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谷合 廣紀(たにあい ひろき、1994年1月6日 - )は、… 谷合 廣紀(たにあい ひろき、1994年1月6日 - )は、日本の情報工学者、将棋棋士。東京都中央区出身。お茶の水女子大学附属小学校、獨協中学校・高等学校、東京大学工学部電気電子工学科卒業、同大学院情報理工学系研究科電子情報学専攻博士課程に在籍(2025年現在は休学中)。将棋においては中座真門下。棋士番号は323。 アマ有段者の祖父に教わり6歳から将棋を始める。2006年に新進棋士奨励会に6級で入会。2011年9月に三段に昇段し、同年下期(第50回)より三段リーグに初参戦する。2016年下期(第60回)に3位(次点)があるものの、なかなか上位2名の昇段枠に入れず、都合8年半(17期)にわたり三段リーグに留まる。
丸山 宗利(まるやま むねとし、1974年4月30日 - )… 丸山 宗利(まるやま むねとし、1974年4月30日 - )は、日本の昆虫学者、著述家。九州大学総合研究博物館准教授。アリやシロアリと共生する昆虫の分類や生態解明が専門分野だが、研究対象は多岐にわたる。 東京都出身。東邦大学理学部卒業。北海道大学大学院農学研究科博士課程修了。博士(農学)。 1974年、母の実家のある静岡県に生まれる。その後、東京都の新宿区、江戸川区で幼少期を過ごす。 獨協高等学校を卒業後、東邦大学理学部生物学科に進学する。大学3年生の3月から千葉県立中央博物館に通い、ハネカクシの分類学的研究を始める。卒業研究ではヒメキノコハネカクシ属27種を扱い、5本の論文として出版された。 1998年に北海道大学大学院農学研究科の昆虫体系学教室に進学する。
新井 仁之(あらい ひとし、1959年 - )は、日本の数学… 新井 仁之(あらい ひとし、1959年 - )は、日本の数学者、理学博士。早稲田大学教育・総合科学学術院教授、東京大学名誉教授。専門は、実解析学、調和解析学、ウェーブレット解析、視覚・錯視の数学的研究。 神奈川県横浜市生まれ。1982年、早稲田大学教育学部卒業。1984年、同大学大学院理工学研究科修士課程修了。その後、東北大学理学部助手、講師、助教授、教授、プリンストン大学客員研究員、東京大学大学院数理科学研究科教授を経て、早稲田大学教育・総合科学学術院教授、東京大学名誉教授。 1987年、早稲田大学より理学博士。論文の題は「Brownian Martingaleとその多変数Hardy空間への応用 」。
新井 孝重(あらい たかしげ、1950年1月1日 - )は、… 新井 孝重(あらい たかしげ、1950年1月1日 - )は、日本の日本史学者、獨協大学教授。 埼玉県入間郡日高町(現:日高市)生まれ。1973年早稲田大学第一文学部日本史学科卒業。1983年同大学院博士課程満期退学。2001年「東大寺領黒田荘の研究」で博士(文学)。獨協中学校・高等学校教諭、獨協大学経済学部助教授、教授(日本社会史)。
清水 幾太郎(しみず いくたろう、1907年7月9日 - 1… 清水 幾太郎(しみず いくたろう、1907年7月9日 - 1988年8月10日)は、日本の社会学者・評論家。学習院大学教授などを歴任。 1907年、東京市日本橋区(現在の東京都中央区)の竹屋の息子として生まれた。祖父は江戸幕府旗本であった。獨協中学、旧制東京高校を経て、東京帝国大学文学部社会学科卒業。文学部社会学科時代の恩師は戸田貞三。在学中からオーギュスト・コントの研究にいそしむ。中学時代にドイツ語を学んで堪能であったが、フランス語は大学時代に習得したものである。 大学卒業後、1931年東京帝国大学社会学研究室副手に採用された。社会学研究室副手の2代前の副手が同じ戸田貞三門下の兄弟子牧野巽で、牧野は清水を弟と思い、清水は牧野を兄と思い親しくしていた。
市川 秀雄(いちかわ ひでお、1901年〈明治34年〉7月2… 市川 秀雄(いちかわ ひでお、1901年〈明治34年〉7月27日 - 1964年〈昭和39年〉10月31日)は、日本の法学者。刑法学者・労働法学者。1961年、博士(法学)(中央大学)題は「刑法における市民法思想と社会法思想」。専門はドイツ刑法。東京都生まれ。 明治天皇の侍医・市川賢亮の三男。1919年独逸学協会中学校(現・獨協中学校・高等学校)卒業。1925年第一高等学校卒業。1930年東京帝国大学法学部卒業。1932年東京帝国大学大学院(旧制)法学研究科修了。少年保護司。1942年中央大学法学部専任講師。1946年中央大学法学部教授。1964年10月30日中央大学在職中に逝去、63歳没。1964年中央大学名誉教授。
