スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
伊藤 直也(いとう なおや、1977年9月18日 -)は、日… 伊藤 直也(いとう なおや、1977年9月18日 -)は、日本のソフトウェアエンジニア、経営者。2019年11月現在、一休の執行役員・CTO。はてなの元取締役・CTO。少なくともかつては、はてな社の大株主の一人であった(2016年時点で2.0%、5万株保有。2019年7月末時点では、1.38%以下しか有していない)。 情報処理学会の「ソフトウェアジャパンアワード2009」、楽天の「楽天テクノロジーアワード2014」をそれぞれ共同で受賞。 青山学院大学理工学部物理学科卒業。青山学院大学大学院理工学研究科博士課程前期修了(物理学専攻)。修士論文題目は「物理学科サブネットワークの現状と学科内 LAN 再編成への提言」。
石井 浩郎(いしい ひろお、1964年6月21日 - )は、… 石井 浩郎(いしい ひろお、1964年6月21日 - )は、日本の元プロ野球選手、政治家、実業家。自由民主党所属の参議院議員(3期)。 2010年、参議院議員選挙に自由民主党から立候補し、初当選。以降3回連続当選。秋田県南秋田郡八郎潟町出身。 八郎潟町立一日市小(6年生の時に統合して八郎潟町立八郎潟小学校となる)、八郎潟町立八郎潟中学校を卒業後、1980年に県内一の進学校であり、県内では野球強豪校でもある秋田県立秋田高等学校に進学。1年先輩に主将を務めた猿田和三がいた。1981年秋季東北大会に進み、東北高との1回戦で投手として先発、金子誠一と投げ合うがコールド負けを喫する。翌年夏も秋田大会で敗れ甲子園には出場できなかった。
伊藤 新(いとう あらた、1961年(昭和36年)7月22日… 伊藤 新(いとう あらた、1961年(昭和36年)7月22日-)は、日本の実業家、銀行家。北都銀行取締役。 秋田県出身。秋田県立秋田高等学校、早稲田大学商学部を卒業後、日本債券信用銀行(現在のあおぞら銀行)に入行。 1991年に羽後銀行(現在の北都銀行)に入行する。北都銀行八橋支店長や秋田西支店長、経営企画部長、執行役員横手支店長、ミナミ保険代表取締役社長などを歴任。 2016年に常務取締役、2017年にはフィデアホールディングス常務執行役を兼ねる。 2018年にはフィデアホールディングス専務執行役および北都銀行取締役専務執行役員となる。 2019年4月1日付けで斉藤永吉の後任として北都銀行代表取締役頭取に就任した。
駒橋 憲一(こまはし けんいち、1957年2月8日 - )は… 駒橋 憲一(こまはし けんいち、1957年2月8日 - )は、日本の編集者、実業家。株式会社東洋経済新報社代表取締役会長。 秋田県出身。1975年秋田県立秋田高等学校卒業。1980年北海道大学法学部卒業、東洋経済新報社入社。1997年会社四季報編集長。2002年会社四季報プロ 500編集長。2003年第二編集局データバンク第一部長。2007年取締役第二編集局長に昇格。2012年常務取締役データ事業局長。2016年専務取締役。2017年代表取締役社長。北海道大学次世代大学力強化推進会議委員等も務めた。
新谷 明弘(あらや あきひろ、1955年(昭和30年)2月9… 新谷 明弘(あらや あきひろ、1955年(昭和30年)2月9日 - )は、日本の実業家。秋田銀行代表取締役頭取や取締役会長を歴任した。秋田県南秋田郡五城目町出身。
斉藤 永吉(さいとう えいきち、1950年(昭和25年)4月… 斉藤 永吉(さいとう えいきち、1950年(昭和25年)4月2日 - )は、日本の実業家。北都銀行名誉顧問。秋田経済同友会代表幹事。 秋田県湯沢市出身。中央大学法学部卒業後、羽後銀行入行。長らく企画部門を担当した。 かねてから将来の頭取候補と目されてきたが、荘内銀行との経営統合実現にむけた改革の手腕を見込まれて、2008年6月、加賀谷武夫の後継として頭取に就任した。トップに就任後、従来、地元の直面する諸問題に本腰を入れ、取り組んでこなかったことを猛省し、何よりも地域の信頼を取り戻すことに全力を注ぐ決意を固め、本部最優先の組織体質、形式主義のまかり通る経営、男尊女卑的な企業風土などが象徴的に見られていた北都銀に風穴をあけようと、外部から積極的に人材を登用し改革を進めた。
