのすけ、1808年 - 1879年2月15日)は、大相撲の立行司。本名は成田小太郎。出身地は福井県武生市。 幕末から明治にかけて23年間にわたって立行司をつとめた。浦風林右エ門の弟子で9代庄之助に師事した。初名は木村小太郎、のちに幸太郎、市之介(助)を名乗り、1848年11月に3代木村夛司馬を襲名。13代庄之助の座をめぐって6代庄九郎と対立、その座を勝ち取った。長く庄之助に在位、引退後は年寄・木村松翁となった。 1879年2月15日没、墓所は東京都江東区の玉泉院。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
秀ノ山 雷五郎(ひでのやま らいごろう、文化5年(1808年… 秀ノ山 雷五郎(ひでのやま らいごろう、文化5年(1808年) - 文久2年5月19日(1862年6月16日))は、陸奥国本吉郡(現・宮城県気仙沼市)出身で秀の山部屋に所属した大相撲力士。第9代横綱。本名は橋本(旧姓:菊田) 辰五郎(はしもと たつごろう)。 1808年に、陸奥国本吉郡(現・宮城県気仙沼市最知川原)で海運業と農業を営む家に五男として生まれる。当時家に出入りしていた荷揚げ人の中に元力士である籬嶋がいたが、籬嶋に辰五郎の二男である源太夫が相撲の指導を受け、土地相撲の大関として活躍していたことが刺激となり、辰五郎も力士を目指すようになった。その後は家の裏にあった榎を相手に毎日ぶつかった結果、榎を枯らしてしまったと伝わる。
大山 庄太夫(おおやま しょうだゆう、文化5年(1808年)… 大山 庄太夫(おおやま しょうだゆう、文化5年(1808年)- 慶応2年11月13日(1866年12月19日))は、江戸時代後期から末期の庄内藩士。留守居役。
賀来 惟熊(かく これたけ、1796年10月28日〈寛政8年… 賀来 惟熊(かく これたけ、1796年10月28日〈寛政8年9月28日〉 - 1880年〈明治13年〉2月25日)は、豊前国の殖産家。 豊前国宇佐郡佐田村(現在の大分県宇佐市)に生まれた。実家は現在の宇佐市安心院町佐田地区の庄屋である宇佐賀来家であり、佐田は肥前国島原藩の知行地(飛び地)であった為に島原藩に仕える人物であった。 惟熊は賀来家の当主として庄屋を引き継ぐと林業の重要性を説き、佐田の村人たちに杉の苗を植えるように指導したと伝わる。 また豊後国日出藩の儒学者である帆足萬里に弟子入りして学問を学んでいたが、帆足から海防強化の必要性を示唆された惟熊は、大砲製造の重要性を認識、島原藩の許可を得て自身の四人の息子や従弟に当たる賀来飛霞などの協力を得て安心院町佐田神社の境内に日本初とも言える反射炉を完成させ、江戸末期に佐田の反射炉で島原藩から鉄製大砲や銅製大砲を受注して鋳造を行ったという。
賀集 珉平(かしゅう/かしお みんぺい、1796年2月23日… 賀集 珉平(かしゅう/かしお みんぺい、1796年2月23日(寛政8年1月15日)- 1871年8月27日(明治4年7月12日))は、幕末から明治時代前期の陶芸家である。名は惟一。号は勝瑞。姓は加集とも表記される。 淡路に生まれ、後に上洛して初代尾形周平に師事し陶芸を学ぶ。その後故郷の伊賀野村に周平を招聘し庄屋を開き、黄南京写や京焼風を元に釉薬を発明し新しい作風の陶器を製作した。この焼風は現在の南あわじ市で制作される「淡路焼」と呼ばれ、別名として「珉平焼」と呼ばれる事となった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
嗒然(とうぜん、本姓・八幡、1796年〈寛政8年〉 - 18… 嗒然(とうぜん、本姓・八幡、1796年〈寛政8年〉 - 1862年1月5日〈文久元年12月6日〉)は、日本の僧侶、画家。 伯耆国会見郡皆生村(現・鳥取県米子市)の漁家に生まれる。11歳の時に大山寺に入り、台腎に師事し、剃髪して名を台貫と改める。詩文書画に堪能である。「千枚書き」と呼ばれるほど数多くの書画をこの世に残す。 「朝比奈三郎、曽我五郎の草摺りを曳く図」を描いて貴布禰神社に奉納する。晩年は大山寺を出て、山麓八幡に草庵を結び、迎嶽観主人太虚と号し、専ら風流三昧の境涯に浸り、十神山から発掘の古銅印を落款に用いる。文久元年12月6日に66歳で寂滅する。
