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柴田 大地(しばた だいち、1997年11月7日 - )は、… 柴田 大地(しばた だいち、1997年11月7日 - )は、東京都大田区出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。東北楽天ゴールデンイーグルス所属。 大田区立東糀谷小学校3年時に東糀谷イーグルスで野球を始め、大田区立糀谷中学校時代は硬式野球(ポニーリーグ)の羽田アンビシャスに所属。 日体大荏原高校では、3年夏は背番号10番を付け東東京大会3試合に登板。4回戦で日大豊山高に敗退。甲子園出場経験はなし。 日本体育大学入学後に右肘を負傷し、大学時代の公式戦登板はなかった。4年時にはトミー・ジョン手術を受けた。同期には吉田大喜がいる。 日本通運入社1年目もリハビリに費やした。2021年8月のオープン戦で156km/hのストレート、スプリットで注目されるようになった。
丹波 健二(たんば けんじ、1965年5月20日 - )は、… 丹波 健二(たんば けんじ、1965年5月20日 - )は、神奈川県川崎市高津区出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。 調布リトルに在籍し、同期には武田一浩らがいた。 1981年に日体荏原高に入学。2年次の1982年は、1学年先輩の今野隆裕投手(後にプロでも同僚)を擁しながらも夏の東東京大会の準々決勝で城西高に7-1のコールド勝ち寸前から7-10へのまさかの逆転負けを喫しベスト8止まり。3年次の1983年は、夏の東東京大会準々決勝で1学年下の山口重幸や森範行を擁する岩倉高に逆転負けを喫し、在学中に甲子園出場は果たせなかった。 高校卒業後は東海大学に進学して野球部でプレーすることも決まっていたが、社会人野球に方向転換。
今野 隆裕(こんの たかひろ、1964年7月11日 - )は… 今野 隆裕(こんの たかひろ、1964年7月11日 - )は、東京都大田区出身の元プロ野球選手(投手)。 大田区立大森第八中学校から1980年に日体荏原高に進学する。高校時代は好守巧打の外野手兼投手として、クリーンアップトリオの一角を担った。高校の1学年後輩に丹波健二がいた(プロ入り後もロッテで再びチームメイトとなった)。 高校卒業後は、社会人野球の強豪である西濃運輸に入社し、本格的に投手へ転向する。1988年の都市対抗野球にはNTT東海の補強選手として出場し、同じく補強の古田敦也とバッテリーを組んで準々決勝に先発するなどチームの準優勝に貢献した。 1988年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズから2位指名を受け入団。
川口 啓太(かわぐち けいた、1954年7月15日 - )は… 川口 啓太(かわぐち けいた、1954年7月15日 - )は、元アマチュア野球選手(内野手)、野球指導者。 初めは日大一高に通学していたが、日体荏原高に転校する。高校卒業後に明治大学に進学して硬式野球部に所属。東京六大学野球リーグではエースの丸山清光や名取和彦の好投もあり、1975年に春秋季連続優勝を飾る。同年春季リーグではベストナイン(三塁手)に選出された。直後の全日本大学野球選手権ではこの大会初となる満塁本塁打も記録するが、準決勝で中畑清を打の主軸とする駒大に敗退する。しかし同年の明治神宮野球大会は、決勝で因縁の駒大を降し優勝を飾った。 その後は江戸川学園取手高校の野球部部長、沼津学園高校の監督を務めた。
