スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
畠山 ひすい(はたけやま ひすい、2002年5月27日 - … 畠山 ひすい(はたけやま ひすい、2002年5月27日 - )は、埼玉県川口市出身の女子競輪選手。日本競輪選手会神奈川支部所属、ホームバンクは川崎競輪場。日本競輪選手養成所(以下、養成所)第122期生。師匠は盛田将人(92期)。 「ひすい」の名前は、母親の故郷である糸魚川で取れる宝石の原石に因んで名付けられた。 小学3年生の時、大宮競輪場での子供向けイベントに父親が連れていってくれた際に、競輪のレースを見て自身も「やってみたい」と思うようになった。Jリーガーだった叔父(母の弟)・齋藤将基の影響で小学5年生からサッカーを始める。小学生の時に旅行で訪れた北海道の自然に惹かれ、北海道の中学校に通いたいと思うようになり、山村留学で北海道鹿追町の中学校へ通った。
草薙 厚子(くさなぎ あつこ、1964年7月21日 - )は… 草薙 厚子(くさなぎ あつこ、1964年7月21日 - )は、北海道出身の女性ジャーナリスト、ノンフィクション作家。日本文藝家協会会員。明治学院大学社会学部卒業。元東京少年鑑別所法務教官。 2002年から2003年にかけて、森昭雄が提唱する「ゲーム脳」を少年犯罪と結びつけた記事を執筆し、この仮説を「科学的に正しいもの」であるとしている。また、「川島隆太が『テレビゲームが脳に悪影響を与える』と発言した」とする記事も書いている。 2007年6月5日、奈良家庭裁判所が、奈良自宅放火母子3人殺人事件を取材した著書『僕はパパを殺すことに決めた 奈良エリート少年自宅放火事件の真実』について「少年審判に対する信頼を著しく損ない、関係者に苦痛を与えかねない」として、草薙と講談社に抗議文を送る。
八戸 かおり(はちのへ かおり、1964年1月4日 - )は… 八戸 かおり(はちのへ かおり、1964年1月4日 - )は、北海道函館市出身の日本の女子柔道家。61kg級の選手。身長162cm。得意技は大外刈と寝技。現姓は森山。 小中学生の頃は水泳を習っていて、全国レベルで活躍する。さらに柔道も中学2年で始める。遺愛女子高校に入学すると柔道に専念して、早くも全日本女子体重別の上位に入る活躍を見せ、東海大学に入学後はついに体重別で優勝を果たし、大学3年の時には世界選手権で3位に入る。 また、無差別の全日本選手権の第1回大会では61kg級の選手ながら、体重を70Kg近くまで増量して出場、決勝では自分より50kgも重い松本宣子と対戦して判定勝ちを収めて優勝を飾った。
中原理恵(なかはら りえ、1958年〈昭和33年〉6月17日… 中原理恵(なかはら りえ、1958年〈昭和33年〉6月17日 - )は、日本の元歌手・女優・タレント・司会者。かつて田辺エージェンシーに所属していた。本名は目加田 貴美恵(めかた きみえ)。 北海道函館市出身。函館市立潮見中学校・遺愛女子高校卒業。 上京前は高校卒業後に札幌で喫茶店のウエートレスや、高級クラブのホステスを務めていた時期もあったという。「以前は歌手よりファッションデザイナーになりたかったの。高校を出ると、とにかく東京に行きたいと計画していました。でもある日、デザイナーでも歌手でも自分の世界をつくることに変わりはない。自分の世界をつくれれば最高!と思うようになりました」と歌手の道を選んだ。
大崎 誠子(おおさき せいこ、1956年8月28日 - )は… 大崎 誠子(おおさき せいこ、1956年8月28日 - )は、日本の政治家。元アナウンサー・報道記者。自由民主党所属の元北海道議会議員(4期)。 北海道函館市出身。遺愛女子高等学校[要出典]、明治学院大学社会学部卒業。1979年、北海道文化放送(UHB)にアナウンサーとして入社。「テレビ道新6:30」→「UHBイブニングニュース」→「UHBスーパータイム」を始めとした各種番組の司会者、キャスターとして活動。 1986年にはアメリカ合衆国へ語学留学し一時休職。1991年にテレビ北海道(TVh)に報道記者として転籍し、北海道の行政・経済を中心に取材。一時期は『TVh道新ニュース』の土曜日のキャスターも担当したことがある。
叶 和貴子(かのう わきこ、1956年4月23日 - )は、… 叶 和貴子(かのう わきこ、1956年4月23日 - )は、日本の女優。本名、高松 和貴子。 北海道函館市生まれ。中学・高校時代は陸上競技で活躍し、女子80mハードルで北海道記録をマークした。 1977年に桐朋学園短期大学音楽科を卒業後、ピンク・レディーや郷ひろみのバックコーラスを務めた。女優への転身のきっかけは、「和服の似合う美人女優」を探していた久世光彦に郷が叶を紹介したことによる。1980年にTBSのテレビドラマ『源氏物語』の紫の上役でデビューした。芸名の由来は「自分の可能性を試すデビューだから」ということで「可能」を「叶」に変えて付けたという説がある。最初に所属していた事務所はバーニングプロダクション。