玉垣 額之助(たまがき がくのすけ、1784年(天明4年) … 玉垣 額之助(たまがき がくのすけ、1784年(天明4年) - 1824年8月28日(文政7年8月5日))は、肥前国高来郡(現:長崎県雲仙市)出身の元大相撲力士。本名は田中 喜作(たなか きさく)(旧姓:岡田)。 最高位は西大関。 1784年(天明4年)に肥前国高来郡(現:長崎県雲仙市)で生まれる。当初は大坂相撲に加入していたが、後に江戸相撲・玉垣部屋へ移籍している。初土俵から間もない幕下二段目の時に徳島藩が抱え力士としようとするが、「阿波の稲は 島原の梁(よい米)に如かず」として拒否、これに感激した島原藩主・松平忠憑から1813年に徒士として召し抱えられた。 柏戸利助の良き好敵手で、当時の川柳には「(玉)垣と(柏)戸を 西と東の関に据え」「玉垣も 柏(戸)も地から 生えたよう」とあるように、東西の大関に玉垣と柏戸が並び、両者とも重い腰で熱戦を繰り広げ、なかなか土俵を割らない様子が歌われている。
緋縅 力弥(ひおどし りきや、緋縅力彌、明和9年(1772年… 緋縅 力弥(ひおどし りきや、緋縅力彌、明和9年(1772年) - 文政13年2月22日(1830年3月16日))は、江戸時代の大関。安芸国山県郡川戸(現・広島県北広島町)出身。本名、森脇 勝五郎。身長177cm、体重116kg。 幕内生活21年という、驚異的な長期間の活躍が記録されている。上位陣にはあまり通じなかったが、下位には順当に取りこぼし少なく、かつ運良く1場所だけ大関に昇進した。引退後は「赤翁」と称し、養子であった錦幸太郎改め、2代目緋縅力弥(緋縅力弥)の活躍を楽しみとした。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
加藤 民吉(かとう たみきち、1772年 - 1824年)は… 加藤 民吉(かとう たみきち、1772年 - 1824年)は江戸時代の陶工。同名を名乗った人物は6人いるが、本記事では「磁祖」と呼ばれる初代民吉について主に記す。 明和9年(1772年)2月20日、尾張国春日井郡の瀬戸村(現在の瀬戸市)にあった大松窯という窯元の次男として生まれる。生家は瀬戸の山陶屋家の分家筋にあたる家系で、幼名を松次郎と言った。 当時の瀬戸窯は肥前国有田の伊万里焼をはじめとする磁器に押され、「窯屋1軒にロクロ1挺」「窯を継ぐのは長子のみ」などの規制によって生産量を制限していたため、長兄の晴生(加藤吉右衛門)が窯を継いだことで陶工としての職を失った民吉は、享和元年(1801年)に父・吉左衛門らとともに熱田前新田(現在の名古屋市港区)の入植者として名古屋に移り住んだ。
二所ノ関 軍右エ門(にしょのせき ぐんえもん、1760年〈宝… 二所ノ関 軍右エ門(にしょのせき ぐんえもん、1760年〈宝暦10年〉 - 1823年3月17日〈文政6年2月5日〉)は、伊勢ノ海部屋及び柏戸部屋に所属した元力士。四賀峰東吉(元大関)は甥、娘婿に当たる。 本名は小田島 音藏。身長184cm、体重109kg。出身地は現在の岩手県北上市(旧・陸奥国和賀郡)。最高位は西大関。南部藩の抱えであった。 最初は南部相撲で相撲人生をスタートさせた。1783年3月に初土俵(二段目〈現在の幕下〉)を踏んだ。1786年3月東二段目6枚目にあがり、現在でいう十枚目昇進を果たす。1789年11月場所、西十両筆頭で7勝1敗2分の優勝相当成績を挙げ、翌1790年3月場所で新入幕を果たした。
