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村上雄藏(むらかみ ゆうぞう、1926年(大正15年)3月2… 村上雄藏(むらかみ ゆうぞう、1926年(大正15年)3月20日 - 1986年(昭和61年)11月15日)は日本の教育者、日本海軍軍人。 一般的には村上雄蔵と表記。父秋太郎、母繁子の長男として兵庫県神戸市に出生。幼少より困窮に苦しむ。神戸一中(現・兵庫県立神戸高等学校)夜間部に通う傍ら、神戸川崎造船所(後の川崎重工業神戸造船所、現在の川崎重工業船舶海洋ディビジョン神戸工場)に勤務。 1944年(昭和19年)、帝国海軍飛行予科練習生(甲飛15期)、三重海軍航空隊から浦戸海軍航空隊(高知)に移り終戦(終戦時2等飛行兵曹)。戦後は神戸に戻り、GHQからの払い下げ品を闇市で販売して生計を立てる。この時実践的な英会話を身に付ける。
後宮 俊夫(うしろく としお、1922年4月12日 - 20… 後宮 俊夫(うしろく としお、1922年4月12日 - 2018年12月23日)は、日本の海軍軍人、牧師(日本基督教団)。最終階級は海軍大尉。海軍兵学校70期。陸軍大将の後宮淳は叔父、榎本保郎は義兄に当たる。 1922年(大正11年)、陸軍軍人(陸軍中佐)であった後宮太朗の長男として和歌山県和歌山市に生まれる。神戸第一中学校4年の時、海軍兵学校に入学し、1941年、70期としてこれを卒業。卒業後には連合艦隊勤務となり士官として戦艦「霧島」に乗務、1942年にはソロモン海戦で負傷している。その後、戦艦「山城」、駆逐艦「霜月」に続けて乗務するも、1944年9月からは結核のため療養となりそのまま終戦を迎えた。
梅林 孝次(うめばやし たかつぐ、 1908年〈明治41年〉… 梅林 孝次(うめばやし たかつぐ、 1908年〈明治41年〉 - 1937年〈昭和12年〉8月16日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍大尉(殉職により一階級死後進級)。海軍陸攻搭乗員。 揚州への渡洋爆撃に指揮官代理として参加し、中華民国空軍戦闘機との戦闘で乗機が撃墜された際、黒煙の中から僚機に白いハンカチを振って別れを告げて自爆したことから、その散り際の見事さが戦場美談として伝えられた。 兵庫県神戸市にて卸売業・梅林行運とさきの次男として生まれる。神戸市・楠尋常小学校に入学、翌年、武庫郡(現・芦屋市)の精道小学校に転校。1920年(大正9年)、第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸高等学校)に進学するが、父が徳島県の那賀郡桑野村阿瀬比(現阿南市阿瀬比町)にて大理石の採掘を始めたため、1922年(大正11年)、一家で徳島市富浦町東富田に移り住み、徳島中学校(現:徳島県立城南高等学校)に転校。
宮嵜 俊男(みやざき としお、1899年(明治32年)10月… 宮嵜 俊男(みやざき としお、1899年(明治32年)10月18日 - 1965年(昭和40年)4月7日)は、日本の海軍軍人。米駐在時代に情報活動に従事し、米国官憲に摘発され国外追放処分を受ける。太平洋戦争中、連合艦隊先任参謀に擬せられるが、山本五十六の戦死により実現しなかった。最終階級は海軍大佐。
四方 諒二(しかた りょうじ、1896年〈明治29年〉4月2… 四方 諒二(しかた りょうじ、1896年〈明治29年〉4月28日 - 1977年〈昭和52年〉12月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 兼松商店[要出典]の役員であった四方素の二男として神戸市で生れる。第一神戸中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第19連隊付となる。1924年(大正13年)3月、陸軍委託学生として学んだ東京外国語学校(独語)を修了。1927年(昭和2年)6月、兵科を憲兵科に移し憲兵大尉となり、咸興憲兵分隊長となった。 小倉憲兵分隊長を経て、1930年(昭和5年)4月から3年間、陸軍派遣学生として東京帝国大学法学部で学ぶ。