萩原 康弘(はぎわら やすひろ、1947年11月17日 - … 萩原 康弘(はぎわら やすひろ、1947年11月17日 - )は、神奈川県横浜市神奈川区出身の元プロ野球選手である。ポジションは外野手。 荏原高校(現・日体大荏原高校)では1965年、3年次に一塁手として春の選抜に出場する。荏原高校は甲子園初出場であった。2回戦(初戦)で福島久晃、長井繁夫らのいたPL学園に敗退。同年夏の甲子園都予選では準決勝で日大二高に敗れ、甲子園出場を逸した。高校同期に中堅手で後にプロで同僚となる原田治明がいる。 卒業後は中央大学へ進学。東都大学野球リーグでは一塁手、左翼手として活躍。1967年の春季リーグではエース宮本幸信の好投もあり優勝。直後の全日本大学野球選手権大会でも、決勝で藤原真投手を擁する慶大を破り選手権初優勝を飾る。
原田 治明(はらだ はるあき、1947年7月28日 - )は… 原田 治明(はらだ はるあき、1947年7月28日 - )は、東京都目黒区出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。1973年〜1975年までの登録名は原田 俊治(はらだ としはる)。 父は大相撲武隈部屋の十両力士であった郷錦廣次である。 荏原高等学校では1965年、中堅手として、後に巨人で同僚となる萩原康弘と共に第37回選抜高等学校野球大会に出場。高校初の甲子園出場という栄誉を担う。2回戦(初戦)で、後にプロ入りする福嶋久晃、得津高宏、加藤秀司らがいた大阪府のPL学園と対戦し、4-2で敗れた。同年夏の甲子園都予選では準決勝で日大二高に敗れ、甲子園には届かなかった。 高校卒業後は駒澤大学に進学するが腰の怪我のため野球部を退部。
小林 毅二(こばやし たけじ、1946年8月20日 - )は… 小林 毅二(こばやし たけじ、1946年8月20日 - )は、日本の元プロ野球審判員。前セントラル・リーグ審判部長、元審判部指導員。審判員袖番号は13(1988年初採用からだが、セ・リーグ審判は指導員に転じても袖番号を返上しないという通例があるので指導員となった際も付けていた)。2010年限りで指導員からも引退。東京都品川区出身。 荏原高校から日本大学卒業後、丸井勤務のかたわら東京都高野連および首都大学リーグ審判を経て、1972年セントラル・リーグ審判部入局。1997年より副部長、2000年から審判部長を務め、2003年12月に退任。2005年よりプロ野球マスターズリーグの審判員を務める。現在では、資格回復をして、東京都高野連および首都大学リーグの審判員として活動している。
宮寺 勝利(みやでら かつとし、1940年11月4日 - 2… 宮寺 勝利(みやでら かつとし、1940年11月4日 - 2025年5月20日)は、東京都目黒区出身のプロ野球選手(捕手)・解説者。 荏原高校では1958年に全国高等学校野球選手権東京大会で5回戦まで進出するが、明治高に敗退。高校卒業後は東洋大学に進学。東都大学リーグでは、高校同期の広沢忠雄(電電東京)とバッテリーを組み、1961年秋季二部リーグで優勝。入替戦で専大を降し、1962年春季リーグから一部リーグへの初昇格を果たす。同季は三沢今朝治(駒大)に次ぐ、リーグ2位の打率.409を記録し、ベストナイン(捕手)にも選出された。 大学卒業後の1963年に読売ジャイアンツへ入団するが、在籍中の公式戦出場は僅か32試合に留まった。
幸田 優(こうだ まさる、1938年11月2日 - 1995… 幸田 優(こうだ まさる、1938年11月2日 - 1995年6月9日)は、東京都品川区出身のプロ野球選手(投手)。 荏原高校時代にカーブの使い手として注目され、3年夏は都大会ベスト8。 慶応義塾大学へ進学する予定だったが家庭の事情もあって断念し、1957年に大洋ホエールズに入団すると、2年目の1959年には4完封で7勝(防御率2.86)を挙げ先発陣の一角として名乗りを挙げる。 翌1960年には、秋山登のアクシデントもあり開幕投手に抜擢されるが、3-4と惜敗。そのまま波に乗れなかったのか2勝にとどまる。 1962年の春キャンプで頭部に打球を受け骨折。これが原因で同年2試合で1イニング投げたのみで引退した。