内村 祐之(うちむら ゆうし、1897年(明治30年)11月… 内村 祐之(うちむら ゆうし、1897年(明治30年)11月12日 - 1980年(昭和55年)9月17日)は、日本の医学者、精神科医。専攻は臨床精神医学、神経病理学。東京大学名誉教授、日本学士院会員。プロ野球コミッショナー。 キリスト教思想家として著名な内村鑑三を父、内村の4度目の妻内村静子を母として、東京府に誕生する。 獨逸学協会学校中等部から第一高等学校(医科)を経て、東京帝国大学に進む。一高野球部と草創期の東大野球部でも活躍し、特に一高時代の1918年、同校の野球投手として三高(京都)、学習院のほか、早稲田と慶應義塾を久しぶりに撃破するなど、15年ぶりに事実上の全国制覇を果たした。学生野球界で、当時隆盛を極めた左腕投手としてその名を馳せた。
石橋 長英(いしばし ちょうえい、1893年4月26日 - … 石橋 長英(いしばし ちょうえい、1893年4月26日 - 1990年9月25日)は、日本の医学者である。千葉市出身。 1918年、東京帝国大学に留学。1920年東京女子医科大学教授に就任。1925年公益財団法人日本国際医学協会を組織し。1936年から日独医学協会長を務めた。1973年獨協医科大学初代学長に就任。
角尾 晋(つのお すすむ、1892年(明治25年) - 19… 角尾 晋(つのお すすむ、1892年(明治25年) - 1945年(昭和20年)8月22日)は、日本の医学者。原爆被災時の長崎医科大学学長として知られる。東京出身。 東京・下谷に生まれる。獨協中学、一高を経て東京帝国大学医科に入学、内科学を修めいわゆる「銀時計組」(成績優等者)として卒業。長崎医科大学助教授となり、2年間の海外留学を経て帰国後教授に昇任、第二内科を担当した。1936年(昭和11年)7月、第5代長崎医大学長に就任し、1940年5月より1944年3月まで戦時期の医師速成のため設置された臨時附属医学専門部の部長を兼ねた。また1942年5月以降は新設の「東亜風土病研究所」の所長も兼任した。
森 於菟(もり おと、1890年〈明治23年〉9月13日 -… 森 於菟(もり おと、1890年〈明治23年〉9月13日 - 1967年〈昭和42年〉12月21日)は、日本の医学者。専門は解剖学。専門書の他に、父・森鷗外の回想記と随筆を著した。 1890年9月13日に東京府で、森鷗外と最初の妻・登志子(海軍中将赤松則良の長女)との間に長男として生まれた。その直後に両親が離婚、生まれて間もない授乳期の於菟は、数え年の5歳まで本郷森川町(現・文京区本郷6丁目辺り)のタバコ屋、平野甚三方(歌人平野万里の実家)に預けられた。森家に引き取られると、支配的な祖母の峰によって厳しく育てられ、父鷗外と同じように熱心な教育を受けた。1900年に生き別れた実母が病死、1902年に父鷗外が再婚し、新しい母ができたことを喜んだが、義母の志げは於菟に冷たかった。
根岸 博(ねぎし ひろし、1889年(明治22年)10月19… 根岸 博(ねぎし ひろし、1889年(明治22年)10月19日 - 1980年(昭和55年)3月24日)は、日本の泌尿器科学者である。 東京府(現在の東京都)に医師だった根岸三郎の長男として生まれる。その後埼玉県北埼玉郡埼玉村(現在行田市)に住し、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)に入学する。卒業後も大学に残り、同大学内の伝染病研究所の所員として活動した。その後は同大学教授であった土肥慶蔵の元、同大学の助教授となる。その後は大学を離れ、1931年(昭和6年)からは岡山医科大学(現在の岡山大学医学部)にて教鞭を執った。 その後は岡山大学病院の院長を3期務め、以後6年間評議員と兼任して活動する。