進藤 孝生(しんどう こうせい、1949年9月14日 - )… 進藤 孝生(しんどう こうせい、1949年9月14日 - )は、日本の実業家。新日鐵住金代表取締役社長を経て、日本製鉄代表取締役会長、幕張メッセ取締役会長、日本経団連副会長、世界鉄鋼協会会長、日中経済協会会長、国土交通省社会資本整備審議会会長等を歴任。 秋田県出身。秋田県立秋田高等学校(生徒会長)、一橋大学経済学部卒業(総代)。宮澤健一ゼミ出身。ハーバード大学経営大学院修了(経営学修士)。中学では野球部に所属。高校・大学ではラグビー部でフォワードを担当し、高校では全国ベスト4、ベスト8まで進出、大学でもラグビー部主将を務めた。のちに一橋大学ラグビー部監督や同部OB会長を歴任。前任の会長は杉山武彦。
辻 兵吉(つじ ひょうきち、1926年(大正15年)5月26… 辻 兵吉(つじ ひょうきち、1926年(大正15年)5月26日 - 2008年(平成20年)7月5日)は、日本の実業家。辻兵グループ総帥。日本青年会議所、秋田商工会議所会頭、日本バスケットボール協会会長などを務めた。秋田県秋田市出身。 秋田県屈指の素封家である1856年(安政3年)創業の呉服店「辻兵」に生まれた。辻兵太郎の息子。秋田県立秋田中学校(現:秋田県立秋田高等学校)、東京商科大学(現:一橋大学)を卒業後、高島屋飯田(現:丸紅)に入社。 1952年(昭和27年)、五代目兵吉を襲名。以後、辻兵・辻不動産・秋田いすゞ自動車などの辻兵グループ企業のトップを務め、同グループを秋田県下有数の企業グループまでに育てた。
加賀谷 力司(かがや りきじ、1916年〈大正5年〉– 20… 加賀谷 力司(かがや りきじ、1916年〈大正5年〉– 2002年〈平成14年〉)は、日本の政治家・実業家。 林業、建設業を営む企業の経営に携わるとともに、地元秋田県を中心に、戦後日本の地域社会や林業振興・緑化推進に長年にわたって継続的な影響を与えた人物として知られる。 1916年に秋田県五城目町に生まれる。父・加賀谷直治は秋田県議会副議長を務めた政治家であり、加賀谷家は地域において代々公職と産業に携わってきた。秋田県立秋田高等学校、そして早稲田大学で教育を受けたのち、地元に戻り、木材・造林・建設業を中心とする家業を継承。企業経営と地域の活性化を通じて、地域の復興と発展に尽力した。 1951年(昭和26年)に五城目町議会議員に初当選、1956年には町議会議長に就任し、翌1957年より町長を務めた。
塩田 雄次(しおた ゆうじ、1913年(大正2年)1月19日… 塩田 雄次(しおた ゆうじ、1913年(大正2年)1月19日 - 1994年(平成6年)1月8日)は、日本の実業家。羽後銀行頭取、北都銀行初代会長。 塩田団平の次男として、秋田県平鹿郡雄物川町(現:横手市)に生まれる。 秋田県立秋田中学校、慶應義塾大学法学部卒業後、第百銀行(後に三菱銀行に吸収合併、現在の三菱UFJ銀行)に入行。21年あまり在籍し品川支店次長等を歴任する。 1958年には、羽後銀行に転じ、その後頭取に昇格する。頭取在任時には、本店の横手市から秋田市への移転や本店新館の建設、さらにはオンラインシステムの導入、店舗網の整備等、経営の近代化を推進した。1988年には代表取締役会長に退き、1993年に秋田あけぼの銀行との合併で誕生した北都銀行会長に就任した。
辻 兵太郎(つじ ひょうたろう、1899年(明治32年)4月… 辻 兵太郎(つじ ひょうたろう、1899年(明治32年)4月18日 - 1954年(昭和29年)6月24日)は、日本の政治家(秋田市会議員、同副議長)、商人(呉服商、秋田県呉服太物商組合長)、実業家。秋田土地社長。辻代表。秋田商工会議所副会頭。 秋田県・辻兵吉の長男。辻吟次郎の甥。1917年、秋田中学卒業。1919年、志願兵として入営し、陸軍中尉に進級した。呉服商を営み傍ら会社の重役であった。秋田市会議員に推され、1942年7月13日、副議長(第18代)に就任し、1945年3月10日、退任した。 趣味は囲碁、運動。宗教は浄土真宗。秋田県在籍。住所は秋田市大町、東京市麹町区永田町。