浜田 義雄(はまだ よしお、1926年11月25日 - 20… 浜田 義雄(はまだ よしお、1926年11月25日 - 2012年3月27日)は、東京都品川区出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ。 孫は声優の浜田洋平。 1948年に関口 義雄の登録名で急映フライヤーズに入団。翌年に名前を改名し、この年にレギュラーとして活躍。 1951年にオールスターゲームに出場している。また1955年10月5日の対毎日オリオンズ戦(後楽園球場)から1956年5月20日の阪急ブレーブス戦(駒澤野球場)まで196打席連続無三振を記録。これは当時の日本記録であった。 1958年に現役を引退、翌年より1969年まで岩本義行、水原茂、大下弘、松木謙治郎の代々の東映フライヤーズ監督の下でコーチを務めた。
渡部 弘(わたべ ひろし、1924年2月14日 - 2021… 渡部 弘(わたべ ひろし、1924年2月14日 - 2021年2月25日)は、東京府出身のプロ野球選手(内野手)。 荏原中学校から1944年に東京巨人軍へ入団。1946年に退団。 2021年2月25日午前6時5分、誤嚥性肺炎のため静岡県沼津市の病院で死去。97歳没。
戸田 吉蔵(とだ きちぞう、1913年11月1日 - 198… 戸田 吉蔵(とだ きちぞう、1913年11月1日 - 1986年4月17日)は、東京都出身のプロ野球選手。 荏原中学校から1943年に東京巨人軍へ入団。1946年に退団。1947年に国民野球連盟の大塚アスレチックスに入団。翌年退団。
大貫 賢(おおぬき けん、1906年3月10日 - 1975… 大貫 賢(おおぬき けん、1906年3月10日 - 1975年2月7日)は、東京都出身のプロ野球選手、審判員、俳優。のち婿入りし桐林と改姓したが、球界では大貫姓を使い続けた。 荏原中学校を中退し、1923年に芝浦協会へ入団。当時は山本栄一郎がいたため控え投手だったが一度チームが解散し、その後宝塚運動協会として再結成した際には山本が肩の故障で退団したこともあってエースとなり投打の中心選手として活躍した。 宝塚運動協会解散後は宝塚ファミリーランドの経理係を務めていたが、まもなく退職し、満州に渡る。満州時代の詳しい経歴は不明だが、全奉天や大連実業、奉天日満実業などでプレーしていたことが確認されており、「各地のチームの助っ人をしていたのでは」と佐藤光房は推測している。
横沢 三郎(よこざわ さぶろう、1904年12月16日 - … 横沢 三郎(よこざわ さぶろう、1904年12月16日 - 1995年11月28日)は、プロ野球選手・監督。後年には国民野球連盟理事長を経て、パシフィック・リーグの審判部長を務めた。妻は元宝塚歌劇団の花野春子。 東京セネタースでプレーした横沢四郎・七郎は実弟(七郎は戦後セネタースでもプレーした)。 1904年12月16日に当時日本の領土であった台湾で生まれ、東京府東京市(現:東京都特別区)で育つ。旧制荏原中学校時代は遊撃手、旧制明治大学時代は二塁手。大学卒業後、社会人クラブチーム・東京倶楽部の内野手としてプレーし、都市対抗野球4度の優勝に貢献。 1936年にプロ野球球団の東京セネタースが設立されると初代の監督として招聘され、1937年秋季リーグ戦では選手としても1試合に出場したが、同年秋季途中で監督を辞任。
中澤 不二雄(なかざわ ふじお、1892年〈明治25年〉11… 中澤 不二雄(なかざわ ふじお、1892年〈明治25年〉11月23日 - 1965年〈昭和40年〉6月9日)は、滋賀県出身の野球選手(内野手)・監督・野球解説者。パシフィック・リーグ元会長。 神戸中学校を経て荏原中学校に進む。明治大学野球部時代、現在のアジア競技大会の原点である「極東オリンピック・マニラ大会」(1913年)の日本代表に選ばれ、名遊撃手として活躍。 その後造船会社へ就職したが、野球を忘れられず、1922年には、翌年プロ野球球団であることを宣言する天勝野球団の一員として活動。1923年には満洲(現・中国東北部)の満洲鉄道会社(満鉄)に就職し、社会人野球チーム「大連満洲クラブ」(満鉄の社員を中心に編成)でプレイングマネジャー(選手兼任監督)を歴任。