田村 憲造(たむら けんぞう、1889年(明治22年)2月1… 田村 憲造(たむら けんぞう、1889年(明治22年)2月18日 - 1953年(昭和28年)8月19日)は、日本の医学者、薬理学者。医学博士、東京帝国大学名誉教授。 1889年(明治22年)2月18日、愛知県渥美郡二川村(現豊橋市)で米穀商「駒屋」を営む旧家に生まれる。小学校を卒業後は上京して獨逸学協会学校、旧制第一高等学校へ進む。東京帝国大学医科大学医学科へ入学し、第3年以降は特待生となるが、卒業は1年遅れた。1941年(昭和16年)1月に軽い脳卒中発作を起こし、疎開がてら郷里に戻って療養生活を送った。1950年(昭和25年)、日本学士院(当時の第二部自然科学部門)会員になる。新会員一同は、昭和天皇から皇居に招かれたが田村は欠席した。
高木 憲次(たかぎ のりつぐ(けんじ)、明治22年(1889… 高木 憲次(たかぎ のりつぐ(けんじ)、明治22年(1889年)2月9日 - 昭和38年(1963年)4月8日)は、大正から昭和後期にかけて活動した医学者、整形外科医。 1926年(大正13年)、東京帝国大学教授、後に日本医科大学教授を歴任した。日本の肢体不自由児教育の創始者といわれている。日本の「肢体不自由児の父」と呼ばれる。「夢の楽園教療所」を提唱し,日本で初めて「肢体不自由児調査」という根拠に基づいて肢体不自由養護施設が日本に必要であると説いた。クリュッペルハイムの概念を日本へと持ち込み、日本初の肢体不自由療育施設である整肢療護園(現:心身障害児総合医療療育センター整肢療護園)の創設者で初代理事長。
額田 晋(ぬかだ すすむ、1886年(明治19年)12月22… 額田 晋(ぬかだ すすむ、1886年(明治19年)12月22日 - 1964年(昭和39年)9月29日)は、日本の医師、医学者(内科学)、医学博士、理学博士。東邦大学および額田医学生物学研究所の創立者。 1886年(明治19年)、岡山県邑久郡に医師の次男として生まれた。旧制一高を経て東京帝国大学医科大学に進学した。1917年(大正6年)から翌年にかけ、アメリカのハーバード大学に自費留学し、医学博士を取得し帝国大学附属病院の講師を務めた。中国の北京協和医学校に赴任後、帰国した額田は1925年(大正14年)に兄の額田豊と共に帝国女子医学専門学校(東邦大学の前身)を創設した。1926年(大正15年)には理学博士も取得し、神田に額田内科病院、千葉県稲毛に額田医学生物学研究所を設立した。
颯田 琴次(さった ことじ、1886年(明治19年)7月24… 颯田 琴次(さった ことじ、1886年(明治19年)7月24日 - 1975年(昭和50年)10月2日)は、耳鼻咽喉科学者、音声学者。 ヴァイオリン演奏では専門家の域に達しており、しばしばプロの交響楽団に加わって演奏したり、声楽家の診断から発声指導まで幅広く行なった。 東京出身。東京帝国大学(現・東京大学)医学部・薬学部卒、東京音楽学校(現・東京芸術大学)卒。1920年東大耳鼻咽喉科教室および生理学教室で研究。1931年「音響刺激に因る耳殻反射運動」で医学博士。1936年小幡重一、石本巳四雄、田口三郎らと日本音響学会を設立。1943年東京帝大医学部教授、1952年東京藝術大学教授、1953年NHK放送文化賞受賞。
高橋 明(たかはし あきら、1884年(明治17年)11月5… 高橋 明(たかはし あきら、1884年(明治17年)11月5日 - 1972年(昭和47年)3月12日)は、日本の医学者。新潟医科大学(現・新潟大学医学部)および東京帝国大学(現・東京大学)教授・日本医師会会長・学校法人獨協学園理事長などを務めた。泌尿器科学が専門。 1884年11月5日に愛知県渥美郡泉村(現・田原市)に生まれる。旧制第一高等学校を経て京都帝國大学福岡医科大学(現・九州大学医学部)に入学した。1909年11月に同校を卒業し、翌月東京帝国大学(現・東京大学)大学院に入学。皮膚病学会を創設した土肥慶蔵教授に学ぶ。1913年9月に大学院を退学し、ベルリン大学に留学して泌尿器疾患の研究を行なう。
天野 貞祐(あまの ていゆう、1884年〈明治17年〉9月3… 天野 貞祐(あまの ていゆう、1884年〈明治17年〉9月30日 - 1980年〈昭和55年〉3月6日)は、大正・昭和期の日本の哲学者・教育者・文学博士。京都帝国大学名誉教授。甲南高等学校校長。 第二次世界大戦後は第一高等学校校長・文部大臣(第3次吉田内閣)を務めた後に獨逸学協会学校を母体として創立された獨協大学の初代学長を務めた。文化功労者。武蔵野市名誉市民。 1884年、神奈川県津久井郡鳥屋村(現在の相模原市)の豪農の出身。父・天野藤三は自由民権運動に参加して後に村長・衆議院議員を務めた。父は教育熱心な人物であり、天野も将来医師になることを嘱望されて13歳の時に獨逸学協会学校中学校(旧制中学、獨協学園の前身)に入学した。