人見 誠治(ひとみ せいじ、1898年(明治31年)1月12… 人見 誠治(ひとみ せいじ、1898年(明治31年)1月12日 - 1978年(昭和53年)1月16日)は、日本のジャーナリスト、マスメディア経営者。 1898年(明治31年)秋田市中亀ノ丁に生まれる。1915年(大正4年)に秋田中学校を卒業し、小学校代用教員などを務める。 1927年(昭和2年)、秋田魁新報社に入社。運動部記者、政経部記者を経て、計画部長兼地方部長、計画部長兼社会部長、業務局次長兼計画部長などを歴任し、1943年(昭和18年)取締役に就任する。以後、常務取締役業務局長、専務取締役を務め、1946年(昭和21年)11月代表取締役社長に就任、同社の経営に当たった。1953年(昭和28年)、ラジオ東北株式会社を設立(代表取締役社長)。
長崎 惣之助(ながさき そうのすけ、明治29年(1896年)… 長崎 惣之助(ながさき そうのすけ、明治29年(1896年)6月25日 - 昭和37年(1962年)11月7日)は、日本の鉄道官僚、実業家。第3代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1951年-1955年)。日本エアウェイ開発社長(在任1961年-1962年)。 秋田県南秋田郡川尻村(後の秋田市川尻上野町)で村長の長崎惣太郎の長男として生まれる。幼少の頃から成績優秀で長身でもあり、川尻小学校・牛島高等小学校を経て秋田中学校へと入る。中学校ではボート部に所属し、その後第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部独法科を卒業。 1920年鉄道省入省。1926年在外研究員として欧米に派遣され、その後1930年に設置された国際観光局の庶務課長に任命され、1932年経理局会計課長となる。
村上 清治(むらかみ せいじ、1895年(明治28年)3月1… 村上 清治(むらかみ せいじ、1895年(明治28年)3月19日 - 1955年(昭和30年)10月13日)は、大正から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、秋田県由利郡上郷村長。 秋田県由利郡上郷村横岡(象潟町を経て現にかほ市)で、素封家の家に生まれる。秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を経て、1916年(大正5年)東北帝国大学農科大学農学実科(現北海道大学農学部)を卒業。農業に従事した。 不動建物取締役社長、上郷村農業会長、同農会評議員、同信用組合理事、同森林組合長、上郷文化協会長、由利郡農業会長会副会長、象潟上郷上浜信用購買販売利用組合監事などを務めた。 政界では、上郷村会議員(3期)、秋田県会議員(1期)、上郷村長、由利郡仁賀保町村長会長、秋田県町村長会評議員などを務めた。
三浦 襄(みうら じょう、1888年(明治21年)8月10日… 三浦 襄(みうら じょう、1888年(明治21年)8月10日 - 1945年(昭和20年)9月7日)は、日本の実業家。第二次世界大戦時に日本の占領下にあったバリ島でインドネシア解放の大義を信じ民政部顧問として働いたが、日本の敗戦により解放の約束を果たせず、その責任を取り自決した。 1888年(明治21年)、日本基督一致教会の牧師一家の次男として仙台にて生まれる。秋田中学(現・秋田県立秋田高等学校)に進むも、在学中は、経済的状況の厳しさから牛乳配達のアルバイトをして過ごした。1905年(明治38年)、父のハワイ日本人教会赴任に伴い、東京都港区に引っ越し、明治学院普通部に編入。 やがて堤林数衛が商売と伝道を兼ねて設立した南洋商会への入会を決意すると、1908年(明治41年)、明治学院を中退し、1909年(明治42年)4月にジャワ島スマランに渡航。
