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大石 昌義(おおいし まさよし、1972年7月18日 - )… 大石 昌義(おおいし まさよし、1972年7月18日 - )は、兵庫県西宮市出身の元プロ野球選手(投手、外野手)。右投右打。 一度現役を引退した後、打撃投手としての採用を受けた後に現役復帰し野手転向した変わり種である。 中学時代は常盤貴子の同級生であった。 鳴尾高卒業後、浪人中の1991年に広島東洋カープの新人テストを受け合格。1991年のプロ野球ドラフト会議で8位指名を受け入団するも、一軍登板のないままわずか2年で退団。2年目の終盤はファームで打者として出場していた。 その後、1994年に地元の阪神タイガースに打撃投手として採用されるが、6月に投手不足のため現役復帰。1996年には野手転向するが阪神でも一軍出場はならず、この年限りで現役引退。
上田 武司(うえだ たけし、1946年3月16日 - )は、… 上田 武司(うえだ たけし、1946年3月16日 - )は、兵庫県西宮市出身の元プロ野球選手(投手、内野手)・コーチ、評論家。 鳴尾高校ではエースとして活躍。3年次の1963年5月には、同年に夏の甲子園で優勝する明星高との練習試合で好投し、注目を浴びる。夏季兵庫大会では準々決勝に進出するが、宮本幸信、後にプロでチームメイトとなる吉田孝司のバッテリーを擁する市神港高に敗退。 卒業後の1964年に読売ジャイアンツへ入団。 1965年に内野手へ転向。1967年にはイースタン・リーグで打率.356をマークして首位打者、本塁打王にも輝いて二冠を獲得。 1969年9月8日のアトムズ戦(神宮)で浅野啓司から6年目で初のソロ本塁打を放つ。
中田 昌宏(なかた よしひろ、1935年2月22日 - 20… 中田 昌宏(なかた よしひろ、1935年2月22日 - 2009年11月16日)は、兵庫県西宮市鳴尾出身のプロ野球選手(外野手、一塁手)。 現役時代は阪急ブレーブスに所属し、引退後も阪急のコーチ・代理監督・二軍監督を務めたほか、阪急の後身であるオリックスの編成部長・取締役等も歴任した。 鳴尾高校で投手として甲子園に2度出場。1951年の第23回選抜高等学校野球大会では1年上の野武貞次(法大-リッカー)との二本柱で勝ち進み、決勝に進出。決勝の対鳴門高戦で9回を投げ抜くが、1点リードして迎えた9回裏に味方のエラーで同点とされ、さらに自身の三塁牽制悪送球でサヨナラ負けを喫する。甲子園球場から徒歩2分のところにある鳴尾高の初の決勝進出とあって、球場を埋めつくした5万を越える観衆のほとんどが鳴尾高を応援していたが、この敗戦に一瞬で静寂に包まれた。
藤尾 茂(ふじお しげる、1934年〈昭和9年〉10月8日 … 藤尾 茂(ふじお しげる、1934年〈昭和9年〉10月8日 - 2022年〈令和4年〉10月8日)は、兵庫県西宮市出身のプロ野球選手(捕手、外野手)。 兵庫県西宮市の代々歯科医を開業する家の男3人兄弟の末っ子として生まれる。長兄は小児科医、次兄は歯科医で、父親は藤尾を外科医にする希望を持っていたという。実家は甲子園球場から徒歩20分ほどの場所にあり、球場の声援が家まで聞こえたが、藤尾自身は小学生の頃から巨人ファンであった。 小学校時代から中田昌宏とバッテリーを組み、1950年に鳴尾高に揃って入学。1951年の春の選抜では六番打者、三塁手として出場。決勝に進出するが鳴門高に9回サヨナラ逆転負けを喫した。
鈴木 武(すずき たけし、1932年2月28日 - 2004… 鈴木 武(すずき たけし、1932年2月28日 - 2004年6月27日)は、兵庫県西宮市出身で、近鉄パールス(バファロー)と大洋ホエールズに在籍したプロ野球選手(内野手)である。 鳴尾高校では、1951年春の選抜に出場。同期の野武貞次(法大-リッカー)、1年下の中田昌宏の投の二本柱を擁し勝ち進む。決勝では鳴門高と対戦するが、9回サヨナラ負けを喫し準優勝にとどまる。この大会では打率.611を記録し、攻守両面で活躍、優秀選手に選出された。他のチ-ムメートでは、藤尾茂、山田清三郎がプロ入りしている。 高校卒業後、社会人野球の東洋レーヨンを経て、1953年に近鉄パールスに入団。1年目の開幕から遊撃手、二番打者に抜擢され、鳴尾高校の先輩に当たる日下隆と一、二番コンビを組んで多くの盗塁を成功させた。
日下 隆(くさか たかし、1929年6月19日 - 2010… 日下 隆(くさか たかし、1929年6月19日 - 2010年12月28日)は、兵庫県尼崎市出身のプロ野球選手(外野手)。 兄に大阪タイガースでプロ野球選手として活躍、引退後は政治家となった日下章がいる。息子は育英高校の夏の甲子園優勝監督(1993年)である日下篤。 鳴尾中学から法政大学へ進学。東京六大学野球リーグでは在学中1回優勝。リーグ通算71試合出場、223打数71安打、打率.318、0本塁打、34打点。首位打者1回(1950年秋季リーグ)。 1952年に近鉄パールス入団。翌1953年には開幕から一番打者、右翼手に抜擢され、規定打席(10位、打率.285)にも到達した。1954年は近鉄の野手で初めてオールスターゲームに出場。