呉 建(くれ けん、1883年(明治16年)10月27日 -… 呉 建(くれ けん、1883年(明治16年)10月27日 - 1940年(昭和15年)6月27日)は、日本の医師、内科学者、洋画家。医学博士(東京帝国大学)、アテネ大学名誉教授。帝国学士院恩賜賞受賞。九州帝国大学教授、東京帝国大学教授、東京帝国大学医学部附属医院医長を歴任。 1930年代に6度ノーベル生理学・医学賞候補となるが、結局、受賞には至らなかった。6度の候補は同賞で日本人最多である。 チャールズ・シェリントン、ジークムント・フロイト、イワン・パブロフに次ぐ中枢神経生理学の権威とされる。 呉文聰・やす夫妻の長男として東京府麹町区元園町に生まれる。曾祖父は蘭学者の箕作阮甫、祖父は阮甫の弟子で娘婿の呉黄石、父は黄石の次男で統計学者の呉文聰、叔父は精神科医の呉秀三、義叔父は書家の日高秩父、弟は経済学者の呉文炳、二男は日本銀行調査局長の呉文二。
藤浪 剛一(ふじなみ ごういち、1880年6月7日 - 19… 藤浪 剛一(ふじなみ ごういち、1880年6月7日 - 1942年11月29日)は、日本の医学者、放射線科医。 1880年、愛知県名古屋市生まれ。獨逸学協会学校(現∶獨協中学校・高等学校)卒、岡山医学専門学校卒業後、同校の病理学教室に入る。1908年よりウィーン大学に留学し、レントゲン学を学ぶ。1912年に帰国して順天堂医院レントゲン科長となり、1920年からは慶應義塾大学の教授を務めた。 レントゲン学の第一人者で温泉学・医学史の分野においても数多くの業績を残している。 慶應義塾大学医学部放射線科学教室初代教授である。 剛一は、偉人や著名人の墓を訪ね歩く掃苔活動を趣味とし、同好団体の東京名墓顕彰会を設立したほどであった。
佐々木 隆興(ささき たかおき、1878年(明治11年)5月… 佐々木 隆興(ささき たかおき、1878年(明治11年)5月5日 - 1966年(昭和41年)10月31日)は、日本の医学者。専門は、生化学、内科学、実験腫瘍学。学士院恩賜賞(二回)受賞。文化勲章受章。 生前、1935年・1936年・1939年・1941年にノーベル生理学・医学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。 東京生まれ。蘭方医・佐々木東洋の養嗣子である佐々木政吉の養嗣子、獨逸学協会学校(現在の獨協中学校・高等学校)卒業後、東京帝国大学卒。ドイツに留学し、ストラスブルク大学生化学ホーフマイステル教授、ベルリン大学化学フィッシャー教授、ベルリン伝染病研究所、ベルリン病理学研究所細菌血清学モルゲンロート博士、ベルリン大学内科ヒス、フリードマン教授らに学ぶ。
額田 豊(ぬかだ ゆたか、1877年(明治12年)3月23日… 額田 豊(ぬかだ ゆたか、1877年(明治12年)3月23日 - 1972年(昭和47年)7月29日)は、日本の医師・医学者(内科学)・教育者。東邦大学共同創立者。日本大学医学部医学科初代医学科長。日本大学名誉教授。 1878年(明治11年)、岡山県邑久郡に医師の長男として生まれた。上京して獨逸学協会学校中等部、旧制一高に通い、東京帝国大学医学科に入学した。大学在学中はボート部で活躍し、大学を休みがちであったがドイツ語の原書を読んで補った。 大学卒業後の1907年(明治40年)にドイツへ3年間私費留学する。留学中にドイツ女性に感銘を受け、女性を対象とした教育を使命と考える。 帰国後に医学博士の学位を取得する。
小山 松吉(こやま まつきち、1869年11月1日〈明治2年… 小山 松吉(こやま まつきち、1869年11月1日〈明治2年9月28日〉- 1948年〈昭和23年〉3月27日)は、日本の法学者、司法官僚、政治家。学位は法学博士。検事総長、司法大臣、貴族院勅選議員、法政大学総長を歴任。茨城県出身者では初の国務大臣である。 水戸の米穀商・高瀬儀平次の三男として生まれ、15歳で岡山県士族・小山高光の養子となる。二松学舎の学僕(学費免除の住み込み学生)を経て、獨逸学協会学校(現在の獨協大学)専修科を卒業し、法曹会雑誌編集委員、内田康哉内閣総理大臣臨時代理の奏請により懲戒裁判所検事、大審院検事などを経て1924年(大正13年)に検事総長となり、1932年(昭和7年)に齋藤内閣の司法大臣に就任するまでの8年間これを勤めた。