小島 秀雄(こじま ひでお、1896年〈明治29年〉4月5日… 小島 秀雄(こじま ひでお、1896年〈明治29年〉4月5日 - 1982年〈昭和57年〉3月22日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。3度に及ぶドイツ駐在歴があり、戦後には日独友好にも尽力した。 1896年(明治29年)、兵庫県神戸市生まれ。旧制第一神戸中学校を経て、海軍兵学校卒業。 海軍兵学校(第44期)では、入校時成績順位 100名中第5位、卒業時成績順位 95名中第7位と、成績優秀だった。日本海軍には珍しく、自他共に認める親ドイツ派の海軍軍人として鳴らし、そのため部内では、「ドイツ小島」と呼ばれることもあった。 ドイツ駐在は3回に及んだが、同じくドイツとの関係が深く、1938年(昭和13年)からは駐ドイツ大使も務めた陸軍軍人で親ナチスの大島浩とは犬猿の仲だった。
奥田 喜久司(おくだ きくじ、1894年(明治27年)2月4… 奥田 喜久司(おくだ きくじ、1894年(明治27年)2月4日 - 1939年(昭和14年)11月4日)は、日本の海軍軍人。少年飛行兵制度を発案することで予科練に至る基礎をつくり、のちに航空隊司令として作戦指揮中に戦死した海軍少将である。 奥田は兵庫県出身で、神戸一中を経て1914年(大正3年)に海軍兵学校を卒業した海兵42期生である。席次は117名中54番であった。翌年12月海軍少尉任官。海軍砲術学校高等科学生を経て、「洲埼」分隊長。次いで「神威」艤装員としてアメリカ合衆国に出張した。同艦分隊長、「島風」砲術長兼分隊長と砲術畑を歩む。 同期生の先頭を切って近藤泰一郎と共に海軍大学校甲種学生(23期)に進み、卒業後航空に転科。
能勢 潤三(のせ じゅんぞう、1893年(明治26年)7月9… 能勢 潤三(のせ じゅんぞう、1893年(明治26年)7月9日 - 1968年(昭和43年)4月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 広島県出身。青果卸商・能勢七郎の二男として生まれる。神戸一中(現兵庫県立神戸高等学校)卒業を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる。1918年(大正7年)9月から1919年(大正8年)2月まで、陸軍戸山学校で甲種学生として学んだ。 1925年(大正14年)12月、歩兵大尉に昇進し歩兵第46連隊中隊長に就任。1927年(昭和2年)1月、歩兵第24旅団副官に転じ、第12師団副官を経て、1933年(昭和8年)8月、歩兵少佐に進級し独立守備歩兵第2大隊付となる。
酒井 隆(さかい たかし、1887年(明治20年)10月18… 酒井 隆(さかい たかし、1887年(明治20年)10月18日 - 1946年(昭和21年)9月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。太平洋戦争勃発時に第23軍司令官として香港を攻略した。のち、このときの虐殺事件で戦犯となり死刑となる。 広島県賀茂郡原村(現・東広島市)出身。神戸一中(現・神戸高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、 中央幼年学校本科を経て 、1908年(明治41年)陸軍士官学校(20期)を卒業し、同年歩兵第38連隊付少尉に任官した。1916年(大正5年)には陸軍大学校(28期)も卒業している。 1924年(大正13年)少佐。1928年3月の済南事件では、済南で日本人280人が虐殺されたとのデマ報道が日本で一時流れたが、これは当時済南で駐在武官となっていた彼が日本軍の大量出兵を目論み、画策したものではないかとの見方がある。
寺本 武治(てらもと たけじ、1884年2月25日 - 19… 寺本 武治(てらもと たけじ、1884年2月25日 - 1958年12月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 島根県出身。神戸一中を経て、1905年(明治38年)11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、1906年(明治39年)12月、海軍少尉任官。海軍大学校乙種、海軍砲術学校高等科で学ぶ。1911年(明治44年)12月、「筑波」分隊長となり、「三笠」「周防」の各分隊長、砲術学校教官兼分隊長兼海軍機関学校教官、「橋立」分隊長兼砲術学校教官などを経て、1917年(大正6年)11月、海大(甲種15期)を卒業した。 1917年12月、海軍少佐に昇進し海軍省人事局局員(第1課)に就任。1920年(大正9年)12月、「伊勢」砲術長となり、軍令部参謀兼サガレン州派遣軍司令部付に転じ、1921年(大正10年)12月、海軍中佐に進級。