関ノ戸 億右エ門(せきのと おくえもん、元文元年〈1736年… 関ノ戸 億右エ門(せきのと おくえもん、元文元年〈1736年〉 - 天明2年4月17日〈1782年5月28日〉)は、陸奥国(現在の岩手県)出身の大相撲力士。 現在の岩手県一関市花泉町永井出身。 初代伊勢ノ海(幕内・伊勢ノ海五太夫)が開いた伊勢ノ海部屋に入門。頭書は「仙台」。宝暦7年(1757年)10月場所にいきなり前頭筆頭に附け出される形で初土俵を踏む。その後小結から関脇を務め、三役力士としての貫禄を示した。 安永3年(1774年)、初代伊勢ノ海が没すると、2代伊勢ノ海を襲名し、二枚鑑札で現役のまま部屋を経営。安永6年(1777年)10月場所限りで現役を引退、年寄専務となり、初代同様仙台藩の後ろ盾を得て勢力を維持する。
緒形 仁平(おがた にへい、1712年8月26日〈正徳2年7… 緒形 仁平(おがた にへい、1712年8月26日〈正徳2年7月25日〉 - 1796年5月19日〈寛政8年4月13日〉)は、日本の鉄山師。伯耆国黒坂の緒形家7代。諱は政直。四郎兵衛と称する。 伯耆国黒坂(現・鳥取県日野郡日野町)の人。元文5年、宗旨庄屋、宝暦3年(1753年)、大庄屋となる。宝暦4年(1754年)8月、米300石差出し、翌宝暦5年の藩邸上屋敷類焼に際して畳2000枚差上げ、米子城修復米積立法により米1800石を積立てるよう命ぜられた時は、そのうち400石を自分で拠出する。さらに福田家からは、取替銀の利息として年々米20石を受ける。 殖産興業にも意を用い各地の開拓、水利の改良等に努力する。
徳川 光圀(とくがわ みつくに、寛永5年6月10日〈1628… 徳川 光圀(とくがわ みつくに、寛永5年6月10日〈1628年7月11日〉 - 元禄13年12月6日〈1701年1月14日〉)は、江戸時代前期の大名。常陸水戸藩の第2代藩主。諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。江戸幕府初代将軍・徳川家康の孫に当たる。 儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。 後世では創作の題材になり「水戸黄門」として知られている。「水戸黄門」の「水戸」とは領地である水戸のこと、「黄門」は官職である中納言・権中納言の唐名(漢風名称)である。一般に「水戸黄門」といえば光圀のことを指すが、歴代の水戸藩主には光圀以外にも頼房、綱條、治保、斉脩、斉昭、慶篤が中納言・権中納言に任じられており、「水戸黄門」と呼ぶに足る人物は7人いたことになる。
中浦 ジュリアン(なかうら ジュリアン、Nakaura Ju… 中浦 ジュリアン(なかうら ジュリアン、Nakaura Julian, Nacaura Julian, Nacaura Juliaô, 中浦寿理安、 1568年2月8日ころ〈永禄11年正月〉 - 1633年10月21日〈寛永10年9月19日〉)は、肥前国彼杵郡中浦(現・長崎県西海市西海町中浦)の城主・小佐々兵部少輔甚五郎純吉(小佐々純吉、こざさ すみよし)の一人息子で、中浦は地名、ジュリアンは洗礼名で、幼名は小佐々甚吾(こざさ じんご)。安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタンで、天正遣欧少年使節の副使。イエズス会士でカトリック教会の司祭となり、殉教して福者となった。 中浦ジュリアンの出自については、宣教師の報告書などを所蔵するイエズス会ローマ文書館や天正遣欧少年使節が公式訪問したイタリア・スペイン各地の文書館に資料が残されている。
吉山 明兆(きつさん みんちょう、正平7年/文和元年(135… 吉山 明兆(きつさん みんちょう、正平7年/文和元年(1352年) - 永享3年8月20日(1431年9月26日))は、室町時代前・中期の臨済宗の画僧。 淡路国津名郡物部庄(現:兵庫県洲本市物部)出身。西来寺(現:兵庫県洲本市塩屋2丁目)で出家後、臨済宗安国寺(現:兵庫県南あわじ市八木大久保)に入り、東福寺永明門派大道一以の門下で画法を学んだ。その後、大道一以に付き従い東福寺に入る。周囲からは禅僧として高位の位を望まれたが、画を好む明兆はこれを拒絶して、初の寺院専属の画家として大成した。作風は、北宋の李竜眠や元代の仏画を下敷きにしつつ、輪郭線の形態の面白さを強調し、後の日本絵画史に大きな影響を与えた。