笹原 美智子(ささはら みちこ、1955年5月27日 - )… 笹原 美智子(ささはら みちこ、1955年5月27日 - )は、東京都出身の日本の柔道家。現役時代は61kg級及び65kg級の選手。 高校を卒業後に安田火災海上に入社するも、柔道に専念するために退社した。1978年7月に講道館で初開催となった女子の体重別選手権65kg級に出場すると、決勝で今立篤子を合技で破って初代チャンピオンに輝いた。なお、この当時はプロレスラーのアントニオ猪木に憧れていて、1日6時間は稽古を積んでいたという。1979年には体重別選手権決勝で遺愛女子高校1年の八戸かおりを破って2連覇を飾った。講道館で初開催となった強化選手選考会の60kg級では3位だった。1980年には体重別選手権の61kg級決勝で八戸を破って優勝を飾り、女子としては初めての開催となる世界選手権の代表に選出された。
山内 絵美子(やまうち えみこ、1953年12月17日 - … 山内 絵美子(やまうち えみこ、1953年12月17日 - )は、日本の女優・歌手。北海道函館市出身。身長164 cm、B88 cm、W59 cm、H88 cm(1975年3月) 遺愛女子高等学校卒業。1972年に上京後、スカウトされモデルとしてデビュー、1973年、東映に所属となり、山内えみ子の芸名でデビュー。 映画デビュー作『ネオンくらげ』でグラマラスなヌードと体当たり演技を披露し注目され、以後セクシーかつ不良の香りのする役で『番格ロック』、『ネオンくらげ 新宿花電車』に主演。 1974年、映画『聖獣学園』に助演後、歌手としてもデビュー。ロングヘアーの黒髪が印象的な女優だったが、歌手活動後の70年代後半にはショーカットのスタイルにしている。
味戸 ケイコ(あじと ケイコ、1943年9月27日- )は、… 味戸 ケイコ(あじと ケイコ、1943年9月27日- )は、日本のイラストレーター、絵本作家。 北海道函館市 で生まれる。遺愛女子高等学校を経て、1965年に多摩美術大学 デザイン科を卒業する。 大学卒業後は印刷会社デザインルーム、PR誌を作る制作会社に勤めるが、パニック障害を起こし自宅待機でカット描きを1年間行っていた。会社勤めが合わないことを自覚し、フリーのイラストレーターになる。 1971年、菊地信義の依頼で『月刊エレクトーン』(ヤマハミュージックメディア)創刊号から1年間の表紙イラストの発注を受け、本格的にデビューする。この表紙画がイラスト年鑑に掲載され、1973年に年鑑を見たやなせたかし、原田奈翁雄からそれぞれ雑誌『詩とメルヘン』(サンリオ)、雑誌『終末から』(筑摩書房)の表紙画の依頼が舞い込み、以後、各方面で活躍する。
佐藤 昌介(さとう しょうすけ、1856年12月21日(安政… 佐藤 昌介(さとう しょうすけ、1856年12月21日(安政3年11月24日) - 1939年(昭和14年)6月5日)は、日本の教育者。北海道帝国大学初代総長。日本初の農学博士のひとり。 現在の岩手県花巻市出身。父は南部藩士の佐藤昌蔵。1870年(明治3年)1月には藩校の作人館に入り漢学を学ぶ(同窓生に原敬らがいる)。1871年に上京。私塾や大学南校などで英学を修業。また、この頃に横浜でキリスト教に接した。1872年(明治5年)5月に一時帰郷。その後、1874年3月に東京外国語学校に入学(英語科は同年12月27日に東京英語学校に改組、東京開成学校の「予科」と統合されて東京大学予備門となり、現東京大学)。
本多 庸一(ほんだ よういつ、1849年1月7日(嘉永元年1… 本多 庸一(ほんだ よういつ、1849年1月7日(嘉永元年12月13日) - 1912年(明治45年)3月26日)は、日本のキリスト教伝道者・牧師・教育者・政治家。日本メソヂスト教会の初代監督。青森県弘前市生まれ。新島襄、植村正久、内村鑑三、新渡戸稲造と並び、明治期日本におけるキリスト教主義教育の先駆者とされる。 本多の先祖は、徳川家譜代の本多氏の流れを汲む。 弘前藩士、石高300石の本多八郎左衛門久元(1823年-1896年)と本多トモの長男として1848年(嘉永元年)に弘前城下在府町に生まれる。幼名を徳蔵と言った。祖父、東作久貞は藩の要職を歴任した人物であった。 1858年、10歳より弘前藩の藩校稽古館で漢書の素読、儒学を学んだ。
内藤鳴雪(ないとう めいせつ、1847年5月29日(弘化4年… 内藤鳴雪(ないとう めいせつ、1847年5月29日(弘化4年4月15日) - 1926年(大正15年)2月20日)は、幕末の伊予松山藩の武士、明治期の官吏、明治・大正期の俳人。幼名は助之進、元服して師克(もろかつ)、のち素行(もとゆき)。俳号の「鳴雪」は、「何事も成行きに任す」の当て字という。鳴雪の号のほか、南塘・破蕉・老梅居も用いた。 伊予松山藩の上級武士内藤房之進と八十(やそ)の長男として、藩の江戸中屋敷に生まれた。嘉永2年(1849年)に実母が死去すると、曾祖母と祖母のもとで育てられた。安政元年(1854年)頃から父に漢籍を教わり、軍記物や草双紙、寄席や義太夫に親しんだ。なお、同時期に小使として出仕していた原田左之助(後の新撰組幹部で十番隊隊長。