近江谷 栄次(おうみや えいじ、1874年(明治7年)1月2… 近江谷 栄次(おうみや えいじ、1874年(明治7年)1月20日 - 1942年(昭和17年)6月8日)は、日本の実業家、衆議院議員。号は井堂。秋田県出身。小牧近江(翻訳家・社会運動家)、島田晋作(衆議院議員)は子。 秋田県南秋田郡一日市村(現八郎潟町)の生まれ。旧姓名は畠山留吉。16歳のとき、土崎港(現在の秋田市土崎港)の商人近江谷家の養子となる。最終学歴は、秋田中学校中退。1889年(明治22年)栄治(のちに栄次)の名を襲名すると、20代の青年にして地元経済の基盤作りに取り組み始める。 私財を投じての秋田港改修工事は、13年かかって1902年(明治35年)に終了。改修後の港は近江谷が招請した廣井勇にちなんで「廣井波止場」と名づけられたが、「近江谷波止場」とも呼ばれた。
佐々木 駒之助(ささき こまのすけ、1873年(明治6年)7… 佐々木 駒之助(ささき こまのすけ、1873年(明治6年)7月6日 - 1954年(昭和29年)6月2日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。東洋拓殖総裁、貴族院勅選議員。 秋田県仙北郡花館村(大曲市花館を経て現大仙市)で、佐々木多右衛門の三男として生まれ、1885年(明治18年)6月、叔父・佐々木福蔵の養子となる。秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を経て、1899年(明治32年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。 福澤諭吉の紹介で堺市の会社に就職。その後、1900年(明治33年)山口銀行に入行し、理事兼営業部長、常務取締役などを歴任。三和銀行の創設に尽力した。その他、山口合資会社理事長、日本生命保険会長、共同火災保険会長、トヨタ自動車工業監査役、財団法人東亜研究所評議員、南洋協会評議員などを務めた。
安藤 和風(あんどう はるかぜ、慶応2年1月12日(1866… 安藤 和風(あんどう はるかぜ、慶応2年1月12日(1866年2月26日) - 昭和11年(1936年)12月26日)は、日本のジャーナリスト、マスメディア経営者、俳人、郷土史研究家。通名および俳号は「和風」をそのまま音読みして「わふう」。秋田県の地方紙「秋田魁新報」の事業拡大に貢献し、秋田魁新報社三大柱石の一人と称された。「魁の安藤か、安藤の魁か」と言われるほど、新聞記者としての名声を全国にとどろかせた。 俳号・雅号として他に、柳外、夢蝶、時雨庵、大蕗軒、白松子、太平山人、城南陰士、自適庵、布々木園、蝶々、松陰舎、松庵など十数以上を用いていた。 秋田藩士安藤和亭(通名は和市)、イクの長男として生まれる。
清岡 等(きよおか ひとし、1864年1月16日(文久3年1… 清岡 等(きよおか ひとし、1864年1月16日(文久3年12月8日) - 1923年(大正12年)12月31日)は、日本の政治家、実業家。 陸奥国盛岡(現岩手県盛岡市)生まれ。父親行三の関係で秋田で過ごし太平学校(旧制秋田中学校、現秋田県立秋田高等学校)を卒業。1882年(明治15年)から1894年(明治27年)まで岩手県庁に勤務。1894年から1901年(明治34年)まで盛岡市長を務めた。1902年の第7回衆議院議員総選挙に出馬して原敬に敗れる。その後、盛岡電気社長、巖手日報の主筆、同社長などの事業を手がけた。
町田 忠治(まちだ ちゅうじ、文久3年3月30日(1863年… 町田 忠治(まちだ ちゅうじ、文久3年3月30日(1863年5月17日) - 昭和21年(1946年)11月12日)は、明治から昭和期の政治家、実業家、ジャーナリスト。 衆議院議員(当選10回)。立憲民政党・日本進歩党総裁、農林大臣・商工大臣・大蔵大臣(兼任)などを歴任したが最晩年は公職追放された。正三位勲一等。号は幾堂。愛称はノンキナトウサン。 出羽国秋田郡久保田城下の秋田保戸野八丁新田上丁(現秋田県秋田市保戸野八丁)に秋田藩士・町田伝治の四男として誕生。父伝治は3歳の時に亡くなったため、祖父町田平治と母シン子によって育てられた。大正期の『中央公論』編集長・滝田樗陰は甥にあたる。 1875年(明治8年)に叔母町田直の養子となり、家督を継いだ。